第28話:使用人たちの反乱
どんよりとした灰色の鉛雲が、アルトハイム侯爵邸の屋根を重々しく覆い尽くしていた。
東部森林の結界が砕け散り、魔獣の群れがエルム村を蹂躙したあの惨劇から、数日。
かつて帝都近郊で最も美しく、最も誇り高いと讃えられた侯爵邸の威容は、いまや見る影もなく荒れ果てていた。
正面の鉄門の外からは、今日も今日とて住処を追われた避難民たちの悲鳴と、借金の返済を迫る商人たちの怒号が、冷たい風に乗って途絶えることなく響き渡っている。
庭園の芝生は踏み荒らされ、噴水は濁った泥水を湛えたまま停止し、本館の廊下には割れた花瓶の破片やすすけた煤煙の匂いが染み付いていた。
当主であるユリウスは、魔導ギルドからの門前払いや借金の督促状の山から逃避するように自室に閉じこもり、朝から晩まで強いブランデーをあおっては、虚空に向かって意味の通らない罵詈雑言を叫び散らかしている。屋敷の統治機能は、完全に麻痺していた。
だが――そんな破滅の足音が間近に迫る館の中にあって、この日だけは、使用人たちの間に奇妙な緊張と、かすかな期待が漂っていた。
月末二十五日。
アルトハイム侯爵邸における、月に一度の正規の『給料日』である。
本館一階、かつてエレオノーラが領地の差配を行っていた執務室の前には、朝から長い列が作られていた。
厨房を預かる料理人や下働き、本館の清掃や洗濯を受け持つメイドたち、馬車や庭園を管理する庭師や従僕たち――。
すでに給与の遅配に耐えかねて逃げ出した者も少なくなかったが、先代の時代からこの屋敷に仕え、家や家族を領内に抱えている古参の者たちを中心に、三十名近い使用人が身を寄せ合うようにして並んでいた。
「……今日こそは、ちゃんと支払われるんだろうね?」
「当たり前だよ。先月分だって一週間も遅れたんだ。これ以上待たされたら、子供の薬代も払えないよ」
「東の村があんなことになって、物価も跳ね上がってるんだ。頼むから満額出してくれないと困る」
使用人たちの間から漏れる声は、不安と疲弊に押し潰されそうだった。
彼らも馬鹿ではない。屋敷の金庫が底をつきかけているという不穏な噂や、帝都から怪しげな商人や法務官が乗り込んできたことは知っていた。
だが、それでも彼らは、日々の過酷な労働を投げ出さずに耐えてきたのだ。
どんなに理不尽な癇癪をぶつけられようと、夜中に呼び出されて無理難題を押し付けられようと、「給料さえもらえれば、家族を養える」というその一点だけを支えにして、歯を食いしばってきたのである。
その列の先頭に、腕を組み、仁王立ちになって扉を睨み据えている一人の初老の女性がいた。
アルトハイム邸の厨房を取り仕切って三十年――料理長カテリーナ・バウアーである。
大柄で骨太な体躯に、汚れ一つない清潔な白エプロンをきっちりと締め、白髪混じりの豊かな髪を三角巾の中にきつく収めている。そのごつごつとした岩のような顔には、歴戦の女傑特有の峻厳な光が宿っており、後ろに並ぶ若いメイドたちをその広い背中で守るように立っていた。
カテリーナの懐には、今朝までにまとめた厨房の買掛金台帳と、下働きの若者たちの労働日誌がしっかりと抱えられていた。
彼女の分厚い唇は真一文字に結ばれ、その瞳の奥には、燃え盛る残り火のような静かな怒りが沈んでいた。
やがて、執務室の内側から、カチャリと重厚な真鍮の鍵が開く音が響いた。
ギギ……と扉が開き、中から姿を現したのは――老執事ルートヴィヒではなかった。
部屋の奥から、ゆったりとした足取りで歩み出てきたのは、セレスティア・ランベルトその人だった。
「…………っ」
列を作っていた使用人たちから、一斉に息を呑むような微かな音が漏れた。
その視線に込められていたのは、敬意などでは断じてない。拭いようのない嫌悪と、呆れ果てた軽蔑だった。
セレスティアの姿は、領地が未曾有の危機に瀕していることなどどこ吹く風といった様子で、過剰なまでの装飾で塗り固められていた。
