第22話 ボレアス経済封鎖網。久しぶりに私の『本気』を出しました。
物流封鎖から数日が経過したボレアス領。
領主邸の執室で、私は山積みになった報告書に目を通していた。
小さくため息をつく。
「……なるほど。街の市場では、岩塩や小麦などの生活必需品を中心に、すでに物価が高騰し始めているのね」
私の前に立つクロエが、眼鏡を中指でスッと押し上げた。
淡々と報告を続ける。
「はい。ヴァンキッシュ侯爵による街道封鎖の影響は甚大です。領内の商人たちも在庫の確保に走り、数日後には市民の生活に深刻な打撃が出始めます」
クロエはそこで一度言葉を区切り、深く一礼した。
「……お嬢様、やはりここは私が」
「ダメよ、クロエ。暴力は禁止と言ったでしょう?」
私がぴしゃりと言うと、クロエはきつく唇を噛んだ。
「……申し訳ありません」
悔しそうに一歩引き下がる。
その隣では、アリスが心配そうに私を見つめていた。
「お姉様……。あの侯爵、本当に意地悪ですね。お姉様の領地をこんなにいじめるなんて」
二人の沈んだ様子を見て、私はふふっと微笑んだ。
「二人とも、勘違いしているわ。ヴァンキッシュ侯爵様は、決して意地悪でこんなことをしているわけではないのよ」
「えっ?」
「……と、おっしゃいますと?」
私は立ち上がり、壁に掛けられた周辺諸国の地図を指し示した。
我が領と侯爵領の境界線に、そっと指先を滑らせる。
「考えてもみてちょうだい。王国が滅亡し、周辺の情勢が不安定な今、ヴァンキッシュ侯爵様だって不安でいっぱいのはずよ」
私は振り返り、二人にウインクをしてみせた。
「そこに急成長している我がボレアス領がある。彼はね、私たちが『対等な同盟国』になり得るか、この封鎖で試しているのよ」
「「……試している?」」
私は自信満々に頷いた。
「ええ! ボレアス領が物流を断たれても自立できるほどの経済的な耐久力を持っているか、同盟を結ぶに足る相手かどうかをね! なんて厳格で、領民思いの素晴らしい貴族かしら!」
ならば、その期待に全力で応えなければ失礼というもの。
「圧倒的な経済力を見せつけて、彼に『ボレアスは同盟国として相応しい』という安心を与えてあげなくては!」
私がぎゅっと両拳を握りしめ、やる気に満ちた声を上げる。
その瞬間。
執務室の空気が、ピンッと張り詰めた。
アリスとクロエの瞳に、ギラギラとした熱狂の光が宿る。
クロエは感極まったように片手で口元を覆ってワナワナと肩を震わせ、アリスは恍惚とした表情で自分の両腕をきつく抱きしめていた。
二人とも、私の前向きな姿勢と深い慈悲の心にすっかり圧倒されて、言葉を失ってしまったみたい。
「さあ、そうと決まれば忙しくなるわよ! 久しぶりに私の『本気』を出さなくちゃ!」
私はデスクに向かい、お気に入りの羽ペンを手に取った。
王都にいた頃、バカ王子に代わって睡眠時間2時間で国を回していた、あの『限界突破の国政代行』としてのスイッチが、私の中でカチリと音を立てて入る。
「まずは、侯爵様と対等に交渉するための『材料』が必要ね」
「材料、ですか? 新たな特産品でも開発なさるおつもりで?」
クロエの問いに、私は引き出しから一冊の古いノートを取り出した。
「ふふっ。実はね、私、王宮で仕事をしていた時に『王家の暗部』をすべて暗記しているの」
クロエの肩が、ピクッと跳ね上がった。
「ヴァンキッシュ侯爵様が過去に他国と行っていた不正取引のデータ、税の誤魔化し、裏社会との癒着ルート……。これを全部、私が綺麗に整理してあげるのよ。交渉のテーブルにつくための、良い手土産になるでしょう?」
「……ッ!!」
クロエは戦慄したように息を呑み、その場に凍りついた。
アリスはハァ、と熱い吐息を漏らし、頬を真っ赤に染めている。
私が提示した素晴らしい「手土産」の価値を、二人とも正確に理解して、あまりの頼もしさに震えているようだわ。
私は白紙の羊皮紙を引き寄せると、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
カリカリカリカリカリカリカリッ……!!
シャシャシャシャシャシャッ!!
何年何月何日、誰と、いくらで、どんな取引をしたか。
私の脳内に完璧に保存されているデータが、一切の淀みなく紙の上に書き出されていく。
凄まじい速度でインク壺の黒い液体が消費され、私の左手側には瞬く間に羊皮紙のタワーが積み上がっていく。
「さあ、どんどん書くわよ! これを明日の朝までに整理して……あっ、それと領内の備蓄状況の再計算も同時に行うわ」
私は目線を書類から一切上げず、極限の集中力を維持したまま指示を飛ばす。
「二人とも、少し部屋の温度を下げてもらえるかしら? 頭を冷やしたいの」
「お、お嬢様……。私に、何かお手伝いできることは……」
クロエのかすれた声が、微かに震えていた。
「お姉様! 私が魔法で、その書類の束を一瞬で複製いたしましょうか!?」
「ありがとう、でも大丈夫よ。これは私にしか書けないものだから。二人はゆっくり休んでいてちょうだい」
ニコッと笑いかけ、私は再び書類の山へと視線を戻した。
残された二人は、部屋の隅でじっと立ち尽くしていた。
世界最強の武力と、神話級の魔法。
だが、この『紙片の殲滅戦』において、彼女たちの力は何の意味も持たない。
クロエは自身の細剣が仕込まれた袖口を、やるせなさそうに見つめる。
「……くっ。私の技術など、お嬢様のこのお姿の前では、児戯に等しいというのか……!」
アリスは胸の前で両手をきつく組み、潤んだ瞳で私を見つめていた。
「尊いです、お姉様……っ。あんなに慈悲深い笑みを浮かべながら、徹底的な破滅を書き連ねて……。でも、私たちが無力で悔しいです……っ」
二人は息を潜め、新しく淹れた紅茶を静かにデスクの端へと滑らせた。
「ああ……お姉様にこんな無理をさせるあの侯爵、やっぱり今すぐ消し炭にしたいですぅ……」
「同感ですね。……ですが、お嬢様は『血を流すな』と仰った。ならば私たちは、裏方に徹するまでです」
カリカリカリカリ……。
静まり返った室内に、ただ冷徹に、正確に動き続けるペンの音だけが響き渡る。
私は明日の平和な交渉を確信しながら、一晩中ペンを走らせ続けた。




