第34話 ……よし、みんなでピクニックに行きましょう!
澄み切った青空が広がる、ボレアス領主邸の執務室。
私は決裁書類の山に万年筆を走らせていた。
ドサァァンッ。
鈍い音と共に、一羽の大きな鳥が窓から執務机へと墜落した。
羽毛は黒い泥にまみれ、赤黒い液体がべっとりとこびりついている。
「まあ。迷子の鳥さんかしら」
私はペンを置き、絹のハンカチで汚れをそっと拭い取った。
鳥の足には、厳重に封蝋された小さな竹筒が結び付けられている。
引き抜いた羊皮紙には、赤黒いインクで文字が乱暴に書き殴られていた。
『助けてくれ。魔物の群れが旧王都の地下聖堂を破った。残る命はあとわずか。
共に逃げてきた悪鬼の如き筆頭家庭教師が、身を挺して王族の幼子を守り立て籠もっているが、もはや限界だ。
どうか、辺境の地へ、我らを——』
旧王都といえば、私が追放されたあとに魔物の手に落ちた場所だ。
きっと、地下へ避難していた方々がついに辺境への移住を決意したのだろう。
「情熱的な赤いインクで『引っ越しのお手伝いをお願い』と書かれているわ。近況報告まで添えて」
私は手紙を読み返した。
王妃教育でお世話になったマダム先生も一緒みたい。
幼い子供たちと一緒に、元気で遊んでいるのね。
「外でいっぱい遊べるように、新しいおもちゃを持っていってあげないと。ねえ二人とも、王都の皆さんをお迎えがてら、ピクニックに行きましょう!」
私が振り返り、両手を胸の前で組んで提案する。
「「…………ッ!」」
「ピ、ピクニック……! お姉様と、青空の下で手作りのお弁当を……!」
「お嬢様と森の散策……! 最高のレジャーシートと日傘をご用意いたしますわ!」
二人は両手で顔を覆い、そのまま絨毯の上へ崩れ落ちた。
「ふふっ。美味しいサンドイッチを振る舞わなくちゃね。『レッドドラゴンの燻製肉』と『世界樹の若葉』を挟みましょうか」
「「お弁当はお任せください!! お姉様(お嬢様)がお着替えを済ませるまでに、私たちが完璧に整えてみせますッ!!」」
「ええ。最高のピクニックの準備をお願いね」
頼もしい二人に任せ、私はピクニックの服を選ぶため、足取りも軽く衣装部屋へと向かった。
バタン、と重いオーク材の扉が閉まる。
私の足音が消えた瞬間、執務室の空気が一気に氷点下へと凍りついた。
「……さて。食材の調達がてら、お姉様との神聖なデートを邪魔する旧王都の害虫は、私が消し炭にしてきますわ」
「いいえ聖女様。私が先回りして、お嬢様の視界に入る前に血の一滴も流れない素敵なキャンプ場を設営いたします」
アリスの指先に高密度の光球が生まれ、クロエの指の間に不可視の鋼糸が展開される。
コンコン。
控えめなノックと共に、執務室の扉が開いた。
分厚いバインダーを抱え、銀縁眼鏡をかけた執事服の男が入ってくる。
かつて領主セレスティアの命を狙い、今ではボレアス領の激務を一手で回す筆頭事務官となった元・暗殺者、レイヴンだ。
青白い顔色に血走った三白眼が、現在の過酷な労働環境を物語っている。
「失礼いたします。先日の侯爵領からの賠償金に関する決裁書類を……」
「後回しです。お嬢様が旧王都へピクニックに行かれます」
クロエが冷徹な声で遮った。
「至急、当領が誇る最高級の馬車を用意しなさい。お前が御者です」
「なっ……!?」
レイヴンの顔から、ただでさえ少ない血の気が完全に消え失せた。
彼が中指で銀縁眼鏡を押し上げようとした瞬間、その首筋にクロエの鋼糸がチリッと巻き付く。
一筋の赤い線が、白い肌に浮かび上がった。
「お嬢様の紅茶が、一滴でも揺れたら首を刎ねます。3分で準備を」
「……御意にィィッ!」
レイヴンは股間を僅かに濡らしながら、弾かれたように部屋を飛び出していった。
静まり返った執務室。
二人の視線が、部屋の隅で息を潜めていた二つの影を射抜く。
特大のぬいぐるみと白い仔犬が、ビクンッと身をすくませた。
ドサァァァァァァンッッ!!!!
クロエが執務机にうず高く積まれていた未決裁書類の山を、二匹の目の前へ容赦なく叩き落とした。
床が抜けんばかりの地響きが鳴る。
「私たちは、お姉様とのピクニックの食材調達と現地の『お掃除』へ行ってまいります」
「留守番を命じます。私たちが戻るまでにすべて処理しておきなさい。……遅れたら解体します」
突風のような勢いで、二人は窓から飛び出していった。
残されたシロとハミィが、顔を見合わせる。
そして、目の前の書類の山へとゆっくり視線を移した。
シロの口から引きつった息が漏れ、ハミィのガラス玉の目から水滴がこぼれ落ちる。
数分後。
前足に万年筆を縛り付けた白い仔犬がいた。
その隣では、くまのぬいぐるみが、はみ出した綿を器用に動かして領主の印鑑を連続で押し続けている。
カリカリカリカリカリカリッ。
バーン、バーン、バーンッ。
ただひたすらに、一切の感情を捨てて。
書類を濡らす涙と鼻水だけが、静かな執務室に落ち続けていた。




