第30話:社交界からの招待状
生ゴミの饐えた臭気と、割れた香水瓶の甘ったるいアルコール臭が澱む大サロンの薄暗がり。
粉々に砕け散った姿見の破片が散乱する絨毯の上で、ユリウス・フォン・アルトハイムは、まるで砂漠で行き倒れかけた旅人が清水を掴み取ったかのように、その一通の手紙を両手で強く抱きしめていた。
最高級の厚手羊皮紙。
外周には眩い純金箔で繊細な唐草模様が施され、中央には帝国の最高権威――皇帝の叔母にして社交界の女帝、アンリエッタ・フォン・ロートシルト公爵夫人の家紋印章が、深紅の蝋によって厳重に封印されていた。
「……間違いない。本物だ。本物の『白樺宮殿の夜会』への招待状だ……!」
ユリウスの喉から、震える歓喜の呻きが漏れ出た。
血走った瞳孔が極限まで見開かれ、頬のこけた薄汚い顔面に、狂気じみた笑みがじわりと広がっていく。
白樺宮殿の夜会。
それは年に一度、帝都ガルツブルク屈指の離宮で開かれる、帝国社交界の頂点たる祭典である。
主催は皇室の最高長老たるアンリエッタ公爵夫人。臨席するのは皇帝ヴィルヘルム四世を筆頭とする皇族、大公、有力公侯爵、そして諸外国の特命全権大使のみ。出席を許されること自体が帝国貴族としての最上級のステータスであり、いかに莫大な富を誇ろうとも新興貴族や名ばかりの貴族では門前払いを食らう、最も格式高い『聖域』だった。
本来であれば、正妻を不当に追い出し、借金取りに包囲され、領地の結界を破綻させた現在のアルトハイム侯爵家などに届くはずのない、雲の上の招待状。
「ふ、ふはは……! 見たか! 見たかルートヴィヒ!」
ユリウスはソファから跳ね起き、サロンの隅に立つ老執事へ向けて手紙をこれ見よがしに突きつけた。
「アンリエッタ様は、我がアルトハイム侯爵家の由緒正しき家格を重んじてくださったのだ! 帝都の商人どもや下賤な平民がどれほど騒ごうと、皇室に連なる真の高貴な方々は、この私を見捨ててなどいなかったのだよ! 血統だ……! やはり大貴族の血統こそが、最後にすべてを救うのだ!!」
ユリウスの都合の良すぎる脳内では、現実の破滅など瞬く間に霧散していた。
五千万ゴルトの差し押さえも、八百万ゴルトのツケの督促も、エルム村の壊滅も、すべては「一時的な不運」にすぎない。この夜会に出席しさえすれば、自分は再び帝国社交界の中心へと返り咲くことができる――そう盲信し、激しく興奮していた。
「ユ……ユリウス様、本当ですの……?」
床にへたり込み、ボサボサの髪のまま爪を噛んでいたセレスティアが、這うようにしてすがりついてきた。
赤黒い生傷の残る頬を歪め、涙で濁った瞳をすがるように見上げる。
「あの、帝都で一番格式の高いという、あの夜会ですの……? 私、行ってもよろしいのですか……? あの公爵夫人様にお目通りできるのですか……!?」
「当たり前だ、セレスティア!」
ユリウスはセレスティアの肩を抱き寄せ、哄笑をあげた。
「宛名を見るがいい。『アルトハイム侯爵ユリウス・フォン・アルトハイム閣下、ならびに同伴者一名殿』と書かれている! 同伴者とは、言うまでもなく我が愛しき新女主人――君のことだ! あの大広間に、君を私の腕に抱いて堂々と入場してやるのだ!」
「まあ……! まああああっ……!」
セレスティアの顔に、一瞬にして浅ましい歓喜と虚栄心が蘇った。
先ほどまで「甲斐性なしの無能男」と罵り合っていたことなど完全に忘れ去り、ユリウスの胸元へ甘えるようにすり寄る。
「嬉しい……! 私、ずっと夢見ておりましたの! 帝都の夜会の頂点に立って、大貴族の皆様から跪かれる日を! あのお屋敷に届いた特注のシルクドレスを着て、ザイデル子爵様からいただいたエメラルドの首飾りをつければ、どの貴婦人よりも私こそが一番輝いて見えますわ!」
