第58話② 厨房のマリーと美食スパイ
器に落ちた一滴の猛毒は、黄金色のスープに混ざり合った。
直後、アリスたちの仕込んだ過剰魔力が跳ね、猛毒という害意に牙をむく。
さらに、マリーが残していった生活調律魔法の残滓が、異物を排除するため、うごめき出した。
毒物の分子構造は、見えない力によって木端微塵に砕かれた。
死をもたらす成分は分解され、瞬時に高純度のアミノ酸ときわめて濃密な旨味成分へと組み替えられていく。
点滅していた禍々しい光が収まった。
スープの表面から、凄まじい熱気とともに湯気が立ち上る。
湯気に含まれる香りは、サバランの脳髄を直接鷲掴みにした。
『(な、なんだ、立ち上る香りは……ッ)』
サバランは喉を鳴らし、生唾を飲み込んだ。
鼻腔を突き抜ける香ばしさは、香辛料をじっくりと炒めたような、奥深いコクを宿している。
胃袋が、内側から激しく痙攣した。
あまりの芳醇さに、サバランは梁の影で身を震わせる。
『(暗殺を仕掛けたはずだぞ。なぜ、王宮の晩餐会すらこども騙しに思えるほどの香りが漂ってくるのだ)』
疑念と食欲が、サバランの頭の中で激しく衝突した。
プロとして、任務以外の行動は厳に慎まなければならない。
しかし、目の前のスープは、本能のブレーキを力ずくで引きちぎろうとしていた。
『(確かめねばならん。万が一、毒が効いていなかった場合、暗殺ギルドの面目に関わるからな)』
サバランは、自分自身に都合の良い言い訳を並べ立てた。
懐から、鑑定用の小さな銀の匙を取り出す。
銀は特定の猛毒に触れれば、たちまち黒く変色するはずだ。
暗闇の中、サバランの右腕は小刻みに震えていた。
スープに匙を浸すと、琥珀色の液体が滑らかに絡みつく。
しかし、銀の匙は少しも曇る様子がなく、ただ黄金の輝きを反射していた。
『(馬鹿な、変色しないだと!? 俺の調合した劇薬が、完全に消滅したというのか……!)』
サバランのプロとしての常識が、音を立てて崩れ去る。
『(調査だ。任務を遂行するため、これは必要不可欠な点検に過ぎない)』
強引に己を納得させ、サバランは匙を口元へと運んだ。
一滴のスープが、舌の先に触れる。
刹那、サバランの脳内回路は轟音を立てて焼き切れた。




