↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/35

第29話:ゴミ屋敷と化した侯爵邸

かつて帝都近郊において「白亜の真珠」「薔薇の宮殿」と讃えられたアルトハイム侯爵邸本館は、わずか七十二時間――三日という時間の経過によって、完全に別の生き物へと腐敗していた。


朝の光が、東側のステンドグラスを通して大廊下へと差し込んでいた。

だが、その光が照らし出していたのは、優美な貴族の邸宅の佇まいなどでは断じてなかった。

換気が一切行われていない館内には、饐(す)えた生ゴミの酸敗臭と、排水溝から逆流してきた下水の悪臭、そして何日も掃き清められていない暖炉の灰の匂いが混ざり合い、息をするだけで喉の奥がヒリつくような濃厚な濁気が充満していた。


大理石の床には、第28話で使用人たちが叩きつけていった三十人分の白いエプロン、制服の残骸、そして無数の鍵の束が、踏み荒らされたまま放置されていた。

その布屑の隙間を、昨夜セレスティアが適当に食べ散らかした果物の皮やパンの屑が点々と転がり、ブウン、と低く耳障りな羽音を立てて、丸々と肥えた黒いハエが何匹も旋回している。

手入れの行き届いていた観葉植物は、水を与えられずに茶色く枯れ果てて首を垂れ、壁面の高価なタペストリーの端には、埃と油煙がこびりついて薄汚れた灰色に変色していた。


百二十室を誇る巨大な城館。

人間の手によって毎日、朝から晩まで休むことなく磨き上げられ、手入れをされることで辛うじて維持されていたその「美」は、現場を支えていた使用人全員が一斉に退職した瞬間、砂上の楼閣のように音を立てて崩壊したのだ。


バシャン……ッ。


本館二階の貴賓室に隣接する豪奢な浴室で、鈍い水音が響いた。


「冷たっ……! ひゃあああっ! な、何なのよこれぇぇっ!?」


湯船の縁に立ち、薄手のナイトガウンの裾を濡らしたセレスティアが、けたたましい悲鳴を上げて飛び退いた。

大理石の豪華な浴槽の底に溜まっていたのは、湯気すら立っていない、氷のように冷え切った赤茶色の泥水だった。


「お湯が出ない……!? 蛇口から泥水しか出てこないじゃないの! どうなっているのよ、この屋敷は!!」


セレスティアは濡れた足先を抱え、床にへたり込んでキーキーと叫んだ。

当然だった。

アルトハイム侯爵邸の給湯システムは、地下の霊熱ボイラーに高純度の魔晶石を毎日一定量投入し、魔導工兵の手によって水質調整の術式を維持することで初めて稼働していたのだ。

その魔晶石の購入予算を「金の無駄遣い」としてセレスティア自身が却下し、さらにボイラー室を管理していた技術従僕たちも全員エプロンを叩きつけて去ってしまった。

魔力を失ったボイラーは完全に冷え切り、地下配管には錆と泥が逆流し、蛇口からは冷水すらまともに出ない。

風呂を沸かす者も、温かいタオルを用意する者も、この屋敷にはもう一人も存在しなかった。


「う……ううっ……気持ち悪い……身体中がベタベタするわ……!」


セレスティアは爪の剥げかけた指先で、自らの首筋をガリガリと掻きむしった。

ここ三日間、一度も入浴できていなかった。

自慢だったミルクティー色の髪は、脂と汗で束になって額に張り付き、白粉の塗り直しのきかない肌は荒れ果てて赤黒い吹き出物が点々と浮き出ている。

身に纏っているのは、第23話で届いたあの八百万ゴルトの特注シルクドレスだったが、いまや裾は泥水と赤ワインの染みでドロドロに汚れ、あちこちが破れて無惨なボロ布のようになっていた。

