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第31話:白樺宮殿の夜会

帝都ガルツブルクの北西、白樺の原生林に抱かれたなだらかな丘陵の上に、その離宮は白銀の巨竜のように聳え立っていた。


――白樺宮殿(ビルケン・パラスト)。

帝国初代皇帝が夏の離宮として築き、現在は皇帝ヴィルヘルム四世の叔母にして、帝国社交界の絶対女帝アンリエッタ・フォン・ロートシルト公爵夫人が差配を預かる、帝都屈指の格式を誇る壮麗な宮殿である。


夜の帳が降りる頃、宮殿を取り囲む広大な庭園には、青白い魔導ランタンが幾千も灯され、白樺の幹を幻想的に照らし出していた。

車寄せへと続く並木道には、帝国全土から駆けつけた大公、有力公爵、侯爵、伯爵、そして同盟諸国の特命全権大使たちの豪奢な馬車が、途切れることのない光の帯となって列をなしている。どの車体にも、何百年もの歴史を誇る名門の家紋が彫り込まれ、従者たちの制服の金ボタン一つに至るまで、寸分の隙もない威厳が保たれていた。


宮殿の中心に位置する「鏡の大舞踏の間」。

天井を見上げれば、何万個もの最高純度水晶で組まれた巨大な魔導シャンデリアが十二基、頭上から豪奢極まりない光の奔流を降り注いでいる。

壁一面を覆う巨大な鏡は、着飾った帝国貴族たちの華やかな姿を無限に反射し、オーケストラ・ピットからは、名門宮廷楽団による優美にして格調高い弦楽四重奏の調べが、絶え間なく流れていた。

真紅の絨毯の上を行き交う貴婦人たちのドレスは、伝統と格式に則った深いワインレッド、高貴なエメラルドグリーン、あるいは落ち着いた濃紺や白銀。いずれも過度な装飾を削ぎ落とし、家門に代々伝わる本物のアンティークジュエリーを一点だけ身につけた、極上の引き算の美学が支配する空間。


ここは、帝国の頂点に立つ者たちだけが足を踏み入れることを許された、選ばれし者たちの聖域だった。


その大広間を見下ろす大階段の頂点――巨大な両開き扉の前で、親衛隊の近衛儀礼兵が、銀の長槍の石突を大理石の床へ激しく叩きつけた。


――ダァァァンッ!!


重厚な金属音が広間に響き渡り、オーケストラの演奏がふっと静まり返る。

何百人もの高位貴族たちの視線が、一斉に大階段の頂点へと向けられた。

近衛長が腹の底から響く朗々たる声で、来訪者の名を高らかに奏上する。


「――アルトハイム侯爵ユリウス・フォン・アルトハイム閣下! ならびに、ご同伴者……セレスティア・ランベルト嬢ッ!!」


ギギギ……と、白樺材に金箔を施した重厚な大扉が、左右へと押し開かれた。


その瞬間。

光の中に躍り出てきた二人の姿を目にした刹那――大広間を満たしていたざわめきが、まるで水を打ったかのようにピタリと止まった。


大階段の頂点に立っていたのは、誇らしげに胸を反らせたユリウス・フォン・アルトハイムだった。

彼が身に纏っていたのは、この夜会のためだけに帝都の高級仕立て屋へ無理やりツケ払いで発注させた、純白の特注軍礼服だった。

肩には金糸のモールが過剰なまでに揺れ、胸元には実戦の軍功など一つもないにもかかわらず、金で買い集めた儀礼用のメダルがジャラジャラと隙間なく並べられている。金髪は油で固められ、顔には昨夜までの飢えと焦燥を隠すように薄く紅が引かれていた。

己が何千万ゴルトもの借金を背負い、領地の結界を破綻させ、破滅の淵に立っていることなど微塵も感じさせない、哀れなまでの虚勢と傲慢。


そして――そのユリウスの右腕に、これ見よがしにぶら下がっていたのが、セレスティア・ランベルトだった。


「…………っ」


広間にいた幾百人もの貴婦人たちが、一斉に息を呑み、次いで目を丸くした。

その反応は、決して称賛などではなかった。あまりの異様さに、誰もが言葉を失ったのだ。


セレスティアが身に纏っていたのは、第23話で届いたあの特注品――蛍光色に近い、目の覚めるような極彩色のショッキングピンクのシルクドレスだった。

昼間のサロンで着るような過激な色合いの布地の上に、これでもかと言わんばかりに幾重にも重ねられた安っぽい模造レース、過剰なフリル、そして造花の薔薇。胸元は貴族の夜会の礼法を遥かに逸脱して露骨にはだけ、歩くたびに大きな胸が揺れる。

