第十二話「声」
我は鶴。
千年を生きる。
この里の北の古い木に留まる、一羽の白い鶴。
妖語で「声」を扱う。
人語では「声」は、ただの音。
しかし、妖語では「声」は四つの層を持つ。
第一層:音の波。
第二層:呼ばれた者の応えを引き出す、力。
第三層:遠くに意図を運ぶもの。
第四層:呼ばれた者と呼んだ者の、境界を越える声。
我は、四層全てを扱う。
特に、第三層。
遠くに意図を運ぶ。
だから、里の妖たちは我を呼ぶ時、「声の鶴様」と呼ぶ。
◇
今朝里に風が一つ入った。
朝の竹林の、囁き。
その中に紛れて、二つの足音。
一つは、古い桑の木の精。
照り、と呼ばれる。
最近、名を取り戻した老婆。
もう一つは、若い人間の娘。
黒い髪に、桜木の櫛。
樺色ではなく、濃紺の袴。
翻訳方の制服。
(──娘か)
我は木の枝の上で、首を傾げた。
(──この娘、どこかで見た気がする)
我は、千年生きている。
記憶は長い。
しかし、娘の顔は覚えがある。
(──あの面影)
(──柊の娘か)
◇
十二年、前。
柊が、里に来た。
髪の長い、美しい女だった。
目に、深い光があった。
柊は我の枝の下に立って、尋ねた。
「鶴様、お力をお貸しください」
我は、柊を見た。
「人間の娘か」
「はい」
「翻訳方の訳官か」
「はい」
「何故、我を呼ぶ」
柊は、深く頭を下げた。
「私は翻訳方の中で、大きな誤訳を見つけました」
「しかし、一人では対峙できません」
「鶴様の「声」をお借りして、遠くの同志に声を届けたく存じます」
我は少し、間を置いた。
(──人間の内部の争いに、我が関わる理由はないが)
(──この娘の目の深さは、妖のものに近い)
(──話だけ、聞いてみるか)
「──話せよ」
柊は、我に全てを話した。
梶山という、人間の誤訳。
処分された妖たち。
桑の精、照りの件。
そして柊自身が告発しようとしていることを。
我は聞きながら、心で計った。
(──この娘は人間だが、妖の味方になる覚悟を持っている)
(──珍しい人間だ)
「──娘」
「はい」
「名を名乗れ」
「秋津 柊でございます」
「柊か」
「覚えた」
我は、柊に「声」の術を貸した。
遠くの同志に、声を届ける力。
それから十年、柊は幾度か里に来た。
我に、伝言を託した。
そしてある日、柊は来なくなった。
(──行ったのか)
(──「行く」のどの層でか)
我は、柊の最後の伝言をまだ届けていなかった。
十年、保留したままだった。
◇
そして今朝。
その娘の娘が、里に入ってきた。
桜木の櫛。
濃紺の袴。
背が母より、少し低い。
(──柊の娘か)
(──名は雪、と聞いた)
我は、枝の上から降りた。
白い翼を、広げた。
娘の前に、舞い降りた。
◇
娘──秋津 雪は我を見た。
膝を折った。
「鶴様、秋津雪と申します」
(──正しい敬意)
(──母と同じ敬意)
「お前の母の伝言、預かっておる」
雪の目が、見開かれた。
「──母の伝言」
「十年、保留したままだ」
「娘が訳官として成長する日を待て、と柊から命じられた」
雪の指が、袴の上で動いた。
(──やはり母と同じ動き)
「今お前が訳官として成長した、と認めよう」
「伝言を届ける」
雪は頭を深く下げた。
「──お願いいたします」
◇
我は、白い翼を羽ばたかせた。
十年封じていた、柊の声を呼び出した。
柊の声は、我の喉の奥でまだ生きていた。
我は、雪の頭の上で「声」を放った。
「雪──」
柊の声。
柔らかく、しかし芯の通った女の声。
雪の顔が、一瞬止まった。
そして両手を口に当てた。
「──母さんの声」
「──雪、訳官として立ちましたね。誇りに思います。
これから、嵯峨様、桐生、そして久世殿と共に訳し終えてください。
久世殿は、楠の跡地におられます。
澪様も、そこに。