着替えのドレスはまだ何十着もある。しかし、誰の手も借りずに背中の細かな編み紐を解くことも、締め直すことも、令嬢育ちのセレスティアには一人では不可能なのだ。結局、一度着たドレスを脱ぐことすらできず、同じ服を三日三晩着たきりになっていた。


グゥゥゥ……と、みじめな腹の虫が鳴り響いた。


「お腹が空いたわ……。何か……何か食べるものは……」


セレスティアは素足のまま、冷え切った廊下をフラフラと歩き出した。

目指すのは、本館裏手の厨房。

料理長カテリーナたちが去ってから、足を踏み入れるのも嫌だった場所だ。


ギギ……と軋む重い扉を押し開けると、厨房の中は、外の廊下以上に凄惨な荒廃ぶりを晒していた。

カテリーナたちが立ち去る際、すべての火は落とされ、調理器具はきれいに片付けられていた。しかし、その後の三日間、セレスティアが空腹に耐えかねて物色した結果、調理台の上には開封された缶詰の空き缶が散乱し、生ゴミの袋が引き裂かれ、床には小麦粉の白い粉が靴跡とともに汚くこびりついていた。


セレスティアは震える手で、食糧棚の扉を開けた。

だが、棚の中は異様なほどにがらんどうだった。

肉や魚、新鮮な野菜といった生鮮食品は、毎朝帝都の商人から届いていたものだ。それらの買い出しツケ払いがストップした今、納品は完全に途絶えている。

残されていたのは、棚の奥に転がっていた、岩のようにカチカチに硬くなった保存用の乾パンが数片と、油の浮いた冷たい豚肉の塩漬けの缶詰が一つだけだった。


「ひ、火……火を起こさなきゃ……」


セレスティアは調理台の上の火打ち石と火口(ほくち)を手に取った。

だが、貧乏男爵家とはいえ令嬢として育てられ、他人に食事を作らせることしか知らなかった彼女に、火の起こし方など分かるはずもなかった。

カチッ、カチッ、と虚しく金属を擦り合わせるが、火花は散れども藁には引火しない。指先を金具で挟み、痛みに涙目になって火打ち石を床へ投げ捨てた。


「嫌ぁぁっ! なんで火もつかないのよ! こんな硬いパン、噛めるわけないじゃないの!!」


セレスティアはヒステリーを起こして叫び、缶詰の蓋をスプーンの柄で無理やりこじ開けた。

飛び散った白い油がドレスの袖を汚す。

中に入っていたのは、白く固まった脂身にまみれた、冷え切った豚肉の塊。

温めもせず、香辛料も振られていないその冷えた肉の塊を、セレスティアは指で掴み、貪るように口へと詰め込んだ。


「う……っ、ゲホッ、オエッ……!」


冷たい脂が舌の上にべっとりと張り付き、生臭い獣の臭気が鼻腔を直撃する。

強烈な吐き気が込み上げ、セレスティアは胃液とともにそれを流し台へと吐き戻した。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。


――女主人の優雅なティータイム?

――世界一贅沢な侯爵夫人?

現実は、冷え切った脂身を口にして吐き戻し、埃まみれのゴミ屋敷で飢えに怯える、惨めな一匹の野良猫にすぎなかった。


「ううっ……ユリウス様……早く帰ってきて……! お金を持って帰ってきてよぉぉ……ッ!」


セレスティアは厨房の冷たい床にうずくまり、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


***


その日の夕刻。


ガタガタと軋んだ音を立てて、一台の辻馬車がアルトハイム侯爵邸の裏門に滑り込んできた。

正規の二頭立ての侯爵家の馬車ではない。帝都の裏通りで拾った、くたびれた安馬車だった。

馬車から転がり出るように降りてきたのは、当主ユリウス・フォン・アルトハイムだった。


だが、その姿は、かつて社交界で貴婦人たちの視線を独占していた美貌の貴公子の面影を、完全に喪失していた。

フロックコートの裾には泥が跳ね、金糸の刺繍はほつれ、自慢の金髪は油とフケで薄汚れて額に張り付いている。目の下にはドス黒い隈が落ち窪み、頬は削げ落ち、その表情には狂気と疲労が入り混じっていた。


