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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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9/17

第九話「湖」

 


 雪と白瀬は東海道を、近江へ向かって歩いた。


 桜はまだ咲き始めで、三分咲き。

 山の麓の菜の花が、黄色く広がっていた。


 白瀬は時折、黙って雪の半歩後ろを歩いた。

 時折、何か言いたそうに雪を見た。

 しかし、口を開かなかった。


(──白瀬さんは昨日の「止めた」の経験を抱えている)

(──今話しかけない方がいい)


 雪も、黙って歩いた。


 袴の裾が、朝露で濡れていた。

 袖の奥の飴玉が、いつもより重く感じた。


(──母さん、近江へ参ります)

(──あなたの帳面を、探しに)


  ◇


 昼過ぎ、琵琶湖の南端に着いた。


 瀬田の唐橋。

 水面が、春の光を反射していた。


 橋の向こうに、古い宿があった。

「大津屋」と看板に、書かれていた。


 書状には「近江の湖畔」としか、書かれていなかった。

 しかし母が生前、何度かこの宿の名を口にしていたことを、雪は覚えていた。


「白瀬さん、この宿に参ります」


「──はい」


 二人は、宿の玄関を潜った。


  ◇


 宿の、女将。


 六十ほどの、白髪の女性。

 目が、深い湖の色をしていた。


 女将は雪を一目見て止まった。


「──あなた、もしかして」

「秋津の柊様の、お嬢様?」


 雪の息が止まった。


(──また、母を知っている人)

(──しかし、この方は妖ではない。人間)


「──はい。秋津雪と申します」


 女将は、両手を口に当てた。


「ああ、柊様の面影そのもの」

「お会いできて、光栄にございます」


 女将は、涙ぐんだ。


 雪は頭を下げた。


「女将様、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「──ゆき、と申します」


 雪の指が止まった。


(──ゆき)

(──私と、同じ音)


「奇遇でございます」


「奇遇、ではございません」


 女将は、優しく微笑んだ。


「柊様が、私に仰いました」

「「娘の名は雪。一粒の雪。いつか、きっと訪ねて参ります」と」


(──母さんが私のことをこの方に話された)


 雪の指が、袴の上で動いた。


  ◇


 ゆき女将は、雪と白瀬を奥の座敷に通した。


 畳は新しかった。

 床の間に、梅の一枝が活けてあった。

 春の、冷たい香り。


 女将は自ら、茶を注いだ。


 湯気が、立っていた。


「お飲みください」


「──ありがとうございます」


 雪は湯呑みを両手で包んだ。

 温かかった。


(──梶山様の冷めた湯)

(──桐生様の、温かい湯)

(──そしてこのゆき女将の湯)


(──湯は、訳し終わった者だけが温かいうちに飲める)


  ◇


「雪様」


 ゆき女将は、静かに切り出した。


「書状をお送りしたのは、私でございます」


 雪の指が動いた。


「──ゆき女将様が」


「はい」

「柊様のお遺しになった帳面が、この宿の蔵にございます」


「──母の帳面」


「十二年前、柊様がこの宿に、何度か滞在されました」

「その折り、帳面を一冊書き残されました」

「「もし、私に何かあったら、雪に渡してほしい」と」


(──十二年前)

(──露様の泉と、同じ時期)


 雪は息を整えた。


「ゆき女将様、その帳面を拝見しても、よろしいでしょうか」


「──はい」


 女将は、立ち上がった。


「蔵へご案内いたします」


  ◇


 宿の、奥の蔵。


 苔むした石段を、三段降りた。

 蔵の中は薄暗く、古い紙と墨の匂いがした。


 女将は、奥の棚から一冊の帳面を取り出した。


 薄い、麻の綴じ紐。

 柊の字の、表題。


 ──妖訳・私的覚書

 ──秋津 柊


 雪の指が震えた。


(──母の字)

(──この表題を、母が書かれた)

(──十二年前)


