第十話「会」
会う、ということは、妖語では単なる「顔を合わせる」の意ではない。
◇
朝翻訳方の門の前。
桐生が雪を待っていた。
昨日近江から戻って来たばかり。
しかし、桐生の顔には、昨日以上の重さがあった。
「秋津、今日は嵯峨様のご私邸に、参る」
「──はい」
「翻訳方の中では、話せぬ」
「書庫の写しが持ち去られた、ということは、監視の目が既に入っている」
「──承知いたしました」
桐生は声を低くした。
「母の帳面は、持っておるか」
「──はい。胸元に」
「嵯峨様にも、お見せする」
「九条家の全面協力が、必要だ」
(──全面協力)
(──それは九条家が、正式に翻訳方と対峙するということ)
雪の指先が、袴の上で動いた。
◇
九条家の、私邸。
京洛の、東山の麓。
白い塀が、長く続いていた。
門の前に、深緑の袴の若い家臣が一人、立っていた。
「秋津様、桐生様、お待ち申しておりました」
家臣は、深く頭を下げた。
門を潜った。
敷石が、朝の光を受けていた。
庭に、梅の古木が一本あった。
(──梅)
雪の指が、一度止まった。
(──母さんが書き置きに残した「梅」)
(──しかし、これは九条家の梅)
(──私の実家の梅、ではない)
◇
奥の座敷。
畳は、新しかった。
床の間に、掛軸が一つ。
「訳」の字。
梶山の長官室と、同じ字。
(──しかし、筆跡が違う)
(──梶山様の「訳」は、硬く迷いがない)
(──こちらの「訳」は、柔らかく迷いがある)
(──この筆跡は、誰のものか)
桐生が雪の視線の先を見た。
「──それは、九条様の妹君のお筆だ」
「澪様が七歳の頃に書かれた、と聞く」
雪の息が止まった。
(──澪様の字)
(──九条家には、澪様の字が掛けられている)
(──嵯峨様は毎朝これを見ておられる)
◇
襖が、開いた。
深緑の袴。
結い上げた黒髪。
背筋が真っ直ぐ。
九条、嵯峨。
二十七歳の、若年筆頭奉行。
裁判場で、二度声を聞いた。
長官室の前の廊下で、一度言葉を交わした。
そして今日初めて、正面から、お顔を見る。
「秋津、雪」
低い、揺るがない声。
「──九条、嵯峨、様」
雪は畳に両手をついた。
深く頭を下げた。
「お招き、ありがとうございます」
「顔を上げよ」
雪は顔を上げた。
嵯峨様の顔。
鋭い切れ長の目。
白い肌。
口元が、微かに引き締まっている。
しかし、目の奥に、温度があった。
(──冷徹と評判の方)
(──しかし、目の奥は冷たくない)
◇
嵯峨様は雪の正面に座った。
桐生が横に座った。
茶は、まだ出ていなかった。
嵯峨様が口を開いた。
「秋津、単刀直入に訊く」
「──はい」
「お前は梶山宗之助を告発する覚悟があるか」
雪の息が、一度止まった。
しかし、答えは既に決まっていた。
「──ございます」
嵯峨様の目が、微かに動いた。
「即答、か」
「はい」
「なぜ、か」
雪は少し間を置いた。
(──なぜ、か)
(──母のためだけでは、ない)
(──照り様、露様、そして処分された妖たちのため)
(──そして訳の正しさのため)
「訳官として、正しい訳を守るためでございます」
「母のためでもございます」
「しかし、それだけではございません」
「処分された妖たちの名誉のためでも、ございます」
嵯峨様はしばらく黙った。
そしてゆっくりと頷いた。
「──良い答えだ」
◇
桐生が茶を運んできた家臣から湯呑みを受け取って、三つ並べた。
雪の前の湯呑み。
嵯峨様の前の湯呑み。
桐生の前の湯呑み。
全て、湯気が立っていた。
雪は両手で湯呑みを包んだ。
(──温かい)
(──この会は、三人とも湯を温かいうちに飲む会)
(──梶山様の冷めた湯の対極)
嵯峨様は雪が湯呑みを包むのを見た。
