第八話「幻」
朝翻訳方の門の前で白瀬ハルが待っていた。
肩までの黒髪。前髪が真っ直ぐ。薄紅の帯。
雪より二月遅れて入った、後輩の見習い。
第二話で辞典に書き留めた娘。
「訳さなくていい」と言った娘。
雪は袖の奥の飴玉に、一度触れた。
(──母さん、近江の書状は今日は置いて参ります)
(──まずこの子と桐生様のお仕事を、先にいたします)
雪は歩幅を整えて、翻訳方の門を潜った。
◇
「秋津先輩、おはようございます」
白瀬が雪に深く頭を下げた。
「おはようございます」
「あの」
白瀬は少し顔を赤くした。
「第二話で辞典に書かれた件、ずっと気にかけておりました」
「──はい」
「私、「訳さなくていい」と申しました」
「あれから、半月経ちました」
雪は白瀬を少しだけ見た。
(──この子は半月、考え続けた)
(──同じ訳官の子として、大切な時間)
「白瀬さん、入りましょう」
「はい」
二人で翻訳方に、入った。
◇
桐生が雪の机の前で待っていた。
「秋津、白瀬」
「──はい」
「小さな件だが、二人で行ってくれ」
「二条の紙問屋「柏屋」」
「店主の妻が三日前から、別人のようになった、と」
雪の指先が、袴の上で動いた。
(──別人のように)
(──姿は変わらない、のか)
(──姿は同じで、中身が違うと見えるなら)
「姿は、変わっておらぬのですか」
「ああ。姿は店主の妻、そのものだ」
「ただ、口調、好み、愛でる色、全てが変わった、と」
「──妖語の「幻」、かもしれません」
桐生が微かに頷いた。
「俺も、そう思った」
「だから、お前を呼んだ」
「白瀬を連れて行ってくれ」
(──白瀬さんを、今日育てる)
(──桐生様は、そうお考えか)
雪は頭を下げた。
「──承知いたしました」
◇
柏屋は、二条通に面した中くらいの紙問屋だった。
屋根の瓦が、昨日の雨で濡れたまま光っていた。
店主が、玄関で雪たちを迎えた。
四十前後の男。
目の下に、隈があった。
三日、眠っていない顔だった。
「秋津様、白瀬様、お願いいたします」
「柏屋様、お話を伺わせてください」
奥の座敷に通された。
◇
「妻の、お咲が」
店主が、震える声で語り始めた。
「三日前の朝から、別人のようになりました」
「どのように」
「まず口調が変わりました」
「お咲は、柔らかい上方の言葉遣いでした」
「それが、突然江戸のきびきびとした口調に、なりました」
白瀬が筆を動かした。
紙に、店主の言葉を書き留めていた。
雪より筆の動きが、やや速かった。
(──白瀬さんは書くのが速い)
(──しかし、書きすぎる傾向あり)
(──訳官の仕事は、書き留めることではない)
雪は白瀬を見なかった。
ただ、静かに続けた。
「他には」
「好みも、変わりました」
「お咲は、椿の花をいつも愛でておりました」
「赤い椿が、庭にたくさんあります」
「三日前から、「赤は、もう嫌」と仰って、全部抜こうとされるのです」
(──愛でる色が、真逆)
(──これは、単なる気分の変化ではない)
「お咲様は今お屋敷に」
「奥の部屋に、おります」
「会っていただけますか」
「──はい」
◇
奥の部屋。
座敷に、一人の女が座していた。
三十半ば。
白い肌。
しかし、目元の表情が鋭い。
店主が、入口で止まった。
「お咲、秋津様と白瀬様だ」
女は顔を上げた。
雪を見た。
「──あら」
「翻訳方の見習いさん?」
上方の柔らかい言葉ではなかった。
確かに江戸のきびきびとした口調。
(──口調の変わり方)
(──これは「取り憑かれた」のでも、「入れ替わった」のでもない)
(──「中身だけが別の層に、なっている」)
(──妖語の「幻」に近い)
雪は女の前に膝を折った。
「秋津雪と申します。お邪魔いたします」
「お座り、なさい」
女は雪たちに、手で座布団を示した。
手の動きも、きびきびしていた。
◇
白瀬が雪の隣で緊張していた。
筆が、動いていない。
雪は白瀬を見なかった。
ただ、女に尋ねた。
「お咲様、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「先ほど、赤い椿を嫌うと仰った、と」
「ええ」
「以前は、どう思われておりましたか」
女は少し、首を傾げた。
「以前?」
「三日前より前でございます」
女の目が、一瞬揺らいだ。
「──覚えておりません」
「三日前から、私はこうしてここにおります」
「それ以前のことは、記憶にない」
