第十一話「梅」
朝翻訳方の門の前。
桐生が雪を待っていた。
今日は、いつもの黒い筒袖ではなく動きやすい野良着だった。
鍬を一本、肩に担いでいた。
「秋津、参るか」
「──はい」
雪も今日は、袴の裾を短く絞っていた。
袖の奥には飴玉の紙包みと、胸元には母の帳面。
(──母さん、今日あなたの残されたものを探しに行きます)
◇
実家は柳町の豆腐屋から、徒歩で半刻。
鴨川を一度渡った先。
京洛の東の外れ。
雪は七年ぶりに、実家の道を歩いた。
春の朝の光。
道の脇に、菜の花が黄色く咲いていた。
雪はこの景色を、覚えていた。
九歳まで毎日、歩いた道。
(──母さんと一緒に、歩いた道)
(──今は、私だけが歩いている)
(──桐生様が隣にいる)
桐生は何も言わなかった。
鍬の音が、規則的に響いた。
◇
実家は木造の小さな家だった。
二階建て。
瓦屋根。
生垣が伸び放題になっていた。
しかし、家そのものはまだ立っていた。
叔父が時々、手入れに来ていたらしい。
雪は門の前で、立ち止まった。
(──七年ぶり)
(──私は九歳でここを出た)
(──今十九歳で戻ってきた)
桐生が雪の横で、静かに言った。
「秋津、大丈夫か」
「──はい」
「無理なら、俺が先に入る」
「──いえ、私が先に」
雪は門を開けた。
蝶番が古く、軋んだ。
◇
庭に入った。
生垣の向こうに、庭。
雑草が腰の高さまで、伸びていた。
しかし、奥に梅の古木が見えた。
(──梅)
雪の指が動いた。
梅の木は雪が九歳の時より、明らかに大きくなっていた。
しかし、枝はまだ花をつけていた。
白い梅の花が、雑草の上に散っていた。
雪は梅の木の方へ、歩いた。
雑草を踏み分けて。
途中で、一度立ち止まった。
足元に、小さな石のようなものがあった。
しゃがんで見た。
(──これは)
それは、子どもの玩具の独楽だった。
木製。
色はほとんど、剥げていた。
しかし、上部に小さく「雪」と墨で書かれていた。
(──私の独楽)
(──九歳まで遊んでいた)
(──ここで落として、そのままになっていた)
雪は独楽を両手で包んだ。
土で汚れていた。
しかし、重さは記憶と同じだった。
「秋津、それは」
桐生が雪を見た。
「──私の昔の独楽でございます」
桐生は小さく頷いた。
「庭には、お前の過去が残っているな」
雪は独楽を袖の奥に入れた。
飴玉の紙包みの奥に。
◇
梅の木の根元に、着いた。
梅の幹は大人二人で、ようやく抱えられるほどの太さになっていた。
皮が深くひび割れていた。
春の苔が、一部生えていた。
雪は梅の根元を見回した。
(──どこを掘れば、良いのか)
母の書き置きは「梅の下に置き忘れたもの」と、書いてあった。
しかし、「梅のどこ」とは書いていなかった。
桐生が雪の横で、静かに言った。
「秋津、柊様はどこに何かを隠されるのが、常だった」
「──どこに」
「木の北側だ」
「翻訳方の庭の紫陽花の北側に、柊様はよく巻物を隠しておられた」
「雨で濡れぬように、と」
(──北側)
雪は梅の木の北側に回った。
根元から、一尺ほど離れた場所。
苔が、僅かに浮いていた。
(──ここか)
雪はしゃがんだ。
指で、苔をどかした。
湿った土。
そして土の下にわずかに木の感触。
「──何か、埋まっております」
桐生は鍬を構えた。
「俺が掘る。お前は少し下がれ」
雪は二歩下がった。
◇
桐生の鍬が、動いた。
慎重に、しかし確実に土を掻き分けた。
一尺ほど掘ったところで、鍬の先が何かに当たった。
「秋津、ここから手で」
雪は膝を折った。
指で、土を慎重に払った。
黒い、漆塗りの箱。
三寸四方。
小さな、しかししっかりとした桐の箱。
雪は両手で箱を取り出した。
土の下に、十年埋まっていた。
しかし、漆はまだ光っていた。
(──母さんが埋められた、箱)
桐生が横で見守っていた。
雪は箱の蓋をそっと開けた。
◇
中には、三つのものが入っていた。
一つ目。
母の辞典。
正式な翻訳方の辞典ではなく、私的な分冊版。
二百九十七語まで書かれていた。
(──処分された、と梶山様が仰った母の辞典)
(──本物は、ここにあった)
雪の指が震えた。
二つ目。
一冊の帳面。
表紙に、「秋津 柊 / 久世 真一郎 共同記録」と書かれていた。
(──母と久世様の、共同記録)
(──梶山様の誤訳を、二人で追跡した証拠)
三つ目。
一通の書簡。
封が閉じていた。
宛名に、「娘・雪へ」と書かれていた。
雪は三つを両手に受け取った。
◇
桐生は静かに雪を見ていた。
「秋津、これは全て、柊様の遺志だ」
「──はい」
