第七話「呼」
◇
翻訳方の二階。
長官室の前。
雪は襖の前で、一度止まった。
袖の奥の飴玉を、そっと触った。
(──母さん、参ります)
(──もし、戻れなかったら)
(──いや、戻る。必ず)
雪は襖に手をかけた。
「秋津雪、参りました」
「入れ」
低い、深い声。
老いた声だったが、衰えていなかった。
雪は襖を開けた。
一歩、入った。
そして、膝を折った。
◇
長官室。
奥の壁に古い掛軸。墨で書かれた一文字。
「訳」。
机の向こうに、一人の男が座していた。
五十代後半。
白髪混じりの髷。
眼光が鋭い。
手元に、湯呑みが一つ。
湯気は立っていなかった。
翻訳方長官・梶山宗之助。
雪が一度も正面から見たことのない、この翻訳方の頂。
「お呼びにより、参上いたしました」
雪は頭を、深く下げた。
梶山はしばらく、答えなかった。
雪の指が、袴の上で微かに動きかけた。
止めた。
止めるのに、力がいった。
(──この部屋で、指を動かしてはならない)
(──見られる)
◇
梶山が、口を開いた。
「顔を上げよ」
雪は顔を上げた。
梶山の目が、雪をじっと見た。
雪も、梶山を見た。
長い沈黙。
梶山の目は雪を見ているようで、雪の奥の何かを見ていた。
(──母を見ているのか)
(──私を通じて、母を)
梶山は言った。
「柊に、似ておる」
雪の息が止まった。
(──予想はしていた)
(──しかし、実際に仰られると)
(──重い)
「──恐れ入ります」
雪はまた、頭を下げた。
梶山は、小さく鼻で笑った。
「似ている、と言われるのは嫌か」
「──いえ」
「誇りでございます」
「誇り、か」
梶山の目が、微かに動いた。
◇
梶山は湯呑みを、両手で包んだ。
湯は冷めていた。
「秋津、お前の最近の訳、読んだ」
「──ありがとうございます」
「ムジナの件」
「狐の件」
「桑の木の件」
「蛇妖の件」
「そして、水の精の件」
梶山はひとつずつ、数えるように言った。
「五件」
「いずれも、妖の弁護に立った」
「いずれも、訳し直しとなった」
「──はい」
「面白い訳を書く」
梶山は湯呑みから、目を離さなかった。
「ただ、一つ問いたい」
「──はい」
「秋津」
「はい」
「お前は、妖の味方か」
◇
雪は答えなかった。
すぐには答えなかった。
(──梶山様の問いの意図)
(──「妖の味方」という語の、妖語的意味)
(──「味方」は妖語では「共に訳される者」の意)
(──敵対の反対ではなく、「同じ境界に立つ者」)
(──答えによって、梶山様の次の出方が変わる)
雪は筆を取らなかった。
辞典も取り出さなかった。
ただ、息を一度吐いた。
「恐れながら、梶山様」
「うむ」
「私は妖の味方でも、人間の味方でもございません」
梶山の目が動いた。
「では、何の味方だ」
「──訳の、味方でございます」
長い、沈黙。
梶山は湯呑みを、机に置いた。
そして、低く笑った。
「──柊と、同じ答えだ」
雪の、息が、止まった。
(──母さんも、同じ問いを受けられていた)
(──そして、同じ答えをされた)
◇
梶山は雪を、じっと見た。
「秋津、お前の辞典、何語まで書いた」
「三百七語でございます」
「三百七」
梶山は指先で、湯呑みの縁を撫でた。
「柊は三百に、届かなかった」
「二百九十七までで、終わった」
(──母の辞典は、二百九十七語目で止まっていた)
(──訳し終わらずに「行かれた」)
「お前は既に、超えておる」
梶山の声が低くなった。
「しかし、秋津」
「──はい」
「辞典の語数が多ければ良い、というものではない」
雪は、視線を落とさなかった。
「語が多いほど、訳せるものが増える」
「しかし同時に、敵も増える」
「訳し直しを受け入れぬ者が、存在する」
梶山の目が、雪を見つめた。
「柊は、それを知らなかった」
「──梶山様」
「何だ」
「母も知っておられた、と存じます」
梶山の目の奥が、一瞬揺れた。
(──揺れた)
(──梶山様は今、何かを隠された)
◇
梶山は湯呑みを、もう一度両手で包んだ。
「秋津、私がお前を呼んだのは」
「忠告のためだ」
「──忠告」
「お前の辞典は、三百を超えた」
「これは、翻訳方で三人目の記録」
「三人目」
「柊は、二百九十七で行かれた」
「私は、三百十二まで書いた」
「そして、お前」
梶山は、初めて目に感情らしきものを浮かべた。
「秋津」
「はい」
「三百を超えた訳官は、皆何かを失う」
「柊は、命を失った」
「私は」
梶山は、そこで言葉を切った。
雪は待った。
「──私が失ったものは、お前に言う必要はない」
梶山は、小さく溜息をついた。
「ただ、お前が失うものが何か」
「それは、お前自身が選ぶことだ」
◇
雪は、梶山の言葉を聞いていた。
頭の中で、妖語の層が動いていた。
(──梶山様の「失う」は、妖語の第三層)
(──「命、心、または大切な存在」)
(──梶山様は、何かを失われた)
(──しかし、それが何か、私はまだ知らない)
(──そして、私が「失うもの」を、梶山様は警告されている)
(──これは、脅しではなく忠告か?)
