第十四話「還」
妖語で「還」は、三層を持つ。
第一層:元の場所に、戻ること。
第二層:失われたものが、再び繋がり直すこと。
第三層:時の中で離れていた者同士が、互いを認め合う瞬間。
この日、私は告発書を、奉行所に還す。
梶山様の十五年続いた誤訳の記録を、正式な書面として。
◇
朝雪は叔父の家を出た。
叔父はのれんの下で、見送った。
「雪」
「──はい」
「今日は、帰ってこられるか」
雪は少し間を置いた。
「──恐らく。ただし、遅くなるかもしれません」
叔父は頷いた。
「豆腐、用意しておく。遅くてもいい」
「──ありがとうございます」
雪は頭を下げた。
袖の奥に、辞典の写しと母の帳面の写しと久世との共同記録の写し、そして梶山様の命令書。
全て、告発書の、添付資料。
原本は、桐生の手元に保管。
◇
妖奉行所。
京洛の、東の大路に面した、大きな屋敷。
門の両脇に、奉行所の役人が二名ずつ立哨していた。
雪は門の前で、桜木の櫛に手を当てた。
挿し直した。
(──母さん、参ります)
門を、潜った。
◇
受付。
大きな机の前に、役人が座していた。
「特別裁判の請求で、参りました」
雪は深く頭を下げた。
役人は、顔を上げた。
雪の袴と、胸元の訳官徽章を見た。
「──見習いの特別裁判の請求?」
声に、わずかな嘲笑が混じった。
「はい。辞典三百語を超えた訳官の権利として」
役人は、眉を上げた。
「三百を超えた、と」
「三百十三語でございます」
雪は袖から、辞典の写しの一頁目を取り出した。
最新の三百十三語目「狭間」まで、記載された頁。
役人の目が止まった。
「──」
役人は、しばらく沈黙した。
「嵯峨様に確認する。少し、待たれよ」
「はい」
役人は、奥へ消えた。
◇
半刻ほどして、役人が戻ってきた。
「秋津様、奥の座敷へ」
(──様と呼ばれた)
(──先ほどまでの「見習いの」という調子が変わっている)
雪は頭を下げた。
「ありがとうございます」
奥へ通された。
◇
奥の座敷。
嵯峨様が既に着座していた。
深緑の袴。
脇には、桐生が控えていた。
そしてその奥に一人、見慣れぬ男。
三十代半ば。
髪は切り揃えられ、髭は剃られていた。
昨日の妖の里の小屋で見た姿と、一変していた。
(──久世様)
(──一晩で、京洛の訳官の風体に戻られた)
久世は雪を見て小さく頷いた。
「秋津、おはよう」
「──おはようございます」
雪は三人に頭を下げた。
◇
嵯峨様が口を開いた。
「秋津、告発書を出してくれ」
「──はい」
雪は懐から告発書を取り出した。
昨夜桐生と二人で夜を徹して作成したもの。
冒頭には、題名。
──翻訳方長官・梶山宗之助に対する、特別裁判請求書
──請求者:秋津 雪(翻訳方・見習い妖訳官、辞典三百十三語)
続いて、請求の根拠。
続いて、十五件の誤訳の具体的な証拠。
最後に、昨日押収した梶山様の命令書の写し。
嵯峨様は両手で受け取った。
一頁ずつ、ゆっくりと読んだ。
久世と桐生は静かに見守った。
雪はただ、座っていた。
指が、袴の上で動きかけた。
止めた。
止めるのに、力がいった。
◇
四半刻、経った。
嵯峨様は告発書を机に置いた。
「──受理する」
嵯峨様の声は、低く重かった。
「秋津 雪、翻訳方・見習い妖訳官の特別裁判請求を、正式に受理する」
(──受理された)
雪の、息が、一度深くなった。
「──ありがとうございます」
嵯峨様は桐生と久世に視線を移した。
「桐生、久世、証人として署名を」
二人は、告発書の末尾に署名した。
嵯峨様は奉行所の印を押した。
赤い印が、紙に残った。
◇
「秋津」
「──はい」
「特別裁判の期日は、七日後」
「場所は、妖奉行所・第一裁判場」
「被告は、梶山宗之助と翻訳方に関わる関係者」
「──七日後」
「梶山様には、本日中に召喚状を送る」
「おそらく、梶山様側も対抗の準備をしてくる」
「この七日間、お前の身辺に危険が及ぶ可能性が高い」
嵯峨様は雪をじっと見た。
「九条家で、預かりたい」
雪の指が止まった。
(──九条家で、匿っていただく)
(──しかし、叔父の家を離れるのは)
「──恐れながら、嵯峨様」
「うむ」
「叔父の家に、戻りたく存じます」
「叔父は母の唯一の兄」
「十年、私を育ててくださった方」
「この七日間、叔父の家から離れるのは難しゅうございます」
嵯峨様はしばらく沈黙した。
「──分かった」
嵯峨様は桐生を見た。
「桐生、叔父の家の周辺に、奉行所の警備を手配してくれ」
「私の私兵も、三人回す」
「承知」
雪は深く頭を下げた。
「お手数を、おかけいたします」
「手数ではない」
嵯峨様は少し言葉を置いた。