さらに、その首元でこれ見よがしに輝いていたのは――昨日、放蕩貴族ザイデル子爵から贈られたばかりの、大粒のエメラルドの首飾りに加え、両腕には何重もの黄金のブレスレット、髪には巨大な羽飾りが挿されていた。


それは、貴族の公式夜会のドレスコードを根底から踏み躙る、完全なる「悪趣味の暴力」だった。


帝国貴族の格式ある夜会において、最も重んじられるのは「家格に応じた伝統色と、節度ある装飾の調和」である。未婚の令嬢であれば清楚なパステルカラー、正妻であれば家門の格式を示す深みのある伝統色を纏い、肌の露出は扇子やショールで慎み深く覆うのが鉄則。

それに対して、セレスティアの出で立ちは、新興の成金が夜の酒場で踊り子に着せる舞台衣装か、あるいは客引きの高級娼婦そのものだった。

彼女自身は「一番派手で、一番高いものを全部身につければ、私が一番美しく見える」と本気で信じ込んでいたのだ。無知ゆえの暴走、文化と教養の完全なる欠如。


だが――当人たちは、自分たちがどのような目で見られているのか、一ミリたりとも気づいていなかった。


「ふふ……ご覧になって、ユリウス様」


セレスティアは扇子を広げ、大階段の上から広間を見下ろしながら、ユリウスの耳元で甘く囁いた。

その瞳の奥には、ドス黒い優越感と陶酔がギラギラと渦巻いている。


「皆様、言葉を失って私たちを見つめておられますわ……! 私のこのドレスのあまりの鮮やかさに、そしてユリウス様の凛々しさに、誰もが息を呑んで見惚れているのですわ!」


(見てなさい、エレオノーラ……! 今夜、この帝国の社交界の頂点に立つのは、この私よ! あんたのような地味で愛想のない帳簿女には、逆立ちしたってこんな華やかな舞台の主役は務まりませんものね!)


セレスティアは顎をツンと反らせ、勝ち誇った笑みを浮かべた。

自分はついに、貧乏男爵家の惨めな泥沼から抜け出し、帝国最高峰の夜会の中心に君臨したのだと。ここにいるすべての貴族たちが、自分の美貌にひれ伏すのだと、本気でそう思い込んでいた。


ユリウスもまた、満足げに鼻孔を膨らませ、これ見よがしに胸の勲章を揺らしながら階段を一歩踏み出した。


「当然だ、セレスティア。我がアルトハイム侯爵家の高貴なる血統と、君のような絶世の美女の組み合わせだ。並み居る諸侯どもが嫉妬と羨望で言葉を失うのも無理はない」


(そうだ……! この空気だ! 全貴族が私に注目している! 名門侯爵である私がこうして堂々と姿を現したのだ、商人どものつまらぬ借金騒ぎなど、この圧倒的な威光の前には紙屑同然だ!)


ユリウスは内心で狂喜していた。

数日前のゴミ屋敷の悪臭も、金庫が空っぽだった恐怖も、すべては遠い過去の幻覚のように思えた。

自分は今、帝国の社交界の頂点に立っている。

あとは、この夜会のどこかにいるはずの元妻エレオノーラを見つけ出し、皇帝陛下の御前で大々的にその悪評をぶちまけてやればいい。

『この女は嫉妬に狂い、侯爵家の財産を持ち逃げした大罪人だ』と。

世論を味方につけて大公の手からエレオノーラを引きずり戻し、再び屋敷の地下でタダ働きさせて、すべての借金を払わせれば、我が侯爵家の栄華は永遠に続くのだ――。


二人は、自分たちが完璧な勝利者であると微塵も疑わず、ゆっくりと大階段を降り始めた。


カツン、カツン、と大理石に響く靴音。

セレスティアは派手なドレスの裾をこれ見よがしに翻し、ユリウスの腕にしなだれかかりながら、階段の下に群がる貴族たちへ向けて、慈悲深い王妃を気取った会心の微笑みを振り撒いた。