「くそっ……! どいつもこいつも……恩知らずな蛆虫どもめ……!」


ユリウスは吐き捨てるように呟き、足を引きずりながら歩いた。

この三日間、彼は帝都を駆けずり回っていた。

クライン商会から突きつけられた五千万ゴルトの差し押さえを回避するため、帝都の各大手銀行、門閥貴族の旧友、かつてアルトハイム侯爵家の威光に群がっていた取り巻き貴族たちの屋敷を、片っ端から訪ねて回ったのだ。

だが――結果は、完全なる惨敗だった。


『アルトハイム侯爵? ああ、愛人に狂って有能な正妻を追い出し、破産寸前だというあの道化か』

『申し訳ありませんが、当行ではすでにアルトハイム侯爵家への融資枠は完全凍結されております』

『おい、門番! 我が家の敷地に借金まみれの落ちぶれ貴族を入れるなと命じたはずだぞ! 塩を撒いて追い出せ!』


どこへ行っても、冷淡な門前払いと、嘲笑の嵐。

正妻エレオノーラが去り、帝国法務省が公式監査に入ったという噂は、瞬く間に帝都全土へ拡散していたのだ。信用を失った貴族に金を貸す愚か者など、この世に一人も存在しなかった。

誰一人として自分を助けてくれない。

かつて自分が「友」と呼び、金を振る舞っていた連中が、手のひらを返して自分を汚物のように見下してきたのだ。


胃の腑が焼き切れるような飢餓感と、屈辱による激しい頭痛。

ユリウスはフラフラになりながら、本館の勝手口の扉を押し開けた。


その瞬間――。


「オエッ……!?」


強烈な悪臭が、ユリウスの鼻腔を殴打した。

腐敗した生ゴミの饐えた匂い、湿気を含んだカビの臭気、そして下水の悪臭。


「な……なんだ、この臭いは……!?」


ユリウスは鼻を覆い、蹌踉めきながら本館の大廊下へと足を踏み入れた。

そして、暗がりの中に浮かび上がった屋敷の光景を目にした瞬間、彼の息が止まった。


ゴミ。

ゴミ、ゴミ、ゴミ――。

廊下の至るところに散乱する、三十人分の使用人の制服の残骸。

割れたまま放置された花瓶のガラス片。

床に散らばる腐った果物の皮に、群がる無数のハエ。

暖炉から吹き出した灰が絨毯一面を灰色に染め上げ、歩くたびにジャリジャリと不快な音を立てる。

靴を脱ぐのを手伝う従僕もいなければ、上着を受け取るメイドもいない。

静寂。死んだように冷え切った、巨大なゴミ捨て場。


「な……なんだ、これは……!? ここは……本当に、我がアルトハイム侯爵邸なのか……!?」


ユリウスの視界がぐるりと回った。

外でどれほど屈辱を味わおうと、屋敷に帰れば、温かい暖炉と、極上のワインと、自分を優しく癒やしてくれる可憐なセレスティアが待っているはずだった。

それなのに――目の前に広がるこの光景は、帝都の最下層の貧民窟(スラム)の豚小屋そのものではないか!


「セレスティア!! セレスティア、どこにいるッ!!」


ユリウスは怒号を張り上げ、大サロンの扉を乱暴に蹴破った。


薄暗いサロンの中央。

埃の積もったソファの上で、ボサボサの髪のまま丸まり、爪を噛んでいたセレスティアが、ビクリと肩を跳ね上がらせて顔を上げた。


「ユ……ユリウス様……!?」


「セレスティア! なんだこの豚小屋はァッ!!」


ユリウスは目を血走らせ、泥だらけの靴のままサロンの中へと踏み込んだ。

テーブルの上に散乱する、干からびたマカロンの残骸と、倒れたままのワイングラスを指差し、唾を飛ばして叫ぶ。


「掃除はどうした! なぜ廊下にゴミが散らばっている! それに、飯はどうしたんだ! 私は朝から何も食っていないんだぞ! おい、温かいスープとステーキを今すぐ持ってこい! それから、私の明日の正装の上着のアイロンはどこだ! 靴の泥を拭く雑巾を持ってこいッ!!」


