第36話:凍りつく広間
「――許してやろう、エレオノーラ。深く反省し、俺に心からの謝罪を捧げるのであれば……セレスティアの侍女としてなら、再び我がアルトハイム侯爵邸に戻してやってもいいぞ」
その言葉が、白樺宮殿の「鏡の大舞踏の間」に投げ落とされた瞬間。
――ピキリ。
あたかも、世界そのものが絶対零度の氷壁の中に閉じ込められたかのような錯覚が、広間を満たす数百人の貴族たちを襲った。
遠くで微かに鳴っていたオーケストラの残響すら完全に霧散し、魔導シャンデリアの水晶が擦れ合う微かなカチリという音すら、鼓膜を痛烈に打つほどの静寂。
呼吸の音すらない。
衣服の擦れる音すらない。
帝国の屋台骨を支える歴戦の将軍たちも、老獪な財務官僚たちも、諸外国の特命大使たちも――誰もが、瞬きすることすら忘れたように、口を半開きにして立ち尽くしていた。
誰もが、目の前の男――純白の軍礼服に赤ワインの染みを作り、金髪を振り乱して胸を張っているユリウス・フォン・アルトハイムの「正気」を疑っていた。
(……な、何を言っているんだ、あの男は……?)
(侍女……? 愛妾の、侍女だと……!?)
(今や北方の全軍を束ね、皇帝陛下の勅許を得て皇弟大公の正妻として君臨しておられる大公妃殿下に対し……公衆の面前で、愛人の下女になれと言い放ったのか……!?)
それは、もはや無礼や不作法という言葉で片付けられる領域を遥かに踏み越えていた。
狂気。自殺行為。あるいは、帝国最高権力に対する宣戦布告。
広間の隅に控えていた宮殿親衛隊の近衛兵たちが、音もなく長槍の柄を握り直し、その切っ先をわずかにユリウスの首筋へと向けた。皇帝の親族である大公夫妻に対するこれ以上の侮辱は、帝国軍刑法において、その場での即時処刑が合法的に成立する重罪だったからだ。
だが――当のユリウスだけは、その張り詰めた殺気配の正体を、まったく理解していなかった。
彼は差し伸べた右手をそのままに、満足げに鼻孔を膨らませ、これ以上なく寛大で慈悲深い当主の笑みを浮かべていた。
彼の破綻した脳内では、周囲の静寂は「侯爵の圧倒的な度量に対する感嘆」であり、エレオノーラが言葉を失っているのは「救いの手を差し伸べられたことへの嬉し涙を堪えている姿」だと、本気で思い込んでいたのだ。
(どうだ、エレオノーラ。驚いたか? 俺を裏切って家を出て行った大罪人のお前を、この俺が許してやると言っているのだ。セレスティアの下で召使いとして働く屈辱など、俺の庇護下に戻れる喜びに比べれば些細なことだろう。さあ、泣いてこの手に縋り付け。大公の手を振りほどき、俺の足元に跪いて感謝の祈りを捧げるがいい!)
ユリウスの爛々と光る瞳が、エレオノーラの華奢な身体を舐め回すように見つめる。
その背後では、床にへたり込んだままのセレスティアが、青ざめた顔で唇を噛み、小刻みに震えていた。
彼女は馬鹿ではあったが、女特有の直感で、自分たちが今、後戻りのできない底知れぬ地獄の縁に立たされていることだけは、肌で感じ取っていたのだ。
だが。
その全貴族の視線と、ユリウスの濁った欲望の眼差しを一身に浴びながら――。
エレオノーラ・フォン・ヴァルハイトは、一歩も引かなかった。
恐怖による硬直ではない。動揺による沈黙でもない。
彼女は、右手に持っていたクリスタルグラスを、背後に控えていた侍女ジゼルの差し出す銀盆の上へと、カチャリと心地よい金属音を立てて静かに置いた。
その所作には、水滴一つこぼれぬ完璧なまでの気品が宿っていた。
そして。
エレオノーラは左手に持っていた、純白のレースと白銀の骨で組まれた扇子を――。
――パチンッ。
静寂を切り裂く、小気味よい硬質な音を立てて、胸の前で静かに畳んだ。
その澄んだ音は、まるで狂乱の道化が繰り広げる茶番劇に、冷酷な終止符を打つ引き金のようだった。
エレオノーラは、伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げた。
