第18話 仔犬をお風呂に入れてあげました。
ボレアス領の屋敷の裏庭で、私は腕まくりをして、大きなタライにお湯を張っていた。
「さあ、おいで。今日はとってもいいお天気だから、綺麗に洗ってあげるわね」
「きゅぅん……(※意訳:お嬢様、お手柔らかにお願いします)」
私の足元で尻尾を振っているのは、以前森で拾った真っ白な仔犬だ。
(※正体は超高位魔獣『神狼フェンリル』だが、私にはただの可愛いもふもふにしか見えていない)
「お姉様! そのような畜生……いえ、ワンちゃんのシャンプーなど、私の『熾天使の浄炎』で一瞬でダニごと消し炭に——綺麗にしてさしあげますわ!」
「抜け駆けはずるいですわ聖女様。私がこの『虚空断ちの銀糸』で、毛を一本一本根元から削ぎ落として——ブラッシングいたします」
背後からアリスとクロエが、満面の笑みで近づいてくる。
その手には、数千度に燃え盛る光の炎と、空間を切り裂く暗器が握られていた。
『(ヒィィィィッ!? このバケモノども、絶対に俺を洗いながら殺す気だ!?)』
神狼フェンリル(仔犬)が震え上がる中。
私は二人を軽く窘め、タライのお湯に仔犬を入れる。
きめ細かい泡で、優しくゴシゴシと洗い始めた。
「よしよし、いい子ね〜。……あら?」
仔犬のお腹のあたりを洗いながら、ふと気づいた。
「この子、元気な男の子だったのね。そういえば、まだお名前を決めていなかったわ」
白くて男の子だから。
「『シロ』なんてどうかしら?」
私が無邪気に告げた、その瞬間。
ピキィィィィィッ!!!
背後の空気が、絶対零度に凍りついた。
『(お、オス……ッ!? 今お姉様、オスと言いましたか!? その薄汚いオス犬が、お姉様の神聖な御手に撫で回されている……だと!?)』
『(万死……ッ! お嬢様の肌に触れるオスなど、万死に値する! 直ちに細胞レベルで解体せねば!!)』
ただのペットへの嫉妬が、『お姉様に触れるオスへの純度100%の殺意』へと変貌する。
背中を刺すような悪寒に、手の中の仔犬がビクッと跳ねた。
『(……は? 神狼たる俺様に向かって、シロだと!?)』
仔犬が誇り高きプライドから吠えようとした、その時。
『(……今すぐそのオスのシンボルごと切り飛ばして、宇宙の塵にしてやろうか)』
背後の二人から、『死の声』が叩き込まれた。
「わ、わふっ! わおぉんっ!(※意訳:シロ! 最高のお名前です! オスとしての尊厳も捨てます!!)」
仔犬はタライの中でコロンと仰向けになり、急いで腹を見せた。
そのまま私を見上げて、ちぎれんばかりに尻尾を振っている。
「ふふっ、気に入ってくれたみたいね! よしよし、シロ!」
「わふっ!(※意訳:ざまぁみろバケモノども! 俺はオスでも『名前付き』の家族だ!)」
シロが仰向けのままチラリと背後を見て、ドヤ顔を決めた。
ブチィッ!
何かの血管が千切れるような音が、背後から聞こえた気がした。
『(あのオス犬……お姉様から名前をもらい、あんなに優しく撫でられて……ッ!)』
『(許せない……! あんなオスより、メスである私たちの方がお嬢様のペットに相応しいはず……ッ!)』
「きゃっ!」
シロが仰向けのままバシャバシャと手足をバタつかせ、水しぶきが私の服に派手にかかった。
薄手のブラウスが濡れ、肌に冷たく張り付く。
「もう、シロったら元気なんだから。二人とも、お水、かからなかった?」
私は濡れた前髪をかき上げる。
晴天の陽光を背に浴びながら、振り返って微笑んだ。
「「…………ッッッ!!!!!!」」
ガシャァン!
シュンッ……!
突然、二人が持っていた炎と暗器が消え去り、地面に落ちた。
そして、二人の瞳孔が限界まで開き——。
「わ、わんっ! わんわんっ! お姉様、私も! 私も『シロ』ですぅっ! あんなオス犬より、私を洗ってくださいぃっ!」
「はっ、はっ、はっ……! お嬢様! 私も今日から犬です! 忠実なメス犬の頭をゴシゴシしてくださいませぇぇっ!!」
二人は突然、私の足元に四つん這いになった。
舌を出し、荒い呼吸をしながら、猛烈な勢いで私にすり寄ってくる。
『(……は?)』
タライの中のシロが、ピタリと動きを止めた。
四つん這いで「くぅ〜ん」と甘え声を出すバケモノ二人を見て、真顔になっている。
そのまま仰向けの体勢からコソコソと起き上がり、タライの一番端っこへと後退していった。
「あらあら!」
私は、足元ですりすりと頭を擦り付けてくる二人を見て、ポンッと手を打った。
「二人とも、シロが気持ちよさそうにお風呂に入っているのを見て、水遊びがしたくなっちゃったのね!」
童心に帰ってワンちゃんのモノマネだなんて。
無邪気でとっても可愛いわ。
私は、二人の頭にシャンプーの泡をたっぷりと乗せる。
そのまま優しく、わしゃわしゃと洗い始めた。
「ア……アハァッ♡ お姉様の、指が、頭皮に……ッ! わんっ! わんっ!」
「あぁぁ……お嬢様の、泡……っ。私は、私は世界で一番幸せな犬ですわ……ッ」
よだれを垂らし、恍惚の表情を浮かべるアリスとクロエ。
そんな彼女たちを横目に。
本物のシロはタライの端っこで息を潜め、悟ったような目で遠くを見つめていた。