矢継ぎ早に浴びせられる怒号。

だが――その言葉を聞いた瞬間、ソファの上で縮こまっていたセレスティアの瞳の奥で、何かがプツリと音を立てて弾け飛んだ。


彼女はガバッと跳ね起きると、破れたドレスの裾を踏み越え、鬼のような形相でユリウスの前に仁王立ちになった。


「飯!? アイロン!? 靴磨きですってぇぇぇっ!?」


鼓膜を劈くような金切声が、サロンを激しく震わせた。


「私に使用人の仕事をしろって言うの!? 私は侯爵夫人よ! 貴方の召使いじゃないわよッ!!」


「な……何だとォッ!?」


「文句があるなら、自分で作りなさいよ! 自分で掃除しなさいよ! お風呂のお湯も出ない、火もつかない、食べるものなんて腐った冷たい肉しかないのよ! 私だって三日間、お風呂にも入れず、こんな硬いパンをかじって飢え死にしそうだったのよ!!」


セレスティアは髪を振り乱し、胸元の引き裂かれたドレスを露わにしながら喚き散らした。

その顔には、かつてユリウスが「守ってやりたい」「可憐な花だ」と蕩けていた面影など、微塵も存在しなかった。

剥き出しの牙、赤黒く爛れた目、涎を撒き散らす歪んだ口元。

そこにいるのは、哀れな被害者を気取ることすら忘れ、剥き出しの自己保身で他者を食い破ろうとする――醜悪極まりない般若そのものだった。


「あんたが不甲斐ないからでしょうが! お金を持って帰ってきたの!? 五千万ゴルトは工面できたの!? できないんでしょう!? 大貴族の当主のくせに、一銭も借りられない甲斐性なしの無能男のくせに、偉そうに私に命令するんじゃないわよォォッ!!」


「か……甲斐性なしだとォォッ!?」


ユリウスの頭の血管が、ブチブチと音を立てて千切れそうになった。

プライドの最後の砦を、最も見下していたはずの愛人に土足で踏みにじられた衝撃。


「誰のせいで金がないと思っているんだ、このアマァッ! 貴様が八百万ゴルトものドレスを勝手に発注し、自警団の予算をゴミ箱に捨てたから、魔獣が入ってきて領地がめちゃくちゃになったんだろうが! この疫病神! 泥棒猫! 貴様さえ屋敷に入れなければ、こんなことにはならなかったんだッ!!」


「私のせいにするんじゃないわよ! あんたが『セレスティア、君こそが真の女主人だ』って言って鍵を渡したんじゃないの! 全部あんたの責任よ! この無能! 疫病神はお前の方よォォッ!!」


サロン中に響き渡る、罵詈雑言の応酬。

二人は互いに唾を飛ばし合い、胸ぐらを掴み合おうとして床のゴミに足を取られ、無様に転がりそうになる。

愛を誓い合ったはずの男女が、いまや世界で最も憎悪し合う敵同士となって、醜悪に罵り合っていた。


だが――。

叫び散らしながら、ユリウスの胸の奥底に、冷たい氷の棘がチクリと突き刺さった。


(……なぜだ?)


ユリウスの視線が、虚ろにサロンを彷徨った。

床に散らばる生ゴミ。割れた食器。悪臭。

そして、目の前で髪を振り乱して口汚く喚き立てる、醜い女。


(……なぜだ? エレオノーラがいた頃は……こんなこと、一度もなかったはずだ……!)


