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第61話 いいですか、皆さま。一切の喧嘩や暴力は禁止ですわ!

「マリーさん、ルチアーノさんが持ってきてくれた月光絹を洗ってくれてありがとう。マリーさんの手にかかれば、どんな布地もお日様フカフカ仕上げになりますのね!」

「お、お嬢様……っ! あたしなんかの仕事を、そんなに褒めてくださるなんてっ……!」


 領主邸の廊下。

 今朝仕上がった月光絹のフカフカな手触りに感動を伝えると、洗濯係のマリーさんはポロポロと涙をこぼして恐縮してしまった。

 本当にうちの領民たちはみな、働き者で健気。

 けれど、涙を拭おうとしたマリーさんの両手が視界に入り、私は思わず声を上げた。


「まぁ、大変! マリー、手がこんなにも冷たくなって……!」


 指先も少し紫っぽくなっている。

 私は歩み寄り、そのままマリーさんの両手をやさしく包み込んだ。


「あ、あの、お嬢様。あたしの手は泥水で汚れて……っ」

「いいえ、構いませんわ。わたくしが温めて差し上げますね」


 そのまま、私の頬へとすりすりと押し当てた。


 ――ジュッ。


 微かな音とともに、マリーさんのからだがビクッと跳ねた。顔からドッと汗が噴き出している。

 まあ。冷え切った手を急にお湯に入れたときみたいに、痛みが走ってしまったのかしら。真夏に冬山レベルの冷え性だなんて、水仕事って過酷なのね。

 マリーさんは目を見開いて硬直していたが、私の頬の熱に当てられて、やがて熱に浮かされたような表情になった。


「お、お嬢様……ああ、あったかいねぇ……」

「ええ。でも、これからはもう少し無理のないようにしてくださいね?」


 マリーさんは頭を下げ、やさしさで火照った両手を大切そうに胸に抱いた。

 あとで王都にいたときお気に入りだったハンドクリームを差し入れしてあげなくちゃ。


 さて、今日の大切な用事のメインはここから。

 私は気持ちを切り替え、アリスとクロエ、そしてマリーを伴って執務室へと向かった。


 ***


 扉を開けると、広い執務室の絨毯のうえに、ボレアス領の顔ぶれがぞろぞろと集まっていた。


 コックコートを着た料理人のダニーさんに、モップを握りしめた清掃係のルカさん。

 そして、なぜか昼間からエールを煽って上機嫌な頑固大工のガストンさんだ。


 ダニーさんは「今日こそ新しいソースの隠し味についてお伺いしようと思ったのに」と呟き、ルカさんは「このモップ、そろそろ買い替え時期なんだよなぁ」と毛先を真剣に気にして目を細めている。


 その横では、鼻に絆創膏を貼った庭師のマルコくんが、窓拭き用の雑巾を握りしめて直立不動で目を瞑っていた。


こういう自由な空気、私は嫌いじゃないわ。


 壁際では、お茶会の準備を取り仕切るヴィクトリア様と、その隣でルイス侯爵が呆れたように小さくため息をついていた。「この領地でまともなのは、お嬢様だけだからな……」と静かに頷き合っている。帝国の方を迎えるにあたり、常識人のお二人がいてくれるのは本当に心強いわ。


 足元ではエレナちゃんが、コンロさんをぎゅっと抱っこしてニコニコと笑っている。

 マダム・ジョセフィーヌ先生は背筋を伸ばして厳しい視線を光らせており、その横ではなぜか愛犬のシロが、『ぬいぐるみ』みたいにピクリとも動かない。


 さらに、お茶会の警備を任された兵士のカイルくんが、新品の鎧を着て、誇らしげに胸を張って立っている。


 執務机の横には、分厚い書類の束を抱えた筆頭事務官のレイヴンさん。ふと天井を見上げれば、元空き巣のザックさんがなぜか梁に張り付いて待機している。


 私は執務机の前に立ち、微笑みを浮かべて皆を見渡した。


「皆さま、集まってくれてありがとう。今日集まってもらったのは、東の巨大国家『ガルディア帝国』から届いた和睦の申し出について伝えるためですわ」


 少しだけ、部屋の空気がピンと張り詰める。


「帝国は、わたくしたちと文化的な交流をしたいと、誠意を以て美しい月光絹を届けてくれたの。ですから、わたくしたちも、ボレアスの至高のおもてなしでお迎えしなければなりませんわ」


 私は胸の前で両手を合わせ、できるだけやさしく、けれど領主としての芯を込めて宣言した。


「いいですか、皆さま。お茶会の準備期間中も、当然本番の間も、一切の喧嘩や暴力は禁止ですわ! 全員が、誰よりも優雅なおもてなしの心で、帝国特使の皆さまを歓迎してくださいね?」


 和睦の使者を、野蛮な振る舞いで怖がらせてはいけないもの。

 ボレアス領は、こんなにも文化的で平和な場所なのだとアピールする絶好のチャンスよ。


 私の言葉が響き渡った、直後。


 ピタッ、と。

 皆さんの動きが、一分の隙もなく静止した。全員の目がカッと見開く。


『お嬢様に、お行儀が悪いと思われたら……万死ッ!』


『野蛮な振る舞いで、お嬢様の顔に泥を塗るくらいなら、いっそ自害を……ッ!』


『エレガント……極限までエレガントに……ッ!』


 ……ん? 今、皆さんの心の声が幻聴みたいに聞こえたような?

