第34話:格の違い
大理石の床で砕け散ったクリスタルグラスの鋭い破砕音は、静まり返る白樺宮殿の「鏡の大舞踏の間」において、あまりにも耳障りで、あまりにも無作法な雑音だった。
飛び散った赤ワインが、ユリウスの純白の礼服の裾を血のように汚し、セレスティアの蛍光ピンクのドレスの足元に黒ずんだ染みを作っている。周囲の貴族たちから向けられたのは、もはや嘲笑すら通り越した、ただただ眉をひそめるだけの「冷淡な不快感」だった。帝室の離宮において酒器を取り落とし、床を汚すなど、礼法を弁えぬ田舎貴族ですら犯さぬ初歩的な不始末。
だが、その場の誰一人として、その破片を片付けようと駆け寄る従僕はいなかった。なぜなら、広間にいるすべての高位貴族たちの意識は、すでに階段の中央――光の粒子を纏って降り立つ、至高の夫妻へと完全に奪われていたからだ。
クラウスとエレオノーラは、その耳障りな破砕音に視線の一片すら向けなかった。
道端で弾けた小石の音に足を止める覇者など存在しないように、二人は完璧な歩度を保ったまま、大階段を滑らかに降りていく。
サワリ……と、月光絹の裾が優美に揺れる。
大階段の終点、真紅の絨毯が敷かれたフロアへとエレオノーラがその白銀の靴先を着地させた瞬間――広間を埋め尽くしていた帝国貴族たちの間に、激しい熱狂を孕んだ地鳴りのようなざわめきが爆発した。
「ヴァルハイト大公閣下! 大公妃殿下!」
「おお、大公妃殿下……! ようこそ帝都へお越しくださいました!」
先ほどまでユリウスとセレスティアから潮が引くように遠ざかっていた貴族たちが、今度は一転して、我先にと大階段の麓へと殺到したのだ。
押し寄せたのは、帝国の屋台骨を支える本物の重鎮たちだった。
帝国陸軍省の軍団長たち、帝国財務省の高官、関税ギルドの総長、そして帝都に常駐する近隣大国の特命全権大使たち。誰もが背筋を正し、胸の勲章を正し、先頭を歩む大公夫妻へ向けて、最敬礼とともに深々と頭を垂れていた。
貴族たちの胸にあったのは、単なる皇弟大公への追従だけではなかった。
ここ数週間の間に、帝都の政財界を駆け巡った驚愕の報せ――『万年氷土と瘴気の吹き溜まりと恐れられた北方大公領が、新大公妃の手によってわずか数日で奇跡の緑化を遂げた』という、信じがたい情報の真偽を確かめたいという、飢餓感にも似た好奇心と畏敬の念が彼らを突き動かしていたのだ。
「大公妃殿下、お初にお目にかかります。帝国財務尚書代理、ベルクマン伯爵でございます」
人垣を割って進み出たのは、白髪交じりの理知的な壮年貴族――帝国の国家財政を一手に握る財務省の実力者だった。
ベルクマン伯爵は恭しく腰を折り、エレオノーラの手甲へ儀礼の礼を捧げると、探るような鋭い眼差しを向けた。
「北境における地熱温室農場の開発、ならびに軍道を利用した新流通システムの布告……帝都の財務省にも連日、驚天動地の報告書が届いております。にわかには信じがたい奇跡の数々、真に殿下がご考案されたものなのでしょうか?」
試すような問いかけ。
並の令嬢であれば、財務省の重鎮からこのような硬質な質問を投げかけられただけで、顔色を失い、夫の背後に隠れて助けを求めたであろう。
しかし――エレオノーラは、扇子をわずかに傾け、鈴を転がすような澄み渡る声で、淀みなく微笑み返した。
「ご丁寧なご挨拶を恐れ入ります、ベルクマン伯爵。……奇跡などという曖昧な言葉で片付けるほど、北方の開墾は神秘的なものではございませんわ。大地の霊脈を塞き止めていた古代兵器の魔導汚染をヘスブルクの術式で中和し、地下の霊熱水脈のバイパスを工兵隊に掘削させただけの、極めて論理的な土木工学の帰結にすぎません」
「……土木工学、でございますか」
ベルクマン伯爵が息を呑む。
「ええ。それよりも伯爵、先週帝国官報に公示されました『西部諸州における穀物関税の暫定引き上げ措置』……あれは少々、拙速にすぎたのではありませんこと?」
「な……っ!?」
ベルクマンの表情が一変した。
エレオノーラは、まるで手元に見えない帳簿を広げているかのように、流麗な口調で数字を紡ぎ出した。
