第九話「湖」
雪と白瀬は東海道を、近江へ向かって歩いた。
桜はまだ咲き始めで、三分咲き。
山の麓の菜の花が、黄色く広がっていた。
白瀬は時折、黙って雪の半歩後ろを歩いた。
時折、何か言いたそうに雪を見た。
しかし、口を開かなかった。
(──白瀬さんは昨日の「止めた」の経験を抱えている)
(──今話しかけない方がいい)
雪も、黙って歩いた。
袴の裾が、朝露で濡れていた。
袖の奥の飴玉が、いつもより重く感じた。
(──母さん、近江へ参ります)
(──あなたの帳面を、探しに)
◇
昼過ぎ、琵琶湖の南端に着いた。
瀬田の唐橋。
水面が、春の光を反射していた。
橋の向こうに、古い宿があった。
「大津屋」と看板に、書かれていた。
書状には「近江の湖畔」としか、書かれていなかった。
しかし母が生前、何度かこの宿の名を口にしていたことを、雪は覚えていた。
「白瀬さん、この宿に参ります」
「──はい」
二人は、宿の玄関を潜った。
◇
宿の、女将。
六十ほどの、白髪の女性。
目が、深い湖の色をしていた。
女将は雪を一目見て止まった。
「──あなた、もしかして」
「秋津の柊様の、お嬢様?」
雪の息が止まった。
(──また、母を知っている人)
(──しかし、この方は妖ではない。人間)
「──はい。秋津雪と申します」
女将は、両手を口に当てた。
「ああ、柊様の面影そのもの」
「お会いできて、光栄にございます」
女将は、涙ぐんだ。
雪は頭を下げた。
「女将様、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「──ゆき、と申します」
雪の指が止まった。
(──ゆき)
(──私と、同じ音)
「奇遇でございます」
「奇遇、ではございません」
女将は、優しく微笑んだ。
「柊様が、私に仰いました」
「「娘の名は雪。一粒の雪。いつか、きっと訪ねて参ります」と」
(──母さんが私のことをこの方に話された)
雪の指が、袴の上で動いた。
◇
ゆき女将は、雪と白瀬を奥の座敷に通した。
畳は新しかった。
床の間に、梅の一枝が活けてあった。
春の、冷たい香り。
女将は自ら、茶を注いだ。
湯気が、立っていた。
「お飲みください」
「──ありがとうございます」
雪は湯呑みを両手で包んだ。
温かかった。
(──梶山様の冷めた湯)
(──桐生様の、温かい湯)
(──そしてこのゆき女将の湯)
(──湯は、訳し終わった者だけが温かいうちに飲める)
◇
「雪様」
ゆき女将は、静かに切り出した。
「書状をお送りしたのは、私でございます」
雪の指が動いた。
「──ゆき女将様が」
「はい」
「柊様のお遺しになった帳面が、この宿の蔵にございます」
「──母の帳面」
「十二年前、柊様がこの宿に、何度か滞在されました」
「その折り、帳面を一冊書き残されました」
「「もし、私に何かあったら、雪に渡してほしい」と」
(──十二年前)
(──露様の泉と、同じ時期)
雪は息を整えた。
「ゆき女将様、その帳面を拝見しても、よろしいでしょうか」
「──はい」
女将は、立ち上がった。
「蔵へご案内いたします」
◇
宿の、奥の蔵。
苔むした石段を、三段降りた。
蔵の中は薄暗く、古い紙と墨の匂いがした。
女将は、奥の棚から一冊の帳面を取り出した。
薄い、麻の綴じ紐。
柊の字の、表題。
──妖訳・私的覚書
──秋津 柊
雪の指が震えた。
(──母の字)
(──この表題を、母が書かれた)
(──十二年前)
女将は帳面を、雪に差し出した。
「どうぞ」
雪は両手で受け取った。
重かった。
「ここで読まれても、持ち帰られても構いません」
「──この場で、読ませていただきます」
◇
雪は蔵の床に膝を折った。
白瀬が少し後ろで同じように膝を折った。
帳面を開いた。
最初の頁。
──この帳面は、翻訳方の正式な辞典に書けぬ、訳の記録である。
──梶山宗之助の誤訳が疑われる案件を、ここに書き留める。
──もし、私に何かが起これば、この帳面は娘の雪に渡されるべし。
雪の息が止まった。
(──母さんは梶山様の誤訳を追っておられた)
(──そして自分に「何かが起こる」ことを予見しておられた)
頁をめくった。
二頁目。
──一、桑の精。「照り」を「枯れ」。梶山。
──二、古狸の自白。「名を呼ぶ」を「襲う」。梶山。
──三、蛇神の「川、枯れる」を「害意」。梶山。
──四、貉の「稲、喰う」を「盗み」。梶山。
──五、水の精(お姉様)。「露」の名を記録せず。梶山。
(──第四話で、私が見つけた四件)
(──全て、母さんが既に書き留めておられた)
(──そして第六話の露様の件も)
雪の指が震えた。
◇
頁をめくり続けた。
三頁目。
──六、楠の精。「寿」を「朽」。梶山。享年三百年。処分。
──七、狐の一族。「護り」を「襲い」。梶山。一族、離散。
