第32話:場違いな泥棒猫
白樺宮殿の「鏡の大舞踏の間」に降り注ぐ、十二基の巨大魔導シャンデリアの眩い光。
その光の海の中央、真紅の絨毯の上を、ユリウス・フォン・アルトハイムとセレスティア・ランベルトは、並んで歩みを進めていた。
ユリウスは純白の軍礼服の胸を張り、過剰な金糸のモールと買い集めた勲章をジャラジャラと鳴らしながら、これ見よがしに顎を上げていた。その腕には、蛍光色に近いショッキングピンクのシルクドレスに身を包んだセレスティアが、誇らしげにぶら下がっている。
二人の頭の中では、広間の貴族たちが自分たちの圧倒的な美貌と家格に気圧され、道を譲り、感嘆の声を漏らしているはずだった。
だが――現実は、あまりにも無慈悲だった。
二人が一歩足を踏み出すたびに、前方にいた帝国貴族たちが、まるで足元に毒蛇でも這い寄ってきたかのように、サーッと音もなく身を引いていく。
会釈すら返さない。
グラスを傾けて談笑していた伯爵たちも、ユリウスと視線が交錯しそうになった瞬間、あからさまに背中を向け、別のグループの陰へと移動していく。
まるで、二人を中心にして半径十メートルの不可視の防護壁――いや、泥水を避けるための「隔離帯」が敷かれているかのようだった。
「……な、何なのよ、あの方たちは」
セレスティアは扇子を胸元でパタパタと小刻みに煽りながら、苛立ちを隠せない声で呟いた。
微笑みを浮かべようと引きつらせた口角が、小刻みに痙攣している。
おかしい。こんなはずではなかった。
帝都の一流ギルドに八百万ゴルトものツケで特注させた、最新のピンクシルクドレス。胸元を露骨に開け、レースとフリルをふんだんにあしらったこの衣装は、夜会に集まるどんな地味な貴婦人たちよりも目立っているはずなのだ。
それなのに、近づいてくる殿方は一人もおらず、淑女たちは扇子の陰から、まるで路地裏の汚物を見るような目を向けて通り過ぎていく。
「ユリウス様……皆様、どうして挨拶にいらっしゃらないのかしら? アルトハイム侯爵家といえば、帝国有数の名門なのでしょう? 私たちがこうして入場したのですから、皆様我先にと傅いてくるのが当然ではありませんの?」
「う、うむ……まあ、そうだな……」
ユリウスの額から、じっとりと冷たい汗が滲み出ていた。
彼自身、この異常な空気に戦慄を覚えていた。
かつての夜会であれば、アルトハイム侯爵家の莫大な資金力を当てにして、多くの下級貴族や商人諸侯が擦り寄ってきたものだ。
それが今や、誰も目を合わせようとすらしない。それどころか、すれ違う諸侯たちの口元から漏れるのは、冷笑と侮蔑の囁き声ばかりだった。
(くそっ……! 帝都銀行の貸し剥がしや、クライン商会の差し押さえの噂が、もうここまで広まっているというのか……!? 薄汚いコウモリどもめ、私が一時的に資金繰りに困っていると知るや、この冷遇か!)