 気のせいかしら。


 次の瞬間。


「お嬢様の仰る通りでございますわ……! 帝国の方々にも、麗しいマナーを披露いたしますわ!」


 元山賊頭のガンツが、胸をギュッと押さえながら、ソプラノの裏声で流麗に平伏した。彼に続くように、屈強な元山賊たちも一斉に「オーホッホッ」と上品なコーラスを響かせ始める。

 えっ? なんでそんな綺麗なハモり?


「神聖なる厨房以外で、刃物を見せるなどという野蛮な真似はいたしませんわ!」


 料理人のダニーさんが包丁を背中に隠し、小指を立てて優雅にエアお茶注ぎをしている。王都の宮廷厨房で大失敗をしてクビになりかけたときだって、あんな見事な所作はできなかったはずだわ。包丁は料理のお道具だものね。


 さらに、清掃員のルカさんに至っては。


「ご、ごきげんよう……っ!」


 気合の雄叫びとともにモップを振り上げようとした手が、勝手に美しいカーテシーの軌道を描き、そのまま深く腰を落としている。


「な、なんという完璧な所作……! わ、わたくしの教育を凌駕している……ッ」


 礼儀作法の権威であるはずのマダム・ジョセフィーヌ先生が、白目を剥いてワナワナと震えながら壁に手をついていた。あら、先生も彼らの上達ぶりに感動してくださっているのね。


「みなさま、おかしいですのーッ!?」


 ヴィクトリア様が扇子をへし折りそうな勢いで叫びかけた、直後。

 隣にいたレイヴンさんが、スッと分厚い報告書の束でヴィクトリア様の口元を物理的に塞いだ。

 レイヴンさんは一切の感情を殺したデッドアイのまま、天井の梁に張り付いているザックさんと静かに目くばせをした。


 皆さん、帝国特使を迎えるために、さっそくお上品なマナーの自主練習を始めてくれたのね! 少し空回りしている気もするけれど、その心意気がとても嬉しい。


「ふふっ。皆さま、とても優雅で素敵ですわ。その調子で頼みますね」


 私を安心させようとするように、皆さんはうれしそうな顔で絨毯に額を擦り付けた。エレナちゃんもシロに跨がりながら、ぱちぱちと楽しそうに拍手をしている。本当に温かい人たちね。


 平和な空気に包まれる執務室。

 だけど、私の死角のほうから、シャコシャコと小気味良い音が聞こえてきた。


「……アリス、クロエ? なんだか床が、ものすごく光っていませんこと?」


 振り返ると、アリスとクロエが部屋の隅でニコニコと並んで立っていた。

 アリスの背後のフローリングは、不自然なくらいツルツルで、まるで水面のように反射している。クロエの手には、紫色の煙が出る小瓶が握られていた。


「ええ、お姉様。帝国の方々を至高のおもてなしで歓迎するため、廊下の隅々まで『摩擦係数ゼロ』の鏡面に磨き上げておりましたの」


「暴力は禁止とのことですので、わたくしたちはあくまでメイドとして、家事スキルのみで徹底的におもてなしする所存ですわ」


「なかなかに面倒な縛りプレイですけれど……お姉様の笑顔のためなら。廊下に迷い込んだ野蛮なネズミどもが、勝手にすっ転んでお上品にちりとりへ収まる寸法です」


 アリスがうっとりとした声で呟き、クロエが銀縁眼鏡を光らせる。

 まあ! お茶会に向けて、屋敷のネズミ駆除まで徹底してくれるのね。最近のネズミ取りは強力なのだわ。


「ふふっ、ふたりとも本当に掃除熱心で偉いわね。でも、ネズミ相手にあまり無理はしないでね?」


 私がやさしく声をかけると、ふたりは一瞬で頬を真っ赤に染め、その場に崩れ落ちてしまった。

 本当に、うちの子たちは働き者で、ちょっと照れ屋で、最高に可愛いわね。


 私は大きく伸びをして、執務室の窓へと向かった。

 窓の外には、真っ青な美しい夏空が広がっている。帝国とのお茶会は、きっと素晴らしい文化交流の場になるわ!


 ***


 無邪気に夏空を見上げて背を向ける主の、完全な死角。


 退出していく領民たちの背後で、クロエの銀縁眼鏡が冷たく光った。

 そのレンズには、部屋を出ていく洗濯係マリーの足元が反射している。


 マリーの影の指先だけが、ぐちゃりと黒く崩れ、絨毯の上を這いずるように蠢いていた。主から遠ざかるマリーの肉体とは裏腹に、影の輪郭だけが一瞬、あり得ない角度でセレスティアの背中の方へ首を伸ばす。


 さらに、クロエが手にする木箱。

 隙間から漏れる灰色の粉が、呼吸するように膨らんだり縮んだりしていた。マリーの影に潜むモノと同期した、不気味なリズムで。

 クロエが指で木箱の蓋を軽く叩く。粉の呼吸は静止した。だが、暗闇の中で、灰色の粒子は微かに震え続けている。


 同時に、開かれた窓の隙間。

 庭木の奥から、太陽の光を吸い込むような『黒い影』が、執務室の中を覗き込んでいた。人間の双眸の形に歪んだそれは、次の瞬間にはただの夏の日陰へと霧散する。

 マリーが歩いた軌跡だけを、その残像は執拗に追っていた。


「……ふむ、やはりですか」


 クロエが、氷のように低い声で呟いた。

 最強の従者たちの殺意が、密かに臨界点へ向けて膨れ上がっていく。

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