第五話「夜」
蛇の妖・水無瀬の件は、朝一番に雪の机に届いた。
──水無瀬。女の姿の蛇妖。
──三年前の誓約で「夜」にのみ人を襲うと誓った。
──しかし昨日の昼、人を襲った。
──誓約違反、加えて虚偽の罪。
──主任訳官:藤野。
雪は書状を両手で持った。
(──藤野様。二度目)
桐生亮が、雪の机の前に立っていた。
「秋津、今日は裁判場だ」
「見習い席で立ち会え」
「──はい」
桐生は少し、声を低くした。
「藤野様の訳を、あらかじめ見せてもらった」
「──『昼』を『夜』と偽った、と書かれている」
「──水無瀬殿の妖語の原文は」
「『見えない時』『隠れていた時』『影の中』と、三度」
雪の指先が袴の上で動いた。
(──妖語の「夜」)
(──「見られない時間」の意)
(──物理的な夜ではない)
(──日光の届かない場所に身を置いた時)
(──妖にとっては、それも「夜」)
(──藤野様は、それを物理的な夜として訳した)
(──また、誤訳)
雪は桐生を見た。
「桐生様、これは覆さねばなりません」
桐生は頷いた。
「そうだ」
「昨日は、俺が先回りをした」
「今日は、先回りができない」
「裁判場で覆すしかない」
「──はい」
桐生の目が、雪をじっと見た。
「秋津、二度連続で裁判場で訳を覆す」
「これは梶山様に直接届く」
「覚悟、できているか」
雪は桜木の櫛に手を当てた。
「──はい」
「よし、行け」
◇
裁判場に入った。
見習い席の三列目。
春の雨が屋根を叩いていた。
しかし光は格子窓から差していた。
昼だった。
訳官席には、藤野が座っていた。
五十代の正規訳官。梶山長官派の副官。
顎が四角い。目尻が細い。
手の甲に老斑が三つあった。
そして──
奉行席の隣。
昨日と違う奉行。
しかしその隣の席に、深緑の袴の若い武家が座していた。
今日、も。
(──あの方、か)
雪の指先が動いた。
(──先週のムジナ事件の時も、あの方がおられた)
(──あの時「発言を許す」と仰ったのは、あの方)
(──なぜ裁判場に毎回おられるのか)
(──保留)
◇
裁判官が口を開いた。
「被告、蛇妖・水無瀬」
「三年前の誓約で『夜』にのみ、人を襲うと誓った」
「しかし昨日の昼、人を襲った」
「誓約違反と見做される。答えよ」
水無瀬は顔を上げた。
黒く長い髪。水色の単衣。瞳孔は縦に細い。
「私は夜に襲いました」
裁判官の眉が動いた。
「昼であったろう」
「いいえ」
藤野が訳文を読み上げた。
「この妖の発言を訳しまする」
「『私は夜に襲った』」
「しかし、事実は昼」
「すなわち、虚偽の証言」
「誓約違反、加えて虚偽の罪」
裁判官が頷きかけた。
水無瀬が、もう一度言った。
「見えない、時でした」
「隠れていた、時でした」
「私は影の中で動きました」
(──)
雪の頭の中に、語が浮かんだ。
(──三つ並んでいる)
(──「見えない時」「隠れていた時」「影の中」)
(──三つとも妖語の「夜」の定義と、完全に一致する)
(──水無瀬殿は嘘をついていない)
(──妖語で「夜」と答えている)
雪は息を一度吸った。
(──半刻動かずに訳し直せるか)
(──いや、今はすぐに立たねば)
(──水無瀬殿が虚偽の罪で処分される前に)
雪は桜木の櫛に手を当てた。
挿し直した。
(──母さん、二度目、お借りします)
立ち上がった。
◇
「恐れながら、申し上げます」
藤野が振り返った。
鋭い目だった。
老斑の浮いた手が、訳文を握り直した。
「──見習いが発言するな」
「失礼いたします」
「黙れ」
雪は黙らなかった。
奉行席の方を見た。
奉行席の隣の若い武家。
深緑の袴。結い上げた黒髪。
背筋が真っ直ぐだった。
顔は相変わらず見えない。
間があった。
「──発言を、許す」
同じ声だった。
若い、低く揺るがない声。
(──やはり、あの方だ)
