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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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第六話「露」

 


 雪は照り様の後に従って、歩いていた。


 朝霧がまだ、晴れていなかった。

 洛外の道は石畳ではなく、土のままの細い道。

 春の冷たさが、袖の奥の飴玉まで届いていた。


(──袖の奥の飴玉が冷たい)

(──「冷」は妖語では「未だ触れられないもの」の意)

(──飴玉は十年、冷たいまま)


 雪は指先を袖に、一度当てた。


  ◇


 照り様が前を歩きながら、言った。


「秋津様、お疲れではございませんか」


「──いえ、大丈夫でございます」


「今朝、急なお訪ねをお許しください」

「私の同胞はもう、三年名を忘れたまま」

「昨日、秋津様が私を訳し直してくださると聞いて」

「いても立っても、いられなくなりました」


「照り様のお同胞でございますか」


「水の精でございます」

「洛外の里の泉に、七百年住んでおります」


(──七百年)


 雪の指先が動いた。


(──照り様より年上の妖)

(──七百年、名を忘れたまま)


  ◇


 道が細くなった。

 左右に竹林が迫り、空が遠くなった。

 竹の葉の触れる音が、雪の耳に入った。


 妖語では、竹の葉擦れを「ささやき」と呼ぶ。

 ただし、人語の「囁き」とは意味が違う。

 妖語の「囁」は「複数の声が重なって、一つの意味になる」の意。


(──里に近づいている)

(──竹の囁が人語の「声」から、妖語の「囁」に変わりつつある)


 照り様が立ち止まった。


「秋津様、ここから先は妖の里でございます」

「人間は招かれてしか、入れません」

「私がお連れいたします」


 照り様が手首の蔓の腕輪を、一度軽く撫でた。

 すると、竹林の奥が少し開けた。


  ◇


 妖の里。


 里といっても、家がある訳ではなかった。

 大きな木々の根元に、苔むした石が幾つか置かれている。

 泉が一つ、中央にあった。

 水面が、朝霧を映していた。


 泉の前に、女が座っていた。


 青い、濡れた着物。

 黒髪を、肩まで垂らしている。

 顔が泉の水面と同じように、揺らいでいた。


(──水の精)


 照り様が膝を折った。


「お姉様、この方が秋津様でございます」


 水の精は、ゆっくりと顔を上げた。


 そして、雪を見た。


「──あなた」


 声が、泉の底から響くような低い女声だった。


「あなた、柊、の、娘」


 雪の息が止まった。


  ◇


(──また、母を知っている妖)

(──ムジナ、水無瀬、そしてこの水の精で三人目)


「──はい。秋津雪でございます」

「母をご存知で」


 水の精は頷いた。

 しかし、その動きが僅かに遅かった。

 水面が揺れる時間と、頷く時間がずれている。


(──この妖は既に、形が崩れ始めている)

(──照り様の「名を忘れた」より進行している)


 雪はその場に、膝を折った。


「お話を伺わせてください」


  ◇


 水の精が語り始めた。


「私、の、名、は」


 言いかけて、止まった。


「──思い、出せ、ない」


 言葉が途切れ途切れに、出る。

 水面に浮かぶ、泡のようだった。


「昔、は、呼ばれた」

「柊、にも、呼ばれた」

「何と、呼ばれた、か」

「──思い、出せ、ない」


 雪は筆と辞典を、袂から取り出した。

 しかし、書かなかった。

 まだ、書くべき語が見えていなかった。


「照り様」


「はい」


「お姉様のお名前を、ご存知でございますか」


 照り様が首を横に振った。


「私も妹分でございます。お姉様のお名前を呼ぶのは、畏れ多い」

「いつも「お姉様」と、お呼びしておりました」


(──これは難しい)


 雪は水面を、見た。


 朝霧が、晴れかけていた。

 水面に、雪の顔が揺らいで映っていた。


(──水の精の本来の名は、どこに残っているのか)


(──翻訳方の書庫)

(──あるいは、母の帳面)

(──あるいは)


(──この泉、そのもの)


  ◇


 雪は水面に、そっと顔を近づけた。


 水の精が少し、驚いた顔をした。


「──秋津様?」


 雪は答えずに、水面を見続けた。


 朝の光が、水面を透けていた。

 泉の底に、何か白いものが沈んでいた。


(──)


 雪は袖をまくった。

 指先を、冷たい水に浸した。


「お姉様、お許しください」

「泉の底に、何か沈んでいるように見えました」

「確かめてもよろしいでしょうか」


 水の精は長く、答えなかった。


 そして、ゆっくりと頷いた。


  ◇


 雪は水に、半身を浸けた。

 袴の裾が濡れた。

 しかし、構わなかった。


 指先が、冷たい水を掻き分けた。

 泉の底に、手が届いた。


 小さな、平たい石。

 白い石。

 七百年沈んでいたような、苔も何もない白い石。


 雪は石を、水から取り上げた。


 石の表面に、字が刻まれていた。

 古い字。

 七百年前の、もの。


(──読めるだろうか)