「秋津、湯は温かいうちに飲んでおくとよい」
「冷めてから飲む癖は、梶山宗之助のものだ」
「──承知いたしました」
雪は湯呑みに口をつけた。
温かい茶が、喉を通った。
(──会の、第一歩)
(──温かい湯を、三人で分けること)
◇
嵯峨様は茶を飲まずに言った。
「秋津、母上の帳面を、見せてもらえるか」
「──はい」
雪は胸元から母の帳面を取り出した。
嵯峨様の前に置いた。
嵯峨様は両手で帳面を受け取った。
丁寧に開いた。
最初の頁から、順に読んでいった。
指先が、頁の縁を静かになぞった。
(──この方も、指が動く)
(──訳官ではないのに、指が動く方)
雪は嵯峨様の指の動きを見ていた。
(──あるいは、訳を読み解くことに慣れた方か)
桐生が小声で雪に告げた。
「嵯峨様は妹君の失踪以来翻訳方の訳文を何千も読まれた」
「独学で妖語の層構造を、ほぼ把握された」
「翻訳方の外の、最高の訳の読み手だ」
(──嵯峨様が妖語を独学で)
雪は驚きを顔に出さなかった。
しかし、内心は動いた。
(──この方は、ただの奉行ではない)
(──澪様を取り戻すために、訳の道を自ら歩まれた方)
◇
嵯峨様は帳面を閉じた。
静かに机に置いた。
「──柊様は、お強い方だった」
「──はい」
「八件、見つけておられた」
「これを、世に出せなかった」
「そして『行かれた』」
嵯峨様は湯呑みを初めて両手で包んだ。
しかし、飲まなかった。
まだ飲まなかった。
「秋津、一つ伝える」
「──はい」
「妹・澪は五年前に失踪した」
「当時十五歳」
「翻訳方の梶山宗之助が、澪の事件を訳した」
雪の指が止まった。
「澪は妖の里に行くと手紙を残した」
「母上(私の母)は『妖に拐かされた』と、梶山に訴えた」
「梶山の訳は」
嵯峨様の声が、低くなった。
「『澪は楠の精に誘われた。楠の精は、澪の命を喰った』」
(──楠の精)
(──母さんの帳面の、六番目)
(──「寿」を「朽」に書き換えられて処分された、楠の精)
雪の息が止まった。
「しかし、これは」
「梶山様の誤訳では」
嵯峨様は小さく頷いた。
「私はそう疑っている」
「楠の精は、澪を誘ったのではなく」
「澪を、梶山様の誤訳から守ろうとした、のかもしれぬ」
(──守ろうとした)
(──しかし、梶山様の訳で楠の精は、澪を襲ったことにされた)
(──楠の精は、処分された)
(──澪様は今も行方不明)
◇
雪は深く息を吸った。
「嵯峨、様」
「うむ」
「母の帳面の第四項」
「『妖の里の東の楠の下の、若い男』」
嵯峨様の目が、動いた。
「──久世真一郎」
「ご存知で」
「私の叔父筋の書状で、名前だけ知っていた」
「十五年前に翻訳方から姿を消した訳官」
「母上(柊様)の一歳上の、先輩」
雪は頷いた。
「母の帳面には、『彼は生きているかもしれない』と」
嵯峨様は初めて湯呑みに口をつけた。
一口、飲んだ。
「──生きている」
雪の息が止まった。
「五年前澪が失踪した時」
「私は妖の里に捜索に行った」
「そこで一人会った」
「若い男の姿。二十代の容姿」
「しかし、話によれば翻訳方の元・訳官」
(──久世様)
「その方は、私に名乗らなかった」
「ただ、『澪様はご無事ですぞ』と仰った」
「『ただし、お迎えは訳が終わるまでお待ちください』と」
(──澪様は生きている)
(──久世様が守っておられる)
◇
雪は両手を膝の上で握り締めた。
「嵯峨、様」
「うむ」
「母の帳面に『久世様は生きているかもしれない』と書かれていた、意味が分かりました」
「──」
「久世様は澪様を守りながら、梶山様の誤訳の証拠を集めておられる」
「そして母も同じことをしていた」
「久世様は母の帳面を見た時、何と仰るでしょうか」