 女将は帳面を、雪に差し出した。


「どうぞ」


 雪は両手で受け取った。

 重かった。


「ここで読まれても、持ち帰られても構いません」


「──この場で、読ませていただきます」


  ◇


 雪は蔵の床に膝を折った。

 白瀬が少し後ろで同じように膝を折った。


 帳面を開いた。


 最初の頁。


 ──この帳面は、翻訳方の正式な辞典に書けぬ、訳の記録である。

 ──梶山宗之助の誤訳が疑われる案件を、ここに書き留める。

 ──もし、私に何かが起これば、この帳面は娘の雪に渡されるべし。


 雪の息が止まった。


(──母さんは梶山様の誤訳を追っておられた)

(──そして自分に「何かが起こる」ことを予見しておられた)


 頁をめくった。


 二頁目。


 ──一、桑の精。「照り」を「枯れ」。梶山。

 ──二、古狸の自白。「名を呼ぶ」を「襲う」。梶山。

 ──三、蛇神の「川、枯れる」を「害意」。梶山。

 ──四、貉の「稲、喰う」を「盗み」。梶山。

 ──五、水の精(お姉様)。「露」の名を記録せず。梶山。


(──第四話で、私が見つけた四件)

(──全て、母さんが既に書き留めておられた)

(──そして第六話の露様の件も)


 雪の指が震えた。


  ◇


 頁をめくり続けた。


 三頁目。


 ──六、楠の精。「寿」を「朽」。梶山。享年三百年。処分。

 ──七、狐の一族。「護り」を「襲い」。梶山。一族、離散。

 ──八、川の神。「穏やか」を「乱す」。梶山。神社、廃絶。


(──まだあった)

(──母さんは八件見つけておられた)

(──しかし、私が見つけたのはまだ四件)


(──私は母さんの半分にも達していない)


 白瀬が雪の横で静かに帳面を見ていた。

 白瀬の顔も、青ざめていた。


「秋津先輩」


 白瀬が小さな声で言った。


「この梶山様のお名前」


「はい」


「翻訳方の、長官様の」


「はい」


 白瀬はしばらく黙った。


「──秋津先輩、これは翻訳方で公にできる話、ですか」


「いえ」


 雪は首を横に振った。


「まだできません」

「証拠が足りません」


「──はい」


 白瀬の顔が、ゆっくりと頷いた。


(──この子は今受け止めた)

(──翻訳方の中に闇がある、ということを)

(──十七歳で、この重さを背負う)


  ◇


 頁をめくり続けた。


 四頁目。


 ──梶山様は訳のずらし方が巧み。

 ──字画の近い字への差し替え。

 ──意味の最も狭い解釈への、限定。

 ──これを、年に数件続けておられる。

 ──十年で、二十件を超える可能性。


「──二十件」


 雪の呟きが、蔵の石の壁に反響した。


(──母さんは十年で二十件と予見された)

(──既に、母の時代から二十年)

(──梶山様の誤訳は、今や四十件を超える可能性)


 五頁目。


 ──梶山様の動機、未解明。

 ──しかし、「妖を減らしたい」との意図、あり。

 ──妖訳官の権威を、確立するためか。

 ──あるいは、過去の何らかの恨み、か。


「──恨み」


 白瀬が顔を上げた。


「秋津先輩、恨みとは」


「梶山様が過去に妖から何かをされたのか」

「あるいは、大切な者を妖に失われたのか」


(──梶山様の「失ったもの」)

(──第七話で、梶山様が仰ったあの言葉)

(──「私が失ったものは、お前に言う必要はない」)


(──その「失ったもの」は、妖に関わっているかもしれない)


