第31話 侯爵様は本当に筆マメで義理堅いお方でした。
侯爵の視線が、突きつけられた黒革の書類の束から動かない。
脂汗が額を伝い、大理石のテーブルへ染みを作る。
『まだだ。まだ俺は屈せんぞ』
侯爵の喉仏が、ゴクリと音を立てて上下した。
上空には、侯爵が極秘に配置した夜梟暗殺部隊が待機している。
合図一つで、この生意気な小娘の首を刎ね飛ばす手はずだ。
侯爵が右手をわずかに上げ、合図の指を鳴らそうとした。
澄み切った青空へ、真っ白な毛玉が弾丸のように打ち上がった。
侯爵の指が空を切る。
テラスの向こうの上空。
シロと名付けられた仔犬が、雲を突き抜けて空中で乱舞していた。
仔犬の無造作な蹴りが、ナイトアウルの頭部を粉砕する。
続いて放たれた氷刃が、騎乗する暗殺者たち瞬間冷凍させ、音もなく四分割していく。
間髪入れずに叩き込まれた荒れ狂う竜巻が、凍り付いた残骸を粉々に砕き飛ばす。
『(危ねぇぇッ。血が一滴でもお嬢様の目に入ったら、下のバケモノ二人に俺が毛皮にされるところだった……ッ)』
血の一滴すら地上に落とさず、暗殺部隊が空中で四散した。
「侯爵様、お顔の色が優れませんわね。お茶のおかわりをお持ちしますわ」
私が優雅に小首を傾げると、クロエが銀の盆を侯爵の真横へ運んできた。
盆は、侯爵の隣に置かれていた特大のクマのぬいぐるみの頭の上へ、コトリと乗せられる。
「ありがとう、クロエ。ハミィも、テーブル代わりになってくれて偉いわね」
私が微笑みかけると、私の視界に入らない角度で、ぬいぐるみの腹がブチブチと不気味な音を立てて裂けた。
侯爵の顔面から、一気に血の気が引く。
裂けた腹から毒々しい呪符の臓物が溢れ出し、赤く発光するガラス玉の目が侯爵を睨め付けた。
『サッサト書ケ。サモナクバ、殺ス』
腹の奥から響く怨嗟の念が、侯爵の脳髄を直接揺らした。
目の前には、笑顔の魔王。
背後には、圧倒的な殺気を放つバケモノ二人。
横には、臓物をぶち撒ける特級呪物。
上空では、仔犬がナイトアウルの残骸を処理している。
四面楚歌。
侯爵の喉から、ヒュッと引きつった息が漏れた。
私は手元の最終同意書を、侯爵の正面へ静かに滑らせる。
傍らに、鈍い黒光りを放つ特製万年筆を添えた。
「どうぞ。サインを頂ければ、すぐに美味しいお茶をお飲みになれますわ」
侯爵の震える指先が、すがるように漆黒のペン軸に触れた。
ビクンッ。
侯爵の全身が、弾かれたように跳ねた。
見開かれた両目から、瞬きが消える。
硬直した指先から震えが消え、万年筆を力強く握りしめていた。
『ヒィッ。手が、自分の手じゃないみたいに軽いッ。脳に直接、甘い麻薬のようなものが……ッ』
侯爵の喉から、声にならない悲鳴が漏れる。
夏用の氷のグリップと冬用の霊鳥の羽が、侯爵の体温を感知して最適な温度調整を行っているのだ。
長年の執務による肩こりや腱鞘炎が完治し、脳の疲労が吹き飛び、異常な快感が強制的に指先を駆動させていた。
侯爵の右腕が、意思を無視して同意書へ跳ねた。
漆黒のペン先が、真新しい紙面に触れる。
滑る。
魔核を削り出したペン先が、摩擦係数ゼロで羊皮紙の上を疾走し始めた。
『違う。俺はただサインだけを……ッ』
右手の暴走は止まらない。
クラーケンの墨が放つ八色のグラデーションインクが、白紙を凄まじい速度で埋め尽くしていく。
インクの軌跡が、羊皮紙から空へ浮かび上がった。
八色に輝く魔法陣が空中に展開され、光の鎖となって侯爵の全身に食い込む。
「まあ。サインと一緒に、こんなに綺麗な八色のイルミネーションマジックまで披露してくださるなんて」
私は手を叩き、見事な魔法の演出に感嘆した。
ボレアス特製インクの発色は、空中でも素晴らしい輝きを放っている。
侯爵は光の鎖で椅子に縛り付けられながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らした。
手首を激しく弾かせ、自らの破滅を決定づける契約書を芸術的な筆致で作成していく。
『なぜ手が止まらん。ボレアス領への全領地の割譲。私財の全没収。さらにセレスティア様への永遠の忠誠を誓う八色のグラデーションポエムまでスラスラと書き上がっていくぅぅッ』
「呪い……呪いのペンだぁぁぁぁぁっ」
泣き叫びながら、最後のピリオドが力強く打たれた。
空中の光の鎖が、侯爵の胸の奥へ吸い込まれて消える。
侯爵は完成した契約書を抱え込み、白目を剥いて口から泡を吹き、気絶した。
ガシャァン。
テーブルのティーカップが床で砕けた。
私は立ち上がり、微動だにしない侯爵の腕から同意書を引き抜く。
ページをめくる。
異常に美しいイカ墨インクで、領地や財産の譲渡手続きが事細かに記されていた。
末尾には、私への熱烈な忠誠を綴った色彩豊かなポエムが添えられている。
「あらあら」
私は扇子を開き、口元を隠す。
「サインだけでなく、ご自身の財産をすべて寄付してくださるなんて」
足元で泡を吹いて倒れる侯爵を見下ろした。
「最後にこんな情熱的な八色のポエムまで添えて気絶されるなんて、侯爵様は本当に筆マメで義理堅いお方ね」
私の実務能力の高さが、見事に伝わったようだ。
ここまで私を信頼し、すべてを委ねてくださるとは。
背後に控えるアリスとクロエへ振り返る。
二人は瞬き一つせず、ただ静かに立ち尽くしていた。
『……お嬢様の無自覚な拷問、恐ろしすぎますわ』
『あの男の精神、チリ一つ残さず蒸発しましたね……』
二人の目が、宙を泳いでいる。
あまりに豪華な手土産を頂いて、驚愕しているのだ。
「二人とも、侯爵様を客間へお運びして。目を覚ましたら、最高級のお茶でおもてなししましょうね」
ボレアス領の平和な未来を確信し、私は優雅に扇子を鳴らした。




