第55話 洗濯係のマリーと普通の朝
新市街の広場に、甘く香ばしい匂いが立ち込めている。
長テーブルに並んだ、湯気を立てるカボチャスープと焼きたての白パン。
「あ……、ああっ……」
旧王都からお引越ししてきた『新しい家族』である子供たちは、器を握りしめたまま硬直している。
誰も言葉を発さない。泥だらけの小さな手でスープをすすり、鼻水をすすり上げ、一心不乱にパンを胃袋へ詰め込んでいく。
「ゆっくりでいいからね。おかわりはたくさんあるわ」
しゃがみ込み、一番小さな女の子の口元についたスープをハンカチで拭う。
「お引越しのピクニック、大変だったわね。今日からは温かいお布団で眠れるからね」
微笑む領主に、子供たちは器を置き、地面に額を擦り付けてボロボロと声を上げて泣きじゃくった。
***
朝食後。
共同洗濯場では、ベテラン主婦のマリーが「洗濯物の山」を前に溜め息を吐いている。
五百人分の泥汚れ。冷たい井戸水。
腕まくりをしてタライへ手を伸ばす——直後。
「マリーさん、大変な作業ですね。ここはわたくしたちにお任せくださいな」
「領主様の命により、新領民の衣服は我々が処理します。マリー殿は下がってお茶でも飲んでいてください」
風と共に、二つの影が舞い降りる。
慈愛の笑みを浮かべる元聖女アリスと、一糸乱れぬ礼をするプロメイドのクロエ。
(ああ、なんて美しい方たち……。気遣いまで行き届いているわ)
マリーが見惚れた、次の瞬間。
「神の祝福を」
微笑んだまま、アリスが指先を弾く。
ドンッ! と重い風鳴りが響き、山積みの衣服が一斉に宙へ舞い上がる。
極乾燥の熱風が叩きつけ、瞬きする間に水分と泥を奪い去っていく。
バサバサバサッ!
乱暴に折り畳まれた服が落下する。クロエは優雅な所作のまま、残像すら見える速度で空のカゴへ収めていく。
「はい、新領民の皆様の分は終わりましたわ」
五百人分の洗濯が、わずか数秒で終わった。
『(圧倒的……! さすが聖女様とプロのメイド……!)』
安堵の息を吐いた、矢先だった。
クロエが懐から、仰々しい木箱を取り出す。
現れたのは、領主セレスティアが着る予定の純白のパジャマとシーツ。
シュガァァァンッ!!
空気が沈み込む。
二人の足元から、空間を歪ませるドス黒い魔力が立ち上る。
先ほどの微笑みは消え、瞳孔が見開かれている。
「お姉様の柔らかなお肌を包む神聖なる布……ッ! 繊維の奥のダニ一匹、生かしてはおきませんわ……!」
「霊峰の湧き水で優しく、赤子の頬を撫でるように濯ぎます……ッ!」
二人は血走った目で魔力を編み上げる。
極小の水球がパジャマを包み、毛玉の一つ一つをピンセットで摘み取るような精度で汚れを弾き飛ばし、生地を浄化していく。
ふっ、と異様なオーラが霧散した。
振り返る二人は、いつもの「聖女」と「メイド」の顔に戻っている。
「さあ、マリーさん。お待たせいたしました」
アリスが満面の笑みで、光り輝くパジャマを差し出す。
「この神聖なる布の仕上げは……お姉様がもっとも愛する『お日様の匂い』を生み出せる、あなたにしか任せられませんわ」
「ええ。我々の魔力浄化では、あの自然で温かい匂いだけは再現できない。……マリー殿、お姉様の期待を裏切るような『せんたく』は、まさかしませんね?」
クロエが深くお辞儀をする。
マリーの背筋を冷や汗が伝う。二人の瞳の奥で、「お姉様をガッカリさせたら、分かっていますね?」という絶対零度の圧が渦巻いている。
『(……目がッ! 目がまったく笑ってない! 失敗したら絶対ここから叩き出されるやつ! ただの「洗濯」が、私の人生かけた「選択」にすり替わってるんだけどォォ!?)』
マリーは震える手でパジャマを受け取る。
「っ……」
手にした瞬間、思考が止まる。
なんだ、この手触りは。
雲のように軽く、触れていることすら忘れる滑らかさ。王都の貴族が纏う絹すら、赤子の産着に思える。
(……何よこの生地。干し方間違えたら一発でダメになるじゃない)
パンッ! パンッ!