「西部の干害を口実に関税率を三・五パーセント引き上げられましたが、あれでは内陸部の輸送業者が帝都への迂回ルートを選択し、結果として帝都中央市場への小麦の流入量が二割減少、物価高騰を招いておりますわ。……我がヴァルハイト領の地熱温室で収穫された耐寒小麦は、来月より月間五千トンの規模で帝都市場へ供給可能となります。もし財務省が関税率を旧規定の二・一パーセントへ据え置いてくださるならば、帝都のパンの価格を冬前までに一斤あたり銅貨二枚分、引き下げて差し上げられますけれど?」
「な……五千トン!? あの不毛の北境から、月間五千トンの穀物余剰が出るというのですか……!?」
ベルクマン伯爵は絶句し、額にじわりと冷汗を浮かべた。
帝都の財務高官ですら数日かけて試算する市場流通の相関関係を、この若き大公妃は、社交界の雑談の合間に、頭の中の暗算だけで完璧に弾き出してみせたのだ。
それも、自領の利益だけでなく、帝国全体の物価安定を見据えた、完璧なる国家規模の経済政策として。
「……恐れ入りました」
ベルクマン伯爵は、今度は一切の探る色を捨て去り、一国の宰相に接するかのような深い敬意を込めて平伏した。
「直ちに財務省の会議を招集し、関税の見直しを進めさせていただきます。……大公妃殿下のご慧眼、真に帝国の至宝にございます」
その光景を見ていた周囲の貴族たちから、どよめきが走った。
噂は真実だったのだ。
この女性は、夫の威光にぶら下がるお飾りなどでは断じてない。
大公領の、いや、帝国全土の経済を動かす【最高の頭脳】そのものなのだと。
次に進み出てきたのは、鮮やかな深青の礼服を纏った、異国の特命全権大使だった。
海洋国家ルシタニア王国の特使、カブレラ侯爵である。
「ヴァルハイト大公妃殿下。我がルシタニア王国にとりましても、今宵殿下にお目通り叶いましたことは無上の喜びにございます」
カブレラ侯爵は流暢な帝国語で語りかけ、熱烈な視線を送った。
「北方の穀物輸出、ならびにヘスブルク秘伝の結界保存を施した極上バターや毛織物の噂、我が国の王宮にも届いております。ぜひとも、我がルシタニアの商船団とヴァルハイト領との間で、直接の海上交易協定を結ばせていただきたいのですが……」
外国使節からの直接の通商打診。
エレオノーラは、ルシタニア王国の宮廷外交語である古ルシタニア語へと滑らかに言葉を切り替え、完璧な発音と洗練されたユーモアを交えて返答した。
『――カブレラ侯爵、我が領の産物に目を留めていただき光栄ですわ。ルシタニアの優れた造船技術と香辛料の航路には、私共も大いに着目しております』
ルシタニア語での完璧な返答に、大使は驚愕のあまり目を丸くした。
『ただし、外交協定の締結に際しましては、私共の独占物流代理人であるマレーネ・クライン会頭を通じ、後日正式に書簡をお送りいたしますわ。……貴国の北方航路における海賊対策の護衛艦隊の拠出比率について、少々我が大公軍との間で詰めるべき条件がございますので』
『お……おお! 我が国の母語をこれほど完璧に操られるとは……! 協定の件、クライン会頭からのご連絡を首を長くして待ち望んでおりますぞ!』
大使は感嘆の声を漏らし、恭しく頭を下げた。
英語、ルシタニア語、帝国古語――複数の言語を自在に操り、諸外国の軍事情勢から関税率、物流のボトルネックに至るまでを寸分の狂いもなく把握し、対等以上に渡り合う大公妃。
「素晴らしい……なんて聡明な御方だ」
「大公閣下は、単に美しい妻を得られたのではない。帝国最強の軍師を娶られたのだ……」
「アルトハイム侯爵は一体何を考えていたのだ? これほどの至宝を手放し、あのような軽薄な愛妾に乗り換えたなど……狂気の沙汰としか思えん」
貴族たちの間から、口々に惜しみない賞賛と感嘆の囁きが漏れ広がる。
エレオノーラが言葉を交わす相手は、一人にとどまらなかった。
東部諸侯の鉱山主には採掘ポンプの魔力効率化の助言を与え、南方貴族には絹織物の防虫結界の特許利用を提案し、教会の大司教には領民救済の慈善事業における透明性の高い会計管理の手法を説く。
一人ひとりの名前、家系、領地の特産品、直近の財政事情――そのすべてが、エレオノーラの頭脳の中に完璧なインデックスとして整理されていた。