 雪は石の表面を、指でなぞった。


 削れた溝が、指に伝わった。


「──つゆ


 雪の呼吸が、浅くなった。


(──この石に刻まれた名は)

(──「露」)

(──朝、草の葉に宿る水の粒)

(──水の精にふさわしい)


  ◇


 雪は石を両手で持って、水の精の前に差し出した。


「お姉様」


「──はい」


「お名前を見つけたと、存じます」


 水の精の、揺らいでいた顔が一瞬、止まった。


「──何と」


「露」


 雪は、ゆっくりと言った。


「露、様」


 水の精の、水面のような顔が大きく揺れた。

 揺れがやがて、止まった。


 そして、はっきりと輪郭が現れた。


 二十代の、美しい女の顔。

 黒い瞳に、涙が溜まった。


「──露」

「露、そうでございます」

「私は露、でございました」

「七百年、思い出せずにおりました」


 露様の頬を、涙が伝った。

 その涙が水面に落ちて、小さな波紋を作った。


 波紋は、しばらく水面を広がった。


  ◇


 雪は筆を取った。

 辞典を開いた。


 三百七語目。


つゆ


 人語での意味:朝、草の葉に宿る水の粒。

 妖語での意味:

 第一層 ─ 小さな、しかし、確かに存在する水。

 第二層 ─ 短命だが、消える前に光を反射する。

 第三層 ─ 七百年、水の底で、呼ばれるのを待つ名。


 特記:

 露様は、泉の底の石に、本来の名を刻んでおられた。

 七百年、誰にも呼ばれぬまま、名だけが沈んでいた。

 名を呼ばれぬまま、妖は、形を失う。

 泉の水面の揺らぎが、露様の形の崩れを示していた。


 筆を置いた。


 雪は露様に、頭を下げた。


「露様、これからはご自分のお名前で、おいでください」


 露様は頷いた。

 顔の輪郭は、もう揺らいでいなかった。


「秋津様」


「──はい」


「柊も、この泉に来たことがある」

「十二年、前」


 雪の指が止まった。


(──十二年前)

(──母が亡くなる、二年前)


  ◇


 露様は続けた。


「柊はこの泉の底に、石が沈んでいると知っていた」

「しかし、取り上げなかった」

「なぜ、と問うと」

「「まだ、時が来ておりません」と答えた」


(──まだ、時が来ていない)


「柊は、私に告げた」

「「お姉様のお名前を訳すのは、私の娘でございます」」

「「私は、別の訳を終わらせねばなりません」と」


 雪の息が止まった。


(──母さん)

(──十二年前、あなたは既に、私が訳す日を予見されていた)

(──そして、あなたは「別の訳」を優先された)


(──「別の訳」は何だったのですか)


(──梶山様の誤訳の追跡、でしたか)


  ◇


 露様は雪を、じっと見ていた。


「柊は訳し終わるのを、急いでいた」

「三日三晩、食わずに訳していた」

「豆腐だけを、口に入れた」


(──母さんも、訳す病の発作)


「柊は訳し終わる前に「行った」」

「「行く」のどの層か、私には分からない」


 露様の目が、雪を見た。


「秋津様、あなたは訳し終えられるでしょうか」


 雪はしばらく、答えなかった。


「──分かりません」


「正直なお答え、ございます」


 露様が、微かに笑った。


「柊も、同じ答えでございました」

「「終わるかどうかは、始める前には分からない。ただ、始めるしかない」と」


 雪の指が、袴の上で動いた。


(──母さんの言葉)

(──私にも、今当てはまる)


  ◇


 雪は露様に、もう一つ尋ねた。


「露様、母は他にどなたと、お話しされましたか」

「この里で」


 露様は、少し間を置いた。


「柊は、もう一人訪ねた」

「東の、大きな楠」

「その楠の下に座っていた妖と、長く話していた」


「その妖様のお名前は」


「私は知らぬ」

「遠くから、柊とその妖が並んで座っているのを、見ていただけ」

「ただ、その妖は」


 露様は、少し声を落とした。


「人の姿、だった」

「若い男の、姿」

「二十代に見えた」


(──若い男)

(──人の姿を取る妖)

(──あるいは)

(──妖ではなく、人だったのか)


 雪の指先が、動いた。


(──母さんが訪ねた男)

(──妖の里の、東の楠の下)


(──保留)


  ◇


 雪は露様に、深く頭を下げた。


「露様、大切なお話をありがとうございます」


「こちらこそ、秋津様」


 露様は、水面に手を入れた。

 指先から、光が生まれた。

 光は、水面を淡く染めた。


「私はまた、水の精としてここにおります」

「いつでも、お訪ねください」


 雪は頷いた。


 照り様が、雪の後ろで深く頭を下げた。


「秋津様、ありがとうございます」


  ◇


 里を出る、竹林の道。


 照り様は、途中で止まった。


「秋津様、ここまでお送りいたします」

「私は自分の丘に、戻ります」


「照り様、今日はありがとうございました」


 照り様は、首を横に振った。


「お礼を申すのは、こちらでございます」

「露様のお名前が、七百年ぶりに呼ばれた」

「この里の妖たちの気配が、変わるでしょう」


「と、申されますと」


 照り様は、少し微笑んだ。


「七百年名を忘れた方が、取り戻された」

「これは里に、希望を運びます」

「妖たちは「自分も、訳し直していただけるかもしれない」と、思うのです」


(──里の他の妖たちも、名を忘れている方がいる)


