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第33話:大公夫妻の降臨

白樺宮殿の「鏡の大舞踏の間」を支配していたのは、もはや単なる静寂ではなかった。

数百人もの帝国高位貴族たちが、肺腑の空気を吸い込むことすら忘れ、胸元に手を当てたまま身じろぎ一つできずにいた。


宮殿親衛隊長の威厳に満ちた奏上――その声の余韻が大理石の壁面に反響し、消え入った瞬間。

オーケストラ・ピットの宮廷楽団員たちは指揮棒の合図とともに一斉に楽器を下ろし、広間の空気を震わせていた弦楽四重奏の調べが、完全に途絶えた。

十二基の巨大水晶シャンデリアが放つ無数の光条だけが、静謐な真紅の絨毯を厳かに照らし出している。


――ギィィィィン……ッ。


広間正面の最奥、皇帝とその近親者のみに開かれる「白銀の巨扉」が、重厚な蝶番の鳴動とともに、左右へと静かに、厳粛に押し開かれた。


扉の向こう側は、宮殿奥の私室へと続く薄暗い回廊。

その闇を切り裂くようにして、まず一歩を踏み出したのは、漆黒の夜会服を纏った圧倒的な偉丈夫だった。


クラウス・フォン・ヴァルハイト。

皇帝ヴィルヘルム四世の異母弟にして、帝国全軍を統括する常勝の総司令官――社交界において『黒狼大公』と恐れられる男。


身に纏うのは、光を吸い込むような最高級の黒羅紗(くろらしゃ)で仕立てられた、完璧なプロポーションを際立たせる軍礼服仕立ての夜会服。

肩には銀の飾緒が端正に垂れ下がり、その広い胸元には、北境の防衛戦において数万の魔獣と敵国軍を殲滅した功績を示す、白金とダイヤモンドの『皇帝一等武功勲章』をはじめとする数々の勲章が、鈍く重厚な光を放っていた。

ユリウスが金で買い集めた安っぽいメダルとは、文字通り桁の違う、本物の血と鋼の歴史を刻んだ勲章の輝き。

短く刈り込まれた夜色の黒髪、彫刻のように無駄のない精悍な美貌。

そして何より、その双眸――冷酷無比な切れ長の瞳に宿る黄金の光彩は、広間にいる歴戦の貴族将官たちですら、直視した瞬間に背筋を凍りつかせるほどの絶対的な捕食者の覇気を放っていた。


だが。

その「黒狼」の放つ圧倒的な威圧感は、彼一人によるものではなかった。

広間の貴族たちの視線を真に奪い、その魂ごと凍りつかせたのは――。


クラウスが恭しく差し出した右腕に、その細く白い指先をそっと重ねて並び立った、一人の女性の姿だった。


「…………っ!!」


広間のあちこちから、息を呑む微かな喉の鳴る音が、さざ波のように重なり合った。

言葉を失う、とはまさにこの瞬間のためにある表現だった。

誰も声を発することができない。呼吸の仕方を忘れたかのように、何百もの視線が、その女性の全身へと吸い寄せられていた。


エレオノーラ・フォン・ヴァルハイト。

かつてアルトハイム侯爵邸で「味気ない仕事女」「帳簿しか愛せない陰気な妻」と罵られ、日陰に閉じ込められていた元サレ妻。

その本来の、息を呑むような美貌と気品が――いま、帝国の最高峰の舞台において、完全に開花していた。


彼女が身に纏っていたのは、第30話で北方諸侯の夫人たちが魂を込めて織り上げた、あの至宝――『月光絹(げっこうけん)』のドレスだった。


極北の霊峰に生息する氷蚕の糸から紡ぎ出されたその布地は、淡いペールブルーの色彩を湛えながら、シャンデリアの眩い光を浴びるたび、まるで夜空に浮かぶ満月の光をそのまま液体にして流し込んだかのように、銀色の幻想的な光彩を波打たせていた。

胸元やウエストを締め付ける無駄なフリルや安っぽいリボンは一切排除され、エレオノーラの細くしなやかな肢体の美しさを極限まで際立たせる、洗練を極めたクラシカルなカッティング。