走馬灯のように、かつての日々の光景が脳裏に蘇る。

エレオノーラがこの屋敷を統括していた、あの五年間。

どんなに夜遅く帰宅しても、玄関の扉を開ければ、完璧に磨き上げられた床が温かなランプの光を反射していた。

廊下には常に清らかな百合と薔薇の花が活けられ、心地よい香気が満ちていた。

脱ぎ捨てた上着は翌朝には完璧にアイロンがかけられてクローゼットに並び、風呂には常に適温の湯が張られ、食堂へ行けば、湯気を立てる極上の温かい料理が時間通りにテーブルを彩っていた。

領地の財政も、堤防も、自警団も、何の破綻もなく、時計の歯車のように寸分の狂いもなく回っていたのだ。


ユリウスはそれを、「名門アルトハイム侯爵家の威光のおかげ」だと信じ込んでいた。

当主である自分の血統の徳によって、天から自然と降ってきた当たり前の日常なのだと、微塵も疑っていなかった。

エレオノーラが朝から晩まで帳簿に向かい、眉間に皺を寄せている姿を、「女のくせに要領が悪く、暇そうにお茶を飲んでいるだけの退屈な道具」と嘲笑っていたのだ。


だが――違った。

すべて、違っていたのだ。


――『貴族の優雅な生活』とは。

裏で回る緻密なマネジメント、毎朝五時からの血の滲むようなスケジュール管理、数十名の使用人たちを統率する圧倒的な統御力、そして何千万ゴルトという莫大な私財の立て替えがあって初めて成立する――極めて高度で、奇跡的な人工の結晶だったのだ。


その心臓部であったエレオノーラを、自らの愚行によって追い出し。

代わりに、努力を嫌い、数字も読めず、他人の成果を貪ることしか能のない寄生虫を女主人の座に据えた瞬間。

アルトハイム侯爵家の生活インフラは、たったの三日で完全に崩壊した。

文明が失われ、ただの巨大な豚小屋へと先祖返りしたのだ。


(俺が……俺自身の手で、あの女を手放したというのか……? あの、すべてを完璧に回していた、至高の神の手を……!?)


理解した瞬間、ユリウスの背筋を、絶対零度の悪寒が駆け抜けた。

後悔。絶望。

だが、彼の腐りきったナルシシズムは、己の過ちを認めることを断固として拒絶した。


「くそっ……! あいつだ……! エレオノーラの奴め、私にこんな惨めな思いをさせるために、すべてを仕組んで逃げ出したんだ! 絶対に許さん……! あいつを連れ戻して、もう一度この屋敷を元通りに掃除させてやる! 土下座させて、タダ働きさせてやるんだァッ!!」


狂ったように壁を殴りつけるユリウス。

自らの無能が生み出した地獄を、どこまでも前妻への逆恨みへとすり替える哀れな道化。


一方、セレスティアはサロンの隅に置かれていた、姿見の前に立っていた。

埃と指紋で薄汚れたその鏡に映し出された、自分の姿。


「…………っ!?」


セレスティアは息を呑んだ。

鏡の中にいたのは、帝都の貴婦人たちから羨望の眼差しを向けられるはずの、可憐で美しい侯爵夫人ではなかった。

髪は油でベタつき、肌は荒れ果て、頬には赤黒い生傷。

着崩れて泥に汚れたドレスを纏い、目の下には死人のような隈を張り付かせた、見るも無残な狂女の姿。


「嘘……嘘よ……! これが、私……!? こんな醜い女が、この私だなんて嘘よォォォッッ!!」


パリンッッ!!