第23話で納品されたばかりの、八百万ゴルトのツケ払いで仕立て直させた特注のドレス。鮮やかなサーモンピンクの最高級シルクに、幾重にも重なるレースとリボン。首元には、昨夜ザイデル子爵から贈られたばかりの、大粒のエメラルドの首飾りがこれ見よがしに揺れている。
頬の切り傷を濃い白粉で誤魔化し、扇子を優雅に揺らしながら、彼女は執務机の奥の豪奢な革張り椅子へと腰を下ろした。
机の上には、真鍮の秤と、いくつかの小さな麻袋が無造作に転がされている。
だが、その麻袋の薄さは、三十人分の給与が入っているとは到底思えないほど、貧相に萎びていた。
「皆様、ごきげんよう。……朝から騒々しく並んで、何の騒ぎかしら?」
セレスティアは扇子で口元を隠し、さも不快そうに細めた瞳で使用人たちの列を見下ろした。
その声音には、他人の労働に対する感謝のかけらすら存在しなかった。あるのは、自分より身分の低い下賤な者たちに対する、あからさまな見下しだけ。
列の先頭から、カテリーナが一歩、前へ踏み出した。
ドス、と床を鳴らす重い足音。
「セレスティア様。ご挨拶は結構でございます。……本日は定例の給料日でございます。ここに、厨房、洗濯場、清掃係、ならびに庭師一同の今月分の労働賃金明細を提出いたします。速やかに、現金での満額支給をお願いいたします」
カテリーナは感情を交えず、淡々と、しかし廊下の隅々まで響き渡る太い声で告げた。
手元の台帳を執務机の上にドンと置く。
セレスティアは眉間に不快そうな皺を寄せ、台帳には指一本触れようともせず、扇子をパタリと閉じた。
「給料、給料って……どいつもこいつも、浅ましい平民はそればかりですわね。少しは主家の苦境を思いやるという奥ゆかしさがないのかしら」
セレスティアはわざとらしく溜息をつき、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
そして、手元の萎びた麻袋の一つを、人差し指の先でチョンと小突いた。
カラン、と惨めな小銭の音が響く。
「申し上げておきますけれどね。今月は、このお屋敷の改装費や、私の新しい調度品の手配などで、何かと臨時の出費がかさみましたの。……それに、東の村で魔獣が出たとか何だとかで、領地の収益も落ちているのでしょう?」
セレスティアは冷淡に、まるで天候の愚痴でもこぼすかのような軽薄さで言い放った。
「ですから――今月は、皆様のお給料は【一律で半額】とさせていただきますわ」
「……………………は?」
静寂。
執務室の前を埋め尽くしていた三十人の息の根が、一瞬にして止まった。
誰もが、自分の耳を疑った。
「は、半額……? いま、何と仰いました……?」
後ろに並んでいた若いメイドが、震える声で呟いた。
「聞こえませんでしたの? 半額ですわ」
セレスティアは嘲笑を浮かべ、さも慈悲深い女主人であるかのように胸を反らせた。
「本来ならば、無断で仕事をサボって逃げ出した使用人が大勢出たのですから、連帯責任として全額没収にしてもよかったくらいですのよ? それを、半分だけでも恵んであげようというのですから、私の寛大さに感謝してほしいくらいですわ。……皆様、名門アルトハイム侯爵家に仕える栄誉をお持ちなのですから、たかが半額くらいで文句はありませんわね?」
侯爵家に仕える名誉。
その言葉が、セレスティアの桜色の唇から平然と吐き捨てられた瞬間。
――ピキリ。
張り詰めていた廊下の空気が、完全にひび割れた。
使用人たちの顔から、血の気が引いていく。
改装費がかさんだ?
調度品の手配?
自分たちが着る物も切り詰め、割れた食器を使い回し、泥棒猫が贅沢三昧で買い漁った八百万ゴルトの特注ドレスや宝石のツケを払うために――なぜ、一日中泥にまみれて働いてきた自分たちの給料が、半分に削られねばならないのか。
家で待つ病気の子供に、温かいスープを飲ませることもできなくなる。
冬を越すための薪すら買えなくなる。
それを――「名誉があるのだから文句はないだろう」だと?
