第58話① 厨房のマリーと美食スパイ
帝国の裏社会で暗躍する『七大将軍』の懐刀。
美食スパイであるサバランは、闇に紛れてボレアス領主邸の厨房へと潜入していた。
『(チョロいものだ。辺境の警備など、この俺にかかれば児戯に等しい)』
サバランは音もなく梁の上に潜み、眼下の光景を見下ろす。
標的は、この領地を治める生意気な小娘、セレスティア・ボレアス。
『(世界の裏の魔王などと恐れられているが、所詮は世間知らずの小娘。俺の特製ブレンド毒で、苦しむことなくあの世へ送ってやる)』
サバランの指先には、帝国秘蔵の猛毒『慈悲の短剣の毒』が仕込まれた小瓶が握られている。
一滴で巨象の心臓すら止める凶悪な代物だ。
厨房では、二人のメイドが何やら物々しい大鍋をかき混ぜていた。
金髪のメイドと、艶やかな黒髪のメイド。
「お姉様の疲労を回復させるため、エリクサー・リーフを樽ごと煮詰めるのが最適解ですわ」
「ええ。さらに、マナ・クリスタルを粉末にしてふりかけましょう。お嬢様の細胞がきっと歓喜の歌を歌い出します」
鍋の中では、七色に発光するドロドロの液体が不気味な気泡を立てている。
サバランは思わず眉間を押さえた。
『(なんだあの禍々しい物体は)』
サバランの本能が、激しく警鐘を鳴らす。
するとそこへ、大量の洗濯物を抱えた女性が通りかかった。
「ちょっとあんたたち! こんなドロドロしたもん、お嬢様が飲めるわけないでしょ」
洗濯係のマリーだ。
マリーはためいきをつきながら鍋の前に立つと、スナップを利かせてお玉を奪い取る。
「お嬢様の胃腸はね、もっと優しく労わらなきゃダメなの。ほら、どきなさい」
マリーがお玉で鍋をかき混ぜた瞬間、淡い光が厨房を包み込む。
マリーの持つ『疑似天日干し』の応用、生活調律魔法が発動した。
過剰魔力と暴力的な栄養素が、みるみるうちに中和されていく。
七色に輝いていた液体は、黄金色に澄み切ったスープへと姿を変えた。
『(ば、馬鹿な。あんなでたらめな物体を、ただのオカンが鍋をかき混ぜただけで浄化しただと)』
サバランは思わず身を乗り出す。
立ち上る湯気からは、胃の腑を直接鷲掴みにするような、たまらなく芳醇な香りが漂ってくる。
「よし、これで胃に優しい薬膳スープの完成ね。あとは冷めないうちに持っていきなさい」
「……チッ。仕方ありませんわね」
「お嬢様がお飲みになるなら妥協しますわ」
マリーが満足げにうなずき、二人のメイドが配膳の準備をするため、背を向ける。
『(今だ)』
サバランは梁の上から音もなく飛び降りる。
その脇をすり抜ける瞬間に、黄金色のスープが注がれた器へ、小瓶の猛毒を一滴だけ垂らした。
『(これで終わりだ、世界の裏の魔王め)』
サバランは誰にも気づかれず、再び暗がりへと身を隠す。
勝利を確信し、ニチャアと口角を吊り上げた。
毒が混ざり込んだ瞬間、器の中のスープが明滅を始める。
赤、青、紫と、毒々しい光が不規則に点滅していく。
『(……なんだ? 毒の反応にしては、様子がおかしいぞ)』
アリスたちが仕込んでいた過剰魔力。
そしてマリーの『生活調律魔法』による強引な中和作用。
そして、帝国の猛毒を触媒として、サバランの目の前で未知の超反応を起こし始めていた。




