第26話 ポップアップストア〜inクロエ
「やすぅ〜い! やすぅ〜い!!」
まるで夢でも見ているかのような、うっとりとした歓声が響き渡る広場に、突如として野太い怒声が轟いた。
「目を覚ませ、この痴れ者どもが!」
群衆を強引にかき分けて現れたのは、侯爵領の筆頭商人、ギデオン・バルバロス。
その鋭い眼光は、アリスの愛らしい笑顔にも一切揺らいでいない。
「鉄を削れるほど硬いということは、柔軟性が皆無ということだ! 床に落とせば一溜まりもなく砕け散るぞ! まして万年筆は繊細な構造だ。少しの衝撃でインクが暴発するような代物、実用には耐えん!」
そのあまりの剣幕とド正論に、熱に浮かされていた客たちがハッと我に返る。
「でもでもぉ、ギデオン様ぁ〜」
「うるさい! 小娘の愛想笑いなど俺の目利きには通じんぞ!」
アリスの甘い声も、今の彼には届かない。
ピキッ……と、隣のアリスから広場を凍り付かせるような悪寒が走った気がしたが、私が「確かに落としたら漏れちゃうかもね」と相槌を打つと、不自然な寒気はスッと消え去った。
そして。
百戦錬磨の商人が場を完全に制圧したかに見えた、その時だった。
「それでは、私から実演を交えてご紹介させていただきます」
アリスの後ろに控えていたクロエが、一歩前に出た。
一切の感情を排した無表情。背筋の伸びた完璧なメイドの所作。彼女が放つ「絶対無敵の事務的な空気」に、怒り狂っていたギデオンがわずかに気圧される。
クロエはギデオンを冷徹に見据えたまま、流れるような口上で場を支配し始めた。
「皆様、こんなお悩みはありませんか? すぐペン先が割れる。インクが漏れて書類が台無しになる。長時間の執筆で手首が痛む……。そんな侯爵領の皆様に、今回ご紹介するのはこちらの『特製万年筆』です」
抑揚のない、まるで暗殺の標的に死の宣告を下すような冷ややかなトーン。
しかしその流れるような構成は、熟練の実演販売員そのものだった。
「『でもメイドさん、石でできたペンなんて落としたら割れちゃうんでしょう?』……そうお思いの皆様。ご安心ください。まずは耐久性をご覧に入れます」
クロエが屋台の裏から片手で引きずり出してきたのは、城門破り用に使われる『ミスリル製の特大ハンマー』だった。
彼女は完璧なメイドの姿勢を1ミリも崩すことなく、ただ息をするのと同じくらい自然な、しかし神速の所作で、台に置かれたペンへとハンマーをフルスイングした。
ガァァァァンッ!!
凄まじい金属音が広場に響き渡る。
粉々に砕け散ったのは——ミスリル製のハンマーの方だった。
「な……ッ! ミ、ミスリルが粉砕されただと!?」
「このように、日常の些細な衝撃ではペン先に寸分の歪みも生じません。……しかし」
クロエは一歩踏み込み、ギデオンの逃げ道を完全に塞ぐ。
スッと新しい羊皮紙と共に、傷一つないペンを彼の鼻先に差し出した。
「『でもメイドさん、これほどの衝撃を受けたら内部のインクが暴発するのでは?』……そうお疑いのあなた。ぜひ、ご自身の目でお確かめを」
「ば、馬鹿な! そんな無事なはずが……ッ!」
ギデオンは引ったくるようにペンを受け取り、震える手で羊皮紙に文字を走らせる。
瞬間、彼の手がピタリと止まり、両目が限界まで見開かれた。
「……はっ!? なんだこの滑らかさは……ッ! 荒い羊皮紙に引っかかり一つない! 凄まじい衝撃を受けた直後だというのに、八色のインクが完璧な流量で滲み出ているぞ!」
ギデオンが驚愕に震えるその一瞬の隙を、元暗殺者のメイドが見逃すはずがなかった。
息継ぎすら許さぬ完璧なタイミングで、クロエの追撃が放たれる。
「さらに! 今回は特別に、長年の腱鞘炎を癒す疲労回復グリップと、絶対に退色しない無限のインクをお付けして……お値段なんと、銅貨三枚! 銅貨三枚でのご提供です!」
