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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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10/15

第十話「会」

 


 会う、ということは、妖語では単なる「顔を合わせる」の意ではない。


  ◇


 朝翻訳方の門の前。

 桐生が雪を待っていた。


 昨日近江から戻って来たばかり。

 しかし、桐生の顔には、昨日以上の重さがあった。


「秋津、今日は嵯峨様のご私邸に、参る」


「──はい」


「翻訳方の中では、話せぬ」

「書庫の写しが持ち去られた、ということは、監視の目が既に入っている」


「──承知いたしました」


 桐生は声を低くした。


「母の帳面は、持っておるか」


「──はい。胸元に」


「嵯峨様にも、お見せする」

「九条家の全面協力が、必要だ」


(──全面協力)

(──それは九条家が、正式に翻訳方と対峙するということ)


 雪の指先が、袴の上で動いた。


  ◇


 九条家の、私邸。


 京洛の、東山の麓。

 白い塀が、長く続いていた。

 門の前に、深緑の袴の若い家臣が一人、立っていた。


「秋津様、桐生様、お待ち申しておりました」


 家臣は、深く頭を下げた。


 門を潜った。

 敷石が、朝の光を受けていた。

 庭に、梅の古木が一本あった。


(──梅)


 雪の指が、一度止まった。


(──母さんが書き置きに残した「梅」)

(──しかし、これは九条家の梅)

(──私の実家の梅、ではない)


  ◇


 奥の座敷。


 畳は、新しかった。

 床の間に、掛軸が一つ。

「訳」の字。

 梶山の長官室と、同じ字。


(──しかし、筆跡が違う)

(──梶山様の「訳」は、硬く迷いがない)

(──こちらの「訳」は、柔らかく迷いがある)

(──この筆跡は、誰のものか)


 桐生が雪の視線の先を見た。


「──それは、九条様の妹君のお筆だ」

「澪様が七歳の頃に書かれた、と聞く」


 雪の息が止まった。


(──澪様の字)

(──九条家には、澪様の字が掛けられている)

(──嵯峨様は毎朝これを見ておられる)


  ◇


 襖が、開いた。


 深緑の袴。

 結い上げた黒髪。

 背筋が真っ直ぐ。


 九条、嵯峨。


 二十七歳の、若年筆頭奉行。

 裁判場で、二度声を聞いた。

 長官室の前の廊下で、一度言葉を交わした。

 そして今日初めて、正面から、お顔を見る。


「秋津、雪」


 低い、揺るがない声。


「──九条、嵯峨、様」


 雪は畳に両手をついた。

 深く頭を下げた。


「お招き、ありがとうございます」


「顔を上げよ」


 雪は顔を上げた。


 嵯峨様の顔。

 鋭い切れ長の目。

 白い肌。

 口元が、微かに引き締まっている。

 しかし、目の奥に、温度があった。


(──冷徹と評判の方)

(──しかし、目の奥は冷たくない)


  ◇


 嵯峨様は雪の正面に座った。

 桐生が横に座った。


 茶は、まだ出ていなかった。


 嵯峨様が口を開いた。


「秋津、単刀直入に訊く」


「──はい」


「お前は梶山宗之助を告発する覚悟があるか」


 雪の息が、一度止まった。


 しかし、答えは既に決まっていた。


「──ございます」


 嵯峨様の目が、微かに動いた。


「即答、か」


「はい」


「なぜ、か」


 雪は少し間を置いた。


(──なぜ、か)

(──母のためだけでは、ない)

(──照り様、露様、そして処分された妖たちのため)

(──そして訳の正しさのため)


「訳官として、正しい訳を守るためでございます」

「母のためでもございます」

「しかし、それだけではございません」

「処分された妖たちの名誉のためでも、ございます」


 嵯峨様はしばらく黙った。

 そしてゆっくりと頷いた。


「──良い答えだ」


  ◇


 桐生が茶を運んできた家臣から湯呑みを受け取って、三つ並べた。


 雪の前の湯呑み。

 嵯峨様の前の湯呑み。

 桐生の前の湯呑み。


 全て、湯気が立っていた。


 雪は両手で湯呑みを包んだ。


(──温かい)

(──この会は、三人とも湯を温かいうちに飲む会)