嵯峨様は少し笑った。
微かな、しかし確かな、笑みだった。
「──『柊殿が残してくれたか』と」
(──嵯峨様は久世様の人柄を、少しご存知なのだ)
(──五年前一度会われた時に)
◇
桐生がここで口を開いた。
「嵯峨様、秋津、戦略を組まねばならん」
「──うむ」
三人は、母の帳面を机の中央に置いた。
「一、梶山様の誤訳の証拠を固める」
「二、澪様と久世様を、妖の里から救出する」
「三、正式な告発の場を、準備する」
桐生が指を三本立てた。
「この三つを、並行して進める」
嵯峨様は頷いた。
「私は二を担う」
「妖奉行所の密偵に、妖の里を捜索させる」
「ただし、慎重に。梶山の目が、奉行所にも届いている」
「私は一を担う」
桐生が続けた。
「翻訳方の書庫の残りの記録を、洗い直す」
「昨日写しが持ち去られたが、奥の古い棚はまだ触られていない」
「秋津と、二人で洗う」
「三は」
嵯峨様は雪を見た。
「秋津、お前が担ってもらえるか」
雪の息が止まった。
「──私が告発の場を準備するのでございますか」
「辞典が三百十を超えた訳官は、特別裁判を請求する権利がある」
「柊様は、二百九十七で届かなかった」
「私は奉行として裁判を設けることはできる」
「しかし、請求する側は翻訳方の訳官で、なければならぬ」
「桐生は上級妖訳官だが、梶山の部下」
「秋津、お前しかいない」
雪はしばらく黙った。
(──特別裁判の、請求)
(──梶山様を翻訳方の内側から告発する)
◇
雪は桜木の櫛に、手を当てた。
(──母さん)
(──私は三百を超えた訳官になりました)
(──そして母さんが届かなかった場所へ、行きます)
「──承知いたしました」
嵯峨様は雪の目を見た。
「秋津、重い役目だ」
「──はい」
「しかし、お前は一人ではない」
「九条家と桐生が後ろにいる」
「──ありがとうございます」
桐生が少し頷いた。
嵯峨様は湯呑みをもう一口飲んだ。
「秋津」
「はい」
「今日この部屋で、三人で茶を飲んだ」
「この会を、妖語では『会』と呼ぶ」
「第三層の『会』」
(──第三層の会)
(──「共に、何かを訳し終えることを、誓う間柄」)
「私たちはこれから、共に梶山の誤訳を訳し終える」
「途中で誰かが欠けても、残った者が続ける」
「柊様が、始められたことを」
雪は深く頭を下げた。
「──承知いたしました」
◇
会議は、一刻半続いた。
細部の戦略、連絡の方法、動きの順序。
三人で、詳細を詰めた。
最後に、嵯峨様が立ち上がった。
「桐生、秋津、今日はご足労、感謝する」
「いえ」
桐生と雪は頭を下げた。
嵯峨様は雪に近づいた。
雪の、目の高さまで。
「秋津」
「──はい」
嵯峨様は懐から一枚の紙を取り出した。
「これを、渡しておく」
雪は両手で受け取った。
紙は、古いものだった。
黄ばんでいた。
「これは」
「五年前の、澪の失踪に関する、梶山の訳文の写し」
雪の息が止まった。
「写しを翻訳方から持ち出したのは、罪」
「しかし、私の手元に残っていた」
(──嵯峨様は五年前から梶山の訳を、手元に持っておられた)
(──ただ、告発できずに来られた)
(──今それを私に託される)
雪は頭を深く下げた。
「──承知いたしました。必ず訳し直します」
嵯峨様は頷いた。
そして微かに微笑んだ。
「──柊様の娘、だな」
雪の胸に、温かさが広がった。
(──母さん、私は母さんの娘と認めていただけました)
◇
九条家を出た。
桐生と雪は翻訳方に戻る道を歩いた。
桐生が途中で止まった。
「秋津、今日の会を辞典に書いておけ」
「──はい」
「『会』の第三層」
「これは、訳官の最も重要な語の一つだ」
雪は頷いた。
◇