(──あるいは、両方か)
雪は、顔を上げた。
「梶山様」
「うむ」
「私は、母の訳を訳し直したいと存じます」
「訳し直す、とは」
「母の二百九十七語までの辞典に、残された保留を」
梶山の目が、また動いた。
「柊の辞典は、残っておらぬ」
「──残っていない、と」
「柊の死後、処分された」
「辞典は、訳官の最も私的なもの」
「死後、焼却するのが慣例だ」
(──処分された)
(──本当にか)
雪の指が、袴の上で微かに動きかけた。
止めた。
(──梶山様の「処分された」を、信じて良いものか)
(──母の辞典は、もしかしたらどこかに、残っている)
(──保留)
◇
梶山は椅子に、深く座り直した。
「秋津、下がれ」
「今日の話は、ここまでだ」
「──はい」
雪は頭を、深く下げた。
襖に、手をかけた。
振り返って、見た。
梶山はまた、湯呑みを両手で包んでいた。
冷めた湯を、飲もうとはしなかった。
(──梶山様は十年、湯を飲まずに冷めるのを待っている方か)
(──訳し終わらないと、湯も飲めない方か)
雪は、襖を閉めた。
◇
長官室の外の、廊下。
一息、ついた。
袴の裾が、微かに震えていた。
膝が、少し震えていた。
(──梶山様の部屋の、気配)
(──重かった)
(──重さに押されていた)
雪は、桜木の櫛に手を当てた。
挿し直した。
(──母さん、戻りました)
◇
廊下を、歩き始めた。
三歩歩いたところで、擦れ違う人の気配があった。
深緑の袴。
結い上げた黒髪。
(──)
雪の息が、一瞬止まった。
九条嵯峨様。
裁判場で二度、お姿を見た方。
第5話の章末で、桐生が名を告げた方。
まだ、直接お言葉を交わしたことは、ない。
嵯峨様も、長官室に向かう途中だった。
雪は、道の端に寄った。
頭を、深く下げた。
「──秋津雪、でございます」
雪の声は低く、落ち着いていた。
自分でも驚くほど、震えていなかった。
嵯峨様は、立ち止まった。
雪の斜め上で、止まった。
一拍の、沈黙。
「──秋津」
低い、揺るがない声。
裁判場で、二度聞いた声。
雪は、顔を上げなかった。
「──梶山様は、冷めた湯を飲まれなかったか」
(──)
雪の息が止まった。
(──なぜこの方は、梶山様の冷めた湯のことをご存知なのか)
(──いや、違う)
(──この方は、私が梶山様の部屋で何を見たかを、試しておられる)
雪は、ゆっくりと答えた。
「──はい。冷めたままでございました」
嵯峨様の足が、微かに動いた。
「──そうか」
それだけだった。
嵯峨様は雪を追い越して、長官室へ向かった。
雪は、顔を上げられなかった。
まだ、袴の裾が震えていた。
◇
翻訳方の一階。
雪の机。
桐生が、雪を見て口を開きかけた。
しかし、閉じた。
雪の顔が普段と違うことを、察したらしかった。
桐生は湯呑みに、茶を注いだ。
湯気は、まだ立っていた。
「秋津、温かいうちに飲め」
「──はい」
雪は湯呑みを、両手で包んだ。
包んだだけで、すぐには飲まなかった。
(──梶山様は、冷めた湯を飲まない)
(──桐生様は、温かい湯を私に注いでくださる)
(──この、違い)
「桐生様」
「うむ」
「梶山様から、忠告を頂戴しました」
「忠告、か」
「──辞典が三百を超えた訳官は、皆何かを失う、と」
桐生の手が、一瞬止まった。
「そうか」
そして、桐生は深く頷いた。
「柊様も、同じことを仰っていた」
「「桐生、辞典の語数は重さでもある」と」
「──母さんも」
