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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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7/15

第七話「呼」

 


  ◇


 翻訳方の二階。

 長官室の前。


 雪は襖の前で、一度止まった。

 袖の奥の飴玉を、そっと触った。


(──母さん、参ります)

(──もし、戻れなかったら)

(──いや、戻る。必ず)


 雪は襖に手をかけた。


「秋津雪、参りました」


「入れ」


 低い、深い声。

 老いた声だったが、衰えていなかった。


 雪は襖を開けた。

 一歩、入った。

 そして、膝を折った。


  ◇


 長官室。


 奥の壁に古い掛軸。墨で書かれた一文字。

「訳」。


 机の向こうに、一人の男が座していた。


 五十代後半。

 白髪混じりの髷。

 眼光が鋭い。

 手元に、湯呑みが一つ。

 湯気は立っていなかった。


 翻訳方長官・梶山宗之助。


 雪が一度も正面から見たことのない、この翻訳方の頂。


「お呼びにより、参上いたしました」


 雪は頭を、深く下げた。


 梶山はしばらく、答えなかった。


 雪の指が、袴の上で微かに動きかけた。

 止めた。

 止めるのに、力がいった。


(──この部屋で、指を動かしてはならない)

(──見られる)


  ◇


 梶山が、口を開いた。


「顔を上げよ」


 雪は顔を上げた。


 梶山の目が、雪をじっと見た。

 雪も、梶山を見た。


 長い沈黙。


 梶山の目は雪を見ているようで、雪の奥の何かを見ていた。


(──母を見ているのか)

(──私を通じて、母を)


 梶山は言った。


「柊に、似ておる」


 雪の息が止まった。


(──予想はしていた)

(──しかし、実際に仰られると)

(──重い)


「──恐れ入ります」


 雪はまた、頭を下げた。


 梶山は、小さく鼻で笑った。


「似ている、と言われるのは嫌か」


「──いえ」

「誇りでございます」


「誇り、か」


 梶山の目が、微かに動いた。


  ◇


 梶山は湯呑みを、両手で包んだ。

 湯は冷めていた。


「秋津、お前の最近の訳、読んだ」


「──ありがとうございます」


「ムジナの件」

「狐の件」

「桑の木の件」

「蛇妖の件」

「そして、水の精の件」


 梶山はひとつずつ、数えるように言った。


「五件」

「いずれも、妖の弁護に立った」

「いずれも、訳し直しとなった」


「──はい」


「面白い訳を書く」


 梶山は湯呑みから、目を離さなかった。


「ただ、一つ問いたい」


「──はい」


「秋津」


「はい」


「お前は、妖の味方か」


  ◇


 雪は答えなかった。

 すぐには答えなかった。


(──梶山様の問いの意図)

(──「妖の味方」という語の、妖語的意味)

(──「味方」は妖語では「共に訳される者」の意)

(──敵対の反対ではなく、「同じ境界に立つ者」)


(──答えによって、梶山様の次の出方が変わる)


 雪は筆を取らなかった。

 辞典も取り出さなかった。


 ただ、息を一度吐いた。


「恐れながら、梶山様」


「うむ」


「私は妖の味方でも、人間の味方でもございません」


 梶山の目が動いた。


「では、何の味方だ」


「──訳の、味方でございます」


 長い、沈黙。


 梶山は湯呑みを、机に置いた。


 そして、低く笑った。


「──柊と、同じ答えだ」


 雪の、息が、止まった。


(──母さんも、同じ問いを受けられていた)

(──そして、同じ答えをされた)


  ◇


 梶山は雪を、じっと見た。


「秋津、お前の辞典、何語まで書いた」


「三百七語でございます」


「三百七」


 梶山は指先で、湯呑みの縁を撫でた。


「柊は三百に、届かなかった」

「二百九十七までで、終わった」


(──母の辞典は、二百九十七語目で止まっていた)

(──訳し終わらずに「行かれた」)


「お前は既に、超えておる」


 梶山の声が低くなった。


「しかし、秋津」


「──はい」


「辞典の語数が多ければ良い、というものではない」


 雪は、視線を落とさなかった。


「語が多いほど、訳せるものが増える」

「しかし同時に、敵も増える」

「訳し直しを受け入れぬ者が、存在する」


 梶山の目が、雪を見つめた。


「柊は、それを知らなかった」


「──梶山様」


「何だ」


「母も知っておられた、と存じます」


 梶山の目の奥が、一瞬揺れた。


(──揺れた)

