第60話 愚王の密約と道化
不毛の荒野。風が痛い。
岩陰にうずくまり、足元を蠢く黒い虫をじっと見つめる。
……タンパク質だ。食えるか?
いや、ダメだ。俺は第一王子だぞ。平民ならいざ知らず、王の器たるこの俺が虫など食って生き延びて、何が王か。
最高のプライドが邪魔をして、俺は泣く泣く両手ですくった泥水を喉へ流し込んだ。
「……っ、げほっ……!」
喉に泥が引っかかり、激しくむせる。
ビクッと跳ねた拍子に手が滑り、貴重な泥水がボロボロの絹のズボンにこぼれ落ちた。
「ああ……クソッ。俺の、水が……」
ひび割れた指先で必死に泥を拭うが、汚れが広がるだけだった。
なんで俺が。
王立学園の卒業パーティー。セレスティア・フォン・ユグドラシルに婚約破棄を突きつけた、あの輝かしい夜。
あの夜から、何もかも狂った。
『傑作なピエロでしたよ、殿下』
アリスの言葉が頭蓋骨の裏にこびりついている。
いや、違う。あれは幻聴だ。俺は第一王子だ。あんなやつに負けたわけじゃない。ただ、少し運が悪かっただけだ。そう、些細な不運。
俺はふらふらと立ち上がり、周囲に転がる動物の白骨や岩肌を指さした。
「ふふっ……見ろ、セレスティア。俺が王として凱旋したぞ。ひれ伏せ、平民ども。俺こそが正当なる統治者だ……!」
虚ろな瞳で、誰もいない荒野に向かって熱弁を振るう。
数秒後、底知れぬ虚しさが押し寄せ、俺は我に返った。
胃袋が嫌な音を立てて鳴っている。
震える手を懐に入れ、ひび割れたガラスめいた通信魔道具に触れる。
冷たく、ひどく不快な魔力の脈動。
呼び出すか。教団の狂人どもに、俺から頭を下げるのか。
だが……他に、道はない。
奥歯を噛み割りそうなほど食いしばり、魔道具を鷲掴みにした。
ノイズまみれの画面の向こう。真紅の瞳だけを濁らせた男――『影の枢機卿』モルドレッドが浮かび上がる。
「…………」
モルドレッドは何も言わない。ただ、静かな呼吸音と、鼓膜を引っ掻くような魔力のノイズだけが流れる。
数秒の沈黙。俺の心臓が、恐怖で早鐘を打った。
耐えきれず、裏返りそうな声で先に口を開く。
「……例の品は、どうなった」
「手配は済んだ。ボレアスへ向かっている」
脳みそを直接なぞられるような、不快な聲音。
だが、帝国の力を動かせたという事実が、俺のちっぽけな自尊心に火をつけた。
「……そうか。よくやったな」
咳払いをして、無理やりに口角を引き上げる。
「あの小賢しいセレスティアめ。和睦の特使だと思って、尻尾を振って受け取るだろうさ。……俺が特使の皮を被って、ボレアス領へ乗り込んでやる。あいつの前に、王として立ってやるんだ」
「……殿下の望みなら、従うさ」
モルドレッドが微かに目を伏せる。
プツン、と。一方的に通信が途切れた。
真っ暗になった画面。
強がっていた糸が切れ、ガクンと膝から崩れ落ちた。
画面には、泥と涙でぐしゃぐしゃになった、惨めな男の顔が映っている。
「……俺はまだ、終わっていない。最後に笑うのは、俺だ」
誰に言うでもなく呟いた。
そう言い聞かせないと、俺は発狂しそうだった。
***
ガルディア帝国。陽の光が一ミクロンも届かない、暗黒の拝殿。
静かすぎる。
むせ返るような死臭が澱む広間。異形の呪術師たちが大鍋を囲み、人間の頭蓋骨をすり潰しては禍々しい呪詛を練り込んでいる。
完成したばかりの『絶死の灰』の効力を確かめるため、鉄格子に繋がれた奴隷たちが次々と引きずり出されてきた。
最初に台座へ縛り付けられたのは、立派な角を持つトカゲ族の屈強な戦士。
呪術師の指先から、ほんの数粒の灰が戦士の分厚い鱗へと落とされる。
――ジュッ。
バリバリと音を立てて緑色の鱗が瞬時にセメントめいた灰色に変色した。戦士は悲鳴を上げる間もなく、ドス黒い血液を口から激しく噴き出し、肉も骨も脆い消し炭のようになって崩れ落ちた。
続いて引き立てられたのは、ハイエルフの魔術師。
ハイエルフの魔術師は結界を張ろうと必死に呪文を詠唱していたが、灰が結界ごと肌に触れた刹那、絶望に目を見開いたまま、パリンと乾いた音を立ててガラス細工のように粉々に砕け散った。
さらに、岩をも砕く剛腕のドワーフがボタボタと涙を流して抵抗するも、無慈悲に灰を浴びせられ、鼻を突く強烈な焦げ臭さを放ちながら砂山へと姿を変える。
高潔なエルフも、頑強なドワーフも、誇り高きトカゲ族の戦士も。ただの数粒の灰の前に、肉を引き裂かれ、塵芥のごとく平伏し、消滅していく。台座に残ったのは、不気味な灰の山だけ。
隣の檻では、狐の耳を恐怖に震わせた獣人の幼い少女が、冷たい床にうずくまってガタガタと泣き叫んでいる。
「いや、いやぁ! お父ちゃん、お母ちゃん、助けてぇ……っ!」
次に台座へ運ばれるのは自分の番だと理解しているのだ。
影の枢機卿モルドレッドは、泣きじゃくる獣人の少女をゴミ屑を見るような冷徹な瞳で見下ろし、喉を鳴らした。
「……くくっ」
冷たい大理石の床に、短い嘲笑が落ちる。
世界は、弱者の血と無知で回っている。
「本当に、底知れぬ愚か者だ」
モルドレッドの足元には、数枚の羊皮紙が散乱していた。
エドワードから送られてきた『ボレアス制圧後の領地分割に関する要求書』。エドワードを王として遇せよと長々と綴られた紙は、教団の者たちに踏まれ、鼻紙以下のゴミ屑として床を転がっている。
モルドレッドは魔道具を床へ放り捨て、ブーツの踵で無造作に踏み砕いた。
国境警備の全軍を光の粒子に変えて蒸発させた、ボレアスの異常者たち。あんな化け物どもに、帝国が本物の特使など派遣するはずがない。
「……まあいい。あれほど都合のいい駒が、まだ生きていたとはな」
月光絹に仕込まれた『灰』が、ボレアスで誰を喰い殺すか。勘違いした道化がお茶会へ足を踏み入れた瞬間、何が起きるか。
鉄格子の奥で怯える奴隷どもの命も含め、モルドレッドにとってはすべて、帝国の脅威たる怪物を狩るための安い布石にすぎない。
モルドレッドの足元から、暗黒の魔力がねっとりと這い出す。
何も知らない愚王の背後に、ただ、不穏な夜の闇だけが広がっていった。