行きなさい。」
柊の声は、そこで終わった。
雪は涙を流した。
両手で、顔を覆った。
声を立てずに、涙だけが流れた。
我は、翼を畳んだ。
雪の側に、降りた。
(──柊の娘よ)
(──しかし、お前はすでに柊を超えている)
(──柊は、二百九十七語までだった)
(──お前はもう三百十二語)
(──母より、先を訳せる娘)
◇
照り様が雪の横で静かに待っていた。
雪は涙を袖で拭った。
「照り様」
「──はい」
「鶴様」
「──うむ」
「楠の跡地へ、ご案内くださいませ」
我は、頷いた。
「我が、先導する」
「しかし、娘」
「はい」
「楠の跡地には今誰も居ない」
「楠が処分されてから五年、誰も近づかない」
「しかし、近くに小さな小屋がある」
「その小屋に、久世真一郎と娘一人」
「久世は五年、娘を匿っている」
(──久世様と澪様)
(──本当に生きておられる)
雪の顔が、微かに明るくなった。
◇
我は、翼を広げた。
里の北の方へ、飛んだ。
低く雪と照り様が歩ける速度で先導した。
雪と照り様は竹林を抜けた。
古い倒木を、越えた。
苔むした石の川を、渡った。
妖の里の北の奥。
かつて、三百年の楠が立っていた場所。
今は、巨大な切り株だけが残っていた。
楠の根が地面から露出して、乾いていた。
五年前梶山の誤訳で処分された楠の精の、痕跡。
雪は切り株の前で立ち止まった。
「楠の精様」
雪は切り株に頭を下げた。
「──あなたの身代わりの志を、私、確かに聞きました」
「澪様を守ろうとされたことを」
「必ず、梶山様の誤訳を訳し直します」
「あなたの名誉を、戻します」
楠の切り株は、沈黙していた。
しかし、その沈黙の奥に、何かが応える気配があった。
我は、それを感じた。
(──楠の魂は、まだこの切り株の根に残っている)
(──雪の言葉が、届いた)
◇
切り株の向こうに、小さな小屋。
藁葺きの、粗末な造り。
しかし、煙が一筋立っていた。
(──久世と娘は、ここにいる)
我は、小屋の屋根に降りた。
雪と照り様が小屋の入口に立った。
「失礼いたします」
雪の声。
戸は、開いていた。
雪は一歩入った。
◇
小屋の中。
土間。
一つの囲炉裏。
火が、弱く燃えていた。
その前に、一人の男。
三十代半ば。
髪は肩まで伸び、薄い髭。
しかし、目は鋭かった。
そして奥に一人の娘。
二十歳、ほど。
黒い髪を、肩まで垂らしている。
白い肌。
顔立ちは、嵯峨に似ていた。
(──嵯峨の妹、か)
雪の息が止まった。
「──九条 澪、様」
娘は、顔を上げた。
目が、見開かれた。
「──あなたは」
「秋津雪、と申します」
「翻訳方の見習い訳官」
「秋津 柊の娘でございます」
娘──澪様の目に、涙が溜まった。
「──柊様の娘」
囲炉裏の前の男も、立ち上がった。
「──秋津」
男は、雪を見た。
「柊の娘か」
「──久世様で、ございますか」
久世真一郎は、深く頷いた。
「──久しぶりに「秋津」という名を、聞いた」
◇
久世は雪を囲炉裏の前に招いた。
照り様も、一緒に。
澪様は雪の目の前で畳に座って、じっと雪を見た。
「秋津雪、様」
「──はい」
「兄は、お元気ですか」
雪の息が止まった。
(──澪様は五年ぶりに兄・嵯峨様の消息を聞くのだ)
「──はい。ご健勝でございます」
「澪様を必ずお連れすると、仰っておられます」
澪様の目から、涙が溢れた。
しかし、笑顔だった。
「──兄」
「──嵯峨様は」
雪は嵯峨様から預かった訳文の写しを、懐から取り出した。
「五年前の梶山様の誤訳の写しを、持って参りました」
「楠の精様が、あなた様を守ろうとして処分されたことも」
「全て、分かりました」
澪様の両手が震えた。
「私も、知っておりました」
「楠の精様は、私を守ってくださいました」