ユリウスは奥歯をギリリと噛み締めた。
だが、彼のプライドは退却を許さなかった。名門侯爵としての面目を保つためにも、ここで孤立するわけにはいかない。誰か有力な貴族と親しげに歓談している姿を見せつけ、アルトハイム家の健在を誇示しなければならなかった。
その時、セレスティアの大きな垂れ目が、広間の中央近く――ひときわ格調高い空気を纏って歓談している貴婦人たちの輪を捉えた。
「あ……ご覧になって、ユリウス様! あちらにいらっしゃるのは、名門ホルツハイム伯爵夫人ではありませんこと?」
セレスティアが指差した先。
そこには、伝統的な深緑のベルベットドレスを纏った年配のホルツハイム伯爵夫人を中心に、三名の有力諸侯の正妻たちが集まり、穏やかにワイングラスを傾けていた。
帝都の社交界において、古参の血統貴族として強い発言力を持つ重鎮たちである。
「あの方たちにご挨拶いたしましょう! 侯爵夫人となるこの私が声をかけてあげれば、あの方たちも喜んで輪に入れてくださるはずですわ!」
「お、おい、セレスティア、待て――」
ユリウスが制止しようとしたが、すでに焦りと虚栄心に駆られたセレスティアの足は止まらなかった。
彼女はショッキングピンクのスカートを大げさに揺らし、大股で貴婦人たちの輪へと突撃していったのだ。
「皆様、ごきげんよう!」
甲高い、鈴を転がすような――しかし格式ある夜会においてはあまりにも場違いなほど軽薄な声が、淑女たちの静かな歓談を切り裂いた。
ピタリと会話が止まる。
ホルツハイム伯爵夫人をはじめとする貴婦人たちが、何事かと一斉に視線を向けた。
セレスティアはここぞとばかりに胸を反らせ、扇子を優雅に畳んで両手で胸元に当てた。
男たちの前でいつも演じていた、可憐で庇護欲をそそる少女の笑み。
「今夜は本当に素晴らしい夜会ですわね! 音楽も素敵ですし、宮殿の装飾も息を呑むほどですわ。……ふふ、ところで皆様、私のこのドレスをご覧になっていただけましたかしら? 帝都で一番高価な仕立て屋ギルドに特注で作らせましたのよ! 八百万ゴルトもいたしましたの。やはり、アルトハイム侯爵家の新しい女主人となる身ですもの、このくらいの華やかさがないと、ユリウス様のお隣には立てませんものね!」
セレスティアはこれ見よがしに身体を左右に揺らし、ドレスの裾に縫い付けられた無数のフリルと模造レースをアピールした。
自分がいかに愛され、いかに贅沢を許されているか。
それを自慢げに語れば、地味な深緑や濃紺のドレスを着ている年配の貴婦人たちが、羨望と嫉妬に顔を歪めるに違いない――セレスティアは本気でそう信じ込んでいた。
――しかし。
返ってきたのは、賛嘆の声でも、嫉妬の眼差しでもなかった。
静寂。
まるで、真冬の氷河の底に放り込まれたかのような、絶対零度の沈黙だった。
ホルツハイム伯爵夫人は、手に持っていたクリスタルグラスを微かに傾けたまま、眉一つ動かさなかった。
その鋭利な双眸が、セレスティアの頭の天辺から、露出した胸元、蛍光ピンクの裾、そして派手な宝石類に至るまでを、まるで道端の奇怪な害虫を観察するかのように、冷徹に走査していく。
横に控えていた子爵夫人と男爵夫人が、耐えかねたように扇子を広げ、口元を隠して視線を逸らした。その肩が、かすかに震えている。失笑を噛み殺しているのだ。
「……まあ」
やがて、ホルツハイム伯爵夫人の薄い唇から、氷を削るような冷たい声が零れ落ちた。
「ええ、とても……『個性的』でいらっしゃいますこと」
「え……?」
セレスティアの笑顔が、わずかに固まった。
個性的? 美しい、でも、素晴らしい、でもなく?
伯爵夫人はグラスを給仕の盆へと戻すと、扇子をゆっくりと胸元で広げた。
そして、その切れ長の瞳を冷酷に細め、容赦のない貴族社会の刃を突きつけたのだ。
「ところで、セレスティア嬢。……貴女にお尋ねしたいことがございますの」
「な、何でございましょうか、伯爵夫人様?」
「貴女が胸元にお付けになっている、その真鍮細工のブローチ……。中央に刻まれているのは、紛れもなくアルトハイム侯爵家の正統なる『双頭の獅子と葡萄』の家紋紋章ですわね?」
「ええ、そうですわ!」