眼鏡を外し、完璧に整えられた涼やかな眉の下で光る、深く澄み渡った藍色の双眸。
その瞳の奥には――怒りすら存在しなかった。
憎悪も、悲哀も、過去の五年間の未練のかけら一つすら、そこにはなかった。
あるのはただ、澄み切った秋の夜空のような絶対の静けさと――歩道の脇に転がる泥水や、衣服の裾に止まった羽虫を値踏みするかのような、【完全なる絶対零度の冷淡】。
エレオノーラは、差し伸べられたユリウスの右手を、次いで彼のワインで汚れた礼服の裾を、そして額に汗を浮かべて笑うその顔面を、頭の先から爪先に至るまで、極めて事務的に、検分するように見下ろした。
そして。
彼女の薄い桜色の唇が、ふわりと、完璧な宮廷社交用の微笑みの形を描いた。
感情の一切籠もらない、氷の彫刻が浮かべるような、至高の笑み。
鈴を転がすような、涼やかで美しいソプラノが、静まり返る大舞踏の間の隅々にまで、染み渡るように響き渡った。
「…………失礼ですが」
エレオノーラは小首をわずかに傾げ、透き通るような眼差しでユリウスを見据えた。
「――どこの平民の方でしょうか? 私を愛称で呼ぶような無礼な殿方を、存じ上げませんの」
平民。
無礼な殿方。
存じ上げませんの。
その三つの言葉が紡ぎ出された瞬間。
広間を取り囲んでいた貴族たちの何十人もの喉から、「ぶふっ……!」という、耐えきれずに吹き出したような息が漏れ聞こえた。
ホルツハイム伯爵夫人が扇子で口元を覆い、肩を激しく震わせている。
帝国財務尚書のベルクマン伯爵も、ルシタニア王国の大使も、目元に愉快そうな皺を刻んで唇を噛み締めていた。
完璧な、処刑の一撃だった。
怒鳴り散らすでもなく、取り乱すでもなく。
相手を「敵」としてすら認識せず、ただの「名も知らぬ無礼な平民」として、絶対の格差の上から切り捨てたのだ。
「な…………」
ユリウスの差し伸べられていた手が、宙でピキリと凍りついた。
ナルシスティックな笑みが、糊で固められた仮面のように引きつり、崩壊していく。
耳の奥で、ゴオオォォッ……と激しい血流の音が鳴り響いた。
「な……何を、ふざけたことを……ッ!?」
ユリウスの顔面が、蒼白から一転して、屈辱と怒りで茹で蛸のように真っ赤に沸騰した。
額の血管がドクドクと脈打ち、飛び出さんばかりに見開かれた両目が血走る。
「平民だと!? 無礼な殿方だと!? ふざけるな、エレオノーラ! 夫の顔を忘れたとでも言う気かッ!!」
唾を撒き散らしながら怒鳴るユリウス。
その見苦しい咆哮を前にしても、エレオノーラの眉一つ動かなかった。
彼女は畳んだ扇子の先端を、顎のラインへと優雅に添え、憐れみすら含まない事務的な声音で、冷然と言い放った。
「夫……? まあ、奇妙な妄言を仰る方ですこと」
エレオノーラは、自らの隣に聳え立つ、漆黒の偉丈夫――クラウス大公の逞しい腕へと、そっと自らの白手袋の手を添えた。
そして、男の放つ熱い体温に身を預けるようにしながら、冷徹に告げた。
「――私の夫は、帝国皇帝陛下の名代としてこの場に立たれ、全軍を統べる我が愛しき主、【ヴァルハイト大公クラウス殿下ただお一人】ですわ」
ビシィッ、と。
目に見えない刃が、ユリウスの胸元を深々と切り裂いた。
「帝国法、ならびに皇帝陛下の勅許を解さぬ無学な方に教えて差し上げますけれど……貴方のような礼儀も弁えぬ不審者に、夫を名乗られる覚えなど、天地が逆転してもございませんの」
「ぐ……っ、お、俺は……俺は貴様の夫だった男だぞ! 五年間、我がアルトハイム侯爵邸でお前を養ってやった、正真正銘の夫だ!!」
ユリウスは恥を上塗りするように喚き散らした。
だが、その叫びこそが、彼自身の破滅を決定づける墓穴だった。
エレオノーラの内面には、怒りすら湧いていなかった。
前世で毒杯を飲まされた時の激痛。
冷え切った執務室で、愛人の同居を突きつけられた時の絶望。
かつては心を焼き焦がしたはずのそれらの感情は、今や完全に冷却され、消し炭すら残っていなかった。
目の前にいるのは、愛憎の対象ですらない。