(──梶山様の冷めた湯の対極)


 嵯峨様は雪が湯呑みを包むのを見た。


「秋津、湯は温かいうちに飲んでおくとよい」

「冷めてから飲む癖は、梶山宗之助のものだ」


「──承知いたしました」


 雪は湯呑みに口をつけた。

 温かい茶が、喉を通った。


(──会の、第一歩)

(──温かい湯を、三人で分けること)


  ◇


 嵯峨様は茶を飲まずに言った。


「秋津、母上の帳面を、見せてもらえるか」


「──はい」


 雪は胸元から母の帳面を取り出した。

 嵯峨様の前に置いた。


 嵯峨様は両手で帳面を受け取った。

 丁寧に開いた。


 最初の頁から、順に読んでいった。

 指先が、頁の縁を静かになぞった。


(──この方も、指が動く)

(──訳官ではないのに、指が動く方)


 雪は嵯峨様の指の動きを見ていた。


(──あるいは、訳を読み解くことに慣れた方か)


 桐生が小声で雪に告げた。


「嵯峨様は妹君の失踪以来翻訳方の訳文を何千も読まれた」

「独学で妖語の層構造を、ほぼ把握された」

「翻訳方の外の、最高の訳の読み手だ」


(──嵯峨様が妖語を独学で)


 雪は驚きを顔に出さなかった。

 しかし、内心は動いた。


(──この方は、ただの奉行ではない)

(──澪様を取り戻すために、訳の道を自ら歩まれた方)


  ◇


 嵯峨様は帳面を閉じた。

 静かに机に置いた。


「──柊様は、お強い方だった」


「──はい」


「八件、見つけておられた」

「これを、世に出せなかった」

「そして『行かれた』」


 嵯峨様は湯呑みを初めて両手で包んだ。

 しかし、飲まなかった。

 まだ飲まなかった。


「秋津、一つ伝える」


「──はい」


「妹・澪は五年前に失踪した」

「当時十五歳」

「翻訳方の梶山宗之助が、澪の事件を訳した」


 雪の指が止まった。


「澪は妖の里に行くと手紙を残した」

「母上(私の母)は『妖に拐かされた』と、梶山に訴えた」

「梶山の訳は」


 嵯峨様の声が、低くなった。


「『澪は楠の精に誘われた。楠の精は、澪の命を喰った』」


(──楠の精)

(──母さんの帳面の、六番目)

(──「寿」を「朽」に書き換えられて処分された、楠の精)


 雪の息が止まった。


「しかし、これは」

「梶山様の誤訳では」


 嵯峨様は小さく頷いた。


「私はそう疑っている」

「楠の精は、澪を誘ったのではなく」

「澪を、梶山様の誤訳から守ろうとした、のかもしれぬ」


(──守ろうとした)

(──しかし、梶山様の訳で楠の精は、澪を襲ったことにされた)

(──楠の精は、処分された)

(──澪様は今も行方不明)


  ◇


 雪は深く息を吸った。


「嵯峨、様」


「うむ」


「母の帳面の第四項」

「『妖の里の東の楠の下の、若い男』」


 嵯峨様の目が、動いた。


「──久世真一郎」


「ご存知で」


「私の叔父筋の書状で、名前だけ知っていた」

「十五年前に翻訳方から姿を消した訳官」

「母上(柊様)の一歳上の、先輩」


 雪は頷いた。


「母の帳面には、『彼は生きているかもしれない』と」


 嵯峨様は初めて湯呑みに口をつけた。

 一口、飲んだ。


「──生きている」


 雪の息が止まった。


「五年前澪が失踪した時」

「私は妖の里に捜索に行った」

「そこで一人会った」

「若い男の姿。二十代の容姿」

「しかし、話によれば翻訳方の元・訳官」


(──久世様)


「その方は、私に名乗らなかった」

「ただ、『澪様はご無事ですぞ』と仰った」

「『ただし、お迎えは訳が終わるまでお待ちください』と」


(──澪様は生きている)

(──久世様が守っておられる)