「秋津の命は、翻訳方の未来の命だ」
◇
告発書の受理が済むと。
久世が立ち上がった。
「嵯峨様、桐生殿、そして秋津」
三人は、久世に視線を向けた。
「俺から、一つ提案がある」
「──うむ」
「七日後の裁判で、俺の証言が必要になる」
「十五年前の梶山様の最初の誤訳」
「獺の件」
雪の、指が、袴の上で動いた。
(──獺の件)
(──第十二話で、久世様が言及された件)
(──母の帳面には、記載がなかった件)
「ただし」
久世は続けた。
「獺の件の証拠書類が、翻訳方の書庫の奥の奥にある」
「十五年前俺が自分で隠した」
「梶山様の部屋の隣の、古文書室」
「三段目の棚の裏の、二重底」
「──隠された」
久世は微かに頷いた。
「当時俺は一人で調査していた」
「告発する前に、梶山様に気づかれた」
「証拠書類を、持ち出せなかった」
「しかし、隠した」
「そして逃げた」
雪の息が止まった。
「──今取りに戻られるのですか」
「そうだ」
久世は静かに言った。
「七日以内に、取り戻さねばならない」
「しかし、翻訳方は梶山様の目が厳しい」
「俺が一人で入れば、捕まる可能性が高い」
桐生が頷いた。
「秋津と俺が一緒に入る」
「秋津は、見習いとして日常の仕事を続けている体で」
「俺は上級訳官として書庫に入る権限がある」
「久世殿が、案内役」
嵯峨様が頷いた。
「しかし、慎重にやれ」
「七日後の裁判まで、梶山様も動く」
「お互い、時間との戦いだ」
◇
妖奉行所を出た。
桐生と久世と雪の、三人。
京洛の午前の光。
東の大路を、ゆっくりと歩いた。
久世が雪に話しかけた。
「秋津、一つ訊いていいか」
「──はい」
「柊は、どのように「行かれた」のか」
雪の指が止まった。
(──母の最期)
(──久世様は昨日初めて母の死を知られた)
(──詳細を、まだお伺いしていない)
「──十年前の春の夜でございます」
雪は静かに語った。
「母は私に、『雪、母さんね、出かけてきます』と告げて、飴玉を一粒私の手に握らせました」
「そして書き置きを残されました」
「九行の書き置き」
「『今夜は早く寝るように、伝えてね』と」
「翌朝母は戻られませんでした」
「十日後、街道の外れで亡骸が見つかりました」
「辻斬り、として処理されました」
久世は長く沈黙した。
「──辻斬り」
「──はい」
「本当に、辻斬りだったのか」
雪は答えなかった。
(──私も分からない)
(──母の「行く」は、告発に行くの意だったかもしれない)
(──だとすれば、辻斬りは口封じだったかもしれない)
桐生が低い声で言った。
「十年前俺も辻斬り説に疑問を持っていた」
「しかし、証拠がなかった」
「柊様の遺体には、斬られた痕だけ残っていた」
「──」
久世は首を横に振った。
「いや、違う」
「──違う?」
「柊は、剣の心得があった」
「簡単に、辻斬りに斬られる女ではない」
「もし、斬られたとすれば」
「それは、知っている相手に油断した時」
雪の息が止まった。
(──知っている相手)
(──母が油断した相手)
(──翻訳方の内部の者)
(──あるいは、その手下)
◇
昼過ぎ。
雪は翻訳方に出仕した。
いつも通りの勤務。
ただし、桐生が時折雪の横を通った。
そしてごく小さな声で告げた。
「今夜子の刻、書庫の奥」
「俺と久世殿と、お前」
「──承知」
雪は普段通りの書き物を続けた。
藤野が、雪を見た。
山岡も、雪を見た。
(──私は今日奉行所で告発書を出した)
(──梶山様は召喚状を、既に受け取られたか)
(──翻訳方の空気が、昨日までと違う)
◇
夕刻山岡が雪の机の前に立った。
「秋津」
「──はい」
山岡の声は、いつもより低かった。
「──お前、今日妖奉行所に参られたと聞いた」
「──はい」
山岡は雪の机に両手をついた。
そして顔を、近づけた。
「秋津」
「はい」
「──お前、梶山様を告発されたのか」
雪はしばらく山岡を、見た。
(──山岡様は梶山様の派閥)
(──しかし、今日の山岡様の声の、低さ)
(──これは、問い詰めているのではない)
(──何か、別の気配)
「──正式な手続きを行いました」
雪は静かに答えた。
山岡は目を伏せた。
「──そうか」
「山岡様」
「うむ」
「お手紙をお待ちしております」
雪はただそう告げた。
山岡の、目が、一瞬揺らいだ。
「──」
山岡は無言で自分の机に戻った。
(──山岡様は何か言いたかった)
(──しかし、今は、まだ時が、来ていない)
◇
子の刻。
翻訳方は、無人だった。
夜勤の役人は、一人、受付の前に座しているのみ。
雪は自分の机の下からひっそりと出た。