「ああ、そうだとも! 君こそが真の侯爵夫人に相応しい美貌の持ち主だ!」
ユリウスはセレスティアの腰を引き寄せ、爛々と光る瞳を虚空へと向けた。
その口から紡ぎ出されたのは、あまりにも都合よく、あまりにも破綻しきった『逆転計画』だった。
「いいか、セレスティア。この夜会は、単なる社交の場ではない。我が家のすべての負債を帳消しにし、奪われた富を取り戻すための、千載一遇の好機なのだ!」
「富を取り戻す、ですの……?」
「そうだ! この夜会には、皇帝陛下をはじめ、帝国の全貴族が揃う。そして何より――あの黒狼大公クラウスと、あいつ……エレオノーラも必ず出席する!」
ユリウスは獰猛な笑みを浮かべ、拳を握りしめた。
「全貴族の面前で、皇帝陛下の御前で、堂々と訴え出てやるのだ! 『エレオノーラは嫉妬に狂い、侯爵家の財産と魔導核を不当に持ち逃げし、結界を勝手に切って領民を危険に晒した悪女である』とな! あまつさえ、その金と媚態を使って大公閣下を誑かし、不当な庇護を受けているのだと、公衆の面前で涙ながらに告発してやるのだ!」
ユリウスの瞳には、狂気の妄想が確信となって焼き付いていた。
世界は自分を中心に回っている。名門侯爵である自分が公の場で被害を訴えれば、貴族社会は必ず自分に同情し、悪妻エレオノーラを非難するに決まっている。
大公といえども、皇帝の御前で全貴族から「他家の財産を盗んだ女を匿う恥知らず」と指弾されれば、体面を保つためにエレオノーラを手放さざるを得ないはずだ。
「大公が手を引けば、あいつの後ろ盾は消える! そうすれば、あいつを合法的にこの屋敷へ連れ戻すことができるのだ! 連れ戻した後は、地下の霊廟に鎖で繋ぎ止めてでも結界を張り直させ、工房を回させ、借金を一銭残らず支払わせればいい! あいつは俺の所有物なのだから、タダ働きさせて当然なのだ!!」
「まあ……! なんて素晴らしいお考えですの、ユリウス様!」
セレスティアは手を叩いて歓声をあげた。
「そうですわ! あの地味で愛想のない女なんて、地下室で一生帳簿をつけていればお似合いですわ! そして私は、あいつの稼いだお金で、毎日贅沢に暮らしてあげますの! ふふっ、夜会で大公様に捨てられて泣き崩れるエレオノーラの顔を見るのが、今から楽しみでなりませんわ!」
ゴミと埃にまみれ、悪臭漂う大サロン。
割れた鏡と散らばる残飯のただ中で、互いの首を絞め合っていた二人の愚か者が、破滅への招待状を胸に抱き、醜悪な欲望を剥き出しにして嗤い合っていた。
その光景を、サロンの入り口で直立したまま見つめていた老執事ルートヴィヒは――。
もはや言葉を発することすらなく、ただただ冷え切った、死人のような瞳で、天井を仰ぎ見た。
(……哀れな方々だ。自ら処刑台の階段を、満面の笑みで駆け上がろうとしていることにすら、気づいておいでではない……)
ルートヴィヒは知っていた。
先代から仕えてきたこの老執事は、貴族社会の冷酷な力関係の現実を、誰よりも理解していた。
アンリエッタ公爵夫人が、門閥の血統などという古臭い看板だけで人を招くような甘い人物ではないことを。
そして――この手紙が届いた真の理由が、二人が夢想するような「救済」などではなく、もっと底知れぬ、逃れようのない巨大な罠であるということを。
***
場面は一転する。
帝都ガルツブルクから北へ数百里、猛吹雪の吹き荒れる万年雪の山脈地帯。
天を衝く黒玄武岩の巨城――ヴァルハイト大公城。別名、黒狼城。