──八、川の神。「穏やか」を「乱す」。梶山。神社、廃絶。
(──まだあった)
(──母さんは八件見つけておられた)
(──しかし、私が見つけたのはまだ四件)
(──私は母さんの半分にも達していない)
白瀬が雪の横で静かに帳面を見ていた。
白瀬の顔も、青ざめていた。
「秋津先輩」
白瀬が小さな声で言った。
「この梶山様のお名前」
「はい」
「翻訳方の、長官様の」
「はい」
白瀬はしばらく黙った。
「──秋津先輩、これは翻訳方で公にできる話、ですか」
「いえ」
雪は首を横に振った。
「まだできません」
「証拠が足りません」
「──はい」
白瀬の顔が、ゆっくりと頷いた。
(──この子は今受け止めた)
(──翻訳方の中に闇がある、ということを)
(──十七歳で、この重さを背負う)
◇
頁をめくり続けた。
四頁目。
──梶山様は訳のずらし方が巧み。
──字画の近い字への差し替え。
──意味の最も狭い解釈への、限定。
──これを、年に数件続けておられる。
──十年で、二十件を超える可能性。
「──二十件」
雪の呟きが、蔵の石の壁に反響した。
(──母さんは十年で二十件と予見された)
(──既に、母の時代から二十年)
(──梶山様の誤訳は、今や四十件を超える可能性)
五頁目。
──梶山様の動機、未解明。
──しかし、「妖を減らしたい」との意図、あり。
──妖訳官の権威を、確立するためか。
──あるいは、過去の何らかの恨み、か。
「──恨み」
白瀬が顔を上げた。
「秋津先輩、恨みとは」
「梶山様が過去に妖から何かをされたのか」
「あるいは、大切な者を妖に失われたのか」
(──梶山様の「失ったもの」)
(──第七話で、梶山様が仰ったあの言葉)
(──「私が失ったものは、お前に言う必要はない」)
(──その「失ったもの」は、妖に関わっているかもしれない)
◇
頁をめくり続けた。
六頁目。
──雪へ
──この帳面を、お前が読んでいるなら、
──私は既に「行った」のだろう。
──お前が訳官として成長したということだ。
──誇りに思う。
雪の涙が、初めて滲んだ。
蔵の薄暗い光の中で、母の字が揺れて見えた。
「母さん」
声が漏れた。
白瀬が雪の横に寄り添った。
何も、言わなかった。
ただ、横にいた。
◇
雪は涙を、一度袖で拭った。
頁をめくった。
七頁目。
──お前に伝えたいこと。
──一、梶山様の誤訳の追及は、一人でするな。
──二、桐生様を信じろ。彼は私の同志だった。
──三、嵯峨様(九条家)を信じろ。
──彼は妹・澪様を梶山様の誤訳で失われた可能性がある。
──四、妖の里の東の楠の下の、若い男。
──彼の名は、久世真一郎。十五年前の翻訳方の訳官。
──私の先輩。彼も、梶山様の誤訳に辿り着いた。
──そして行方不明になった。
──しかし、生きているかもしれない。
──五、お前の辞典が四百を超えたら、止まれ。
──止まれない時は、私の二百九十七語を越えてから止まれ。
(──母さん)
(──あなたは、全部知っておられた)
(──全部、予見しておられた)
(──嵯峨様と久世様の関係も)
(──桐生様の、同志という位置づけも)
(──そして私の辞典の上限まで)
◇
頁をめくった。
八頁目。
──雪、最後に一つ。
──書き置きの九行。
──あれは、三層構造になっている。
──第一層:連絡文(夕餉の支度、等)。
──第二層:遺書(行方の示唆)。
──第三層:暗号(各行の最初の字を、並べる)。
雪の指が止まった。
(──書き置きの第三層は、暗号)
(──各行の最初の字)
雪は頭の中で、書き置きを並べた。
──雪
──母
──帰
──夕
──今
──梅
──も
──行
──母
「──」
雪の息が止まった。
(──雪、母、帰、夕、今梅、も、行、母)
(──これは、何か意味のある言葉の並びではない)
(──いや、「母」が二度出てくる)
(──「母」と「母」の間に、「帰、夕、今梅、も、行」)
(──「梅の下に置き忘れたもの」)
(──「梅」)
(──「梅」が暗号の、鍵か)
◇
雪は頁をもう一つめくった。
九頁目。
──娘。
──「梅の下に置き忘れたもの」を、探せ。
──それが、全ての答えだ。
(──「梅の下に置き忘れたもの」)
(──どこの梅か)
(──実家の梅)
(──母が十年前の夜に仏壇を見ながら「梅の下」と書き残した)
(──私の実家の、梅の下に)
(──母さんが置き忘れたものがある)
雪の指が震えた。
(──まだ私は実家の庭を探したことがない)
(──七年、叔父の家に住んでいる)
(──実家は、誰も住まず朽ちている)
◇
帳面の、最後の頁。
──雪。
──私はお前を誇りに思う。
──訳し終わらぬまま「行く」ことを、許してくれ。
──お前が訳し終える日を、私はどこかで見ている。
雪は帳面をそっと閉じた。
両手で、胸に抱いた。
母の字。
母の覚悟。