――なぜ、これほどのことが可能なのか。
理由は極めて単純にして、残酷な事実に基づいていた。
アルトハイム侯爵邸にいたあの五年間。
元夫ユリウスが夜会で酒を呷り、愛人を囲って放蕩に耽っていた裏で、エレオノーラは毎晩、帝国の全領地の収支報告書、関税通達、諸外国の通商条約を、睡眠時間を削って一人で読み解き、分析し続けていたのだ。
アルトハイム領を帝国屈指の富裕領に育て上げるために彼女が構築した「帝国全土の商流ネットワークの設計図」――それが今、ヴァルハイト大公領の圧倒的な軍事力と結びついたことで、何十倍もの威力となって解き放たれていたのである。
彼女の実力は、作られた虚飾ではない。
誰にも奪うことのできない、血と汗と知性の結晶――本物の実力だった。
そして。
その至高の才覚を全貴族の面前で見せつける妻の隣で――。
ギュッ、と。
黒革の手袋に包まれた逞しい腕が、エレオノーラの細い腰を、引き寄せるように抱き寄せた。
背後に密着する、鋼のように分厚い胸板の熱気。
「きゃっ……」
エレオノーラがわずかに吐息を漏らし、見上げる。
そこには、冷酷無比な「黒狼」の仮面を保ちながらも、その黄金の瞳に息が止まるほどの独占欲と、狂おしいまでの誇らしさをギラギラと滾らせたクラウスの姿があった。
クラウスは、エレオノーラを取り囲んで歓談を求めてくる男性貴族や使節たちを、獲物を狙う肉食獣のような鋭利な眼光で一瞥し、牽制した。
その視線だけで、歴戦の諸侯たちが「ひっ」と喉を鳴らして一歩後退る。
だが、クラウスの掌がエレオノーラの腰に触れる力加減は、信じられないほど繊細で、壊れ物を慈しむように甘美だった。
クラウスは周囲の貴族たちを見下ろし、傲然たる美貌の口元をわずかに吊り上げた。
「――我が妃の話は、貴殿らの退屈な領地経営にとって、少々贅沢すぎる講義だったのではないか?」
低く、深く響き渡るバリトン。
言葉の端々に滲み出ているのは、あからさまなノロケと、他者を寄せ付けぬ絶対の威圧。
『私の妻は完璧だろう?』
『世界中を探しても、これほど美しく、これほど有能な女性が他にいるか?』
言外に叩きつけられる圧倒的な自慢と溺愛の覇気に、貴族たちは苦笑しながらも、深く平伏するしかなかった。
「はは……大公閣下の仰る通りにございます。我らには勿体なきお言葉の数々でした」
「真に、羨ましい限りにございますな、閣下」
クラウスは満足げに喉を鳴らすと、抱き寄せたエレオノーラの耳元へ顔を寄せ、全貴族の見守る前であることすら気に留めず、甘く低く囁いた。
「……見事だ、エレオノーラ。帝都の狐どもが、お前の掌の上で転がされている。……誇らしくてたまらんよ」
「も、もう……殿下、皆様が見ておられますわ」
耳朶にかかる男の熱い吐息に、エレオノーラは白磁の頬をほんのりと桜色に染め、扇子で口元を隠して小声で窘めた。
しかし、その瞳には、かつてアルトハイムで味わっていた孤独や怯えの色は一片たりともなかった。信じ、背中を預け合える本物の伴侶を得た女性の、満ち足りた光。
光の海の中心で、誰もが傅き、賞賛と羨望を一身に浴びる大公夫妻。
その眩いばかりの栄華の輪から――。
数十メートル離れた、薄暗い柱の影。
割れたガラスの破片と、絨毯に染み付いた赤ワインの染みの傍らに、二人の男女が立ち尽くしていた。
「あ……あ……」
セレスティアは、ガタガタと歯の根を合わずに震えていた。
爪が手のひらに食い込み、血が滴り落ちる。
自分が手に入れようとして、手に入らなかったもの。
八百万ゴルトのドレスを着て、エメラルドの首飾りをつけても、誰一人として自分を認めず、「下品な踊り子」「泥棒猫」と嘲笑われた。
それなのに――目の前のエレオノーラは、宝石などたった一つしかつけていないのに、ドレスにフリルなど一つもないのに、帝国の最高権力者たちが我先にと跪き、神仏のように崇めている。
外国の大使と対等に渡り合う流暢な外国語。
財務省の高官を唸らせる完璧な経済理論。
そして、あの冷徹無比と恐れられる黒狼大公が、片時も離さず、壊れ物のように慈しみ、腰を抱いて世界中に見せびらかしている「本物の溺愛」。
(なんで……!? なんであいつなのよォォッ!?)