「読むなら、ここで読め」
「俺は少し離れて待つ」
「──いえ、桐生様」
雪は首を横に振った。
「母は桐生様を、同志と書かれていました」
「桐生様も、一緒に読んでくださいませ」
桐生は雪をじっと見た。
そして小さく頷いた。
「──分かった」
◇
雪は書簡を先に開いた。
母の字。
近江の帳面と同じ、縦に長く迷いのない筆跡。
「雪、そして雪を支えてくださる方へ」
書簡は、そう始まっていた。
「もし、この書簡が読まれているなら、私は既に行ったのだろう。
そして雪が辞典三百を超えて訳官として立った、ということだ。
私がこの箱に納めたものは、三つ。
一、私の辞典。二百九十七語。
二、久世と私の共同記録。梶山様の誤訳、全十五件の証拠。
三、この書簡。
雪、桐生殿に伝えてくれ。
「桐生、お茶、冷めてしもうたな」と。
そして続きを訳してくれ、と。
久世殿は生きている。
妖の里の、東の楠の下。
彼は澪様を守っている。
澪様は九条家の未来の光。
雪、一人で抱えるな。
同志を信じよ。
桐生、九条家、そして妖の里の鶴。
鶴は千年を生きる妖。
彼が雪を呼べば、応えよ。
彼は私を、幾度も助けてくれた。
そして雪。
飴玉を舐める日が、いつか来る。
その日まで、私はどこかで見ている。
母より」
◇
雪は書簡を読み終えた。
涙が、一粒落ちた。
書簡の文字の上に、落ちた。
桐生が書簡を横から読んだ。
「──柊様」
桐生の声も、震えていた。
「「お茶、冷めてしもうたな」」
「──俺に伝言を残してくださった」
雪は桐生を見た。
「──桐生様」
「この一行、十年待っていた気がする」
桐生は目を袖で拭った。
(──桐生様も、泣いておられる)
(──母の同志だった、桐生様)
◇
雪は次に共同記録を開いた。
一頁目。
──梶山宗之助の誤訳、調査記録
──秋津 柊、久世 真一郎、共同
目次。
全十五件。
雪の発見した、四件。
近江の帳面に書かれていた、八件。
そして母の個人的な帳面には記載のなかった三件。
(──計、十五件)
(──母と久世様は十五件突き止められていた)
桐生が頁をめくった。
各件、妖の自白の原文。
梶山の訳文。
正しい訳の、三層解釈。
誤訳の結果(処分、離散、名を忘れた、など)。
そして各頁の最後に一行。
──この誤訳は、梶山宗之助が妖を殺す目的で書かれたものと、認める。
雪と桐生の手が止まった。
(──梶山様は妖を殺す目的で訳を歪めていた)
◇
最後の頁。
──梶山宗之助の、動機
──十八歳の時、弟(秋穂)が妖(古狸)に喰われた、と記録されている。
──しかし、実際は弟は妖ではなく、別の人間に殺されていた。
──梶山はそれを知らぬまま妖を恨み続けた。
──真相を知った時、梶山は既に数多くの妖を処分していた。
──恨みと罪悪感が、梶山を今の冷めた湯の人にしている。
雪の息が止まった。
(──梶山様の「失ったもの」は弟)
(──そして弟は妖に喰われたのではなかった)
(──梶山様は誤った恨みで妖を処分し続けた)
(──真相を知った時には、もう戻れない所まで来ていた)
桐生が静かに言った。
「──哀れな人だ」
「──はい」
(──しかし、哀れでは済まない)
(──無辜の妖たちが処分された)
(──照り様のように、名を失った妖もいる)
(──楠の精のように、澪様を守ろうとして処分された妖もいる)
(──梶山様の罪は、赦されるものではない)
(──しかし、背景を知って告発する、私の心は少し柔らかくなった)
◇
雪は母の辞典を開いた。
一頁目。
「喰う」。
私と同じ、第一層。
「食べるように取り込む」。
私と同じ、第二層。
第三層:「時、記憶、気配を食べる。命は奪わない」。
(──私と、同じ訳)
(──母さんの辞典と、私の辞典は繋がっている)
雪は頁をめくった。
百頁、めくった。
二百九十七語目。
「行く」
人語での意味:出かける、別の場所へ、移動する。
妖語での意味:
第一層 ─ 出かける。
第二層 ─ 形を、変えて、別の場所に、現れる。
第三層 ─ 書き残したもので、時を、越えて、届く。
特記:
私の書き置きの九行目の「行きます」は、第三層である。
私は書き残したもので、娘・雪の時を越えて届く。
雪、お前が読んでいる今私はお前の側にいる。
雪の涙が、止まらなかった。
「──母さん」
桐生が雪の肩に手を置いた。
ただ、置いただけ。
何も言わなかった。
◇
三人は(桐生、雪、そして書簡の中の母が)、梅の木の下でしばらく動かなかった。
梅の花が、一片、雪の袴の上に落ちた。
雪はそれを拾った。
(──母さん、私は帰りました)