セレスティアは手元にあった銀の燭台を鏡めがけて投げつけた。

蜘蛛の巣のようにひび割れ、砕け散る鏡の破片。

床にへたり込み、頭を抱えて絶叫するセレスティアの声が、ゴミだらけのサロンに虚しく木霊する。


――その時だった。


ガラガラ……と、本館の正面玄関の郵便受けの蓋が開き、乾いた音を立てて何かが床へと滑り落ちた。

老執事ルートヴィヒが、死んだ魚のような瞳でその郵便物を拾い上げ、埃っぽいサロンの入り口へと静かに歩み寄ってきた。


「……閣下。セレスティア様」

ルートヴィヒの声には、もはや怒りも焦燥もなかった。完全なる無。

「帝都より……宮内省の特使を通じて、書簡が届きました」


「しょ、書簡……?」

ユリウスが血走った目を向けた。

「借金の督促状か!? もう見たくもない、破り捨てろ!」


「いいえ。……差出人は、ロートシルト公爵邸でございます」


――ロートシルト公爵邸。

その名が響いた瞬間、サロンの空気がピクリと震えた。


ルートヴィヒが差し出したのは、これまでの薄汚れた請求書とは一線を画す、息を呑むほど豪奢な一通の手紙だった。

最高級の厚手の羊皮紙。

周囲には純金の金箔で繊細な唐草模様が縁取られ、中央には、皇帝の叔母にして帝国社交界の最高権威――アンリエッタ・フォン・ロートシルト公爵夫人の家紋印章が、深紅の蝋によって厳重に封印されていた。


ユリウスは奪い取るようにその手紙を受け取り、震える指で封蝋を引き裂いた。

中から現れた金文字の招待状を目にした瞬間、彼の濁りきっていた瞳に、ギラリと狂気的な光が宿った。


「こ……これは……!?」


『帝国暦342年・初夏 白樺宮殿の夜会へのご案内

アルトハイム侯爵ユリウス・フォン・アルトハイム閣下、ならびに同伴者一名殿――』


帝国最大の社交の祭典。

皇帝陛下をはじめ、全帝国の有力諸侯、高位貴族、外国の大使が一堂に会する、最高格式の夜会『白樺宮殿の夜会』への正式な招待状だった。


「ひ……光だ……!」

ユリウスの口元が、だらしなく吊り上がった。

「これだ……! これだぞ、セレスティア!!」


「え……?」

床で泣いていたセレスティアが、涙で腫らした目を上げた。


「この夜会には、皇帝陛下も、帝国中の大貴族も全員集まる! そして何より――あの黒狼大公と、あいつ……エレオノーラも必ず出席するはずだ!」

ユリウスは招待状を胸に抱きしめ、狂乱した笑い声を響かせた。

「全貴族の面前で、訴えてやるのだ! エレオノーラがいかに不当に家を出て行き、侯爵家の財産を持ち逃げし、大公を誑かした悪女かを公衆の面前で暴露してやる! 世論を味方につければ、大公もエレオノーラを手放さざるを得ない! そうすれば、あいつを合法的に連れ戻せる! またこの屋敷で、あいつにタダ働きさせて、借金を全部払わせればいいんだァッ!!」


「まあ……!」

セレスティアの瞳にも、一瞬にして浅ましい欲望の炎が蘇った。

「そうですわ、ユリウス様! 最高のドレスを着ていけば、社交界の皆様は私こそが真の侯爵夫人にふさわしいと認めてくださいますわ! あの地味なエレオノーラに、大恥をかかせてやれますわね!」


ゴミと悪臭にまみれた豚小屋の中で。

互いに罵り合っていたはずの二人の道化が、再び手を取り合い、狂気と虚栄心に満ちた醜悪な笑みを浮かべていた。


彼らは知らなかった。

その金色の招待状こそが――。

逃げ場のない社交界のど真ん中に二人をおびき寄せ、全貴族の面前でそのメッキを完膚なきまでに剥ぎ落とすために、エレオノーラとアンリエッタ公爵夫人が裏で仕組んだ、【公開処刑用の特等席】であったということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
あらら…(⑉⊙ȏ⊙)
まだ侯爵家の財産持ち逃げとか言ってる..それに侯爵夫人でもないし..誰か!いいかげん理解させて〜早く続きみたい!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。