セレスティアの胸の中で、黒い嫉妬の炎が内臓を焼き焦がしていた。
自分は数字が読めない。外国語など一言も喋れない。領地の経営など何も分からない。
努力を嫌い、他人の成果を横取りすることしか知らなかった寄生虫の前に、圧倒的な「本物の教養と実績」という巨大な山脈が立ちはだかっていた。
埋めようのない、絶対的な差。
己のみすぼらしさと浅薄さが白日の下に晒され、セレスティアは屈辱のあまり、その場に崩れ落ちそうになっていた。
そして――。
セレスティアの隣で、彫像のように固まっていたユリウスの瞳には、さらに異様で、狂気じみた光が宿っていた。
「…………っ」
ユリウスの荒い呼吸が、喉の奥でヒューヒューと鳴っていた。
額から滴り落ちる冷汗が、目に入って沁みる。だが、瞬きすら惜しむように、彼の目は光の中心に立つエレオノーラを凝視し続けていた。
見惚れていた。
いや、それだけではない。
ユリウスの濁りきった脳髄を、激しい熱病のような、歪みきった感情が焼き尽くしていたのだ。
(あいつが……あんな風に笑う女だったのか……?)
かつて、自分の屋敷にいたエレオノーラ。
眉間に皺を寄せ、地味な仕事着を着て、埃っぽい執務室で夜遅くまで書類をめくっていた女。
自分はそれを「味気ない仕事女」「色気のない冷たい石像」と見下し、罵り、捨て去った。
だが――今、目の前にいる彼女はどうだ。
月光絹を纏い、星屑の光を散らし、帝国の最高峰の貴族たちを手玉に取り、大公の腕の中で妖艶に頬を染めている。
世界中の誰もが喉から手が出るほど欲しがる、最高の美貌と、国家を富ませる至高の頭脳。
(……あれは、俺のものだったはずだ)
ドクン、とユリウスの心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
傲慢なナルシシズムが、現実を都合よくねじ曲げ、狂気の論理を組み上げていく。
(そうだ……! あいつは、元々俺の妻だったんだ! 五年間、俺の屋敷で俺のために働いていた女だ! あの類稀なる頭脳も、あの息を呑むような美貌も、あいつの才覚のすべては――アルトハイム侯爵であるこの俺が、五年かけて育て上げてやったものじゃないか!)
手放したのではない。
一時的に、北の田舎武官に貸し出してやっただけだ。
あいつが輝いているのは、俺の元を離れて寂しさに耐えかね、俺に「惜しい女を逃した」と思わせるために必死で見栄を張っているからに違いない。
(大公などに渡してなるものか……! あいつの価値を一番よく知っているのは、この俺だ! あいつの笑顔も、あいつの頭脳も、あいつが生み出す莫大な富も――すべて、俺の足元に跪いて捧げられるべきものなんだ!!)
歪んだ独占欲。
病的な自己正当化。
かつて自分がドブに投げ捨てた至宝の真の価値に気づいた瞬間、男の浅ましい所有欲が、制御不能な炎となって脳髄を焼き焦がしていた。
「……セレスティア」
ユリウスは掠れた声で呟き、腕にしがみついていた愛人の手を、乱暴に振り払った。
「え……? ユ、ユリウス様……?」
セレスティアが驚愕して見上げる。
だが、ユリウスの視線は、すでに愛人など一ミリも映していなかった。
彼の血走った瞳は、光の海のただ中に立つ、元妻エレオノーラの華奢な背中だけを捉えていた。
――連れ戻す。
――あいつは俺の妻だ。俺が優しく声をかけてやれば、泣いて足元に縋り付いてくるに決まっている。
ユリウスはワインで汚れた純白の礼服の胸元を正すと、周囲の冷たい視線など完全に無視し、大股でエレオノーラへ向けて歩み出した。
破滅への断頭台へと、自ら首を差し出すために。