露出を極力抑え、鎖骨の優美な稜線だけを覗かせる襟元のデザインは、帝国貴族の最高格式に相応しい、研ぎ澄まされた知性と誇りを雄弁に物語っていた。


そして――何よりも全貴族を戦慄させたのは、そのドレスの裾だった。


サワリ……と、エレオノーラが大理石の床を踏みしめ、一歩前へと進む。

その瞬間。

ドレスの裾野に銀糸とともに織り込まれていたヘスブルク秘伝の微細な浄化魔力が、大気中の魔素と共鳴し、淡い青金色の粒子となってふわりと宙に舞い上がったのだ。


一歩歩くごとに、まるで夜空の星屑が足元から零れ落ちるかのような、息を呑むほど幻想的な光の軌跡。

香水のような下品な人工の匂いではない。彼女の全身からは、北方の澄み切った清流と、朝露に濡れた高原のハーブを思わせる、清廉にして高貴な香気が漂っていた。


装飾品は、極限まで削ぎ落とされていた。

両腕には肘上まで伸びる純白のサテン手袋。

耳元には、雫型の小粒の真珠。

そして、その白磁の首元に唯一飾られていたのは――細いプラチナの鎖で吊るされた、拳の半分ほどもある、完璧なカットを施された無色透明の魔導ダイヤモンド。

ヘスブルク家が古代より継承してきた、大地の加護を宿す至宝『星核の雫』。

過剰な宝石を何重にもジャラジャラと巻き散らかしていたセレスティアとは対極の、本物の一点のみで世界を圧倒する、絶対的な気品と風格。


艶やかな黒髪は、ハーフアップに美しく結い上げられ、背中へと流れる豊かなウェーブが、歩行のたびに月光絹の上で滑らかに揺れていた。

眼鏡を外し、完璧に整えられた眉の下で光る、深く澄み渡った藍色の双眸。

その瞳に宿るのは、媚びも、驕りも、復讐への浅ましい昂ぶりすらもない。

ただ、自らの血統と才覚に誇りを持ち、大公領の全軍と領民の命運を背負う「筆頭軍師」としての、氷のように透徹した絶対の自信と知性だった。


「……美しい……」


誰かが、祈るように呟いた。

それは広間にいた全貴族の心の声を代弁していた。

前世において、栄養失調と過労で肌を荒らし、すり切れた仕事着を着せられていたあの日々。

ユリウスに「色気のない冷たい石像」と蔑まれ、誰からも女性として扱われなかったあの傷だらけの魂が――いま、自らの居場所と尊厳を取り戻し、世界で一番美しく、気高く輝いていた。


そして、そのエレオノーラをエスコートするクラウス大公の姿に、周囲の貴族たちは二重の衝撃を受けていた。


クラウスは、普段通りの氷の仮面を崩してはいなかった。

他者に向ける眼差しは、依然として獲物の骨を砕くような冷徹な「黒狼」のそれだった。

だが――。

己の腕に重ねられたエレオノーラの指先を支える、黒革の手袋に包まれた男の手。

その掌は、まるで世界で最も壊れやすく、最も尊い奇跡を慈しむかのように、信じられないほど繊細に、慎重に、温もりを込めて添えられていたのだ。


クラウスの視線は、歩行の間、片時もエレオノーラから離れようとしなかった。

階段の段差に差し掛かれば、彼女が裾を踏まぬよう自らの歩幅を寸分の狂いもなく合わせ、冷たい風が吹き込めば、己の広い背中でさりげなく風上を遮る。

その黄金の瞳の奥に宿る、隠しようもない狂おしいほどの熱情と、底知れぬ独占欲。

帝国最強の武神が、ただ一人の女性の前に、命ごと傅いている――その事実を、大公は一切恥じることなく、むしろ誇らしげに、全貴族の面前に見せつけていた。


――格が、違う。


広間を満たした貴族たちの胸に去来したのは、ただその一言だった。

先ほど入場してきた、ショッキングピンクの布屑をまとった愛妾と、買い集めた勲章を鳴らして虚勢を張っていた元夫。

あの二人が演じていたのは、ただの泥棒猫と道化の安っぽい三文芝居にすぎなかったのだと、誰もがこの瞬間、残酷なまでの現実として理解した。


広間の最前列に控えていたホルツハイム伯爵夫人、ヴェルナー子爵夫人たち北方の諸侯妻族が、感極まったように胸を押さえ、一斉に深々と最敬礼のカーテシーを捧げた。

彼女たちの瞳には、誇らしげな涙が光っていた。

自分たちが織り上げた月光絹を纏い、極北の大地の誇りを背負って現れたその人は――名実ともに、帝国社交界の頂点に立つにふさわしい、真の女王だったからだ。


コツ、コツ、コツ……と、静まり返る大広間に、大公夫妻の完璧に調和した足音だけが響き渡る。

二人が歩む先々で、居並ぶ諸侯たちが、頭を垂れ、敬意を込めて道を切り拓いていく。

まるで、光の大河が広間の中央を割いて流れていくかのような、圧倒的な光景。


――その光の奔流の、遥か隅。


真紅の絨毯の端、不自然に人が寄り付かない「隔離帯」の中で立ち尽くしていたセレスティアは、その光景を前にして、文字通り呼吸を止めていた。


「あ……」


セレスティアの喉から、掠れた空気の音が漏れ落ちた。

全身の血液が、足元から急速に抜け落ちていくような強烈な悪寒。

爪先が、指先が、ガタガタと激しく痙攣し、握りしめていたはずの扇子を握る力すら失われていく。


(う、嘘……嘘よ……ッ!)


