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第27話:クラウスの嫉妬

万丈の氷壁を渡る夜風が、黒狼城の天守を低く鳴らしていた。

外の気温は零下を遥かに下回り、吐く息すら瞬時に凍てつく極北の深夜。しかし、大公夫妻の私室を満たしているのは、暖炉に赤々と燃える白樺の薪の爆ぜる音と、壁内の温風パイプがもたらす柔らかな春の熱気だった。


室内の中央、重厚な黒檀の丸テーブルに置かれた魔導ランプの淡い光の下で、エレオノーラは一人、革表紙の手帳に万年筆を走らせていた。


「白カモミール三、氷晶ハッカ一、地熱乾燥させた月光草の根を二……。これらを細かく粉砕し、ヘスブルク秘伝の微細な浄化魔力を帯びた氷砂糖とともに封入する。……湯を注げば、大地の温もりが五臓六腑を巡り、頭部の熱を優しく冷まして自然な眠りへと誘うはずだわ」


サラサラと、流れるような美しい文字が紙面を埋めていく。

昼間の茶会で諸侯夫人たちから得た極秘情報――帝国社交界の頂点に君臨する女帝、アンリエッタ・フォン・ロートシルト公爵夫人が長年苦しんでいるという「重度の冷え性と極度の不眠症」。

帝都の宮廷医師団が匙を投げたその難病を、この北方の地熱温室ハーブティーによって完全に癒やすための、完璧な処方箋の設計図だった。


エレオノーラはペンを止め、ふっと細い息を吐き出した。

白磁の頬には、昼間の茶会と、その後の領内視察の心地よい疲労が微かに滲んでいる。

茶会を終えた後、彼女は副官ヨアヒムを伴い、新農道が開通したばかりの国境守備隊の第二詰所へと足を運んでいたのだ。兵站の流通状況を自らの目で確かめ、現場の兵士たちに防寒具や保存食が行き届いているかを点検するためだった。


その詰所で起きた、ささやかな出来事が脳裏を過る。

視察の終わり際、二十歳にも満たない若い守備隊の騎士が、耳まで真っ赤に染めながら、おずおずとエレオノーラの前へと進み出てきたのだ。

その手には、過酷な雪山の岩肌に自生する、可憐な薄青色の高山植物――『雪割リンドウ』の小さな花束が握られていた。


『大公妃殿下……! あ、あの、これを受け取ってください! 殿下が黒枯れ平原の瘴気を浄化してくださったおかげで、村に残してきた私の妹の肺の病が、奇跡のように治ったのです……! これは、私と家族からの、心からの感謝の印です!』


直立不動で、震える手で差し出された素朴な花束。

かつてアルトハイム侯爵邸にいた頃は、領民から向けられるのは「冷酷なケチ女」という陰口と侮蔑ばかりだった。誰かの命を救い、その家族からこれほど真っ直ぐな感謝の光を向けられたことなど、前世の五年間の記憶をいくら探しても存在しなかった。

嬉しかった。胸の奥がじんわりと温かくなり、エレオノーラは自然と、慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべてその花束を受け取ったのだ。


『ありがとうございます。大切にお部屋に飾らせていただきますね』


その時の、泣きそうなほど顔を綻ばせていた少年の純朴な笑顔。

手帳の端に押し花として挟んだその青い花弁を見つめ、エレオノーラの口元に、いま一度微かな微笑みが零れ落ちた。


「……本当に、皆様温かい方ばかりね。この北方の地を、何としても豊かにしてみせなくては」


独り言を呟き、再びペンを執ろうとした――その刹那だった。


――スッ。


何の足音も、衣擦れの気配すらなく。

背後から伸びてきた逞しく強靭な腕が、座っていたエレオノーラの華奢な胴回りを、すっぽりと抱きすくめた。


「きゃっ……!?」


驚いて声を上げた瞬間には、すでに逃げ場は失われていた。

背中に密着したのは、仕立ての良い部屋着越しにもはっきりと伝わってくる、鋼のように硬く分厚い胸板の質量。そして、夜の吹雪の冷気と、それと相反する猛烈に熱い男の体温の匂い。