外の極寒を完全に遮断した城の主塔最上階、大公夫妻の広大な私室には、心地よい暖炉の温もりと、清涼なハーブの香気が静かに満ちていた。
絨毯の上には、帝都の一流仕立て屋ですら一生に一度拝めるかどうかという、至高の芸術品が広げられていた。
――『月光絹』のドレス。
万年雪の山脈の奥深くにのみ生息する、霊峰の氷蚕から紡ぎ出された奇跡の絹織物。
淡いペールブルーの生地は、室内のわずかな光を浴びるだけで、まるで夜空の月光をそのまま織り込んだかのように、波打つたびに神秘的な銀色の光彩を放っている。
裾周りには、ヘスブルク秘伝の微細な浄化術式が銀糸とともに織り込まれ、一歩歩くごとに、まるで星屑が零れ落ちるかのような淡い燐光が立ち上る仕掛けになっていた。
派手なフリルや安っぽいレースの一切を削ぎ落とした、圧倒的な気品と知性を象徴する、完璧な一着。
「……信じられませんわ。これほど見事な月光絹、帝室の宝物庫にも数反しか眠っていないはずですのに」
姿見の前に立つエレオノーラは、そのドレスの滑らかな生地に白手袋の手を添え、感嘆の息を漏らした。
彼女の背後には、誇らしげに胸を張る侍女ジゼルが控えている。
「お嬢様。こちらは、第26話の茶会でお嬢様に心酔いたしましたホルツハイム伯爵夫人、ヴェルナー子爵夫人をはじめとする、北方の諸侯夫人たちが総力を挙げて織り上げさせたものにございます」
ジゼルは微笑み、敬意を込めて語った。
「『我が大公妃殿下の帝都への初陣に、北方の誇りをすべて込めた最高の衣を』と、諸侯家門の門外不出の秘蔵絹を持ち寄って仕立てた逸品です。北方の全領民と諸侯の結束が、この一着に宿っております」
「皆様の温かいお心、胸に染みますわね……」
エレオノーラは目を細め、静かに息を吸い込んだ。
机の上には、一通の開封された手紙が置かれていた。
純白の羊皮紙に、金箔の縁取り。アルトハイム侯爵邸に届いたものと寸分違わぬ、アンリエッタ公爵夫人からの『白樺宮殿の夜会』への招待状。
だが、その招待状には、もう一枚、公爵夫人直筆の極秘の私信が添えられていたのだ。
『親愛なるエレオノーラ大公妃殿下。
貴女が調合して送ってくださった、あの地熱温室のハーブティー……長年、帝都のいかなる名医も治せなかった私の手足の冷えと、激しい不眠の頭痛が、わずか数日で嘘のように消え去りました。
三十年ぶりに、私は朝の光を穏やかな心地で迎えることができました。心よりの感謝を申し上げます。
――さて。貴女の要請の通り、あの哀れな元夫と愛人の元へ、夜会の招待状を届けておきましたよ。
身の程も弁えず、貴女の才覚に寄生した挙句、盗品紛いの醜態を晒しているという噂の二人です。
逃げ場のない社交界のど真ん中に、舞台を整えて差し上げました。
どうぞ、貴女の手で、思う存分に偽物のメッキを剥ぎ落としてご覧なさい。このアンリエッタが、全貴族の面前で貴女の背中を支えて差し上げましょう』
帝国の女帝からの、完全なる共闘の約束。
そう――アルトハイム侯爵邸に届いたあの招待状は、手違いなどでは断じてなかった。
エレオノーラが第26話で仕込んだ布石――アンリエッタ公爵夫人の持病を完璧に治療し、その絶大な信頼を勝ち取った上で、彼女と裏で綿密に握り合って仕組んだ、【完全なる公開処刑用の特等席】だったのだ。
借金で首が回らなくなり、魔獣に怯え、精神的に追い詰められたユリウスとセレスティアが、この招待状を「唯一の逆転の藁」として縋り付いてくることは、エレオノーラの怜悧な頭脳によって完全に予測されていた。
自室に引きこもっていれば手出しは難しいが、全帝国の貴族が集まる公式の夜会という舞台に自らノコノコと出てきてくれれば、これほど処刑しやすい獲物はいない。