足音を消した。
書庫の奥の扉。
桐生が既に鍵を、開けていた。
「秋津」
「──はい」
「久世殿は、こちらから入られた」
桐生は扉の奥を指差した。
書庫の奥の奥。
古文書室。
三段目の棚の、裏。
久世が既にそこで膝をついていた。
棚の裏板を、一枚外していた。
「秋津」
久世は小さく声をかけた。
「十五年前のままだった」
久世は裏板の奥から一冊の帳面を取り出した。
古い紙。
しかし、字は鮮やかに残っていた。
◇
帳面の冒頭。
──獺訳文検証
──翻訳方・久世真一郎
雪は帳面を両手で受け取った。
一頁目。
──被訳者:獺の一族(三十匹)
──妖の発言:「我ら、川に住む。稲は食わぬ。魚を食う」
──梶山の訳:「我ら、川に住み、稲を食う。村人を、襲う」
──差異:「食わぬ」が「食う」に逆転。「魚」が「村人」に。
──結果:獺の一族三十匹、処分(二十年前)
雪の指が震えた。
(──二十年前)
(──これが、梶山様の最初の誤訳の、証拠)
(──しかし、私は第四話で三百年前の楠の精の件から追っていた)
(──梶山様は二十年前から、誤訳を繰り返していた)
◇
「秋津」
久世は静かに言った。
「これを、お前の告発書の、資料に、加えてくれ」
「七日後の裁判で、最も古い誤訳として提示する」
「──承知いたしました」
雪は帳面を懐に収めた。
桐生が頷いた。
「さあ、出るぞ」
三人は、古文書室を出た。
◇
しかし、書庫の中央に出た時。
入口の方から、足音が聞こえた。
雪の息が止まった。
(──誰か来る)
桐生が雪の腕を掴んだ。
「隠れろ」
三人は、書棚の陰に身を潜めた。
足音は、近づいてきた。
二人分。
明らかに、夜勤の役人ではない。
「──梶山様の命」
低い男の声。
「秋津の机を、調べろ」
(──私の机)
雪の指先が、動いた。
「昼の間に、奉行所に告発書を出したらしい」
「写しが残っておらぬか、確かめろ」
もう一人の男が、答えた。
「承知」
二人は、机の方へ去った。
◇
桐生が声を潜めた。
「急げ」
「奴らが戻ってくる前に、裏口から出る」
三人は、書庫の裏口から庭に出た。
塀を越えた。
夜の京洛の路地に、出た。
久世が息を、深く吐いた。
「──間一髪」
桐生が頷いた。
「秋津、今夜からお前の机の写しは全部持ち歩け」
「翻訳方に置くな」
「──承知いたしました」
◇
深夜雪は叔父の家に戻った。
戸の前に、見慣れぬ三人の男が立っていた。
嵯峨様の私兵。
一人が、雪を見て頭を下げた。
「秋津様、ご無事で」
「──ありがとうございます」
雪は戸を開けた。
叔父は起きて待っていた。
「雪、戻ったか」
「──はい」
叔父は雪の、顔を、見た。
何も訊かなかった。
「豆腐、温めておいた」
◇
自室で、雪は辞典を開いた。
三百十四語目。
「還」
人語での意味:元の場所に、戻ること。
妖語での意味:
第一層 ─ 元の場所に、戻ること。
第二層 ─ 失われたものが、再び繋がり直すこと。
第三層 ─ 時の中で離れていた者同士が、互いを認め合う瞬間。
特記:
今日澪様が兄・嵯峨様の元に、還られた。五年、ぶり。
そして告発書が、奉行所に、還された。
久世様の獺の件の証拠も、十五年ぶりに翻訳方から還された。
「還」は、取り戻すことで、次の扉が、開く語。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、母の本当の、死因は、何か。
──二、山岡様は何を、言いたかったのか。
──三、七日後の裁判で梶山様はどの反撃をしてくるか。
◇
袖の奥の飴玉の、紙包みを、取り出した。
(──母さん、今日正式に告発書を出しました)
(──七日後、裁判でございます)
(──あなたの始められた道の決着が、もうすぐつきます)
(──ただし、母さんの本当の死因を、私はまだ知らない)
(──久世様が「剣の心得があった」と、仰られた)
(──母さん、あなたを、斬ったのは、どなたでございますか)
(──これも、訳し、終えねば、なりません)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
翌朝雪はいつも通り、翻訳方に出仕した。
自分の机に、一通の書状が、置かれていた。
差出人は、書かれていない。
封を開けた。
筆跡は、男の字。
ぎこちない、しかし力のある字。
──秋津へ
──今晩、子の刻。
──裏手の、梅の木の下。
──一人で、来られたし。
──山岡
雪の息が止まった。
(──山岡様)
(──昨日の問いかけの続き)
(──何を話されるおつもりか)
袖の奥の飴玉が、微かに触れた。