  ◇


 頁をめくり続けた。


 六頁目。


 ──雪へ

 ──この帳面を、お前が読んでいるなら、

 ──私は既に「行った」のだろう。

 ──お前が訳官として成長したということだ。

 ──誇りに思う。


 雪の涙が、初めて滲んだ。


 蔵の薄暗い光の中で、母の字が揺れて見えた。


「母さん」


 声が漏れた。


 白瀬が雪の横に寄り添った。

 何も、言わなかった。

 ただ、横にいた。


  ◇


 雪は涙を、一度袖で拭った。


 頁をめくった。


 七頁目。


 ──お前に伝えたいこと。

 ──一、梶山様の誤訳の追及は、一人でするな。

 ──二、桐生様を信じろ。彼は私の同志だった。

 ──三、嵯峨様(九条家)を信じろ。

 ──彼は妹・澪様を梶山様の誤訳で失われた可能性がある。

 ──四、妖の里の東の楠の下の、若い男。

 ──彼の名は、久世真一郎。十五年前の翻訳方の訳官。

 ──私の先輩。彼も、梶山様の誤訳に辿り着いた。

 ──そして行方不明になった。

 ──しかし、生きているかもしれない。

 ──五、お前の辞典が四百を超えたら、止まれ。

 ──止まれない時は、私の二百九十七語を越えてから止まれ。


(──母さん)

(──あなたは、全部知っておられた)

(──全部、予見しておられた)


(──嵯峨様と久世様の関係も)

(──桐生様の、同志という位置づけも)

(──そして私の辞典の上限まで)


  ◇


 頁をめくった。


 八頁目。


 ──雪、最後に一つ。

 ──書き置きの九行。

 ──あれは、三層構造になっている。

 ──第一層:連絡文(夕餉の支度、等)。

 ──第二層:遺書(行方の示唆)。

 ──第三層:暗号(各行の最初の字を、並べる)。


 雪の指が止まった。


(──書き置きの第三層は、暗号)

(──各行の最初の字)


 雪は頭の中で、書き置きを並べた。


 ──雪

 ──母

 ──帰

 ──夕

 ──今

 ──梅

 ──も

 ──行

 ──母


「──」


 雪の息が止まった。


(──雪、母、帰、夕、今梅、も、行、母)

(──これは、何か意味のある言葉の並びではない)


(──いや、「母」が二度出てくる)

(──「母」と「母」の間に、「帰、夕、今梅、も、行」)

(──「梅の下に置き忘れたもの」)

(──「梅」)


(──「梅」が暗号の、鍵か)


  ◇


 雪は頁をもう一つめくった。


 九頁目。


 ──娘。

 ──「梅の下に置き忘れたもの」を、探せ。

 ──それが、全ての答えだ。


(──「梅の下に置き忘れたもの」)

(──どこの梅か)

(──実家の梅)

(──母が十年前の夜に仏壇を見ながら「梅の下」と書き残した)


(──私の実家の、梅の下に)

(──母さんが置き忘れたものがある)


 雪の指が震えた。


(──まだ私は実家の庭を探したことがない)

(──七年、叔父の家に住んでいる)

(──実家は、誰も住まず朽ちている)