「お前の母上は、二百九十七で行かれた」
「お前は既に、三百七」
桐生は、声を落とした。
「秋津、俺もお前に忠告せねばならん」
「──はい」
「辞典が四百を超えたら、止まれ」
「五百を目指すな」
「三百を超えた訳官が皆消えるのは、四百台に入ってからだ」
(──四百)
(──五百)
◇
雪は湯呑みを、初めて口にした。
温かい茶が、喉を通った。
(──温かい)
(──梶山様は、冷めた湯を飲まない)
(──それは訳し終わらないから、ではなく)
(──訳を「完成させない」ために、わざと冷ましているのかもしれない)
(──梶山様の「失ったもの」)
(──それは、訳を完成させる力かもしれない)
(──または、訳を完成させた誰かへの罪悪感、かもしれない)
雪の指が、袴の上で動いた。
(──保留)
(──梶山様の冷めた湯の意味は、保留)
◇
その夜、雪は自室で辞典を開いた。
三百八語目。
「呼」
人語での意味:相手を招く、名を声に出す。
妖語での意味:
第一層 ─ 相手に、応答を強制する力。
第二層 ─ 名を呼ばれた者は、その瞬間、呼んだ者と、
境界を、開く。
第三層 ─ 呼ばれた名の層によって、応える者の、
自分の層も、決まる。
特記:
今日、梶山様に「秋津」と呼ばれた。
第一層の「呼」だった。しかし、梶山様の声には、第二層の
重さがあった。「応えろ」という、強制。
嵯峨様に「秋津」と呼ばれた。こちらは、第一層のみ。
ただし、梶山様の冷めた湯を、察する力が、あった。
筆を下ろした。
その下に、問いを三つ書き足した。
──一、梶山様が「失ったもの」は何か。
──二、母の辞典は、本当に処分されたのか。
──三、嵯峨様は、どこまで梶山様の内情をご存知か。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
(──母さん、今日、梶山様とお話し致しました)
(──母さんのお名前も出ました)
(──そして、嵯峨様と初めて言葉を交わしました)
(──母さん、梶山様は「失ったもの」がある、と)
(──あなたと繋がっているのでしょうか)
(──あなたの辞典は、本当に焼かれたのですか)
(──どこかに残っていませんか)
雪は飴玉を、両手に包んだ。
舐めなかった。
十年、舐めていない。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
辞典を閉じた。
行灯の灯を細めた。
窓の外で、春の月が出ていた。
雪は眠る前に、もう一度桐生の言葉を思い出した。
「辞典が四百を超えたら、止まれ」
(──止まれない)
(──母さんが、二百九十七で「行かれた」のなら)
(──私は母さんが訳せなかった分を、訳し終えるまで止まれない)
(──訳し終わらねば、立ち去れない)
雪は、目を閉じた。
眠る前、最後に指が、袴の上で一度動いた。
◇
翌朝。
雪はいつも通り、翻訳方に出仕した。
自分の机に、一通の書状が置かれていた。
差出人は、書かれていない。
筆跡は、女性のもの。
封を開けた。
一行だけ、書かれていた。
──近江の湖畔に、母の帳面が残っている。
雪の息が止まった。
(──母の帳面)
(──梶山様は、「処分された」と仰った)
(──しかし、誰かが知っている)
(──この書状は、誰からか)
(──近江の湖畔)
雪は、書状を両手で握った。
(──行かねばならない)
袖の奥の飴玉が、微かに触れた。