セレスティアの視界の中で、自慢だったはずの八百万ゴルトのドレスが、急速に色褪せて見えた。

自分が「一番派手で、一番目立っている」と誇っていたショッキングピンクのシルク。

いま、エレオノーラの纏う月光絹の奇跡的な美しさと並んだ瞬間――それは、ただの夜の安酒場で売れ残った踊り子が着る、薄汚れた蛍光色の布屑にしか見えなくなっていた。

胸元のエメラルドも、両腕の金ブレスレットも、エレオノーラの首元で静かに瞬く『星核の雫』の前では、道端で拾ったガラス玉同然の粗悪品に成り下がっていた。


圧倒的な、美の暴力。

本物の前に晒された、偽物の無残なメッキの剥離。

セレスティアは屈辱と恐怖のあまり、唇を噛み切り、口内に生温かい血の味が広がった。


(なんで……!? なんであいつが、あんな格好をしているのよ!? エレオノーラは地味で、陰気で、数字しか読めない仕事女だったはずでしょう!? なんであんな……まるでお姫様みたいに……大公様に大事そうに抱き寄せられているのよォォッ!!)


叫び出したかった。

引き裂いてやりたかった。

自分が手に入れるはずだった「世界一の贅沢」と「男からの絶対の溺愛」を、自分が追い出したはずの前妻が、何百倍もの輝きをもって独占している現実。

セレスティアの狭い胸の内で、嫉妬と劣等感の猛毒が、彼女自身の精神を焼き尽くさんばかりに暴れ狂っていた。


そして――。


セレスティアの隣で、彫像のように硬直し、白目を剥きかけていた男がいた。


ユリウス・フォン・アルトハイム。


彼の脳髄は、目の前の光景を処理しきれず、完全に焼き切れていた。

開いた口が塞がらない。

喉仏が激しく上下し、額からは滝のような脂汗が滴り落ちて、固めていた金髪を無惨に崩していく。


歩みを進めてくる、あのペールブルーのドレスの女性。

星屑の光を纏い、帝国の誰よりも気高く、誰よりも知性的に微笑み、大公クラウスの隣で至高の輝きを放っている、あの女性。


(誰だ……? 誰なんだ、あの女は……?)


ユリウスの記憶の引き出しが、激しく乱打される。

五年間、自らの屋敷にいた正妻。

朝から晩まで執務室に引きこもり、眉間に皺を寄せ、地味な仕事着を着て帳簿をめくっていた女。

『セレスティアは繊細な花だ。お前のような味気ない仕事女とは違う』と、自分が嘲笑い、冷遇し、追い出した女。


――あれが?

――あの、息を呑むほどに美しく、神々しいまでの気品を放つ貴婦人が……?

――俺の、妻だった……エレオノーラだと……!?


「嘘だ……」


ユリウスの膝が、ガクガクと音を立てて震えた。

自らの両手が、かつてあの女性を殴りつけ、あの女性の才覚を踏みにじり、あの女性を毒殺しようとしていたという事実が、遅まきながら、底知れぬ恐怖となって彼の魂を苛み始める。


手放してはならなかったのだ。

あの神の手を。あの至宝を。

自分が「俺の器量だ」と誇っていた富も、名声も、領地の平和も、すべてはあの女性が自らの命を削って差し出してくれていた、奇跡の賜物だったのだ。


それを――自分は、自らの浅薄な虚栄心のために、ゴミのように捨て去った。

そして今、彼女は、自分など逆立ちしても手の届かない、帝国の絶対強者の腕の中にいる。


ガタガタと震えるユリウスの右腕。

彼が無意識のうちに手に持っていた、赤ワインの注がれたクリスタルグラスが、指先から滑り落ちた。


重力に引かれ、大理石の床へと落下していくグラス。

そして――。


――ガッシャアァァァンッッ!!!!


静寂を極めていた大広間のただ中に。

甲高く、耳障りな破砕音が、けたたましく響き渡った。


砕け散る無数のガラスの破片。

飛び散った深紅の赤ワインが、ユリウスの純白の軍礼服の裾と、セレスティアの蛍光ピンクのドレスの足元を、まるで血飛沫のように無残に汚していった。


広間中の視線が、一瞬にして、その醜悪な破砕音の主――ユリウスとセレスティアへと突き刺さる。


だが、ユリウスは足元のワインの染みすら見えていなかった。

焦点の合わない濁った瞳で、光の中心に佇むエレオノーラを見つめ、血の気の引いた青白い唇をワナワナと震わせながら、掠れた声を漏らした。


「……エレ……オノーラ……? あ、あれが……俺の……妻……?」


その間抜けな呟きは、誰の耳にも届くことなく、冷酷な夜会の光の底へと呑み込まれていった。

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