第51話 したたかな潜入亡命ミッションですわ。
深夜の執務室。
月明かりだけが差し込む静寂のなかで、真っ白な仔犬のシロと、特大のくまのぬいぐるみであるハミィの小さな影が息を潜めていた。
日中の過酷なハンコ連打労働を終え、ボロボロになったシロとハミィは、肉球と綿をすり合わせて秘密の念話を交わしていた。
『(おい、クマ。明日もあのバケモノ二人にこき使われる気か?)』
『(冗談ジャナイ。俺タチハ神狼ト特級呪物ダゾ。アノ赤髪ノ女ヲ「肉ノ盾」ニシテ、楽ヲシテヤロウゼ)』
神獣と呪物による、極悪非道なボレアス領主邸脱出・傀儡政権樹立作戦が幕を開けた。
夜の屋敷の廊下は、アリスとクロエが張り巡らせた害虫自動スライス結界と極細鋼糸のトラップレーザーが網の目のように交差する死の要塞だ。
神の雷すら躱す神狼の絶対的な動体視力と神速の脚力を、シロはクロエの鋼糸トラップをミリ単位でくぐり抜けるだけのコソ泥アクションに全振りする。
上段から迫るアリスの自動索敵光線には、ハミィが特級呪物としての底知れぬ呪力を解放し、裂けた腹からダミーの綿をデコイとして射出。
間一髪で光線を逸らした。
世界を滅ぼしかねない神性と呪力の、あまりにも悲壮な無駄遣いである。
天井裏のダクトを這いずり回り、埃まみれになりながらも、シロとハミィはついにヴィクトリア様の客室のドア前へと到達した。
カリカリ、カリカリ。
すがるようにドアの下を引っ掻くと、やがてガチャリと鍵が開く。
「んん……? こんな夜更けにどなたですの……」
寝巻き姿で目をこするヴィクトリア様の前で、シロのスイッチが瞬時に切り替わる。
きゅぅん、きゅぅん……。
シロはハミィを前足で必死に抱きしめ、怯えたように小刻みに震え、涙を浮かべた上目遣いでヴィクトリア様を見上げた。
ハミィはシロの腕に挟まれ、上目遣いの角度に固定されたつぶらなガラス玉の瞳を光らせる、ただのぬいぐるみである。
アカデミー賞も青ざめる、あざとく哀れなペットの熱演だ。
「あら、あんたたち……! こんなに怯えて……! かわいそうに、今日からわたくしのベッドで寝てよいですわ!」
持ち前のお人好し精神とフワモフ好きの性癖をこれでもかと刺激され、ヴィクトリア様はシロとハミィをふかふかの胸元へ力強く抱き寄せた。
コツ……、コツ……。
廊下の奥から、一糸乱れぬ冷酷な足音が近づいてきた。
足音はヴィクトリア様のドアの前でピタリと止まる。
『……おかしいですわ。お姉様の部屋から、オスの犬の気配と、ゴミの綿屑の気配が消失いたしましたわ』
『……ヴィクトリア様の部屋から、かすかにドッグフードの匂いがいたします』
ドアの隙間から、宇宙の果てより暗い、ドス黒い眼光が差し込んできた。
アリスとクロエから放たれる常軌を逸した殺意によって、廊下の壁がバキバキと凍りつき、分厚い木製のドアが腐食してミシィミシィと軋みを上げる。
息の根を止めんばかりのプレッシャーに空気が氷点下まで凍りつく。
だが、ヴィクトリア様はシロとハミィを背中に庇い、豊かな胸を張ってドアの前に仁王立ちした。
「ちょっと! 夜中にレディの部屋の前で立ち聞きなんてお行儀が悪くてよ! 散りなさい!」
物理的な破壊力を伴うヤンデレたちの冷気と殺意が、ヴィクトリア様の放つあふれんばかりのエナジーと、マシュマロボディの底知れぬ弾力によって、ふんわりと吸収された。
お嬢様の親友という絶対的な立場と、無敵のクッション性能。
ちょうど、ヴィクトリア様の背中の死角で。
シロとハミィは最強の絶対防壁を確信し、ドアの隙間から覗くヤンデレたちへ向けて、ニチャア……と邪悪な笑みを浮かべていた。
『(計画どおりだ。手出しできまい、敗北者ども)』
ドアの向こう側から、アリスとクロエが怒りでギリギリと歯ぎしりをする音が響き渡る。
翌朝。
私は客室を訪れ、ヴィクトリア様のベッドでシロとハミィが安らかに眠っている姿を発見し、パチンと手を打った。
「まあ! ヴィクトリア様、シロとハミィがおるすばんのご褒美に、新しい抱き枕のプレゼントをしてくれたのね! すっかりいっしょに寝るほど仲良しになって、私、本当にうれしいわ!」
「違いますわセレスティア! これはプレゼントではなく、ガチの亡命ですわーーッ!」
朝の光に満ちた屋敷にヴィクトリア様の絶叫が響くあいだも、シロは腕のなかで善良なペットの顔を張り付けたまま、したたかに尻尾を振っていた。
ハミィはただヴィクトリア様に抱きしめられて沈黙を貫くぬいぐるみとして、完璧な擬態を続けていた。




