第十三話「狭間」
夜明け前。
妖の里を出て、二刻が過ぎていた。
雪、照り様、久世真一郎、そして澪様。
四人の静かな行列。
久世は先頭、続いて澪様、雪、最後に照り様。
京洛への道はまず竹林を抜けて古い街道に出る。
街道の両脇は、まだ夜の気配が残る杉の林。
鶴の「声」が雪の耳元に届いた時、一行はちょうど街道に出たところだった。
「雪、気をつけよ。梶山の反撃は近い」
(──鶴様の警告)
雪の指先が、袴の上で動いた。
(──反撃の具体は)
(──どこで、何が起きるか)
鶴は続きを言わなかった。
ただ、警告だけを残して去った。
◇
久世が足を止めた。
一行も止まった。
「秋津」
久世の声は低かった。
「──はい」
「街道の次の曲がり角」
「三人、潜んでおる」
雪の息が止まった。
(──既に、待ち伏せされている)
「どうして分かるのでございますか」
久世は自分の耳に、手を当てた。
「十五年、妖の里に潜んでおった」
「妖の気配を読む感覚が、育った」
「あの三人は人間だ。しかし、剣を抜こうとしている」
照り様が前に出た。
「私が里に戻って、助けを呼びましょうか」
「いえ」
久世は首を横に振った。
「時間がない」
「澪様を、ここに長く置けない」
◇
久世は雪の方を向いた。
「秋津、一つ頼む」
「──何でございますか」
「澪様と照り様を、街道から外して杉林の奥へ」
「私が先に、三人と相対する」
「合図で戻ってきてくれ」
「──久世様、一人で」
「十五年、訓練した」
「大丈夫だ」
久世の目は揺るがなかった。
(──この方は、柊様の同志だった)
(──柊様が、帳面に「信じよ」と書かれた方)
雪は頷いた。
「──承知いたしました」
◇
雪、澪様、照り様。
三人は街道を外れ、杉の林へ入った。
杉の下生えの羊歯が、雪の袴に触れた。
澪様は雪の後ろを静かに歩いた。
五年、妖の里で暮らした娘は、林の中の歩き方を知っていた。
林の奥、大きな杉の根元に三人は身を伏せた。
雪の周りで、林と街道の境が曖昧になっていた。
杉の影と、夜明けの薄明の、境。
妖の里の側と、京洛の側の、境。
(──ここは、二つの場所の、間)
(──私たちが今いる場所には、まだ名前がない)
澪様が雪の耳元に囁いた。
「秋津様」
「──はい」
「兄は、私を本当に迎えてくださるでしょうか」
雪の胸が、一瞬縮んだ。
(──澪様の五年の問い)
(──妖の里でずっと抱えていた問い)
「──嵯峨様は毎朝澪様の幼い頃の字の掛軸を眺めておられます」
澪様の目が、見開かれた。
「兄が」
「──はい」
「五年、一日も欠かしたことはない、と九条家のご家臣から伺いました」
澪様の目に、涙が溢れた。
しかし、声は立てなかった。
妖の里で五年、声を抑えて生きてきた娘だった。
照り様が澪様の肩に手を置いた。
「澪様、お兄様はあなた様をお待ちです」
「今日お会いになられます」
◇
遠くから、刃の打ち合う音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
そして沈黙。
雪の指が止まった。
(──三度だけ)
(──久世様がもう終えられたか)
しばらく待った。
街道から、口笛が一度鳴った。
(──合図)
雪は頷いた。
「戻りましょう」
三人は、杉の林を出た。
◇
街道に戻ると。
久世が立っていた。
刀は既に、鞘に収まっていた。
息も乱れていなかった。
足元に、三人の男が横たわっていた。
灰色の袴。
二人は、人間の訳官風。
一人は、公家の手下風。
意識は失っていたが、息はあった。
「殺してはおらぬ」
久世は静かに言った。
「尋問が必要だ」
「嵯峨様に引き渡す」
(──十五年、訓練された、とは)
(──人を殺さずに捕らえる、技)
(──久世様は妖の里の妖たちから学ばれたのかもしれない)
◇
久世は三人を縄で縛った。
手際は良かった。
「秋津」
「──はい」
「この街道はもう危ない」
「大回りするが、北の山道を通る」
「半刻、余計にかかる」
「──承知いたしました」
「この三人は、ここに置いていく」
「後で、嵯峨様の家臣に回収させる」
久世は三人の一人の懐から一枚の紙を取り出した。
広げて、読んだ。
表情が、微かに硬くなった。
「──見よ」
雪は紙を受け取った。
それは、命令書だった。
──秋津 雪、および同行者を捕縛せよ。
──秋津 雪の所持する、柊の帳面を回収せよ。
──抵抗した場合は、死を許容する。
──命:梶山 宗之助
(──梶山様の名前)
(──直接の命令書)