セレスティアは胸を張り、大粒のエメラルドのすぐ上に留められた、アルトハイム家の紋章ブローチを指先で誇らしげに示した。
「ユリウス様が、私に贈ってくださったものですの! 侯爵家に相応しい証として!」
その瞬間。
周囲を取り囲んでいた貴婦人たちの間から、クスクスと、隠しきれない嘲笑の声が漏れ広がった。
ホルツハイム伯爵夫人の眼差しが、さらに冷たく、鋭く研ぎ澄まされる。
「……まあ。呆れたことですわね」
伯爵夫人はため息混じりに、冷然と言い放った。
「未婚の、一介の男爵令嬢にすぎぬ身でありながら。正妻の座にも就かず、教会での婚姻の儀も経ておらぬ分際で……当主の『家紋紋章』を公然と佩用して夜会に現れるとは。――貴女、一体どのような礼法に則って、そのような厚顔無恥な真似をなさっておいでなのかしら?」
「な……っ!?」
セレスティアの顔から、一瞬で血の気が引いた。
頭を金槌で殴られたような衝撃。
「な、何を仰いますの……!? 私はユリウス様から正式に屋敷の管理権を譲り受けた女主人ですわ! ユリウス様が『つけていい』と仰ったから、つけているだけですのに!」
「お黙りなさい」
伯爵夫人の一喝が、セレスティアの甲高い声を無慈悲に遮った。
その声音には、帝国最高峰の貴婦人としての、一切の妥協を許さぬ厳格な威厳が宿っていた。
「帝国貴族礼法第十七条。家門の紋章とは、その血統を受け継ぐ当主、ならびに皇帝陛下の承認を得て正式に入輿した『正妻』のみが佩用を許される、神聖にして不可侵の象徴です。……いかに当主の寵愛を受けていようと、法的な正妻ではない愛妾が家紋を身につけることは、社交界において何を意味するか……まさかご存じないわけではありますまい?」
伯爵夫人は扇子の先で、セレスティアの胸元のブローチを冷たく指し示した。
「――【家格の簒奪】。他家の歴史と血統を泥足で踏みにじる、不敬極まる重過失ですわ。それを、あのような安酒場の踊り子のような蛍光ピンクのドレスに貼り付けて、白樺宮殿に乗り込んでくるなど……品性を疑うどころの話ではありません。無知にも程がありますこと」
「ぎ……っ」
セレスティアの喉が、引き攣った音を立てた。
無知。品性を疑う。家格の簒奪。
次々と浴びせられる容赦のない言葉の暴力。
彼女は知らなかったのだ。
貴族社会において、家紋とは単なる「アクセサリー」ではない。その家門が背負う数百年分の歴史、領民に対する統治責任、そして皇帝への忠誠を象徴する公的な印章なのだ。
それを、正妻の座を奪い取った愛人が、ファッション感覚で胸元につけて夜会を練り歩く――それが、周囲の貴族たちにとってどれほど唾棄すべき、不快極まりない冒涜であるかを、この泥棒猫は一ミリも理解していなかったのだ。
「わ、私は……! 私はユリウス様に愛されているのですわ! 愛されている私が、なぜそんな細かい規則で責められなければならないのです!?」
セレスティアは涙目を浮かべ、いつものように被害者を装って叫んだ。
しかし――。
「ふふっ……まあ、愛されているですって」
「愛があれば、帝国の基本法を破っても許されると思い込んでいるのかしら」
「男爵家の三女ですものね、きちんとした家庭教師も雇えなかったのでしょう」
「哀れな泥棒猫……自分が何を晒しているのかすら理解できていないのね」
周囲の貴婦人たちから浴びせられたのは、同情などではなかった。
虫ケラを見るような、冷酷で乾ききった失笑の嵐。
セレスティアの「可憐な涙」という最大の武器は、本物の教養と格式を重んじる貴婦人たちの前では、単なる見苦しい醜態としてしか機能しなかった。
「お、おい! 失礼ではないか、ホルツハイム伯爵夫人!」
見かねたユリウスが、青ざめた顔で割って入ってきた。
彼はセレスティアの肩を抱き寄せ、自らの威厳を取り繕うように胸の勲章を反らせた。
「セレスティアは繊細な女性なのだ! 少しばかり礼法に疎いところがあったとしても、そこまで寄ってたかってなじることはあるまい! アルトハイム侯爵であるこの私が許可したのだ、外野がとやかく口を挟む筋合いはないはずだぞ!」
ユリウスは怒気を孕んだ声で、かつての友誼を頼むように伯爵夫人を睨みつけた。
だが。
「……外野、でございますか」
伯爵夫人の背後から、静かな、しかし重厚な足音とともに歩み出てきた男がいた。
