第56話 ダニーのおいしいスープと庭師の少年のはじまり
新市街を潤す大釜が並ぶ厨房。
視界を染める、濛々たる湯気。
怒号と鍋の音が交錯する、戦場のごとき活気。
「ほらトカゲさん、もうちょい右の火力を落として! 焦げ付いちまう」
汗だくの料理人ダニーが声を張り上げる。
竈門の前に陣取る、山のような影。
元レッドドラゴンのトカゲさんが、「グルル……」と従順に喉を鳴らす。
恐るべき魔力を細やかに操り、尻尾の炎をチョロチョロと絞り込んだ。
ダニーとトカゲさんが全霊をかけて仕込んでいるのは、新領民五百人分のカボチャスープ。
白い湯気の中へ、突如として華やかな薔薇の香りが滑り込む。
現れたのは付き人のアリスと、専属メイドのクロエ。
お互いに一歩も譲らない、流れるように優美なカーテシー。
瞳には潤いのあるハイライト。
花が咲くような可憐な微笑みを浮かべている。
ダニーたちの仕込む大釜の前を、おしとやかに素通りしていく。
鈴を転がすようなお上品な足音。
しかし、領主セレスティア専用の、小さな片手鍋が火にかけられた刹那。
付き人と専属メイドの瞳孔がカッと見開かれる。
尋常ならざる、血走った光。
「お嬢様の朝を彩る、昨日の疲れをすべて吹き飛ばす一杯にするのですわ……!」
「ええ。細胞の隅々まで行き渡る栄養素と魔力を配合するわ」
アリスが純白の袖を乱暴にまくり上げる。
空間収納から引き出された、神話級の素材。
『神創葉』。そして『神仙水』。
小国が一つ買える価値を持つ秘宝。
道端の雑草と同じ手つきで、小鍋へ次々と放り込まれていく。
「なっ!? 神創葉にアヴァロン・ドロップって……頭がおかしいのかッ」
ダニーの悲鳴。
当然、アリスとクロエの耳には届かない。
「トカゲさん、火加減は『髪の毛一本分の揺らぎ』も許しませんわ。一ミクロンでも狂えば……明日のスープは、豪華なドラゴン肉の煮込みになりますわ」
クロエの聖母のような微笑み。
だが、トカゲさんの首筋には、氷のように冷たいミスリル製の短剣がピタリと当てられている。
レッドドラゴンは、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
ガクガクと震える尻尾で、必死に炎を弱める。
かくして完成したのは、スープと呼べるか疑わしいドロドロの物体。
七色に発光し、ドロリと重厚に脈打つ液体。
鍋底から立ち上る神々しいオーラ。
どこからともなく、賛美歌すら響いてくる。
もはや料理ではない。
文字通りの魔導兵器。
***
朝餐の食堂。
虹色に輝くスープを飲んだセレスティア。
そっと口元を拭い、ひどく困ったように眉を下げる。
「……とても美味しいわ。ただ、体の底から活力が湧き上がりすぎて、すこし胃が重いわね。単身で魔王討伐へ行けそうな気分になってしまって……」
胃壁を直接揺さぶる、重厚な浸透圧。
お嬢様はそっとお腹をさすり、内側から立ち上る熱気に、白磁の額を微かに湿らせている。
ため息をつき、隣の席へ視線を向ける。
領民たちが、美味しそうに大釜のスープをすすっている。
「あ、あの……お嬢様。よければ、俺たちのスープ、味見してみますか……」
見かねたダニーが、小さな器を差し出す。
すこし焦げた、普通のカボチャスープ。
セレスティアはお玉ですくい、口に含む。
途端、お嬢様の顔に、満開の花のような笑顔が咲いた。
「ああっ、懐かしい味よ! 芯からホッとする温かさ! 素朴で、カボチャの甘みが優しくて……大釜のスープなら毎日でも飲めそうだわ」
セレスティアは嬉しそうに、焦げ目のあるスープをきれいに完食してしまった。
コンマ一秒。
食堂の隅。
アリスとクロエの全身から、急速に色彩が抜け落ちていく。
「私たちの……全身全霊の技術と、国が傾くほどの秘宝が……」
「ただの料理人の、すこし焦げた手料理に……負けた……ッ!?」
カシャァン。
付き人と専属メイドは真っ白な灰と化し、サラサラと崩れ落ちた。
アリスとクロエの残骸から漂う、ドス黒い呪詛のオーラ。
勝ってしまったダニー。