――しかし。


階段を降りきり、大広間のフロアへと足を踏み入れた瞬間。

二人の周囲に起きた現象は、彼らの甘美な妄想とは、あまりにもかけ離れていた。


――サァァァッ……。


まるで、目に見えない絶対零度の結界が二人を中心に展開されたかのように。

ユリウスとセレスティアが進み出る進行方向から、群がっていた帝国貴族たちが――潮が引くように、音もなく、綺麗に左右へと割れて後ずさっていったのだ。


「……え?」


セレスティアの微笑みが、わずかにピクリと引きつった。

誰も話しかけてこない。

誰も会釈を返してこない。

それどころか、近くにいた伯爵夫人たちが、手に持っていた扇子をパッと広げ、口元と鼻を覆うようにして目を細め、露骨に顔を背けて二歩、三歩と距離を取っていく。


シャンパングラスを傾けていた紳士たちも、ユリウスと視線が合いそうになった瞬間、あからさまに眉をひそめ、背中を向けて別のグループの輪の中へと避難していった。


二人の周囲だけが、ぽっかりと不自然な空白地帯になる。

誰も近寄らない。

誰も目を合わせようとしない。

まるで、泥水で汚れた汚物か、悪性の伝染病を撒き散らす保菌者が紛れ込んできたかのような、徹底的で、容赦のない「社会的隔離」。


「な……何だ……?」


ユリウスの背筋を、ツウと冷たい汗が伝い落ちた。

おかしい。

以前の夜会であれば、自分が姿を現せば、投資話を求める商人貴族や、挨拶を交わそうとする諸侯たちが競うように擦り寄ってきたはずだ。

それなのに、この異様な冷気配は何だ。

羨望の眼差しなど、どこにもない。周囲から突き刺さってくる無数の視線に含まれていたのは――底知れぬ「軽蔑」と、虫ケラを見るような「失笑」だけだった。


その時。

扇子で口元を隠した二人の公爵夫人の、ひそやかな囁き声が、弦楽四重奏の調べの合間を縫って、ユリウスの耳朶へと残酷に届いた。


「……まあ、あの方たち、鏡をご覧にならなかったのかしら?」


「ええ、本当に……。あの男爵令嬢のドレスをご覧になって。蛍光色のピンクに、あの過剰なフリル……まるで安酒場の踊り子ですわ。あのような下品な格好で白樺宮殿に足を踏み入れるなんて、宮内省の格式に対する冒涜ですこと」


「それに、未婚の愛妾の身でありながら、正妻の座にも就かず当主の腕にしがみつくなんて……恥という概念をご存知ないのかしらね」


「アルトハイム侯爵も侯爵ですわ。有能で名高かったヘスブルク家のエレオノーラ様を不当に追い出し、あのような素性の知れぬ泥棒猫に溺れて破産寸前だという噂……どうやら真実でしたのね」


「近寄らないようにいたしましょう。借金の無心でもされたら敵いませんもの」


クスクスと、残酷な嘲笑の波が、扇子の陰から陰へと伝播していく。


「な……っ!?」


ユリウスの顔面が、屈辱と怒りで一瞬にして真っ赤に沸騰した。

耳がキーンと鳴る。

なんだと? 安酒場の踊り子? 泥棒猫? 破産寸前の道化だと!?

名門アルトハイム侯爵たるこの私が、社交界の女どもに陰口を叩かれているというのか!?


セレスティアもまた、自慢のドレスを「下品」と切り捨てられた衝撃に、白粉の浮いた頬を引きつらせ、唇をワナワナと震わせていた。


「ゆ、ユリウス様……! あの方たち、なんて失礼なことを……! 私のドレスは、帝都の一流ギルドに特注で作らせた最高級品ですのに! あの意地悪なオバサマたち、若い私の美しさに嫉妬しているんですわ! 悔しいからって、負け惜しみを言っているだけに決まってますわ!!」


セレスティアはヒステリックに叫び、ユリウスの腕をぎゅっと爪が食い込むほど握りしめた。

だが、その声は上擦り、瞳の奥には隠しきれない動揺と恐怖が溢れ出していた。


自分たちが立っている場所が、誇らしい勝者の壇上などではなく。

四方八方から冷酷な刃で切り刻まれる――【社交界の処刑台のど真ん中】であることに、二人はようやく、肌を粟立たせて気づき始めていた。


自信満々に微笑んでいた二人の周囲に、サーッと潮が引くように広がり続ける、冷たい断絶の空間。


その時――。


大広間の正面奥、皇族専用の巨大なバルコニーへと続く大扉の前で、宮殿の親衛隊長が、床を黒檀の杖で力強く三度、打ち鳴らした。


――コォォン! コォォン! コォォンッ!!


澄み渡る重厚な響きが、広間全体を絶対零度の静寂へと叩き落とす。

すべての貴族たちが一斉に私語を止め、整然と姿勢を正して平伏の姿勢をとった。


親衛隊長が、天を衝くような威厳に満ちた声で、今宵の真の主役たちの入来を告げた。


「――皇弟殿下、ヴァルハイト大公クラウス閣下! ならびに……大公妃エレオノーラ殿下、御入来ッ!!」

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