「──証拠です」
久世は頷いた。
「そうだ」
「秋津、これは告発の決定的な材料になる」
「『翻訳方の長官が、見習い訳官の殺害を命じた』」
「どの公家も、どの奉行所もこれを見れば、翻訳方を擁護できぬ」
雪は命令書を懐にしまった。
大切に。
◇
北の山道。
杉の林を抜け、細い道を登った。
道は急だった。
澪様が何度か、足を滑らせた。
久世と雪が、交互に支えた。
途中で、一度休んだ。
岩の上に、澪様を座らせた。
澪様は息を整えた。
そして笑った。
初めて、澪様の笑顔を見た。
「私、久しぶりにこんなに歩きました」
久世も、微かに笑った。
「妖の里では、ほとんど動かない生活でしたからな」
「──はい」
「小屋と、泉と、楠の跡地の三つだけでした」
雪は澪様を見た。
(──五年、この娘はそこだけで暮らしていた)
(──今京洛に戻る)
(──世界が広がる)
◇
山道を降りた。
京洛の東の入口が、見えてきた。
久世はここで一度止まった。
「秋津」
「──はい」
「俺はここから先、別の道で入る」
「澪様と照り様を、頼む」
「──お一人で、ですか」
「十五年、姿を消していた男が昼に堂々と入ると、混乱する」
「夜に、嵯峨様の私邸へ参る」
「桐生殿にも、今夜会う」
雪は頷いた。
「承知いたしました」
久世は雪の肩に軽く手を置いた。
「柊の娘」
「──はい」
「お前は十分強くなった」
「これから、もっと強くなる」
(──柊の娘、と呼ばれる)
(──鶴様にも、久世様にも)
(──母さんの娘として、認められている)
雪の胸が、温かくなった。
◇
京洛の東の入口。
雪、澪様、照り様。
三人は、街を歩いた。
朝の京洛は、いつも通りの喧騒だった。
商人が、荷車を引いている。
子どもが、走っている。
豆腐売りの声が、遠くで聞こえた。
澪様は五年ぶりの京洛の景色をじっと見ていた。
「──変わっていない」
澪様の小さな呟き。
「──京洛は、五年前と変わっていない」
照り様が頷いた。
「京洛は千年、変わらぬ街でございます」
「澪様も、京洛の娘に戻られます」
◇
九条家の門の前。
家臣が、既に待っていた。
「秋津様」
家臣は頭を下げた。
「嵯峨様から、今朝ご連絡がありました」
「鶴殿のお声で、あなた様のご帰還を伺ったと」
(──鶴様が既に嵯峨様に伝えてくださっていた)
雪は頷いた。
「澪様をお連れいたしました」
家臣の表情が、固まった。
「──」
そして家臣は深く頭を下げた。
「澪様」
「──お戻りでございますか」
澪様は家臣を見た。
「──新左衛門」
澪様の呟き。
家臣、新左衛門の目に、涙が溢れた。
「澪様、お変わりなく」
「ご無事で」
「──新左衛門、ありがとう」
(──澪様は五年前の家臣の顔と名前を覚えておられた)
◇
門を潜った。
庭を横切った。
梅の古木が、白い花をまだ咲かせていた。
奥の座敷の、前。
襖が開いていた。
嵯峨様が座っていた。
朝の光を、背に受けて。
深緑の袴。
結い上げた黒髪。
いつも通りの背筋。
しかし、呼吸が少し速かった。
雪は入口で止まった。
澪様を、先に入れた。
◇
澪様は畳の上に一歩踏み出した。
嵯峨様が立ち上がった。
二人は、畳の真ん中で向かい合った。
「──兄」
「──澪」
嵯峨様の声も、震えていた。
澪様が一歩進んだ。
嵯峨様も、一歩進んだ。
そして二人は抱き合った。
五年、ぶり。
五年、お互いを思い続けた兄と妹の、再会。
嵯峨様の肩が、震えた。
澪様の肩も、震えた。
雪は入口で顔を伏せた。
(──この場面は、私の見るべきものではない)
(──兄と妹の、五年のものだ)
(──兄と妹の間にも、狭間がある)
(──五年の不在の、間)
(──しかし、二人は今その間で、訳し合っている)
◇
照り様が雪の袖を引いた。
「秋津様、庭へ参りましょう」
雪は照り様と共に庭に出た。
庭の梅の木の下に、座った。
空が青かった。
春の青い空。
雪は袖の奥の飴玉に手を当てた。
(──母さん)
(──澪様が嵯峨様にお会いになられました)
(──あなたと九条家のご縁が、今日繋がりました)
照り様が雪の横に座った。
「秋津様」
「──はい」
「あなた様も、お母様に会える日が来ますか」
雪の指が止まった。
(──母さんに会えるか)
(──母さんは既に「行かれた」方)
(──しかし、母さんの書き残したものは、今私と共にある)
「──会えております」
雪は静かに答えた。
「母は書き残したもので私と共にあります」
「辞典、帳面、書簡、そして」
雪は桜木の櫛に手を当てた。