母の愛。
全部、この一冊に詰まっていた。
「母さん」
雪の声は、震えていた。
「訳し終えます」
「必ず」
◇
蔵を出た。
女将が、外で待っていた。
「読まれましたか」
「──はい」
「柊様のご覚悟を、伝えることができて良うございました」
雪は深く頭を下げた。
「ゆき女将様、この帳面をお持ち帰りしても、よろしいですか」
「──どうぞ」
「柊様のご遺志でございます」
◇
宿に戻った。
女将が、夕餉を用意してくださった。
豆腐が、あった。
雪の箸が、一口目の後で止まった。
豆腐の時間だった。
白瀬が雪を見ていた。
「秋津先輩、お疲れでございますか」
「──いえ」
「豆腐の時、訳が止まります」
白瀬が小さく頷いた。
「柊様も、そうでございましたか」
「──はい」
「母も、豆腐の時だけ全部訳さなくてよかった、そうです」
白瀬は自分の豆腐を見た。
「私も、訳し終わらぬ時が増えてまいりました」
「豆腐を食べてみても、よろしいでしょうか」
雪は微かに笑った。
「どうぞ」
白瀬は豆腐を一口食べた。
「──止まりませんでした」
「はい」
「私にはまだ訳す病が来ていないようでございます」
「──来ない方が、幸せでございます」
白瀬は少し頷いた。
そして言った。
「秋津先輩、私もいつか、訳す病になりましょうか」
雪は答えなかった。
白瀬を、少し見ただけだった。
◇
その夜雪は宿の一室で、母の帳面と自分の辞典を並べた。
二つを、照らし合わせた。
母の八件の誤訳。
雪の、四件の発見。
重なるのは、五件。
母だけが書いた三件は、雪はまだ見つけていない。
雪が最新で書いた一件(露様)は、母も既に書いていた。
(──母さんの書かれた、三件)
(──楠の精、狐の一族、川の神)
(──これは、翻訳方の書庫でもう一度確かめる)
雪は自分の辞典を開いた。
三百十語目。
「湖」
人語での意味:広い、陸地に囲まれた水。
妖語での意味:
第一層 ─ 境界を越える水。
第二層 ─ 複数の支流を、一つに束ねる場所。
第三層 ─ 遺されたものが、静かに時を待つ場所。
特記:
近江の琵琶湖のほとりに、母の帳面が残されていた。
母はこの湖を、「時を待つ場所」として、選ばれた。
娘が、訳官として成長するのを、待つ十二年間。
湖は、遺志を、静かに抱えていてくれた。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、母が書いた残り三件(楠・狐・川)を書庫で確認する。
──二、実家の梅の下に置き忘れたものを、探す。
──三、久世真一郎様は、生きているか、どこにおられるか。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
(──母さん、あなたの帳面を手に入れました)
(──あなたの八年分の覚悟を、受け取りました)
(──私が続きを訳し終えます)
(──あなたの分も私の分も、全部)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
翌朝雪と白瀬は京洛へ戻る道を、歩いた。
母の帳面は、雪の胸元にしまわれていた。
温かかった。
白瀬が雪の半歩後ろを歩いた。
「秋津先輩」
「はい」
「これから、どうなさいますか」
雪はしばらく答えなかった。
「まず書庫で母の書かれた三件を確認いたします」
「次に実家の庭の梅の下を探します」
「そして久世真一郎様を捜します」
「──全部、一人で」
「いえ」
雪は首を横に振った。
「桐生様と、共に」
「嵯峨様も、きっと助けてくださる」
白瀬が微かに頷いた。
「──私も、お手伝いさせてください」
雪は白瀬を見た。
「──はい。お願いいたします」
◇
京洛へ戻った。
翻訳方の、門の前。
桐生が待っていた。
しかし、桐生の顔が、いつもより硬かった。
「秋津」
「──はい」
「昨日翻訳方で異変があった」
雪の息が止まった。
「──異変、と申されますと」
桐生は声を落とした。
「書庫に、入った者がいる」
「梶山様の十年前の訳文の棚だ」
「お前が第四話で写しを取ったその棚」
「──写しが」
「全て、持ち去られた」
雪の指が震えた。
(──証拠が消えた)
桐生は深く頷いた。
「秋津、急がねばならん」
雪は胸元の母の帳面に手を当てた。
「桐生様、母の帳面を見つけて参りました」
桐生の目が、見開かれた。
「──柊様の帳面が」
「はい」
「母は八件見つけておられました」
桐生はしばらく黙った。
そして小さく頷いた。
「秋津、明日お前と俺とそして一人の方と」
「三人で、話す必要がある」
「──一人の方」
「九条嵯峨様」
雪の息が止まった。
「──嵯峨様と」
「ああ。梶山様との対決の、戦略を練らねばならん」
袖の奥の飴玉が、微かに揺れた。
(──母さん)
(──いよいよ、始まります)