(──記憶が、三日前からのみ)
(──しかし、姿は以前のお咲様のまま)
雪は息を一度吐いた。
(──妖語の「幻」)
(──本体の形を借りながら、中身が入れ替わる)
(──しかし、入れ替わった側も以前の記憶が、ない)
(──ただ、「今の自分」として生きている)
◇
「お咲様」
「はい」
「お咲様は、お咲様でございますか」
女は、目を見開いた。
「何を仰るの」
「私は私よ」
「では、お咲様のお名前は」
「──」
女は沈黙した。
長い、沈黙。
「……お咲、と呼ばれております」
「それは、以前からでございますか」
「──」
また、沈黙。
「……三日前からです」
雪は静かに頷いた。
「白瀬さん」
雪は初めて白瀬の名を呼んだ。
白瀬がはっと顔を上げた。
「──はい」
「この方にお訊きしてみて、ください」
「「以前のあなた様は、どなたでしたか」と」
白瀬の目が、一瞬揺れた。
(──この子は今訊きたくないと思っている)
(──お咲様を揺るがせたくない、と)
(──「訳さなくていい」が出そうになっている)
雪は白瀬をじっと見た。
白瀬は雪の目を見返した。
◇
白瀬の唇が、一度止まった。
しかし、開いた。
「お咲様」
白瀬の声は、震えていた。
「──お伺いしてよろしいでしょうか」
「はい」
「以前のあなた様は」
「──どなたで、ございましたか」
お咲様(の中身)は、長く答えなかった。
そしてゆっくりと言った。
「──幸」
「私の名は、幸でございます」
「江戸の神田で、四十年生きてきました」
「三日前、死にました」
「そして気がつけばこの体におりました」
(──幸様)
(──江戸の、人間の女性)
(──三日前、亡くなった)
(──そしてお咲様の体に入られた)
白瀬の筆が、動いた。
しかし、書く語が見つからなかった。
雪は小さく頷いた。
白瀬の判断を、待った。
◇
白瀬が口を開いた。
「あの」
「はい」
「幸様は」
「お咲様の体に入られたいと、思われたのですか」
「──いえ」
幸様は、首を横に振った。
「気がついたら、この体にいたのです」
「私が選んだのでは、ありません」
「では、誰が」
「──分かりません」
白瀬はそこで止まった。
雪の筆が動いた。
紙に、一行だけ書いた。
──幸様の意図では、ない。
──誰かが幸様の魂を、お咲様の体に入れた。
雪はその一行を白瀬に見せた。
白瀬が頷いた。
◇
雪は店主を呼んだ。
店主が、震える手で座敷に入った。
「秋津様」
「柏屋様、お話、よろしいでしょうか」
雪はゆっくりと告げた。
「奥方様のお体に、別の方の魂が入っておられます」
店主の顔色が、変わった。
「別の方の、魂」
「幸、と仰います」
「江戸の、神田の四十代の女性」
「三日前にお亡くなりになって、気がついたら奥方様の体にいらした、と」
「そ、そんな」
「お咲様の魂は今どこにおられるのか」
「──調べる必要がございます」
店主が、膝から崩れた。
「私のお咲は」
「まだお咲様の体はここにございます」
「ただ、魂が入れ替わっております」
「これは、妖の手によるものと存じます」
◇
雪は白瀬を見た。
「白瀬さん、一つご相談が」
「──はい」
「幸様に、もう少しお話を伺っていただけますか」
「私は桐生様にご報告に参ります」
「この件、翻訳方だけでは解決できません」
「──私がお話を伺う、のですか」
「はい」
白瀬の目が揺れた。
「私、まだ見習いで」
「幸様は今一番お心に重いのは、自分の体でないことではなく」
「自分の死を、受け入れておられないことです」
「そちらを、お話しする方が先でございます」
雪は白瀬をじっと見た。
「白瀬さん、訳すか訳さぬか、ではなく」
「聞くか、聞かぬかで、ございます」
「──聞く」
「はい」
「幸様の死の前後のことを、ゆっくりお聞きください」
「訳そうとされなくて、構いません」
「ただ、聞いて差し上げてください」
白瀬の目に、決意が宿った。
「──承知いたしました」
◇
雪は柏屋を出て、翻訳方に戻った。
桐生に報告した。
「妖語の「幻」、当たっていた」
「しかし、これは珍しい」
「幻は普通、物を変える」
「魂を入れ替えるのは、「幻」の更に上位の妖語」
「「憑」か「置」に、近い」
桐生は深く頷いた。
「これは、翻訳方と陰陽寮の合同案件になる」
「俺から、話をつける」
「──ありがとうございます」
「白瀬はどうしておる」
「幸様のお話を、伺っております」