藤野の顔が強張った。
◇
雪は巻物を前に差し出した。
「藤野様の訳では、水無瀬殿が『昼』を『夜』と偽ったとなっております」
「しかし水無瀬殿の発言では、『見えない時』『隠れていた時』『影の中』と三度繰り返されております」
「それが、何だ」
藤野の声が低くなった。
「妖語の『夜』は、物理的な時間を指しません」
「『見えない時』『他者から認識されない状態』を指します」
「日光が届かない場所に身を置いた時、妖語では『夜』でございます」
裁判場が静まった。
雪は水無瀬に尋ねた。
「水無瀬殿、昨日あなたはどこにおられましたか」
水無瀬は頭を下げた。
「屋敷の塀の影でございました」
「大きな松の下でございました」
「人の目からは見えない場所で」
「私には『夜』でございました」
裁判官が眉を寄せた。
「日光が届かない場所を『夜』と呼ぶのか」
「妖には、そうでございます」
雪は続けた。
「三年前の誓約文を拝見しました限り」
「『夜』の定義は書かれておりません」
「人間側は時間の『夜』と解釈された」
「水無瀬殿は妖語の『夜』で誓われた」
「──両者の解釈が、ずれておりました」
裁判官が長く黙った。
そして、言った。
「誓約は無効とする」
「水無瀬の罪は襲ったことのみ」
「ただし今後のために、誓約の定義を詳細に定めよ」
「翻訳方に命ずる」
「──承知、いたしました」
藤野の顔が赤かった。
訳文を畳んだ。
席を立った。
雪の横を通る時、肩が強く触れた。
わざと、だった。
雪は一歩も動かなかった。
巻物を胸に抱いた。
◇
水無瀬の処遇は減軽された。
襲われた人間は、命に別状なし。
水無瀬には百年の隠棲が命じられた。
裁判場を出る時、水無瀬が雪の前で頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
「秋津様」
雪は頭を下げ返した。
「お役目でございます」
水無瀬は縄を引かれて去った。
裁判場の戸口で一度、振り返った。
「秋津、様」
「はい」
「母上のこと、でございますが」
雪の足が止まった。
「母上の訳文も、翻訳方に残っておりましょうか」
「──」
「残っておりましたら、お読みください」
「母上の『夜』の定義を」
水無瀬はもう、振り返らなかった。
(──水無瀬殿も、母を知っている)
(──三百年の古妖ではない。五十、六十の年頃)
(──それでも母を知っている)
(──母さんは翻訳方で、多くの妖と関わっておられた)
雪の指先が袴の上で動いた。
(──保留)
◇
奉行所の門を出た。
春雨が細く降っていた。
雪は傘を差して歩いた。
鴨川の河原沿いを歩いた。
風が冷たく、水の匂いを運んだ。
橋の手前で、町人が二人すれ違った。
商家の女将と、使いの女。
声が聞こえた。
「九条の若奉行様、また見習いを庇われたと」
「冷徹と評判のあの方が」
「珍しいことじゃ」
「あの、秋津とかいう娘でしょう」
「この半月で二度目だよ」
「あの方、あの娘を見ておられるのかもしれん」
(──九条、様)
雪の歩幅が狭くなった。
(──奉行席の隣におられる方のお名前が、九条)
(──冷徹と呼ばれる方)
(──しかし、私を庇われる)
(──なぜ、だろう)
雪の指先が袴の上で動いた。
(──「九条」の名を、辞典に書き留めておかねば)
(──いや、名を書き留めるのは妖語的には重い)
(──名は魂の一部)
(──書き留めれば、あの方の核に触れることになる)
(──保留)
◇
翻訳方に戻った。
書庫に入った。
梶山様の訳文の続きを調べるつもりだった。
しかし桐生が入口で待っていた。
「秋津、今日は深追いするな」
「──はい」
「藤野様が、お前の訳に異議を申し立てるかもしれん」
「その対応を、先に考えねばならん」
「──申し訳、ございません」
「いや、お前の訳は正しい」
