第40話 先生、ご無沙汰しております。
「なんでこんな絶体絶命の状況で、メイドがお茶を淹れてますのーッ!?」
ヴィクトリア様の魂からの叫びが、紅茶の芳醇な香りが漂う空間に木霊した。
「ヴィクトリア様、淑女がそのような大声を出すものではありませんわよ。せっかくのティータイムの静寂が台無しになってしまいます」
私は優雅にたしなめながら、ふと視界の端に映った人物へと歩み寄った。
入り口付近の床で、泥と煤にまみれ、小さな女の子をその腕にしっかりと抱きしめている一人の老婦人。
豪奢な羽根つき帽子は折れ曲がり、ドレスの裾はひどく汚れているが、その背筋だけは鋼のように真っ直ぐに伸びていた。
私はドレスの裾を軽くつまみ、静かに膝を折る。三年前、彼女から幾度となく叩き込まれた、寸分の狂いもない完璧なカーテシー。
「ジョセフィーヌ先生。ご無沙汰しております。まさか、このような場所でお会いできるとは思いませんでしたわ」
マダム・ジョセフィーヌ。
かつて私が、王都で『完璧な令嬢としての振る舞い』を骨の髄まで叩き込んでくれた恩師である。
「……セレス、ティア……様……?」
マダム先生の枯れた唇から、掠れた声が漏れる。
彼女は泥だらけの震える手で、乱れた白髪を無意識に整えようとした。教え子の前で、少しでも淑女としての体裁を保とうとする、彼女らしい矜持だった。
「先生、お洋服が埃だらけですわよ。……まあ、可愛らしいお姫様と一緒に、こんな地下室で課外授業ですか?」
私は、彼女が抱きしめている震える幼子――見覚えのあるプラチナブロンドの髪を持つ王女殿下――を見て、ふふっと微笑んだ。
「アリス、クロエ。茶器をこちらへ」
「はい、お姉様」
背後に控えていたアリスが、銀のトレイに乗せたティーセットを恭しく差し出す。
私は、アリスの手から銀のティーポットを静かに受け取った。
「お姉様……?」
アリスが戸惑いの声を漏らすが、私は構わず、マダム先生の前に置かれた純白のティーカップへと、黄金色のダージリンを注ぎ始めた。
水跳ね一つない、完璧な放物線。かつて、目の前の恩師から教わった通りの所作で。
「今日は、私が淹れさせていただきますわ。……相変わらず熱心な教育ですが、そろそろ休憩にされてはいかがですか?」
私が微笑みかけた瞬間。
私の背後で、アリスとクロエの気配が爆発的に膨れ上がった。
『(な、なんですって……!? 至高の女神に、自らお茶を注がせるほどのお方なのですの!?)』
『(……まさか。あの老婆が、お嬢様にあの完璧で尊いマナーの基礎を叩き込んだという、伝説の創造主……!)』
初対面であるはずの二人の脳内で、私の発した「先生」という言葉と目の前の光景が光の速さで結びついたらしい。
バッ、と。
二人はマダム先生に向かって、分度器で測ったかのような鋭利な九十度のお辞儀を繰り出した。
「お初にお目にかかります、マダム・ジョセフィーヌ! 私の至高のお姉様に、その美しきマナーを授けてくださった貴女様に、心よりの敬意を!」
「お茶菓子には、貴女様がお好きだと伺っている王都の伝統的な焼き菓子をご用意いたしました。どうか、お納めください!」
初対面のメイドたちからの異常なまでの敬意と、私が直接淹れた温かい紅茶。
マダム先生は、差し出されたティーカップと、私の顔を交互に見比べた。
そして、その鋼のように伸びていた背筋から、ふっ、と力が抜けた。
「……ええ。そうですね。少し、羽目を外しすぎました」
震える両腕で王女殿下を力強く抱きしめ直したまま、マダム先生の口角が、ほんのわずかに上がる。
それは、厳しい鬼教師の顔ではなく。
立派に成長した教え子を前にした、ただ一人の恩師としての、安堵に満ちた微笑みだった。
「お言葉に甘えて、少し休憩をいただきましょう。……あなたは本当に、立派な淑女になりましたね、セレスティア様」
「ふふっ、先生の教えが良かったからですわ」
周囲の貴族たちも、呆然としながらアリスたちが配る焼き菓子を震える手で受け取り、口に運んでは、顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らしていた。
よほどお腹が空いていたのね。無理なダイエットは美容の敵ですわよ。
凄惨な戦場だったはずのシェルター内は、いつの間にか、穏やかなアフタヌーンティーの会場へと様変わりしていた。
誰もが温かいお茶に癒され、静寂と平和を噛み締めている。
――ズガァァァァァァァァァンッッッ!!!
その時。
突如として、大地を揺るがすような轟音がシェルター内を劈いた。
「きゃっ!?」
私は思わず、ティーカップを両手で押さえる。
見上げれば、先ほどヴィクトリア様のふくよかな胸にアリスたちの攻撃が弾き返された際、ひび割れが生じていた分厚い石造りの天井。
その亀裂が一気に広がり、巨大な岩盤が崩落していく。
もうもうと舞い上がる土煙。
ぽっかりと開いた天井の穴から、不気味な赤黒い瘴気が滝のように降り注いできた。
『ギシャァァァァァァァァッ……!!』
鼓膜を突き刺すような、金属を引き裂くような不快な鳴き声。
土煙の奥から姿を現したのは、先ほどの獣たちとは比較にならないほどの巨躯と、無数の複眼を持つ、変異した異形の魔物だった。
「……あら?」
せっかくのティータイムに、また埃が降ってきてしまった。
私はテーブルクロスの上の土をハンカチで払いながら、不満げに眉をひそめるのだった。