  ◇


 雪は両手を膝の上で握り締めた。


「嵯峨、様」


「うむ」


「母の帳面に『久世様は生きているかもしれない』と書かれていた、意味が分かりました」


「──」


「久世様は澪様を守りながら、梶山様の誤訳の証拠を集めておられる」

「そして母も同じことをしていた」

「久世様は母の帳面を見た時、何と仰るでしょうか」


 嵯峨様は少し笑った。


 微かな、しかし確かな、笑みだった。


「──『柊殿が残してくれたか』と」


(──嵯峨様は久世様の人柄を、少しご存知なのだ)

(──五年前一度会われた時に)


  ◇


 桐生がここで口を開いた。


「嵯峨様、秋津、戦略を組まねばならん」


「──うむ」


 三人は、母の帳面を机の中央に置いた。


「一、梶山様の誤訳の証拠を固める」

「二、澪様と久世様を、妖の里から救出する」

「三、正式な告発の場を、準備する」


 桐生が指を三本立てた。


「この三つを、並行して進める」


 嵯峨様は頷いた。


「私は二を担う」

「妖奉行所の密偵に、妖の里を捜索させる」

「ただし、慎重に。梶山の目が、奉行所にも届いている」


「私は一を担う」


 桐生が続けた。


「翻訳方の書庫の残りの記録を、洗い直す」

「昨日写しが持ち去られたが、奥の古い棚はまだ触られていない」

「秋津と、二人で洗う」


「三は」


 嵯峨様は雪を見た。


「秋津、お前が担ってもらえるか」


 雪の息が止まった。


「──私が告発の場を準備するのでございますか」


「辞典が三百十を超えた訳官は、特別裁判を請求する権利がある」

「柊様は、二百九十七で届かなかった」

「私は奉行として裁判を設けることはできる」

「しかし、請求する側は翻訳方の訳官で、なければならぬ」

「桐生は上級妖訳官だが、梶山の部下」

「秋津、お前しかいない」


 雪はしばらく黙った。


(──特別裁判の、請求)

(──梶山様を翻訳方の内側から告発する)


  ◇


 雪は桜木の櫛に、手を当てた。


(──母さん)

(──私は三百を超えた訳官になりました)

(──そして母さんが届かなかった場所へ、行きます)


「──承知いたしました」


 嵯峨様は雪の目を見た。


「秋津、重い役目だ」


「──はい」


「しかし、お前は一人ではない」

「九条家と桐生が後ろにいる」


「──ありがとうございます」


 桐生が少し頷いた。


 嵯峨様は湯呑みをもう一口飲んだ。


「秋津」


「はい」


「今日この部屋で、三人で茶を飲んだ」

「この会を、妖語では『会』と呼ぶ」

「第三層の『会』」


(──第三層の会)

(──「共に、何かを訳し終えることを、誓う間柄」)


「私たちはこれから、共に梶山の誤訳を訳し終える」

「途中で誰かが欠けても、残った者が続ける」

「柊様が、始められたことを」


 雪は深く頭を下げた。


「──承知いたしました」


  ◇


 会議は、一刻半続いた。


 細部の戦略、連絡の方法、動きの順序。

 三人で、詳細を詰めた。


 最後に、嵯峨様が立ち上がった。


「桐生、秋津、今日はご足労、感謝する」


「いえ」


 桐生と雪は頭を下げた。


 嵯峨様は雪に近づいた。

 雪の、目の高さまで。


「秋津」


「──はい」


 嵯峨様は懐から一枚の紙を取り出した。


「これを、渡しておく」


 雪は両手で受け取った。


 紙は、古いものだった。

 黄ばんでいた。


「これは」


「五年前の、澪の失踪に関する、梶山の訳文の写し」


 雪の息が止まった。


「写しを翻訳方から持ち出したのは、罪」

「しかし、私の手元に残っていた」


(──嵯峨様は五年前から梶山の訳を、手元に持っておられた)

(──ただ、告発できずに来られた)

(──今それを私に託される)


 雪は頭を深く下げた。


「──承知いたしました。必ず訳し直します」


 嵯峨様は頷いた。

 そして微かに微笑んだ。


「──柊様の娘、だな」


 雪の胸に、温かさが広がった。


(──母さん、私は母さんの娘と認めていただけました)