(──あなたの残されたものを、受け取りました)
(──続きを、訳します)
◇
箱の中身を、全て桐生と二人で慎重に仕舞った。
母の辞典。
共同記録。
書簡。
そして雪の昔の独楽。
箱はそのまま、持って帰ることにした。
重かった。
しかし、温かかった。
◇
実家を出る前。
雪は梅の木の幹に一度手を当てた。
(──ありがとうございました)
(──十年、母のものを守ってくださって)
梅の古木は、沈黙していた。
しかし、春の風に花を一片、また散らした。
(──これは、梅の精の応えか)
(──あるいは、ただの風か)
(──どちらでもいい)
雪は頭を下げた。
そして実家の門を出た。
◇
翻訳方に戻った。
桐生の部屋。
箱を、机に置いた。
桐生は書簡と共同記録と母の辞典を三つ並べた。
「秋津」
「──はい」
「今夜九条様にこのことを伝える」
「三人で、再び会を持つ」
「梶山様への告発の準備を、本格化させる」
「──はい」
「秋津、一つ頼む」
「何でございますか」
桐生は深く息を吸った。
「お前、妖の里へ行け」
「久世殿と澪様を、探せ」
「九条様の密偵では、たどり着けない」
「柊様の娘であるお前なら、妖の里の妖たちが協力してくれる可能性がある」
「特に、鶴」
(──母の書簡にあった、鶴)
(──千年を生きる妖)
「──承知いたしました」
「明日朝一で出発してくれ」
「一人で行くのが心配なら、白瀬を」
「いや、白瀬はまだ早い」
「一人で行ってもらう」
「妖の里の鶴がお前を守る」
雪は頷いた。
(──明日妖の里へ一人で)
◇
夜雪は叔父の家に帰った。
夕餉は、いつも通り豆腐。
しかし、今日は雪は豆腐を一口食べた後、止まらなかった。
(──訳し終わったからか)
(──いや、違う)
(──母の書簡と辞典を受け取って、心が整ったからか)
叔父が雪を見て静かに言った。
「雪、今日何かあったか」
「──叔父様」
「ん」
「今日実家の梅の下で母の遺されたものを見つけました」
叔父の箸が、止まった。
「──柊が遺したもの」
「はい。辞典と、書簡と、共同記録」
叔父はしばらく黙った。
そして静かに言った。
「──そうか」
「柊は、お前に託したのだな」
叔父の目が、湿った。
しかし、涙は流れなかった。
「雪」
「はい」
「お前は柊の娘だ」
「そして俺の姪だ」
「無理は、するな」
「しかし、遣り遂げてくれ」
「──はい」
◇
自室で、雪は辞典を開いた。
三百十二語目。
「梅」
人語での意味:春に、白い花を咲かせる、木。
妖語での意味:
第一層 ─ 春に、冷たい香りを放つ木。
第二層 ─ 雪より前に、咲く、春の、先触れ。
第三層 ─ 根元に、遺志を、埋めるに、ふさわしい木。
特記:
母は実家の梅の、北側に、遺志を埋められていた。
十年、梅の根が、箱を守った。
梅の花は、散りながら、人の、時を、告げる。
母が私に、託したのは、訳を、続ける、覚悟。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、梶山様の弟・秋穂様を、誰が殺したのか。
──二、妖の里の鶴はどこにいるのか。
──三、明日澪様と久世様に無事に会えるか。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
今日飴玉の隣に昔の独楽が入っていた。
(──母さん、私は母さんの遺されたものを全部受け取りました)
(──明日妖の里へ参ります)
(──澪様をお連れします)
(──久世様を京洛に、お迎えします)
(──そして梶山様を訳し直します)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
翌朝まだ夜が明けきらぬ刻。
翻訳方の門の前で、桐生が待っていた。
しかし、今日は一人ではなかった。
もう一人、見慣れた姿。
樺色の着物。
手首に、生きた蔓の腕輪。
「照り様」
桑の木の精。
第四話で、名を取り戻した老婆。
「秋津様」
照り様は深く頭を下げた。
「妖の里へ、ご一緒いたします」
「あなたがお一人で行かれるのは、危のうございます」
雪の息が止まった。
(──照り様が同行してくださる)
(──母が書簡に書かれた鶴にも、きっと会える)
「──ありがとうございます」
桐生が深く頷いた。
「秋津、行ってこい」
「俺は京洛で、告発の準備を進める」
「三日以内に戻れ」
「──はい」
雪は桜木の櫛に手を当てた。
挿し直した。
(──母さん、行って参ります)
袖の奥の飴玉と独楽が、微かに触れた。