「……ふざけるんじゃないよ」
地を這うような、低く唸る声が、静寂を切り裂いた。
セレスティアが「え?」と眉をひそめて視線を戻した、その刹那。
バァァァァァンッッ!!!!
カテリーナの分厚い両拳が、執務机を割らんばかりの勢いで叩きつけられた。
机の上の真鍮の秤が激しく跳ね上がり、麻袋が床へと転がり落ちて、黒ずんだ銀貨が数枚、無様に散らばる。
「ひゃっ……!?」
セレスティアは椅子の上で跳ね上がり、悲鳴を上げて後退った。
「な、何をするのよ、この下品な下女が! 無礼にも程が――」
「黙りな、この泥棒猫がァッッ!!!!」
カテリーナの怒号が、雷鳴となって執務室の天井を突き抜けた。
その凄まじい気迫に、セレスティアの言葉が喉の奥へと強制的に押し戻される。
カテリーナは首筋の血管を浮き上がらせ、両手で自らの首元のエプロンの紐を掴むと――ブチィッ!と音を立てて引きちぎった。
三十年間、アルトハイム侯爵家の厨房の誇りとして身につけ続けてきた、純白のエプロン。
彼女はそのエプロンを、クシャクシャに丸めると、執務机のセレスティアの鼻先めがけて、全力で叩きつけたのだ。
バサァッ!
「名誉だと!? 名誉で腹が膨れるかいッ!!」
カテリーナの瞳から、激しい怒りの炎が噴き出していた。
「あんたが首に巻いてるその薄汚い宝石一つで、ここにいる全員が何ヶ月飯を食えると思ってるんだ! 先代の残した大事なワインを泥水のように呷り散らかし、贅沢なドレスを床に引きずり回しておいて……自分たちの無駄遣いの尻拭いを、なんであたしたちの給料で払わなきゃならないんだよ!!」
「な……な、なんですってぇぇ!?」
セレスティアは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「私は侯爵夫人よ! 女主人の私に向かって、なんて口の利き方をするの! クビよ! あんたなんか今すぐクビにして、路頭に迷わせてやるわ!!」
「言われなくても、こっちから願い下げだよ!!」
カテリーナは鼻先で唾を吐き捨てるように言い放った。
「あんたみたいな性悪女の残飯を作るために、三十年間料理長をやってきたんじゃない! 前奥様――エレオノーラ様はね、あたしたち使用人の生活を、命を、いつだって一番に考えてくださっていたんだよ!!」
――前奥様、エレオノーラ様。
その名が出た瞬間、カテリーナの脳裏に、あの日――第6話の深夜の記憶が、鮮烈に蘇っていた。
私財をトランクに詰め込み、旅立ちの準備を整えていたエレオノーラ様の、あの凛とした、澄み切った瞳。
あの時、エレオノーラ様は、カテリーナのごつごつとした節くれだった両手の上に、ずっしりと重たい革袋を握らせてくださったのだ。
『私の個人資産から出す、貴女への正当な退職金です。厨房の信頼できる古参の者たちにも、適正に分け与えなさい』
『近いうちに、この屋敷は音を立てて沈みます。……泥舟から逃げ出す準備をなさい』
本物の帝国金貨、三百枚。
平民の大家族が何年も贅沢に暮らせるだけの莫大な大金が、すでにカテリーナの自宅の床下に、厨房の仲間たちの分も含めてしっかりと確保されていたのだ。
さらに、筆頭侍女ジゼルを通じて、極秘裏に通達が届いていた。
『大公領ヴァルハイトの城下町に、誠実な職人たちのための受け入れ先を用意してある。いつでも来なさい』と。
そう――カテリーナたちには、恐れるものなど何一つなかったのだ。
この泥舟に留まる理由も、この無能な愛人に頭を下げる理由も、最初から一欠片たりとも存在しなかったのである!