  ◇


 九条家を出た。


 桐生と雪は翻訳方に戻る道を歩いた。


 桐生が途中で止まった。


「秋津、今日の会を辞典に書いておけ」


「──はい」


「『会』の第三層」

「これは、訳官の最も重要な語の一つだ」


 雪は頷いた。


  ◇


 翻訳方に戻った。

 桐生は自分の机に。

 雪は自分の机に。


 それぞれ、仕事を始めた。

 しかし、雪の手はまだ震えていた。


(──嵯峨様から頂いた訳文)

(──胸元に、まだ入っている)


(──今夜自室でじっくり読み直す)


  ◇


 夕刻雪は翻訳方を出た。


 春の夕暮れ。

 鴨川の水面が、橙色に光っていた。


 雪は叔父の豆腐屋に帰った。

 のれんが、風に揺れていた。


 叔父が雪を見て声をかけた。


「雪、おかえり」

「顔が、いつもより落ち着いているな」


(──叔父さんも、見抜かれる)


「──はい。今日は、大切な会がございました」


「そうか」

「夕餉に、豆腐作っておいた」

「いつも通り、一丁」


 雪は頭を下げた。


「ありがとうございます」


  ◇


 自室で、雪は嵯峨様から受け取った訳文を開いた。


 五年前の、梶山の訳文。

 九条澪様の失踪事件。


 雪は一字ずつ読んだ。


 ──被訳者:楠の精(三百年級)。

 ──妖の発言:「娘、楠の、傍に、置く。娘、守る」

 ──梶山の訳:「我、娘を、楠の下に、置く。娘を、我が、喰らう」


 雪の指が止まった。


(──「守る」を「喰らう」に)

(──字画は、違う。しかし、妖語の層でずらされている)

(──妖語の「守る」は、第一層:保護する、第二層:身代わりとなる、第三層:自分の命を捧げる)

(──梶山様はこれを、「喰らう」と訳した)

(──全く、意味が違う)


(──楠の精は、澪様を守ろうとした)

(──身代わりに、なろうとしたかもしれない)

(──しかし、梶山様の訳で、楠の精は澪を襲ったことにされ)

(──処分された)


(──そして澪様は妖の里で久世様に守られている)

(──楠の精が、守りきれなかった澪様を)


  ◇


 雪は辞典を開いた。


 三百十一語目。



 人語での意味:顔を合わせる、出会う。

 妖語での意味:

 第一層 ─ 二つの存在が、同じ場所に、居ること。

 第二層 ─ 互いの意図が、同じ点で、重なる瞬間。

 第三層 ─ 共に、何かを訳し終えることを、誓う間柄。


 特記:

 今日嵯峨様、桐生様と、第三層の「会」をいたしました。

 三人で、温かい湯を分けて飲みました。

「共に、梶山様の誤訳を訳し終える」ことを誓いました。


 梶山様は冷めた湯を飲む方。

 私たちは、温かい湯を分け合う方。

「会」の反対は、冷めた湯を一人で飲むこと。


 筆を下ろした。


 問いを、三つ書き足した。


 ──一、楠の精の訳の、正確な字画を書庫で確認する。

 ──二、澪様を妖の里から、救出する具体的な方法。

 ──三、実家の梅の下の、置き忘れ物を探す。


  ◇


 袖の奥の、飴玉の紙包みを取り出した。


(──母さん、今日嵯峨様と桐生様と、三人で誓いました)

(──あなたの始められたことを、訳し終えると)


(──嵯峨様が仰いました)

(──「柊様の娘だな」、と)


(──母さん、あなたが託された道を、私は辿ります)


 雪は飴玉を両手に包んだ。

 舐めなかった。

 紙包みを、袖の奥に戻した。


  ◇


 翌朝翻訳方の門の前で、桐生が雪を待っていた。


「秋津」


「──はい」


「昨夜俺も巡らせた」

「明日実家の梅の下を、一緒に掘ろう」


 雪の息が止まった。


「桐生、様」


「柊様の置き忘れたものを、探す」

「二人で行けば、早い」


「──はい。お願いいたします」


 桐生は小さく頷いた。


「今日書庫の残りの記録を洗う」

「梶山様の古い訳を、もう一段深く掘る」

「そして明日実家へ」


 雪は胸元に手を当てた。


(──母さん、明日実家に参ります)

(──「梅の下に置き忘れたもの」、探します)


 袖の奥の飴玉が、微かに揺れた。


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