ただの、数字の合わない破綻した帳簿。
法に従って淡々と差し押さえ、処分するべき、不良債権の残骸にすぎない。
――あんな男に、一瞬でも情を抱いていた前世の自分が、心底から哀れに思えるほどに。
「過去の話をなさるのでしたら、なおのこと見当違いですわね」
エレオノーラは冷ややかな嘲笑を、その薄い唇に宿らせた。
「帝国暦342年4月15日付、帝国法務尚書ヴォルフラム・ライヒ卿の認証公印のもとに作成された『婚姻生活維持および財産分離に関する事前合意公正証書』。ならびに、同月18日付で発布された、皇帝ヴィルヘルム四世陛下による『勅許・婚姻無効宣誓』……」
エレオノーラは、一切の淀みなく、法務省の公文書番号と条文の文言を暗唱してみせた。
「帝国法第42条、ならびに当該公正証書の執行により、私とアルトハイム侯爵家との間に結ばれていた婚姻関係は、法的に【完全消滅】しております。私と貴方の間には、過去の婚姻の残滓すら存在せず、血縁も、姻戚関係も、1ルクスたりとも残されてはおりません」
淡々と、氷の数式を解き明かすように告げられる法的な真実。
「法律上、私と貴方は――【完全に赤の他人】ですわ」
エレオノーラは扇子の先をスッと下ろし、ユリウスの足元のワインの染みを冷たく見据えた。
「赤の他人の貴婦人に対し、公衆の面前で愛称を呼び捨てにし、あまつさえ『侍女になれ』などと侮辱を重ねる……。貴族としての品性を疑う以前に、帝国臣民としての正気すら疑わざるを得ませんわね。――ご自身のお立場を弁えられないのでしたら、今すぐその薄汚れた足を宮殿の外へと向けられてはいかがかしら?」
「…………っっっっ!!!!」
息が詰まる。
声が出ない。
ユリウスの脳髄の中で、彼が必死に築き上げてきた都合の良い虚構が、木端微塵に粉砕された。
法的に、完全な赤の他人。
婚姻無効の勅許。
公正証書の鉄壁の縛り。
すべては、第3話と第4話において、自分自身がろくに中身を読まず、早く愛人と贅沢がしたい一心でサインした、あの書類によって定められた現実だったのだ。
エレオノーラは法を1ミリも踏み外していない。
彼女の言動は、帝国法において100パーセント、完全に正しい正論だった。
そして――何よりもユリウスを狂わせたのは、周囲の貴族たちの反応だった。
「……まったくだ。どこの平民かと思えば、アルトハイム侯爵か」
「勅許で離縁された元妻に、夜会の席で侍女になれなどと……恥の上塗りにも程がある」
「大公妃殿下に無礼を働く不審者として、衛兵に突き出すべきではないか?」
「哀れな男だ。自ら至宝を追い出しておきながら、今さら未練がましく縋り付くとはな」
ヒソヒソと交わされる、冷酷な嘲笑の嵐。
かつて自分が「社交界の中心」として君臨していたはずの場所で、自分自身が「狂った不審者」として指を差されている。
味方など一人もいない。
同情の視線すら、どこにもない。
その現実が、ユリウスの脆弱なプライドを、完全に決壊させた。
「へ……平民だと……!? 赤の他人だと……!? ふざけるな……ふざけるなぁぁぁッ!!」
ユリウスは獣のような咆哮を上げ、両目を真っ赤に血走らせた。
理性は完全に焼き切れ、羞恥心も、恐怖心すらも、ドス黒い逆上の中に消し飛んでいた。
「俺は名門アルトハイム侯爵だぞ!! 貴様を拾ってやり、名前を与えてやったこの俺を、誰に向かって平民などと抜かすかッ!!」
ユリウスは自制を失い、鬼のような形相で一歩前へと踏み出した。
そして――ワインで赤く染まった自らの右手を、エレオノーラの華奢な二の腕を力任せに掴み取ろうと、猛禽の鉤爪のように伸ばしたのだ。
「調子に乗るなよ、エレオノーラァッ! 俺の言う通りに屋敷へ戻れ! 俺に傅け! お前は俺の所有物なんだァッッ!!!!」
公衆の面前での、皇弟大公妃に対する直接の身体接触――暴力の行使。
その瞬間。
白樺宮殿の「鏡の大舞踏の間」の全空間が――。
一瞬にして、【絶対零度の死の氷点】へと凍結した。