「正しい訳を守るのが、俺の仕事だ」
桐生は湯呑みを両手で包んだ。
「秋津」
「はい」
「──九条様、という方のこと、耳に入ったか」
雪の息が止まった。
「──はい。町の噂で」
「九条 嵯峨様」
「妖奉行所の、若年筆頭奉行」
「二十七歳」
「旗本相当の名門武家」
(──九条 嵯峨)
「冷徹と評判だ」
「滅多に発言されない」
「しかし、お前の訳に二度『発言を許す』と仰った」
「──これは、異例だ」
「──何故、でございましょうか」
桐生は湯呑みを置いた。
「分からん」
「ただ、あの方は五年前に妹を失っておられる」
「妹の失踪事件、未解決」
「──それと、お前の訳に関係があるのかもしれん」
(──妹)
雪の指先が袴の上で動いた。
「──妹御のお名前は」
桐生は少し、間を置いた。
「九条 澪様」
「失踪時、十五歳」
「今も、生死不明」
(──澪)
雪は、その名を心に刻んだ。
(──「澪」は妖語でも人語でも、水の流れの意)
(──水は、時を運ぶもの)
(──名前が、すでに妖語的)
(──母さんは澪殿のことをご存知だったろうか)
(──五年前、澪殿が失踪された時、母さんは既に亡くなっておられた)
(──しかしそれより前の澪殿のことは、知っていたかもしれない)
◇
夜、雪は柳町に戻った。
叔父の豆腐屋ののれんが、風に揺れていた。
雪は自室に上がった。
辞典を開いた。
三百六語目。
「夜」
人語での意味:日没から、日の出まで。
妖語での意味:
第一層 ─ 見えない時。
第二層 ─ 自分が自分に戻る時間。
第三層 ─ 他者から、自分の存在が認識されない状態。
特記:
日光の届かない場所に身を置けば、妖には「夜」。
塀の影、松の下、書庫の奥──全てが「夜」。
筆を下ろした。
今夜は、二つしか書けなかった。
──ひとつ、九条嵯峨様は、なぜ私の訳を二度お認めくださったか。
──ふたつ、母は、九条澪様をご存知だったか。
三つ目を書こうとして、止めた。
まだ、形にならなかった。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを握った。
(──母さん、今日、嵯峨様という方のお名前を知りました)
(──妹御を失われた方です)
(──私はまだ、あの方のお顔を存じません)
(──しかし、あの方は私の訳を二度お認めくださいました)
(──なぜでしょう)
(──あの方の妹御が「行かれた」ことと)
(──母さんが「行かれた」ことは)
(──関係があるのでしょうか)
◇
雪は辞典を閉じた。
行灯の火が揺れた。
窓の外で、春雨がまだ降っていた。
(──今日も、訳し終わっていない)
机の引出の帳面は、また重くなった。
保留の語と、保留の問い。
九条 嵯峨、九条 澪──二つの名前が、雪の頭の中で響いていた。
(──保留)
雪は飴玉の紙包みを、袖の奥に戻した。
舐めなかった。
今日も、舐めない。
(──いつか、舐める日が来るのだろうか)
雪は行灯の灯を細めた。
◇
翌朝、まだ夜が明けきらぬ刻。
叔父の豆腐屋の戸を、誰かが叩いた。
「秋津様は、おいでか」
雪は、既に起きていた。
戸を開けると、見慣れぬ老婆が立っていた。
樺色の着物。手首に生きた蔓の腕輪。
(──照り様)
桑の木の精だった。第四話で、雪が名を訳し直した精。
「秋津様、お願いがございます」
照り様は、深く頭を下げた。
「私の、遠い同胞が、同じく名を失っております」
「洛外の、丘の向こうの妖の里に」
「どうか、訳しに来てくださいませ」
雪の呼吸が、一瞬、浅くなった。
(──妖の里)
(──母さんが、通われた場所)
雪は桜木の櫛に、手を当てた。
「──参ります」
袖の奥の飴玉が、微かに触れた。
(──母さん、今日は、妖の里へ、行きます)
雪は、照り様に続いて、朝霧の中を歩き出した。