ホルツハイム伯爵。
北方の防衛線を支え、帝国軍部においても重鎮として知られる歴戦の将である。
その隣には、ヴェルナー子爵、グリュン男爵といった、かつてアルトハイム侯爵邸の夜会に顔を出していた諸侯たちの姿もあった。
ユリウスはパッと顔を明るくした。
「おお、ホルツハイム伯爵! 貴殿からも言ってやってくれ! 女どものつまらぬ嫉妬で、我がセレスティアが――」
「口を慎まれよ、アルトハイム侯爵」
ホルツハイム伯爵の冷徹な一言が、ユリウスの言葉を凍りつかせた。
伯爵の眼差しには、旧友に対する温情など欠片もなかった。あるのは、名門の看板を泥に塗った愚者に対する、底知れぬ侮蔑。
「……前妻エレオノーラ殿を不当に追い出し、あのような素性の知れぬ愛妾に溺れて領地を破綻させた挙句……自警団の武器すら取り上げ、民を見殺しにしたと聞き及んでいる。……その噂が真実であったこと、今宵の貴殿の浅ましいお姿を見て、骨身に染みて理解いたしました」
「な……っ!? ひ、見殺しだと!? そんなことは――」
「我が領の東部にも、エルム村から逃れてきた避難民が押し寄せておりますぞ」
ヴェルナー子爵が冷ややかに追撃した。
「領民が飢えと魔獣に怯えている最中に、金で買った勲章をジャラジャラと鳴らし、愛人に八百万ゴルトのドレスを着せて夜会で遊興に耽るとは……。アルトハイム侯爵家の誇りは、一体どこへ消え失せたのですかな?」
「う……ぐ……っ」
ユリウスの喉が引き攣り、言葉を失った。
背中を、滝のような冷や汗が流れ落ちていく。
誰も自分の味方をしてくれない。
かつて自分を持ち上げ、酒を酌み交わしていた諸侯たちが、いまや自分を「領民を見殺しにした恥知らず」「愛人に身代を食い潰された無能」として、完全に切り捨てているのだ。
「もう結構ですわ、皆様」
ホルツハイム伯爵夫人が、汚れた空気を払うように扇子をパタパタと揺らした。
「あのような場違いな方々とご一緒していては、私たちのドレスにまで悪臭が移ってしまいますもの。あちらのサロンへ参りましょう」
「ええ、そうですわね」
「見ているだけで頭痛がしてまいりますわ」
貴婦人たちも、諸侯たちも、一斉に背を向けた。
誰一人として、二度とユリウスとセレスティアを振り返る者はいなかった。
サーッと潮が引くように、周囲の貴族たちがさらに遠くへと離れていく。
残されたのは、真紅の絨毯の真ん中で、ぽつんと立ち尽くす二人だけだった。
「あ……あ、あ……」
セレスティアは、屈辱と恥辱のあまり、顔を真っ赤に染め上げてガタガタと震えていた。
爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
自慢のドレスは「安酒場の踊り子」と嘲笑われ。
誇らしかったブローチは「家格の簒奪」と罵倒され。
世界で一番可憐なヒロインとして君臨するはずだった夜会で、自分はただの「笑いものの道化」として晒し上げられたのだ。
「許せない……許せないわ……! あんなババアども、絶対に許さない……ッ!」
セレスティアは唇を噛み切り、血を滲ませながら呪詛を吐き散らした。
だが、その時――。
広間の一角から、ざわり……と、先ほどの侮蔑のざわめきとは根本的に質の異なる、地鳴りのような戦慄とどよめきが湧き上がった。
コォォン! コォォン! コォォンッ!!
大広間の正面奥、皇帝専用のテラスへと続く白樺の巨扉の前で、宮殿の親衛隊長が、黒檀の杖を大理石の床へ力強く三度、打ち鳴らしたのだ。
オーケストラの演奏がピタリと止まる。
何百人もの貴族たちが一斉に息を呑み、壁際へと寄って整然と道を空けた。
広間全体を支配したのは、息をすることすら躊躇われるほどの、絶対的な静寂と畏怖。
親衛隊長が、天を衝くような威厳に満ちた朗々たる声で、今宵の真の主役たちの入来を高らかに奏上した。
「――皇弟殿下、ヴァルハイト大公クラウス閣下! ならびに……大公妃エレオノーラ殿下、御入来ッ!!」
ギギギ……と、白銀の光を放つ重厚な扉が、左右へと静かに開かれていく。
セレスティアとユリウスは、弾かれたようにその扉の先へと視線を向けた。
そして――そこに現れた真の至宝の姿を目にした瞬間、二人の息は、完全に凍りついた。




