第58話③ 厨房のマリーと美食スパイ
――美味すぎる。 ただ一言を除き、サバランの思考は完全に白紙となった。
喉を通る黄金のスープは、荒みきっていた胃腸を優しく撫で回す。 裏社会で生きてきたものとしてのドス黒い精神までもが、細胞レベルで浄化されていく。
からだ中から、かつてないほどの活力が湧き上がってくる。 サバランの目から、大粒の涙と鼻水がボロボロとあふれ出した。
「美味すぎる……ッ! 俺は今まで、何のために……!」
梁から転げ落ちるのも構わず、サバランは厨房の床に降り立つ。 そして、驚いて振り返ったマリーの足元に、勢いよく土下座した。
「このスープ……! いえ、この奇跡の雫の器を、一生俺に洗わせてください!」
帝国が誇る冷酷なスパイの面影は、すでにかけらも残っていない。 あるのは、至高の味に平伏する一人の食いしん坊の姿だけだった。
「ちょっと、あんた誰よ! 勝手に入ってきて、汚い手で鍋に触らないで!」
マリーが呆れ顔で箒を振り上げた、刹那である。 厨房の扉が静かに開いた。
「あら、マリー。こんな夜更けに、夜食の準備かしら?」
柔らかな微笑みを浮かべた、セレスティア・ボレアス。 サバランが暗殺の標的としていた、生意気な小娘――いや、今やサバランにとっては、琥珀色のスープを味わうことを許された至高の存在だ。
「お嬢様、申し訳ありません。どこかの不審者が迷い込んだようで……」
「まぁ。お腹を空かせた旅の方かしら? ボレアス領はいつでも歓迎しますわ」
セレスティアは、ふふっと笑う。 しかし、セレスティアの背後に立つ二つの影は違った。
アリスは虚無の瞳でサバランを見下ろし、クロエは中指で銀縁眼鏡のブリッジを静かに押し上げている。
『……万死。お嬢様のために仕込んだスープを、貴様のような泥水が勝手に味見した罪』
『汚れた指先が摩擦で消し飛ぶまで、一生この厨房の皿を洗わせ続けますわ』
サバランの脳内に念話が直接叩き込まれた。 二人の瞳には、一切の光が宿っていない。
「ひぃッ……! はいっ! 喜んで洗わせていただきます……ッ!」
帝国の美食スパイは、こうしてボレアス領で、新たな人生を歩み始めたのだった。