体が無意識に動く。
空中でシーツを振り、遠心力でシワを伸ばす。
「……こんな上等な生地、直射日光なんて論外。風の通る日陰で斜めに干して、風の通り道を作らないと」
小言を呟きながら、シーツを日陰のロープへかける。
直後、マリーの動きがピタリと止まる。
『(待って。日陰干しじゃ、領主様が大好きな「お日様の匂い」がつかない……! でも直射日光に当てたら、この繊細な生地は確実に傷んでダメになる!)』
振り返る。
アリスとクロエが「当然、生地を痛めず『お日様の匂い』をつけられますわよね?」と無言の圧を放ち、こちらを見つめていた。
『(無茶苦茶よ! 物理的に不可能じゃないの……ッ!)』
額を冷や汗が伝う。
だが、逃げない。旧王都の地獄を生き抜き、家族の泥汚れと戦ってきたベテラン主婦。
長年培ったプライドが、限界を超える。
(……舐めないで。領主様が望むなら、日陰だろうと何だろうと、ふかふかのお日様の匂いをつけてみせるわよ……!)
カッ!!
両手から、突如として淡い黄金色の光が溢れ出す。
「なっ……!?」
「これは……魔力……!?」
二人が驚愕に目を見開く。
本人はまったく無自覚。ただ「理想の仕上がりにしたい」という執念だけで、内に眠る魔力が未知の領域へ至ったのだ。
『生活魔法・極:擬似天日干し(サン・ドライ)』。
日陰にいながら、空気中の微弱な太陽光の粒子を抽出。シーツの周囲にだけ湿度40%の微風を循環させる。生地の繊維を一切傷つけず、紫外線による殺菌効果と「お日様の匂い」だけを定着させていく。
戦闘力は皆無。ただ洗濯物を仕上げるためだけに編み出された、もっとも平和な極大魔法。
「……完成よ」
ふぅ、と額の汗を拭う。
シーツから漂う陽だまりの匂いに、アリスとクロエは彫像のように固まっている。
「……信じられません。ただ洗濯物を仕上げるためだけに、新たな術式を編み出すなんて……」
「お姉様のお召し物を任せるに相応しい、まさに至高のメイド(主婦)……!」
二人の瞳から敵意が消え去る。代わりに宿るのは「同志」への深い敬意。
狂信的なメイドたちの圧を、戦うこともなく、ただの「主婦の執念」だけで正面からねじ伏せたのだ。
「あら、みんな揃ってお洗濯? お疲れ様」
洗濯場へ、甘い石鹸の香りを漂わせたセレスティアが顔を出した。
シーツを干し終えたマリーの手を、温かい手でぎゅっと握る。
「まぁ、すごくいい匂い! マリーさんの畳んだタオルやシーツ、いつもお日様の匂いがして大好きなのよ。朝早くから、本当にありがとうね」
「えっ? あ、いえ、領主様……もったいないお言葉で……」
オリジナル魔法を編み出したことなど露知らず。
突然の労いに、マリーは目を瞬かせる。
(働き者のマリーは、朝から冷たい水仕事で手が冷え切ってしまったのね)
無自覚なお花畑の解釈と、まっすぐな感謝の言葉。
緊張で強張っていた心に、温かいお茶を注がれたような温もりが広がっていく。
「あたし……今日も一日、お洗濯頑張りますね」
「ええ、無理しないでね」
優しく手を撫でられ、マリーは肩の力を抜く。
アリスとクロエからの熱い眼差しを背後に受ける、うららかな新市街。
今日も平和で温かい、ごく普通のスローライフの朝だった。