  ◇


 帳面の、最後の頁。


 ──雪。

 ──私はお前を誇りに思う。

 ──訳し終わらぬまま「行く」ことを、許してくれ。

 ──お前が訳し終える日を、私はどこかで見ている。


 雪は帳面をそっと閉じた。


 両手で、胸に抱いた。


 母の字。

 母の覚悟。

 母の愛。


 全部、この一冊に詰まっていた。


「母さん」


 雪の声は、震えていた。


「訳し終えます」

「必ず」


  ◇


 蔵を出た。


 女将が、外で待っていた。


「読まれましたか」


「──はい」


「柊様のご覚悟を、伝えることができて良うございました」


 雪は深く頭を下げた。


「ゆき女将様、この帳面をお持ち帰りしても、よろしいですか」


「──どうぞ」

「柊様のご遺志でございます」


  ◇


 宿に戻った。


 女将が、夕餉を用意してくださった。


 豆腐が、あった。


 雪の箸が、一口目の後で止まった。

 豆腐の時間だった。


 白瀬が雪を見ていた。


「秋津先輩、お疲れでございますか」


「──いえ」

「豆腐の時、訳が止まります」


 白瀬が小さく頷いた。


「柊様も、そうでございましたか」


「──はい」

「母も、豆腐の時だけ全部訳さなくてよかった、そうです」


 白瀬は自分の豆腐を見た。


「私も、訳し終わらぬ時が増えてまいりました」

「豆腐を食べてみても、よろしいでしょうか」


 雪は微かに笑った。


「どうぞ」


 白瀬は豆腐を一口食べた。


「──止まりませんでした」


「はい」


「私にはまだ訳す病が来ていないようでございます」


「──来ない方が、幸せでございます」


 白瀬は少し頷いた。

 そして言った。


「秋津先輩、私もいつか、訳す病になりましょうか」


 雪は答えなかった。

 白瀬を、少し見ただけだった。


  ◇


 その夜雪は宿の一室で、母の帳面と自分の辞典を並べた。


 二つを、照らし合わせた。

 母の八件の誤訳。

 雪の、四件の発見。


 重なるのは、五件。

 母だけが書いた三件は、雪はまだ見つけていない。

 雪が最新で書いた一件(露様)は、母も既に書いていた。


(──母さんの書かれた、三件)

(──楠の精、狐の一族、川の神)

(──これは、翻訳方の書庫でもう一度確かめる)


 雪は自分の辞典を開いた。


 三百十語目。


みずうみ


 人語での意味:広い、陸地に囲まれた水。

 妖語での意味:

 第一層 ─ 境界を越える水。

 第二層 ─ 複数の支流を、一つに束ねる場所。

 第三層 ─ 遺されたものが、静かに時を待つ場所。


 特記:

 近江の琵琶湖のほとりに、母の帳面が残されていた。

 母はこの湖を、「時を待つ場所」として、選ばれた。

 娘が、訳官として成長するのを、待つ十二年間。

 湖は、遺志を、静かに抱えていてくれた。


 筆を下ろした。


 問いを、三つ書き足した。


 ──一、母が書いた残り三件(楠・狐・川)を書庫で確認する。

 ──二、実家の梅の下に置き忘れたものを、探す。

 ──三、久世真一郎様は、生きているか、どこにおられるか。


  ◇


 袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。


(──母さん、あなたの帳面を手に入れました)

(──あなたの八年分の覚悟を、受け取りました)


(──私が続きを訳し終えます)

(──あなたの分も私の分も、全部)


 雪は飴玉を両手に包んだ。

 舐めなかった。


 紙包みを、袖の奥に戻した。


  ◇


 翌朝雪と白瀬は京洛へ戻る道を、歩いた。


 母の帳面は、雪の胸元にしまわれていた。

 温かかった。


 白瀬が雪の半歩後ろを歩いた。


「秋津先輩」


「はい」


「これから、どうなさいますか」


 雪はしばらく答えなかった。


「まず書庫で母の書かれた三件を確認いたします」

「次に実家の庭の梅の下を探します」

「そして久世真一郎様を捜します」


「──全部、一人で」


「いえ」


 雪は首を横に振った。


「桐生様と、共に」

「嵯峨様も、きっと助けてくださる」


 白瀬が微かに頷いた。


「──私も、お手伝いさせてください」


 雪は白瀬を見た。


「──はい。お願いいたします」


  ◇


 京洛へ戻った。


 翻訳方の、門の前。


 桐生が待っていた。

 しかし、桐生の顔が、いつもより硬かった。


「秋津」


「──はい」


「昨日翻訳方で異変があった」


 雪の息が止まった。


「──異変、と申されますと」


 桐生は声を落とした。


「書庫に、入った者がいる」

「梶山様の十年前の訳文の棚だ」

「お前が第四話で写しを取ったその棚」


「──写しが」


「全て、持ち去られた」


 雪の指が震えた。


(──証拠が消えた)


 桐生は深く頷いた。


「秋津、急がねばならん」


 雪は胸元の母の帳面に手を当てた。


「桐生様、母の帳面を見つけて参りました」


 桐生の目が、見開かれた。


「──柊様の帳面が」


「はい」

「母は八件見つけておられました」


 桐生はしばらく黙った。


 そして小さく頷いた。


「秋津、明日お前と俺とそして一人の方と」

「三人で、話す必要がある」


「──一人の方」


「九条嵯峨様」


 雪の息が止まった。


「──嵯峨様と」


「ああ。梶山様との対決の、戦略を練らねばならん」


 袖の奥の飴玉が、微かに揺れた。


(──母さん)

(──いよいよ、始まります)


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