(──梶山様は今、何かを隠された)


  ◇


 梶山は湯呑みを、もう一度両手で包んだ。


「秋津、私がお前を呼んだのは」

「忠告のためだ」


「──忠告」


「お前の辞典は、三百を超えた」

「これは、翻訳方で三人目の記録」


「三人目」


「柊は、二百九十七で行かれた」

「私は、三百十二まで書いた」

「そして、お前」


 梶山は、初めて目に感情らしきものを浮かべた。


「秋津」


「はい」


「三百を超えた訳官は、皆何かを失う」

「柊は、命を失った」

「私は」


 梶山は、そこで言葉を切った。


 雪は待った。


「──私が失ったものは、お前に言う必要はない」


 梶山は、小さく溜息をついた。


「ただ、お前が失うものが何か」

「それは、お前自身が選ぶことだ」


  ◇


 雪は、梶山の言葉を聞いていた。


 頭の中で、妖語の層が動いていた。


(──梶山様の「失う」は、妖語の第三層)

(──「命、心、または大切な存在」)

(──梶山様は、何かを失われた)

(──しかし、それが何か、私はまだ知らない)


(──そして、私が「失うもの」を、梶山様は警告されている)

(──これは、脅しではなく忠告か?)

(──あるいは、両方か)


 雪は、顔を上げた。


「梶山様」


「うむ」


「私は、母の訳を訳し直したいと存じます」


「訳し直す、とは」


「母の二百九十七語までの辞典に、残された保留を」


 梶山の目が、また動いた。


「柊の辞典は、残っておらぬ」


「──残っていない、と」


「柊の死後、処分された」

「辞典は、訳官の最も私的なもの」

「死後、焼却するのが慣例だ」


(──処分された)

(──本当にか)


 雪の指が、袴の上で微かに動きかけた。

 止めた。


(──梶山様の「処分された」を、信じて良いものか)

(──母の辞典は、もしかしたらどこかに、残っている)


(──保留)


  ◇


 梶山は椅子に、深く座り直した。


「秋津、下がれ」

「今日の話は、ここまでだ」


「──はい」


 雪は頭を、深く下げた。


 襖に、手をかけた。


 振り返って、見た。


 梶山はまた、湯呑みを両手で包んでいた。

 冷めた湯を、飲もうとはしなかった。


(──梶山様は十年、湯を飲まずに冷めるのを待っている方か)

(──訳し終わらないと、湯も飲めない方か)


 雪は、襖を閉めた。


  ◇


 長官室の外の、廊下。


 一息、ついた。

 袴の裾が、微かに震えていた。

 膝が、少し震えていた。


(──梶山様の部屋の、気配)

(──重かった)

(──重さに押されていた)


 雪は、桜木の櫛に手を当てた。

 挿し直した。


(──母さん、戻りました)


  ◇


 廊下を、歩き始めた。


 三歩歩いたところで、擦れ違う人の気配があった。


 深緑の袴。

 結い上げた黒髪。


(──)


 雪の息が、一瞬止まった。


 九条嵯峨様。


 裁判場で二度、お姿を見た方。

 第5話の章末で、桐生が名を告げた方。

 まだ、直接お言葉を交わしたことは、ない。


 嵯峨様も、長官室に向かう途中だった。


 雪は、道の端に寄った。

 頭を、深く下げた。


「──秋津雪、でございます」


 雪の声は低く、落ち着いていた。

 自分でも驚くほど、震えていなかった。


 嵯峨様は、立ち止まった。

 雪の斜め上で、止まった。


 一拍の、沈黙。


「──秋津」


 低い、揺るがない声。

 裁判場で、二度聞いた声。


 雪は、顔を上げなかった。


「──梶山様は、冷めた湯を飲まれなかったか」


(──)


 雪の息が止まった。


(──なぜこの方は、梶山様の冷めた湯のことをご存知なのか)

(──いや、違う)

(──この方は、私が梶山様の部屋で何を見たかを、試しておられる)


 雪は、ゆっくりと答えた。


「──はい。冷めたままでございました」


 嵯峨様の足が、微かに動いた。


「──そうか」


 それだけだった。


 嵯峨様は雪を追い越して、長官室へ向かった。


 雪は、顔を上げられなかった。

 まだ、袴の裾が震えていた。


  ◇


 翻訳方の一階。


 雪の机。


 桐生が、雪を見て口を開きかけた。

 しかし、閉じた。


 雪の顔が普段と違うことを、察したらしかった。


 桐生は湯呑みに、茶を注いだ。

 湯気は、まだ立っていた。


「秋津、温かいうちに飲め」


「──はい」


 雪は湯呑みを、両手で包んだ。

 包んだだけで、すぐには飲まなかった。


(──梶山様は、冷めた湯を飲まない)