「私は久世様に助けられてここで五年、過ごしてきました」
◇
久世が口を開いた。
「秋津」
「──はい」
「柊は、どうなった」
雪の息が、一瞬止まった。
「──十年前の春に「行かれました」」
久世の目が、一瞬閉じた。
「──そうか」
「俺は柊より先に身を隠した」
「柊も、俺と同じ道を辿ったか」
「──しかし、母は書き残されていました」
雪は母の帳面と共同記録を、久世の前に差し出した。
久世の指が震えた。
「──これは、柊と俺の記録」
「実家の梅の下に、埋まっておりました」
「母が私に託されました」
久世は帳面を両手で受け取った。
「十年、待った」
「ようやく娘が来てくれた」
久世の目に、涙が溜まった。
しかし、涙は流れなかった。
◇
我は、小屋の屋根で全てを聞いていた。
(──柊の十年の保留が、今解かれていく)
(──娘は、母の遺志を受け取り、久世と再会した)
(──澪も、兄の元へ帰れる)
我は、翼を広げた。
(──我も、最後の仕事をせねば)
◇
久世が雪に語った。
「柊と俺は十五年前に梶山の最初の誤訳を掴んだ」
「楠の精、寿を朽と書き換えた件ではない」
「もっと古い件。二十年前の獺の件」
(──獺)
(──母の帳面に、書かれていなかった件)
「俺は十五年前に梶山に直接問い質した」
「梶山は俺を翻訳方から追い出そうとした」
「俺は身を隠した」
「柊は残った。表向きは、何も知らぬふりで」
「母は一人で調査を続けられたのですか」
「俺は里から情報を送り続けた」
「鶴様の「声」で」
「柊と俺は十二年、声で繋がっていた」
(──鶴様を介して、母と久世様は共同研究を続けていた)
(──鶴様が二人の架け橋だった)
◇
雪は我を見上げた。
「鶴様、ありがとうございます」
我は、頭を一度下げた。
「娘、それが我の役目だ」
◇
澪様が雪に告げた。
「秋津様、私、帰れましょうか」
「──はい」
「もう帰れます」
「ただ、梶山様との決着がつくまで、しばらく安全な場所にお移しする必要がございます」
澪様は頷いた。
「私、兄に会えますか」
「──はい。明日には」
澪様の目から、また涙が落ちた。
しかし、今度は笑みの涙だった。
◇
久世が立ち上がった。
「秋津、俺も京洛に戻る」
「十五年、隠れていたが、今は違う」
「柊の娘と嵯峨様と桐生殿が、揃った」
「我々、五人で梶山を訳し直す」
「──ありがとうございます」
久世は微かに笑った。
「柊の分まで、俺も戻る」
◇
小屋を出る、時。
我は、雪の頭の上を旋回した。
「娘」
「──はい」
「我が「声」で、嵯峨と桐生に先に伝える」
「お前が戻る前に、迎えが手配される」
「──ありがとうございます」
我は、翼を強く羽ばたかせた。
北から、南へ。
京洛の翻訳方の方角へ。
我の「声」は、嵯峨の耳元に届いた。
「九条嵯峨。澪様はご無事。久世真一郎と共に、秋津 雪、里から戻る」
嵯峨の息を、我は遠くから聞いた。
嵯峨は、動いた。
迎えを、手配し始めた。
◇
雪、照り様、久世、澪様。
四人は、妖の里を出た。
我は、空から見守った。
(──柊、お前の娘は立派に育った)
(──今日お前の十年の保留が、解けた)
(──お前の「行く」の第三層が、果たされた)
(──お前は書き残したもので時を越えて、娘に届いた)
我は、里の北の古い木に戻った。
しかし、枝の上で一つ察した。
(──京洛で、梶山の反撃が始まる)
(──あれほどの権力者が、大人しく告発を受け入れるはずがない)
(──娘、気をつけよ)
我は「声」を、もう一度放った。
「雪、気をつけよ。梶山の反撃は、近い」
雪の指が、袴の上で動いた、気配を、我は、感じた。
(──届いたな)
我は、翼を畳んだ。
そして枝の上で目を閉じた。
千年生きる鶴は今日また一つ、仕事を終えた。