翻訳方に戻った。
桐生は自分の机に。
雪は自分の机に。
それぞれ、仕事を始めた。
しかし、雪の手はまだ震えていた。
(──嵯峨様から頂いた訳文)
(──胸元に、まだ入っている)
(──今夜自室でじっくり読み直す)
◇
夕刻雪は翻訳方を出た。
春の夕暮れ。
鴨川の水面が、橙色に光っていた。
雪は叔父の豆腐屋に帰った。
のれんが、風に揺れていた。
叔父が雪を見て声をかけた。
「雪、おかえり」
「顔が、いつもより落ち着いているな」
(──叔父さんも、見抜かれる)
「──はい。今日は、大切な会がございました」
「そうか」
「夕餉に、豆腐作っておいた」
「いつも通り、一丁」
雪は頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
自室で、雪は嵯峨様から受け取った訳文を開いた。
五年前の、梶山の訳文。
九条澪様の失踪事件。
雪は一字ずつ読んだ。
──被訳者:楠の精(三百年級)。
──妖の発言:「娘、楠の、傍に、置く。娘、守る」
──梶山の訳:「我、娘を、楠の下に、置く。娘を、我が、喰らう」
雪の指が止まった。
(──「守る」を「喰らう」に)
(──字画は、違う。しかし、妖語の層でずらされている)
(──妖語の「守る」は、第一層:保護する、第二層:身代わりとなる、第三層:自分の命を捧げる)
(──梶山様はこれを、「喰らう」と訳した)
(──全く、意味が違う)
(──楠の精は、澪様を守ろうとした)
(──身代わりに、なろうとしたかもしれない)
(──しかし、梶山様の訳で、楠の精は澪を襲ったことにされ)
(──処分された)
(──そして澪様は妖の里で久世様に守られている)
(──楠の精が、守りきれなかった澪様を)
◇
雪は辞典を開いた。
三百十一語目。
「会」
人語での意味:顔を合わせる、出会う。
妖語での意味:
第一層 ─ 二つの存在が、同じ場所に、居ること。
第二層 ─ 互いの意図が、同じ点で、重なる瞬間。
第三層 ─ 共に、何かを訳し終えることを、誓う間柄。
特記:
今日嵯峨様、桐生様と、第三層の「会」をいたしました。
三人で、温かい湯を分けて飲みました。
「共に、梶山様の誤訳を訳し終える」ことを誓いました。
梶山様は冷めた湯を飲む方。
私たちは、温かい湯を分け合う方。
「会」の反対は、冷めた湯を一人で飲むこと。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、楠の精の訳の、正確な字画を書庫で確認する。
──二、澪様を妖の里から、救出する具体的な方法。
──三、実家の梅の下の、置き忘れ物を探す。
◇
袖の奥の、飴玉の紙包みを取り出した。
(──母さん、今日嵯峨様と桐生様と、三人で誓いました)
(──あなたの始められたことを、訳し終えると)
(──嵯峨様が仰いました)
(──「柊様の娘だな」、と)
(──母さん、あなたが託された道を、私は辿ります)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
翌朝翻訳方の門の前で、桐生が雪を待っていた。
「秋津」
「──はい」
「昨夜俺も巡らせた」
「明日実家の梅の下を、一緒に掘ろう」
雪の息が止まった。
「桐生、様」
「柊様の置き忘れたものを、探す」
「二人で行けば、早い」
「──はい。お願いいたします」
桐生は小さく頷いた。
「今日書庫の残りの記録を洗う」
「梶山様の古い訳を、もう一段深く掘る」
「そして明日実家へ」
雪は胸元に手を当てた。
(──母さん、明日実家に参ります)
(──「梅の下に置き忘れたもの」、探します)
袖の奥の飴玉が、微かに揺れた。