(──桐生様は、温かい湯を私に注いでくださる)

(──この、違い)


「桐生様」


「うむ」


「梶山様から、忠告を頂戴しました」


「忠告、か」


「──辞典が三百を超えた訳官は、皆何かを失う、と」


 桐生の手が、一瞬止まった。


「そうか」


 そして、桐生は深く頷いた。


「柊様も、同じことを仰っていた」

「「桐生、辞典の語数は重さでもある」と」


「──母さんも」


「お前の母上は、二百九十七で行かれた」

「お前は既に、三百七」


 桐生は、声を落とした。


「秋津、俺もお前に忠告せねばならん」


「──はい」


「辞典が四百を超えたら、止まれ」

「五百を目指すな」

「三百を超えた訳官が皆消えるのは、四百台に入ってからだ」


(──四百)

(──五百)


  ◇


 雪は湯呑みを、初めて口にした。


 温かい茶が、喉を通った。


(──温かい)


(──梶山様は、冷めた湯を飲まない)

(──それは訳し終わらないから、ではなく)

(──訳を「完成させない」ために、わざと冷ましているのかもしれない)


(──梶山様の「失ったもの」)

(──それは、訳を完成させる力かもしれない)

(──または、訳を完成させた誰かへの罪悪感、かもしれない)


 雪の指が、袴の上で動いた。


(──保留)

(──梶山様の冷めた湯の意味は、保留)


  ◇


 その夜、雪は自室で辞典を開いた。


 三百八語目。


よぶ


 人語での意味:相手を招く、名を声に出す。

 妖語での意味:

 第一層 ─ 相手に、応答を強制する力。

 第二層 ─ 名を呼ばれた者は、その瞬間、呼んだ者と、

 境界を、開く。

 第三層 ─ 呼ばれた名の層によって、応える者の、

 自分の層も、決まる。


 特記:

 今日、梶山様に「秋津」と呼ばれた。

 第一層の「呼」だった。しかし、梶山様の声には、第二層の

  重さがあった。「応えろ」という、強制。

 嵯峨様に「秋津」と呼ばれた。こちらは、第一層のみ。

  ただし、梶山様の冷めた湯を、察する力が、あった。


 筆を下ろした。


 その下に、問いを三つ書き足した。


 ──一、梶山様が「失ったもの」は何か。

 ──二、母の辞典は、本当に処分されたのか。

 ──三、嵯峨様は、どこまで梶山様の内情をご存知か。


  ◇


 袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。


(──母さん、今日、梶山様とお話し致しました)

(──母さんのお名前も出ました)

(──そして、嵯峨様と初めて言葉を交わしました)


(──母さん、梶山様は「失ったもの」がある、と)

(──あなたと繋がっているのでしょうか)


(──あなたの辞典は、本当に焼かれたのですか)

(──どこかに残っていませんか)


 雪は飴玉を、両手に包んだ。

 舐めなかった。

 十年、舐めていない。


 紙包みを、袖の奥に戻した。


  ◇


 辞典を閉じた。

 行灯の灯を細めた。


 窓の外で、春の月が出ていた。


 雪は眠る前に、もう一度桐生の言葉を思い出した。


「辞典が四百を超えたら、止まれ」


(──止まれない)

(──母さんが、二百九十七で「行かれた」のなら)

(──私は母さんが訳せなかった分を、訳し終えるまで止まれない)


(──訳し終わらねば、立ち去れない)


 雪は、目を閉じた。


 眠る前、最後に指が、袴の上で一度動いた。


  ◇


 翌朝。


 雪はいつも通り、翻訳方に出仕した。


 自分の机に、一通の書状が置かれていた。


 差出人は、書かれていない。

 筆跡は、女性のもの。


 封を開けた。

 一行だけ、書かれていた。


 ──近江の湖畔に、母の帳面が残っている。


 雪の息が止まった。


(──母の帳面)

(──梶山様は、「処分された」と仰った)

(──しかし、誰かが知っている)


(──この書状は、誰からか)


(──近江の湖畔)


 雪は、書状を両手で握った。


(──行かねばならない)


 袖の奥の飴玉が、微かに触れた。


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