エレオノーラの手から、万年筆が零れ落ちそうになる。

それを遮るように、もう一本の長い指が伸びてきて、机の上の手帳ごと、無言でパタンと閉じて奪い去った。


「だ……殿下……!?」


エレオノーラが首を巡らせようとしたが、大きな手がそっと彼女の後頭部を支え、強引に前を向かせたまま固定した。

背後から、耳朶を直接焼き焦がすかのような、低く掠れたハスキーな声が降ってくる。


「……何を見つめて笑っていた、エレオノーラ」


クラウスだった。

濡れた漆黒の前髪が、エレオノーラの肩口へと無造作に落ちてくる。

その声は、普段の冷静沈着な軍司令官のものとはまるで違っていた。低く、喉をゴロゴロと鳴らす猛獣のように不穏で、あからさまに不機嫌な棘を孕んでいる。


「な、何って……昼間の茶会の記録と、アンリエッタ公爵夫人へ送るハーブの調合を……」


「手帳の端に挟んである、あの青い花のことだ」


ピクリ、とエレオノーラの肩が跳ねた。

クラウスの腕が、ギリリと音を立てて細い腰をさらに強く締め上げる。痛まないよう絶妙に加減されてはいるものの、絶対に己の腕の中から逃がさないという、狂気じみた拘束の力。


「……見ていたぞ」

クラウスの唇が、囁くたびにエレオノーラの耳の輪郭を微かにかすめる。

「夕刻、国境守備隊の詰所だ。あの年端も行かぬ若い小僧が、お前に花を差し出したな。……そしてお前は、あのような無防備で、見たこともないほど愛らしい笑顔を浮かべて、それを受け取った」


「え……?」


エレオノーラは目を丸くした。

言葉の意味を咀嚼するのに、数秒の時間を要した。

まさか。

帝国全軍の頂点に立ち、数万の敵軍を前にしても眉一つ動かさぬ「黒狼大公」が。

国境警備の一兵卒が、領主の妻へ純粋な感謝を込めて手渡した、たった一握りの野花に腹を立てているというのか?


「あ、あの方は……! 妹さんの重い肺病が、私の結界術で治ったと……その感謝を伝えに来てくださっただけですわ! 他意など微塵もございません!」


「理由など、どうでもいい」


遮るように吐き捨てられた言葉は、あまりにも横暴で、あまりにも子供じみていた。

クラウスはエレオノーラの首筋に自らの額を押し当て、唸るように息を吐き出した。熱い呼気が、襟元の柔らかな皮膚をチリチリと灼く。


「誰の病が治ろうと、誰が感謝しようと、そんなことは知ったことか。……あの男はお前を女として見ていた。お前の美しさに息を呑み、頬を赤らめ、お前の笑顔を手に入れて悦に浸っていたのだ。……その場で首を刎ねてやらなかっただけでも、私の自制心を褒めてほしいくらいだぞ」