「ひぃっ!? 筆圧ゼロで文字が輝いている! しかも、握った瞬間に長年の肩の痛みが消え去ったぞ!?」
クロエの淡々とした、しかし有無を言わせぬ怒涛の実演販売に完全に呑み込まれ、ギデオンは弾かれたように顔を上げて背後の商人たちを怒鳴りつけた。
「おいお前たち! 自分の手でこれに触ってみろ!!」
ペンを押し付けられた文官や商人たちが、次々と羊皮紙に線を引く。
その途端、彼らの顔が「驚愕」と「恐怖」で染まった。
「こ、これは……!? 本当に肩の痛みが消えていく……!」
「信じられん……このペンそのものが、遺物クラスのオーバースペックなのだ!」
クロエの完璧すぎる実演が、ただの黒い石ころとイカ墨で作った『特製文具』の異常性を120%引き出し、彼らの常識をいともたやすく粉砕していく。
「一生壊れず、インクも褪せず、疲労すら回復する究極の文房具……ッ! こんなものが銅貨三枚で出回れば、侯爵領の替えペン先もインクも二度と売れなくなる! 消耗品という我々のビジネスモデルそのものが終わるぞ……!」
大商人のプライドなど、すでに粉々だった。
ギデオンは地面に這いつくばり、甲高い裏返った声で絶叫する。
「買ったァァァ! 銅貨だけでは足りん! 商会の倉庫にある『最高級茶葉』と『香辛料』の全権利書をここに置いていく!! だから、このペンの『独占販売契約』をバルバロス商会と結んでくれェェェッ!!」
「ずるいぞバルバロス商会! 我々にも扱わせろ!!」
「黙れ小規模商会ども! メイドさんの完璧な実演に一番早く乗ったのは俺だ! この神の代物を適切に管理できるのは我が商会だけだ! 俺が全流通ルートを使って、市場を完全に制覇してやるんじゃあッ!」
他の商人たちを血走った目で威嚇し、ギデオンが権利書の束を屋台に叩きつける。
その瞬間、クロエは目にも留まらぬ暗殺者のステップで権利書を回収し、すでに用意してあった『独占販売契約書』にギデオンの手を取って無理やりサインさせていた。
あらあら。
よっぽど今まで、すぐペン先が割れてインクが漏れる粗悪品に苦しめられてきたのね。
他の商人たちが争わないよう、筆頭商人である彼が自ら責任を負って、領内の隅々までこのペンを配ってくれるというのだ。
それにしても、クロエの接客態度は本当に素晴らしいわ。実演から契約の締結まで、流れるようにスムーズだもの。
「ええ、構いませんわ」
私は満足げに目を細めた。
「あなた方の苦しみを救うためですもの。販売のすべてを、バルバロス商会にお任せいたしますわ」
「お、お姉様……敵の筆頭商人を手先に引き入れて内側から市場を荒らすなんて……えぐい……ッ! しゅき……っ!」
「……ええ。彼らに自国の首を絞めさせる、完璧な『侵略』ですわ、お嬢様。……権利書の回収、および契約手続き、すべて完了いたしました」
クロエが深々と一礼する中、ギデオンは「おおお……っ!」と涙を流して木箱にすがりついている。
優秀なメイドの働きにより、私たちの特設屋台の喧騒は、さらに熱を帯びていった。
その日から、わずか数日後。
クロエが契約を結ばせたバルバロス商会が、侯爵領内で凄まじい勢いでペンを流通させた結果。
侯爵領内が誇っていた魔道具ギルド、氷室業者、高級インク工房の扉に、次々と分厚い板が打ち付けられ、休業してしまった。
私たちが安くて丈夫な品を提供し、それをバルバロス商会が配ってくれたおかげで、侯爵様も安心して職人たちに休暇をお与えになったのだろう。
本当に素晴らしいお方だ。
クロエが鮮やかな手際で回収してくれた最高級の紅茶。
その芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は侯爵領の平和な未来を祝して、優雅にティーカップを傾けた。




