第35話:ユリウスの勘違い
白樺宮殿の「鏡の大舞踏の間」を彩る、眩い水晶シャンデリアの光の下。
帝国財務尚書代理ベルクマン伯爵との通貨・関税論議、そして海洋国家ルシタニア王国全権大使との古ルシタニア語による通商打診を鮮やかにまとめ上げたエレオノーラの周囲には、なおも幾重もの賛嘆と畏敬の輪が取り巻いていた。
大公妃の前に進み出ようと列をなしていた諸侯たちが、一段落した気配を察して恭しく一歩下がり、歓談の合間のわずかな静寂が訪れる。
給仕が捧げ持つ銀盆から、クラウスが手ずから取ったシャンパングラスを、エレオノーラの手元へとそっと手渡した。
「少し休め、エレオノーラ。……一度にこれだけの狐どもを相手にすれば、息も切れよう」
低く滑らかなバリトン。氷の彫刻と称されるクラウスの美貌には、他者に見せることのない、妻への深い労わりと蕩けるような慈しみが滲み出ていた。
「ありがとうございます、閣下。ですが、皆様とても熱心にお話を聞いてくださいましたわ。北方の小麦の素晴らしさを、帝都の皆様にも正しくご理解いただけて何よりです」
エレオノーラはグラスを傾け、唇をわずかに湿らせると、花が綻ぶような柔らかな微笑みを返した。
ペールブルーの月光絹が放つ淡い燐光と、首元の『星核の雫』が瞬く青白い光彩。二人が並び立つ姿は、神話に語られる軍神と豊穣の女神の降臨そのものであり、遠巻きに見守る貴婦人たちからも、ため息のような感嘆が絶え間なく漏れ聞こえていた。
――だが。
その神聖な調和を、泥靴で踏み躙るかのような無粋な靴音が、大理石の床を乱暴に叩き始めた。
ザッ、ザッ、ザッ……ッ!
「……な、なんだ?」
「誰だ、あのように無作法に歩み寄ってくる者は……」
整然と並んでいた貴族たちが、眉をひそめて左右へと割れる。
人垣を強引に押し分け、まるで自分の屋敷の廊下を歩くかのように尊大に肩を揺らして進み出てきたのは――純白の軍礼服の裾を自らこぼした赤ワインで赤黒く汚した男、ユリウス・フォン・アルトハイムだった。
ユリウスの背後では、セレスティアが破れた蛍光ピンクの裾を踏みそうになりながら、青ざめた顔で必死に追いすがっていた。
「ま、待ってくださいまし、ユリウス様! あんな女のところへ行って何を……! やめてくださいませ!」
セレスティアの悲鳴のような制止など、ユリウスの耳には一欠片も届いていなかった。
ユリウスの視界は、目の前に佇むエレオノーラただ一人によって完全に焼き尽くされていた。
額に浮き出た血管。金髪を乱し、血走った瞳孔をギラギラと輝かせたその形相は、正気を失った獣の執着そのものだった。
(そうだ……間違いない。あれは、俺の妻だ)
ユリウスの脳内では、狂気に満ちた論理の改竄が、猛烈な速度で完成しつつあった。
五年間、自らの屋敷で従順に帳簿をめくり、泥にまみれて領地を支えていた地味な女。
それが今、帝国の最高峰の舞台で、全貴族の憧憬を集め、世界で最も美しい女王として君臨している。
その事実を前にして、ユリウスの肥大化した自尊心は、「自分が至宝をドブに捨てた無能である」という現実を断固として拒絶した。代わりに導き出した答えは――哀れなほどに都合の良い、自己愛の妄想だった。
(あいつがこれほど美しく、これほど完璧な女に仕上がったのは、他でもない、名門アルトハイム侯爵である俺が手元に置き、五年かけて磨き上げてやったからだ! あいつの知性も、あいつの品格も、あいつが放つあの眩い光のすべては……俺の血統と庇護があったからこそ咲いた花なのだ!)
そうだ、とユリウスは内心で確信を深め、歪んだ口元を吊り上げた。
あいつは俺を忘れてなどいない。
俺に愛人を作られ、屋敷を追い出されたショックのあまり、ヤケになって北の田舎大公の元へ逃げ込んだだけに決まっている。
今夜、これほど見せつけるように着飾り、帝都の高官たちを手玉に取って見せたのも――すべては、元夫である俺に対する強烈な当てつけなのだ。
『私を捨てたことを後悔しなさい』と、俺の気を引くために、必死で背伸びをして虚勢を張っているのだ!
(哀れな女め……! そこまでして、この俺の関心を取り戻したかったのか! あんな血生臭い、言葉も通じぬ野蛮な武官の隣で、怯えながら笑顔を作って……健気にも俺の救いの手を待っているのだな!)
ユリウスは胸元を整え、買い集めた勲章をこれ見よがしに手で撫でた。
全貴族が見守っている。皇帝の叔母であるアンリエッタ公爵夫人も、遠くの貴賓席から見ているはずだ。
ここで、名門侯爵である自分が寛大な度量を示し、迷える前妻に手を差し伸べてやればどうなるか。
エレオノーラは感極まって泣き崩れ、大公の手を振りほどいて自分の足元へと縋り付いてくるに違いない。
そうすれば、あの大公領の莫大な富も、あの奇跡のハーブも、五千万ゴルトの借金の清算も、すべて自分の手の平の上へと転がり込んでくる。
自分こそが、この夜会の真の支配者であり、至高の救世主なのだ――!