「な……ななな、何を仰っているのですか、殿下!?」

エレオノーラは顔から火が出るほどの動揺を覚え、もがきながら声を上擦らせた。

「あんな年下の少年兵に対して、首を刎ねるだなんて……! 理不尽にも程がありますわ! 私と殿下は、あくまで大公領の再生のための『契約上の夫婦』のはずでしょう!?」


――契約上の夫婦。


その単語を口にした瞬間、背後の空気が、一瞬にして爆発的な熱量を帯びて張り詰めた。


「……まだ、そのような寝言をほざくか」


「ひゃっ……!?」


視界が、ぐるりと激しく反転した。

クラウスが椅子からエレオノーラの身体を軽々と抱き上げると、大股で二歩、部屋の奥へと踏み出したのだ。

柔らかなシーツの沈み込む感触。

天蓋付きの豪奢な巨大寝台の上へと、エレオノーラは押し倒されていた。


逃げようと身を起こしかけた瞬間、影が覆いかぶさってきた。

クラウスの両膝が、エレオノーラの腰の両脇に割り込み、身動きを完全に封じる。

そして、バタつかせようとしたエレオノーラの両手首を、クラウスの大きな左手が、まるで頑丈な手枷のようにまとめて頭上へと押さえつけた。

力は強い。しかし、細い骨を軋ませないよう、手袋を外した男の掌の内側は驚くほど優しく、繊細に彼女の手首を包み込んでいた。


「で、殿下……っ、離してくださいまし……!」


「嫌だと言ったら、どうする?」


見下ろしてくるクラウスの美貌。

月光を背負ったその輪郭は、息を呑むほどに峻厳で、妖艶だった。

濡れた黒髪が額に張り付き、その隙間から覗く黄金の瞳が、暗がりの中で爛々と、まるで飢えた野獣のように怪しい光を放っている。

昼間、軍の先頭に立っていた威厳ある総司令官の仮面は、完全に剥ぎ取られていた。

そこにいるのは、手に入れた至宝を誰にも触れさせまいと、牙を剥き出しにして威嚇する、剥き出しの「雄」そのものだった。


「私の前以外の男に、あのような無防備な顔を見せるなと言ったはずだ」

クラウスの右手が、エレオノーラのドレスの襟元へと伸びた。

ボタンが一つ、プチリと外される。

冷たい夜気が、露わになった白磁の鎖骨を撫でた。


「ひ……っ」

エレオノーラが身を縮こまらせる。

だが、クラウスは躊躇わなかった。男の熱い唇が、剥き出しになった彼女の鎖骨の窪みへと――ジュウッと音を立てるかのように、容赦なく押し当てられたのだ。


「ん……っ、あ……っ!?」


甘い痺れが、接触面から全身の血管を駆け巡った。

吸い付くような、深く、執拗な口づけ。

男の熱い舌先が、柔らかな皮膚を舐め上げ、微かな痛みを伴って肉を吸い上げる。

痕を残しているのだ。

誰の目にも触れぬこの場所に、この女は我がものだという、消えない獣の刻印を焼き付けるかのように。


「は……っ、殿下……やめ……っ!」

エレオノーラは身悶えし、頭上を押さえられた手首を微かに捩った。

だが、拘束はびくともしない。

首筋に顔を埋めたクラウスの吐息が、火傷しそうなほどに熱く、肌を震わせる。


「……契約だと? 誰がそんな紙切れ一枚で満足するものか」

クラウスの唇が、鎖骨から首筋、そして耳朶へと、熱い軌跡を描きながら這い上がってくる。

「私は最初から言っているはずだ。君のすべてが欲しいと。心も、身体も、その類稀なる頭脳も、誰にも渡す気はない。……あの無能な侯爵(ユリウス)のように、お前を放り出し、他人に奪わせるような真似は、天地が逆転しても絶対にしない」


「クラウス……様……」


耳元で激しく囁かれる男の執着。

その声音の奥底に、エレオノーラは聞き逃せない「震え」を感じ取っていた。

怒りではない。嫉妬の炎の裏側に隠された、切実なまでの――『恐怖』。


(……ああ。この方は……)


エレオノーラの胸が、ドクンと激しく跳ね上がった。

ただの独占欲ではない。

この男は、知っているのだ。

前世において、エレオノーラが誰にも顧みられず、冷酷な夫と愛人に虐げられ、最後は孤独の中で毒殺されたという、あの忌まわしい運命を。

あの時、北の戦場で補給を救われながらも、遠方にいたがゆえに彼女の死を止められなかったという、魂を抉るような無力感と後悔。

だからこそ――今世で奇跡のように自らの懐へ飛び込んできた彼女を、二度と日陰に置かせまいと、二度と理不尽な悪意に晒させまいと、狂気的なまでの過保護と執着で囲い込もうとしているのだ。