「俺、絶対消されるよね!?」と、ガタガタ震え上がるしかなかった。
***
朝食後。
穏やかな陽射しが降り注ぐ中庭。
庭師の少年マルコが、竹箒で落ち葉を掃いている。
テラス周辺では、異常な光景が広がっていた。
敗北を深く引きずるアリスとクロエ。
血眼でお茶会空間の事前点検を行っている。
花の咲くような柔らかい微笑みを顔に固定したまま。
しかし、衣服の陰。
付き人と専属メイドの指先は、ピキピキと微かに震えている。
磨き抜かれたテラスの石畳は、すでに顔が映るほどに澄んでいた。
それでも、這いつくばる動作は止まらない。
「ちり一つ、菌一つ残してはなりませんわ……! お嬢様の視界に入るものは、すべて無菌でなければ……」
石畳の隙間を点検する、付き人と専属メイド。
まさに刹那。
磨き抜かれた石畳の上。
すこし大きめの羽虫が、カサカサと這い出てきた。
ふだんなら、爪先で軽く弾き飛ばす程度の、さまつな存在。
お行儀を保ち、優雅に排除すべき、小さな虫。
しかし、貼り付いた笑顔の裏側。
付き人と専属メイドの精密な手加減のブレーキは、すでに静かに焼き切れていた。
優雅に微笑み、おしとやかに背筋を伸ばしたまま。
アリスとクロエの瞳から、ハイライトが消失する。
「「消え失せろ!!」」
アリスの神聖魔法。
クロエの必殺暗器。
虫一匹へ、同時に直撃した。
ズドゴオォォォォォンッ!!!
耳を劈く爆音。
激しい土煙が、空へ向かって舞い上がる。
煙が晴れたのち。
美しいテラスの前には、直径三メートルの大穴がぽっかりと口を開けていた。
「「…………あっ」」
我に返ったアリスとクロエの顔から、血の気がひく。
二階のバルコニーから、セレスティアが顔を覗かせた。
「ものすごい音がしたけれど、どうかしたの……」
付き人と専属メイドの脳裏に、最悪の想像がよぎる。
コンマ一秒。
アリスとクロエは、呆然と立つマルコの足元へ。
光を置き去りにする速度で滑り込んだ。
ズザーーッ!!
美しい芝生を鮮やかに削り取りながらの、一糸乱れぬスライディング。
「「お願いします!!!」」
「えっ!?」
付き人と専属メイドが、額をどろに擦り付け、少年に泣きつく。
「マ、マルコ様っ! 貴方様が『お嬢様のために新しい池を掘った』と申告なさいませ!」
「特別に報酬は弾ませていただきます。さぁ、速やかにこのどろを被りなさい」
すがりつくような哀願。
そのうらで、絶対零度の念話を少年の脳内へ直接叩き込む。
『(……一文字でも言い淀めば、わかっていますね)』
「まぁ、大きな穴……どうしたの?」
セレスティアの足音が近づく。
命の危機を本能で悟ったマルコは、裏返った声で叫んだ。
「ぼ、僕がっ! お嬢様のために新しい池を作ろうと、気合いで穴を掘りましたぁぁっ!」
「えっ……マルコ君が一人で、こんな立派な池を?」
セレスティアは、驚きに頬を微かに緩め、眩しい微笑みを向けた。
「マルコ君、本当に働き者なのね。ありがとう。あとでダニーにごほうびのクッキーをもらってちょうだいね」
歩み寄り、セレスティアは慈愛に満ちた手つきで、少年の頭をよしよしとやさしく撫でる。
「えへへ……あ、ありがとうございます!」
お嬢様のやわらかい手のひらに、マルコはふにゃふにゃと頬を緩めた。
頭を占めるのは、甘いクッキーの味だけ。
お仕置きの恐怖から一瞬で解放され、ただただヘラヘラと締まりのない笑みを浮かべている。
だが、マルコの背後。
アリスとクロエの瞳から、ハイライトが消失する。
マルコのすぐ足元の小石が、チリチリと音を立てて黒く焦げ、ドロドロに溶け出していく。
だが、お花畑に浸るマルコは、背後の深淵に一ミクロンも気づかない。
「クッキー、チョコチップだといいなぁ」
マルコはただただ幸せそうに竹箒を握り直している。
アリスとクロエの口元は、お行儀よいの微笑みを固定したまま。
涙が、アリスとクロエの頬をツウッと濡らして、地面のどろへと静かに吸い込まれていく。
『(絶対に許さんぞ、マルコ……ッ)』
全く気づいていない無垢な庭師の少年の憂鬱な日々は、まだまだ始まったばかりである。