「……ふふ」
エレオノーラの薄い唇が、静かに、そして氷のように冷たく弧を描いた。
「自ら首に縄をかけて、逃げ場のない社交界の処刑台へ飛び込んでくる……。本当に、期待を裏切らない愚か者たちですこと」
その時だった。
背後から、静かな、しかし圧倒的な質量を伴った気配が近づいてきた。
鏡越しに視線を上げれば、そこには漆黒の夜会服に身を包んだ、息を呑むような偉丈夫が立っていた。
クラウス・フォン・ヴァルハイト。
無駄な贅肉を削ぎ落とした長身を包むのは、最高位の軍功勲章と銀の飾緒が輝く漆黒の礼装。
短く刈り込まれた夜色の髪、彫刻のように研ぎ澄まされた冷徹な美貌。
そして、その黄金の瞳には――鏡に映るエレオノーラの姿を捉えて離さない、息が止まるほど濃密な熱情と、狂おしいまでの誇らしさが宿っていた。
クラウスは無言のまま、音もなくエレオノーラの背後へと歩み寄った。
そして、手袋を外した大きな素手を、月光絹を纏った彼女の華奢な肩へと、そっと置いた。
男の熱い体温が、ドレスの生地を通してエレオノーラの肌へとじんわりと伝わってくる。
「……息を呑むほど美しい、エレオノーラ」
低くハスキーなクラウスのバリトンが、エレオノーラの耳元を甘く擽った。
「北方の誇りを背負った我が妃の姿を前にして、見惚れぬ者などこの世に存在すまい」
「殿下……」
エレオノーラは鏡越しにクラウスの金の瞳を見つめ、微かに微笑んだ。
「夜会の手筈は、すべて整いましたわ。アンリエッタ公爵夫人様も、完璧にお膳立てをしてくださいました。……あの者たちは、私を公衆の面前で告発し、大公領から引きずり戻して再びタダ働きさせようと企んでいるようです」
その言葉を耳にした瞬間。
クラウスの黄金の瞳の奥で、戦場で数万の敵を凍りつかせる「黒狼」の絶対零度の殺気が、ギラリと閃いた。
「我が妃を、再びあの豚小屋へ連れ戻す、だと?」
クラウスの口元が、獲物の喉笛を噛み千切る寸前の肉食獣のように、獰猛に吊り上がった。
「面白い。あの蛆虫どもがどのような身の程知らずの妄言を吐き散らすか、全貴族の面前で見届けてやろうではないか。……エレオノーラ、お前の敵は私の敵だ。法でも、武力でも、徹底的に叩き潰してやる。お前はただ、我が隣で誇り高く微笑んでいればいい」
クラウスの指先が、エレオノーラの肩から鎖骨、そして首筋へと愛おしむように滑り、彼女の耳たぶをそっと撫でた。
絶対の庇護。
世界中の何者にも奪わせないという、狂気的なまでの誓い。
エレオノーラは胸の奥が力強く脈打つのを感じながら、黒革の手袋を指先に隙間なく引き締めた。
キュッ、と革の軋む心地よい音が、静寂な私室に響く。
鏡の前の情景は、あまりにも美しく、あまりにも残酷な対比を描き出していた。
――方や、帝都南郊のアルトハイム侯爵邸。
生ゴミと悪臭にまみれ、破れたドレスと血まみれの傷を抱え、破滅の恐怖から逃げるように醜悪な欲望と虚栄心を剥き出しにして嗤い合う、ユリウスとセレスティア。
――方や、極北の黒狼城。
全領民の祈りが込められた月光絹の至宝を身に纏い、帝国最強の武神の熱い抱擁を受けながら、冷徹無比な知性と気品を湛えて佇む、大公妃エレオノーラ。
舞台は整った。
役者は揃った。
もはや、誰にも運命の車輪を止めることはできない。
エレオノーラは伏せていた睫毛をゆっくりと上げ、鏡の中の自分を見据えた。
その藍色の瞳の奥に広がるのは、満天の星空よりも深く、冷たい絶対零度の断罪の光。
「――舞台は整いましたわ」
ふわりと、唇が極上の笑みを紡ぎ出す。
「――偽物のメッキを、綺麗に剥ぎ落として差し上げましょう」