「やってられるかァッ!」
カテリーナの背後から、若い庭師の青年が怒声を上げた。
「先週の買い出しのツケだって、俺の名前で八百ゴルトも溜まってるんだぞ! 商人たちに街で待ち伏せされて、殴られそうになったんだ!」
「清掃用の石鹸も、リネンの替えも、全部自腹で買えって言われたのよ!」
「東の村の親戚が魔獣に襲われたのに、見舞金一つ出さないで、自分だけ新しいベッドを買い換えるなんて人間のやることじゃないわ!」
「そうだ! 給料を半分にするなら、今までの未払いのツケを全部耳を揃えて払いなさいよ!」
「エレオノーラ様を追い出したバチが当たったんだ! この泥棒猫!」
「人殺し! 詐欺師!」
怒号の濁流が、執務室を揺るがした。
三十人の使用人たちが一斉に前に押し寄せ、セレスティアに向かって罵声を浴びせかける。
これまで階級の壁に押し込められ、従順に頭を垂れてきた平民たちの怒りが、限界を超えて爆発した瞬間だった。
「ひ……ひぃぃぃっ!?」
セレスティアは顔面蒼白になり、扇子を取り落として後退った。
怯えたように机の端にしがみつき、叫び声を上げる。
「ゆ、ユリウス様ーーッ! 誰か! 誰か助けてぇぇっ! 使用人どもが暴動を起こしてますわッ!!」
だが、呼んでも無駄だった。
二階の寝室に引きこもったユリウスは、ブランデーの泥酔の中で耳を塞ぎ、階下の騒ぎから逃げるように毛布を被って震えているだけだった。
「誰も来やしないよ」
カテリーナは冷え切った眼差しでセレスティアを見下ろした。
彼女は腰のベルトから、厨房の全倉庫、食糧庫、ワインセラーの合鍵が束ねられた、巨大な鉄の鍵束をジャラリと引き抜いた。
「あんたが望んだんだろう? 女主人の座を奪い、この屋敷のすべてを手に入れたいってね」
カテリーナは鍵束を高く掲げると――。
――ガシャンッッ!!!!
凄まじい金属音とともに、執務机の上、セレスティアの目の前へと力任せに叩きつけた。
「本日限りで、全員辞めさせていただきます!!」
カテリーナの宣告に呼応するように、後ろに並んでいた使用人たちが、一斉に動いた。
バサッ! ガシャン! ドサッ!
メイドたちが頭の白いフリルキャップをむしり取って床に投げ捨て、エプロンを脱ぎ捨てる。
従僕たちが銀の給仕手袋を叩きつける。
洗濯係が洗剤の鍵を、庭師たちが剪定鋏を、掃除係が雑巾とブラシを――。
三十名の使用人全員が、主家への服従の証であった制服と道具のすべてを、セレスティアの足元へと、雨あられのように投げつけたのだ。
「辞めてやる! こんな呪われた屋敷、誰が残るもんか!」
「精々、その空っぽの屋敷でお腹を空かせて死ぬんだね!」
「さようなら、偽物の奥様!」
罵倒とともに、使用人たちは一斉に踵を返した。
誰一人として振り返る者はいない。
彼らはすでに、エレオノーラ様が待つ北の新天地へ向かうための荷造りを終えていた。
足音高く、誇らしげに廊下を行進していく三十名の背中。
あっという間に、執務室の前には、嵐が過ぎ去った後のような完全な静寂だけが取り残された。
「あ……あ……」
一人取り残された執務室。
セレスティアは、ガタガタと歯の根を合わずに震えながら、自らの足元を見下ろした。
そこには――。
床一面を埋め尽くすように散らばった、三十人分の白いエプロン、制服の残骸、そして無数の鍵の山。
掃除をする者もいない。
食事を作る者もいない。
お茶を淹れる者も、風呂を沸かす者も、服にアイロンをかける者も、門番すらも――誰一人として存在しない。
広大無辺にして、埃と悪臭にまみれた、百二十室の巨大な墓場。
その中心に、泥棒猫は、たった一人で置き去りにされたのだ。
「う……嘘……嘘でしょ……?」
セレスティアの膝が折れ、散らばるエプロンの山の上へと無様に崩れ落ちた。
指先が冷たく凍りついていく。
女主人の座。
自分が奪い取ったはずのその栄華の正体が、いま、音を立てて彼女自身の首を絞め上げていた。