 照り様は続けた。


「近いうちに、またお訪ねする方がおられるかもしれません」

「その時は、どうか訳してやってくださいませ」


「──承知いたしました」


  ◇


 竹林を出た。

 朝霧は、完全に晴れていた。


 雪は、京洛へ戻る道を歩いた。


 袴の裾が濡れたままだった。

 濡れた布が、歩くたびに冷たかった。


(──母さんは、この里に来られた)

(──露様に会われた)

(──そして、「別の訳」を優先された)


(──「別の訳」を終わらせる前に、「行かれた」)


(──母さん、あなたが終わらせられなかった訳は)

(──私が終わらせます)


 雪の指先が、袴の上で動いた。


(──訳し終わらねば、立ち去れない)

(──母も私も、同じ)


  ◇


 翻訳方に戻った。


 桐生が、雪の袴の濡れを見た。


「秋津、何処へ行っていた」


「──妖の里でございます」


 桐生の目が、一瞬動いた。


「──妖の里」


「照り様に導かれて」

「七百年名を忘れていた水の精を、訳し直しました」


 桐生は、長く雪を見ていた。


「お前、柊様の歩かれた道を辿っておるな」


「──はい」


 桐生は頷いた。


「昨日、俺も書庫で一つ見つけた」

「柊様が十二年前、妖の里の訳文を書かれていた」


 雪の息が止まった。


「──母の訳文」


「読むか」


「──はい」


 桐生は、雪の机に一枚の紙を置いた。


  ◇


 母の字。


 雪が七年ぶりに見る、母の筆跡。


 縦に長く、迷いがない。

 桐生が「桐生、お茶、冷めてしもうたな」と、かつて言われた頃の字。


 訳文の冒頭に、こう書かれていた。


 ──妖の里にて、水の精の訳を保留とする。

 ──お姉様のお名前は、泉の底に眠る石にあり。

 ──しかし、今取り上げるべき時ではない。

 ──娘の雪が、訳官となる日を待つべし。


 雪の指が、紙の上で震えた。


(──母さん)

(──あなたは十二年前に、今日のことを予見されていた)

(──私が十九歳で、露様の石を取り上げることを)


  ◇


 桐生は、雪の机の前に座った。


「柊様は、お前の訳官としての未来を信じておられた」

「お前が、九歳の時に既に」


「──はい」


「柊様は他にも、「娘が訳す日を待つ」という注記を残しておられる」

「これから、俺と一緒にそれを探す」


「──ありがとうございます」


 桐生は湯呑みに、茶を注いだ。

 雪の前に置いた。


「秋津、お前、袴が濡れておる」

「風邪を引く前に、着替えて温かい茶を飲め」


「──はい」


 雪は湯呑みを、両手で包んだ。


(──温かい)

(──冷たい飴玉と、温かい湯呑み)

(──袖の奥に、両方ある)


  ◇


 その夜、雪は自室で辞典を閉じた。


 今日、露様の訳が終わった。

 しかし、また新しい保留が増えた。


 雪は再び辞典を開いて、特記の下に筆を進めた。


 書きたいことが、いくつもあった。

 母が妖の里の東の楠で会ったという、若い男のこと。

 母が他にも残しているという、「娘の訳す日を待て」の注記のこと。

 そして、露様のお姉様と、母の「別の訳」のつながりのこと。


 しかし、整える気力がなかった。

 雪はただ、辞典の余白に、


 ──いずれも、保留。


 と一行だけ書いて、筆を置いた。


  ◇


 袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。


(──母さん、今日あなたの歩いた道を、一歩辿りました)

(──あなたが、私を訳官として育てようとされていたことを、知りました)


(──「別の訳」を、私が終わらせます)


 雪は飴玉を、両手に包んだ。

 舐めなかった。

 十年、舐めていない。


 紙包みを、袖の奥に戻した。


  ◇


 翌朝、翻訳方の門の前で桐生が、雪を待っていた。


 雪が近づくと、桐生はいつもより硬い顔をしていた。


「秋津」


「──はい」


「今朝、長官室から呼び出しが来た」

「梶山様が、お前を直接お呼びだ」


 雪の息が止まった。


(──梶山様)

(──直接)


(──まだ、会ったことがない)


 桐生の目が、雪をじっと見た。


「覚悟、できているか」


 雪は桜木の櫛に、手を当てた。

 挿し直した。


「──参ります」


 袖の奥の飴玉が、微かに触れた。


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