第59話 ルチアーノの歓喜と献上品
ボレアス領主邸の応接室。
ルカが磨きすぎた床のせいで、豪商ルチアーノさんは、お見事なスライディング土下座で滑り込んできました。
「あら、ルチアーノさん。いつも他国との貿易を頑張ってくれてありがとう。今日はどうしたのかしら?」
わたくしは上座のソファから、いつものように微笑みかけます。
「へへーっ! 実は東の巨大国家『ガルディア帝国』から、セレスティア様へ【和睦と謝罪のための特使】が向かっているとの報せが!」
ああ、確かアリスさんが以前、国境付近で少しだけ『お説教』をしてしまった国ね。
ぽん、と手を打ちます。
わたくしの言葉を聞いた瞬間、ルチアーノさんの顔面が少し引き攣った気がしました。まあ、気のせいかしら。
ルチアーノさんが指を鳴らすと、部下たちが大きな木箱を運び込んできます。蓋を開けると、艶やかな光沢を放つ絹の織物がぎっしり。
「帝国の特産品『月光絹』! ボレアスの家具と合わせれば莫大な富が……いえ、平和の架け橋となること間違いなしですぞ!!」
平和の架け橋。うん、素晴らしい響きですわ。
わたくしは織物を一枚手に取り、そっと撫でました。
……あら?
指先が、ちくりといたしましたわ。
冬の朝、うっかり冷え切った窓ガラスに触れてしまった時のような、ヒャッとする嫌な冷たさ。
長旅のせいかしら、ほんの少し古いカビのような匂いもするわね。
「ルチアーノさん、ありがとう。今度のお茶会で使わせてもらうわね」
ホクホク顔のルチアーノさんが何度も深く頭を下げながら退室していくのを見届け、わたくしは木箱から織物を数枚抱え上げました。
お茶会の前に洗っておきましょう。マリーなら、なんとかしてくれるわ。
***
領主邸の裏手。
ガンガン照りつける真夏の日差しの下で、あたし、マリーは今日も大量のシーツと格闘していた。
「あわわわっ! お嬢様が直々にこんな水仕事の裏庭まで……!?」
あたしは濡れた手をエプロンで乱暴に拭い、頭を下げた。
「マリー、いつもお疲れ様。この布、お茶会で使う織物なの。少しカビ臭いみたいだからお願いできるかしら?」
「お任せくださいませ! このマリー、一ミクロンの汚れも残さずフカフカにしてみせます!」
お嬢様から直接、布を受け取る。
ああ、なんてお優しい。こんな美しい布を、一番にあたしのところまで運んできてくださるなんて。あたしは布を胸に抱きしめ、ボロボロと嗚咽を漏らした。
布を抱きしめた瞬間。
――ぞくり。
手に持った布から、爬虫類を素手で握り潰したような、生温かくて背筋が凍るような嫌な感触が伝わってきた。
なんだい、この布は。
「よーし、やってやるわ!」
あたしはタライに水を張り、魔力を込めた石鹸をドカドカと投入して泡立てる。月光絹を水に沈めると、両手をタライの底まで深々と突っ込み、気合と一緒に魔力を練り上げた。
お嬢様の晴れ舞台を、あたしが台無しにさせるわけにはいかないわ!
「いくわよ! マリー特製、『サンライト・ウォッシュ・ぽかぽかお日様ハグ』!!」
水に浸かった両手から、温かな光の魔力が一気に噴き出し、タライの中の織物を包み込む。
直後だった。
――ボッバァァァンッ!!
「うわっ!?」
タライの中で、ありえない音を立てて激しい火花が散った。
織物の繊維の奥の奥から、タールみたいにドス黒くてモヤモヤした“何か”がドバッと吹き出してきたのだ。
吹き出した黒いモヤが、あたしの放った浄化の光と正面から噛み合い、ジュゥゥゥゥッて、まるで鉄板で腐った肉を焼くような不快な音を立てて暴れ回る。
なによ、この頑固な汚れは! ただのシミじゃないわね! まるで布自体が生き物みたいに抵抗してくるじゃないの!
だけど、あたしはお嬢様に直接頼まれたのよ!負けるわけにはいかない!
両手にグッと力を込め、さらに魔力を押し込むと、黒いモヤはシュワシュワと水に溶けて消え去った。
「うひゃっ! 冷たっ!」
思わずタライから手を引っ張る。
真冬の吹雪の中で、素手で氷柱を握りしめたみたいだった。水に浸かっていた指先が、じんじんと痛いくらいに赤く腫れ上がっている。
「なんなのよ、この冷たさは。しかも、もの凄い汚れじゃないの。夏場なのに霜焼けになっちゃいそうだわ」
フゥフゥと指先に息を吹きかける。タライの中の水は真っ黒に黒ずんでるけど、今はもう静かだ。
「よし!お嬢様の大事なお茶会用の布。こんな得体の知れない汚れに負けてる場合じゃない!」
あたしはもう一度腕まくりをして、タライに両手を突っ込んだ。
ゴシゴシと、親の仇みたいに力強く布を揉み洗いし始める。
……でも、おかしい。
霜焼けの赤みがちっとも引かない。
それどころか、赤く腫れた皮膚の近くの血管のすぐ横のところに、ぽつんと。
ダニにでも刺されたみたいな、『灰色のシミ』が浮き出ている。
指先の感覚もさっきから妙に鈍いし……。
「……まあ、強い洗剤にかぶれただけだわ。お嬢様の晴れ舞台に水を差すわけにはいかないものね」
あたしは灰色のシミを袖口で強引に隠し、ひたすらに織物を洗い続けた。