破綻した全能感に酔いしれたユリウスは、人垣を突き破り、エレオノーラの前わずか二メートルの距離へと踏み込んだ。
そして――周囲の空気など一切顧みず、親しげで甘ったるい声を、広間中に響き渡る声量で張り上げたのだ。
「――エレオノーラ!」
ピキリ、と。
広間の空気が、音を立てて凍りついた。
談笑していた貴族たちが一斉に言葉を失い、信じがたいものを見る目で振り返る。
皇弟大公の正妻に対し、公衆の面前で、アポイントメントも儀礼の挨拶もなく、ファーストネームを呼び捨てるなど――帝国宮廷の歴史上、前代未聞の暴挙だった。
だが、ユリウスには周囲の戦慄すら「自分への注目」としか映っていなかった。
彼は右手を芝居がかった仕草で胸元に当て、整った顔立ちにこれ以上なくナルシスティックな、哀れみを含んだ微笑みを浮かべてみせた。
「まったく……随分と探させたぞ、エレオノーラ。帝都を抜け出して北の果てへ逃げ込んだと聞いた時は耳を疑ったが……まさか、このような華やかな夜会にまで紛れ込んでいるとはな」
ユリウスは上から下へと、エレオノーラの月光絹のドレスを舐め回すように見分した。
その瞳には、かつてアルトハイムの執務室で妻を見下していた時と寸分違わぬ、傲慢な優越感が満ち満ちていた。
「ふっ……随分と着飾っているようだが、無理をしているのが見え見えだぞ。お前のような地味で、数字しか能のない無骨な女が、そのような豪奢なドレスを着て……恥ずかしくはないのか?」
「…………」
エレオノーラはグラスを持ったまま、微動だにしなかった。
藍色の瞳は、まるで道端の泥水を見るかのように静まり返り、眉毛一本動かさない。
その沈黙を、ユリウスは「痛いところを突かれて言葉を失っている」と都合よく脳内変換した。
「隠さなくてもいい。お前のことなら、元夫であるこの俺が一番よく分かっている」
ユリウスはわざとらしく首を振り、深く同情するかのような溜息を吐き出してみせた。
「俺にセレスティアという真実の愛人ができたからといって、当てつけのためにあのような血生臭い北の武官の元へ走るなど……短慮にも程があるぞ。あのような戦場しか知らぬ野蛮な男の隣で、毎夜怯え、冷え切った極北の城で泣いて暮らしていたのだろう? 俺への意地を張るためだけに、よくぞここまで耐えたものだ」
ユリウスの言葉が紡がれるたび、広間の温度が急速に下がっていく。
周囲を取り囲む歴戦の軍人貴族たちが、腰の佩剣に手をかけ、目を血走らせてユリウスを睨みつけていた。
帝国全軍の頂点に立つクラウス大公を、公衆の面前で「血生臭い野蛮な武官」と侮辱したのだ。国家反逆罪にすら問われかねない狂気の暴言。
だが、ユリウスの暴走は止まらなかった。
彼は第14話において、帝室から届けられたあの重厚な通知書――『皇帝勅許・婚姻解消通知書』の末尾に記されていた、絶対不可侵の警告条項を、怒りに任せて破り捨てていたのだ。
『今後、エレオノーラ殿下に対する一切の接触、私的な呼びかけ、ならびに財産返還要求を厳禁とする。違反時は、大公領軍ならびに帝国軍刑法に基づく最高度の軍事制裁を執行する』。
法を学ばず、書類を読まぬ男は、己の犯している行為が「皇族への不敬罪」および「軍刑法違反」という、その場で斬首されても文句の言えぬ大罪であることに、頭の隅すら及んでいなかった。
「ユ、ユリウス様……! もうおやめになって……!」
後ろから駆け寄ってきたセレスティアが、破れたピンクのドレスを震わせ、ユリウスの袖を必死に引っ張った。
いくら数字の読めぬ泥棒猫であっても、広間を満たす歴戦の貴族たちの殺気と、クラウス大公が放つ絶対零度の威圧感には、本能的な死の恐怖を感じ取っていたのだ。
しかし、ユリウスは「邪魔をするな!」とセレスティアの手を力任せに払いのけた。
「きゃっ……!?」
セレスティアがつまずき、ワインで汚れた床へと無様に膝をつく。
愛人の転倒すら一瞥もせず、ユリウスはただエレオノーラだけを見つめ、陶酔しきった笑みを深めた。
「安心しろ、エレオノーラ。俺はお前を責めに来たのではない。むしろ……お前の健気な努力を認めてやりに来たのだ」
ユリウスは一歩、エレオノーラへと間合いを詰めた。
そして、これ見よがしに左手を腰に当て、右手をエレオノーラの前へと――まるで迷子の子犬に施しを与えるかのように、鷹揚に差し伸べたのだ。
「もう意地を張るのはやめろ。お前の犯した不始末――領地の結界を勝手に止め、財産を持ち逃げした罪は重いが……俺に免じて、すべて不問にしてやろう」
広間中の貴族たちが、信じがたい妄言に息を呑んだ。
ユリウスは満足げに目を細め、自らの慈悲深さに酔いしれながら、決定的な一言を吐き捨てた。
「――許してやろう、エレオノーラ。深く反省し、俺に心からの謝罪を捧げるのであれば……セレスティアの侍女としてなら、再び我がアルトハイム侯爵邸に戻してやってもいいぞ」
セレスティアの侍女としてなら、戻してやってもいい。
その言葉が、白樺宮殿の大舞踏の間に響き渡った瞬間。
広間にいた数百人の貴族たち、諸侯たち、そして宮内省の親衛隊員たち全員が――。
完全に、呼吸を失い、石像のように凍りついた。