桐生は少し笑った。
「お前が育てておるな」
「──いえ」
「白瀬さんが自分で、決められました」
◇
三日後、事件は解決した。
陰陽寮の妖術師が入った。
妖語の「置」の術が、発見された。
お咲様の魂は、柏屋の庭の椿の根元に置かれていた。
術師が、魂をお咲様の体に戻した。
幸様は、江戸の自分の体に還された。
幸様の体は、既に葬られていた。
幸様の魂は、柔らかい淡い光になって、空へ昇っていった。
柏屋のお咲様は、元の上方の柔らかい口調に戻った。
赤い椿をまた、「可愛らしい」と愛でた。
◇
事件の後、白瀬が雪の机の前に来た。
「秋津先輩」
「はい」
「ご報告がございます」
白瀬は深く頭を下げた。
「私、今回」
「「訳さなくていい」と思いかけました」
「──はい」
「お咲様に「以前のあなた様は、どなたでしたか」と訊く時に」
「訊かない方が、お咲様(の中身)を揺らがせずに済む、と」
「思いかけました」
「──はい」
「しかし」
白瀬は顔を上げた。
「秋津先輩のお顔を見て、思い出しました」
「第二話で、辞典に書かれたことを」
「──」
「「訳さないことは、優しさではない」と」
「だから、訊きました」
「そして幸様のお名前が分かりました」
「幸様が、魂で還られました」
雪は頷いた。
「はい」
「──秋津先輩」
「はい」
「私、「訳さなくていい」を自分で止めました」
(──白瀬さん、成長された)
雪は静かに微笑んだ。
「白瀬さん、辞典をお出しください」
「──え?」
「辞典に、書き直していただけますか」
雪は白瀬に筆を貸した。
「第二話で、私が書いた項目に追記してください」
白瀬は雪の辞典を開いた。
三百三語目「愛でる」の少し後。
白瀬自身のことが、書かれた頁。
白瀬は筆を取った。
一行、追記した。
──白瀬ハル、十七歳。
──初出:「訳さなくて、いいこともある」。
──訳官の最も危うい傾向。
──【追記】半月後、第八話「幻」の件にて、
──自ら「訳さなくていい」を止めた。
──最初の成長。
白瀬の頬が、赤くなった。
「秋津先輩」
「はい」
「ありがとうございました」
雪は首を横に振った。
「私では、ございません」
「白瀬さんがご自分で、選ばれた結果です」
◇
その夜雪は自室で辞典を開いた。
三百九語目。
「幻」
人語での意味:実体のない、見かけだけのもの。
妖語での意味:
第一層 ─ 本体の形を借りながら、中身が入れ替わる。
第二層 ─ 入れ替わった側は、以前の記憶を持たない。
第三層 ─ 「幻」の更に上位に「置」があり、
魂そのものを、別の場所に置く術がある。
特記:
柏屋のお咲様の件、妖語「置」の案件。
翻訳方のみでは、解決できず、陰陽寮との合同で解決。
この種の案件は、翻訳方の管轄を超える。
ただし、「何が起きているのか」を、正しく訳す、ことが、
解決の入口となる。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、誰が幸様の魂を、お咲様の体に「置」いたのか。
──二、「置」の術を使える妖は、京洛に何体いるか。
──三、母も「置」の事件を扱ったことがあるか。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
(──母さん、今日白瀬さんが一歩進まれました)
(──私も、母さんの歩いた道を一歩進みました)
(──明日は、近江の湖畔へ参ります)
(──母さんの帳面を、探しに)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
翌朝翻訳方の門の前で桐生が雪を待っていた。
「秋津、近江へ行くのか」
「──はい」
桐生は小さく頷いた。
「俺も同行したかったが、今日は動けぬ」
「白瀬を、連れて行け」
「──白瀬さんを」
「昨日自分で「訳さなくていい」を止めた子だ」
「次の段階に連れていって、良い頃合いだ」
雪は頷いた。
「──承知いたしました」
◇
白瀬が門の前に来た。
「秋津先輩」
「白瀬さん、今日私と近江へ参ります」
「──近江?」
「母の帳面が残っている、との知らせがございました」
白瀬の目が、見開かれた。
「柊様の、帳面」
「──はい」
白瀬は深く頭を下げた。
「同行、させていただきます」
◇
二人は、京洛を出た。
東の、近江への道。
春の、朝。
雪の袖の奥で、飴玉が微かに揺れた。