「この櫛」
照り様は頷いた。
「──そうでございますね」
「妖語の『行く』の第三層でございます」
◇
半刻、経って。
嵯峨様が庭に出てきた。
澪様は奥の部屋で着替えをしていた。
九条家の若い娘の、着物。
五年ぶりの着物。
嵯峨様は雪の前に立った。
雪は立ち上がり頭を下げた。
「澪様を、お連れできました」
嵯峨様はしばらく何も言わなかった。
そして静かに頭を下げた。
「──秋津、雪」
「はい」
「──感謝する」
雪の目が、見開いた。
(──嵯峨様が私に頭を下げられた)
「お止めください。私はただ、母の遺志を辿っただけでございます」
嵯峨様は首を横に振った。
「柊様の遺志を辿れる娘は、お前しかおらぬ」
「そしてお前は私の妹を連れて戻ってくれた」
「これは、九条家として必ず返す」
雪は両手を膝に当てた。
(──感謝のやり取りが、終わらない)
(──嵯峨様の胸に、五年積もっていた)
「──嵯峨様、お立ちください」
嵯峨様はゆっくりと顔を上げた。
目元が、わずかに赤かった。
(──この方も、泣いておられた)
(──澪様との、再会で)
◇
雪は懐から命令書を取り出した。
「嵯峨様、途中で襲撃がございました」
「──聞いた」
「鶴様の声で」
「はい」
「刺客の一人が、持っておりました」
雪は命令書を嵯峨様に渡した。
嵯峨様は読んだ。
表情が、硬くなった。
「──梶山宗之助の、名前」
「直接の命令書」
「はい」
「これは、告発の決定的な証拠だ」
「はい」
嵯峨様は命令書を両手で握った。
「秋津」
「はい」
「今夜桐生殿と久世殿と四人で、会を持つ」
「明日告発書を出す」
「もう待てぬ」
雪は頷いた。
「──承知いたしました」
◇
夕刻雪は叔父の豆腐屋に戻った。
叔父がのれんの下で雪を見た。
「雪、おかえり」
「──はい」
叔父は雪の顔をじっと見た。
「大事な日だったな」
「──はい」
「豆腐、今日は一丁用意してある」
雪は頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
自室で、雪は辞典を開いた。
三百十三語目。
「狭間」
人語での意味:二つの場所の、間。
妖語での意味:
第一層 ─ 二つの場所の、間。
第二層 ─ 二つの意味の、間で揺れる、言葉の場所。
第三層 ─ 人と妖が、互いを訳し合う、協働の場所。
特記:
今日妖の里と京洛の、第一層の狭間を、歩いた。
道中で、梶山様の刺客に、襲われた。
久世様がお一人で、三人を、制圧された。
刺客の一人が、梶山様の直筆の命令書を、持っていた。
これが、告発の、決定的な材料となる。
そして今日嵯峨様と澪様が五年の間を、訳し合われた。
第三層の狭間が、九条家の中で、生まれた。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、梶山様の命令書の筆跡は、本物か(鑑定の必要)。
──二、伊吹伯爵はこの命令書に関与していたか。
──三、告発後、梶山様はどう動かれるか。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
今日飴玉と独楽と梶山様の命令書の写しを、袖に入れていた。
(──母さん、澪様と嵯峨様がお会いになられました)
(──あなたの十二年前のご覚悟が、今日実りました)
(──明日告発書を出します)
(──あなたの始められた道の決着が、近づいています)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
深夜襖の外で桐生の声がした。
「秋津、起きておるか」
「──はい」
襖が開いた。
桐生は硬い顔をしていた。
「九条家で、四人の会、終わった」
「明日の告発書、確定した」
「──承知いたしました」
「ただし」
桐生は声を落とした。
「秋津、明日お前が告発書を提出する」
「嵯峨様は奉行として受理する側」
「桐生と、久世殿は証人」
「──私が提出するのですか」
「特別裁判の請求権は、翻訳方の訳官で辞典三百を超えた者のみ」
「桐生は梶山様の直接の部下で利害関係者」
「久世殿は十五年、翻訳方を離れていた」
「秋津、お前しかいない」
雪の指が、一度動いた。
(──私が正式に梶山様を告発する)
「──承知いたしました」
桐生は深く頷いた。
「明日朝一で妖奉行所、特別裁判受付」
「嵯峨様が待っておられる」
雪は桜木の櫛に手を当てた。
「──参ります」
袖の奥の、飴玉が、微かに触れた。