(この方は……本当に、私のことを……)


前世の五年間の記憶が、走馬灯のように胸を駆け巡る。

あのアルトハイムの館で、エレオノーラがどれほど渇望しても、手に入らなかったもの。

どんなに身を粉にして働いても、どんなに領地を豊かにしても、ユリウスから返ってきたのは「お前のような味気ない女、誰が愛するものか」という冷酷な嘲笑だけだった。

自分は道具だ。数字を合わせるための歯車だ。愛される価値などないのだと、凍てつく心に鍵をかけて諦めていた。


それなのに。

いま、自分を押し倒し、熱い吐息を注ぎ込んでくるこの男は。

持参金のためでも、特許のためでもなく。

ただエレオノーラという一人の女性が他の男に微笑んだという、それだけのことで誇り高き理性を狂わせ、獣のように嫉妬し、愛を乞うている。


――二度と手に入らないと諦めていた『無条件の愛』が。

――いま、この極北の氷の城で、火傷しそうなほどの熱量となって、私の上に降り注いでいる……。


「……っ」

エレオノーラの目尻から、不意に、一筋の熱い雫がこぼれ落ちた。

悲しみではない。

心の奥底で張り詰めていた氷の結界が、男の体温によって急速に溶かされ、涙となって溢れ出たのだ。


頬を濡らした雫に、クラウスの動きがピタリと止まった。

男の顔が上がり、黄金の瞳がエレオノーラの濡れた目元を捉える。


「……泣いているのか?」

先ほどまでの獰猛さはどこへやら、クラウスの声に、狼狽したような焦りが混ざった。

「すまない……痛かったか? 怖がらせるつもりは――」


クラウスが拘束を解き、慌てて身を引こうとした。

だが、その瞬間。


自由になったエレオノーラの手が、スッと伸びた。

彼女の細い指先が、引き下がろうとするクラウスの部屋着の襟元を、キュッと弱々しく、しかし確かに掴み止めたのだ。


「……違います」


エレオノーラは涙を滲ませたまま、赤く染まった顔をわずかに背け、震える声で呟いた。


「痛くなど……ありませんわ。ただ……貴方があまりにも、熱いから……」


「エレオノーラ……」


クラウスの瞳が、信じがたい奇跡を目の当たりにしたかのように大きく見開かれた。

拒絶ではない。

元夫への未練でもない。

この頑なな元サレ妻の心が、ほんのわずかに、自分に向かってその扉を開いた瞬間。


クラウスは息を呑み、愛おしさに胸を締め付けられながら、再びゆっくりと彼女の上へと身体を沈めた。

今度は、力任せの拘束ではない。

壊れやすい宝物を慈しむように、両腕でエレオノーラの身体をふわりと抱きすくめる。

男の逞しい指先が、シーツの上に散らばるエレオノーラの濡れた黒髪を、一筋、一筋、愛おしむように掬い上げた。


天窓から差し込む青白い月光が、乱れた寝台の上を幻想的に照らし出す。

見下ろすクラウスの黄金の瞳には、一切の理性の濁りがない、息が止まるほどに純粋で、狂おしい熱情の光が宿っていた。


二人の唇が、触れ合う寸前の距離まで近づく。


「……契約の妻で終わると思うなよ、エレオノーラ」


クラウスは低く、蕩けるような甘さで囁いた。

その声は、逃れようのない絶対の誓い。


「――君の心も、身体も、その魂のすべてを……生涯かけて、私だけで満たしてみせる」


「……っ」


重なる吐息。

抗う術など、最初からどこにも残されていなかった。

エレオノーラは瞳を閉じ、極北の王が注ぎ込む甘い熱気の渦の中へと、静かに、深く呑み込まれていった。

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