第四話「名」
名を呼ぶということは、相手の核に触れることだ、と。
母が生前、雪に言ったことがある。
十年前、雪は九歳。
その時は、意味が分からなかった。
今、雪は十九歳。
意味が、少しずつ見えてきた。
◇
仏壇の板のことが気になって、夜よく眠れなかった。
翌朝、雪は翻訳方に出仕した。
眠らずに朝を迎えた。
桐生が雪の顔を見て眉を寄せた。
「秋津、疲れているな」
「──はい」
「控え室に、客が待っておる」
「お前に直接、話したいと」
「──はい」
「桑の木の精だ」
「名を忘れた、と」
雪の指先が袴の上で動いた。
(──名を忘れた)
◇
控え室。
畳はまだ冷たかった。
障子から、雨の気配が滲んでいた。
痩せた白髪の老婆が一人、座っていた。
背は小さい。
しかし、姿勢はまっすぐ保たれていた。
古びた樺色の着物。
手首に、細い蔓の腕輪。
腕輪の蔓は生きていた。
若葉が二枚、芽吹いていた。
(──これは本体の桑の木の、枝分けだ)
(──妖が人の姿を取る時、本体の一部を身につけている)
雪は老婆の向かいに膝を折った。
「秋津雪と申します」
「お話を伺わせてください」
老婆は深く頭を下げた。
「桑の木の精でございます」
「洛外の丘に三百年、立っておりました」
「ただ」
老婆はしばらく、黙った。
「私には、名がございました」
「それが今は、思い出せません」
雪の筆が止まった。
(──妖が、自分の名を忘れる)
(──第二話の狐の「名が、薄れる」と同じ)
(──しかし、狐は「愛でられすぎて」薄れた)
(──この老婆は、愛でられたのではない)
「いつから、でしょうか」
「三年ほど前から薄れ参りました」
「半年前には完全に」
「自分の名が遠くなりました」
「ご自分で誰かに名を奪われた覚えは」
「ございません」
「ただ、気づけば薄れておりました」
「人間との諍いなどは」
「一度も」
「村の子らは、私を慕ってくれました」
「昔は「木の下の、て──」と子らが」
老婆の言葉が途切れた。
唇が何かを言いかけて、閉じた。
「……いえ、思い出せません」
「半分言いかけて、忘れました」
「これが最近、よくあるのです」
(──「て──」で始まる名)
(──しかし本体の蔓は、まだ生きている)
(──名だけが失われている)
雪は筆を動かさなかった。
少し間を置いた。
(──記録に残っているはず)
(──過去、翻訳方がこの老婆の名を書き留めたはず)
「過去に、翻訳方があなた様の証言を取られたことは」
老婆はしばらく、黙った。
指が細い蔓の腕輪を、何度も撫でた。
「十年ほど前に一度」
「若い訳官の御方が参られました」
「私の名のことを書き留められたはずでございます」
雪の背筋が立った。
(──十年前)
(──翻訳方の訳官が、記録を取った)
「お記録を調べて参ります」
「少々、お待ちください」
雪は立ち上がった。
袴の皺を整えた。
指先が、袖の奥の飴玉に一度触れた。
(──母さん、十年前の記録を見に行きます)
◇
書庫は、翻訳方の奥にあった。
古い棚が、天井まで並んでいた。
十年前の訳文は、奥の棚。
雪は行灯を持って入った。
棚に、埃が指一本分積もっていた。
誰も、近年触れていない。
帳面を一冊、取り出した。
麻の綴じ紐が弱っていた。
日付の順に整えられていた。
雪は机に帳面を広げた。
行灯の光が、黄色く紙を照らした。
半刻かけて、見つけた。
──訳・受付:翻訳方 梶山 宗之助。
──被訳者:桑の木の精(「桑の枯れ」)。
雪の筆を握る指が、止まった。
梶山の筆跡は、縦に長い。
一画、一画、迷いがない。
急いで書かれた字ではなかった。
十年前、四十代の働き盛りの字。
(──「桑の枯れ」)
先ほど、老婆は言った。
「洛外の丘に、三百年」
「村の子らが、慕ってくれました」
(──慕われていた木の精が)
(──「枯れ」と記録されている)
雪は他の帳面を取り出した。
同じ桑の木の精に関する、別の記録を探した。
三冊、四冊、開いた。
手が止まらなかった。
二百年前の記録:
──桑の、照り。
百年前:
──桑の、照り。
三十年前:
──桑の、照り。
十年前、梶山の訳:
──桑の、枯れ。
(──「照り」を「枯れ」と書き換えた)
(──一字、違い)
「照」は、内から出る光。
「枯」は、命の終わり。
字画は近い。
妖語の意味は、真逆。
(──偶然だろうか)
(──誤植だろうか)
雪の指が、帳面の縁を握った。
(──いや、これは)
(──梶山様は「照」の字を、知らなかったのか)
(──それとも、故意か)
◇
控え室に戻った。
桑の木の精は、静かに待っていた。
「お待たせ致しました」
「お記録を拝見いたしました」
「ございましたか」
雪は息を一度整えた。
「二百年、百年、三十年前の記録に」
「「桑の、照り」とございました」
老婆の目が見開かれた。
「……照り」
「はい」
「照り、照り」
老婆は両手を顔に当てた。
「思い出して参りました」
「そうでございます」
「私は、照り、でした」
「内から出る光のことで」
雪は頭を下げた。
「ただ、十年前のご記録のみ」
「「桑の枯れ」と書かれておりました」
老婆の肩が止まった。
「枯れ」
「はい」
「十年「枯れ」と呼ばれ続けたのでございますね」
「記録の上で」
「恐らく、そうでございます」
「それで、私は」
「自分を「枯れ」と認識するようになり」
「照りが薄れたのでございますね」
老婆は小さく笑った。
痛みの混ざる笑いだった。
「秋津様」
「はい」
「訳し直していただけますか」
「正しい名を」
雪は筆を取った。
──桑の、照り。
書いて、老婆に差し出した。
老婆は両手で紙を受け取った。
胸に抱いた。
「……照り」
「私は、照りでございます」
「ありがとうございます」
「秋津様」
老婆は紙を胸に抱いたまま、帰っていった。
控え室の戸を出る時、一度振り返った。
「秋津様」
「はい」
「私の木の下に、時々来てくださいませ」
「照り、と呼んでくだされば私は応えます」
「……はい。伺います」
老婆は深く頭を下げた。
廊下の奥へ消えた。
その背筋は、来た時よりさらに伸びていた。
雪は、空になった向かいの畳を見た。
ただ、白い畳だった。
しかし、そこに老婆が座った跡が僅かに残っているように思えた。
(──妖は名を正しく呼ばれれば、戻る)
(──「照り」と呼ばれれば、照りに戻る)
(──母さん)
(──あなたは誰に、何と呼ばれたいと思っておられるのでしょう)
(──「柊」と呼ぶ者は、もう少ない)
(──「お前の母上」と呼ぶ妖は、まだいる)
雪は桜木の櫛に、手を当てた。
挿し直した。
◇
しかし、雪は控え室から動かなかった。
一つの重さが、残った。
(──梶山様は一字、書き換えた)
(──「照」を「枯」に)
(──一字で、三百年の精が自分の名を忘れた)
(──他にもあるのではないか)
(──梶山様の訳で、妖が「名を薄れさせた」例が)
(──もしそうなら)
雪は立ち上がった。
もう一度、書庫へ戻った。
◇
書庫の奥の棚。梶山署名の帳面を取り出し続けた。
十年前の棚だけで、十八冊。
雪は一冊ずつ、丁寧に捲った。
指先が袴の上で動き続けた。
半刻後、雪は三枚を目に留めた。
古狸の件、蛇神の件、貉の件。
三枚とも、妖が処分されている。
三枚とも、妖の自白の訳にずれがあるように見えた。
古狸の件:
──妖の自白:「我、娘、知る。名を、呼ぶ」
──梶山の訳:「我は娘を知っている。彼女の名を呼んだ(娘への接触の意)」
(──妖語で「名を呼ぶ」は「核に触れる」の意。襲うではない)
蛇神の件:
──妖の自白:「我、岸、去る。川、枯れる」
──梶山の訳:「我は岸を去る。川を枯らす(人里への害意)」
(──妖語で「去る」は、形を変えて別の場所に現れる意)
(──「川、枯れる」は、川の季節性を述べているだけ)
(──害意の訳ではない)
貉の件:
──妖の自白:「我、畑、入る。稲、喰う」
──梶山の訳:「我は畑に入り、稲を喰った(盗みの意)」
(──妖語で「畑に入る」は、土地と一体化する意)
(──「稲を喰う」は、物質を取り込むではなく稲の気を受ける意)
(──盗みではない)
(──梶山様の訳は、全て妖を不利にする方向にずれている)
(──そして、全て「処分」の根拠となっている)
雪の指が震えた。
(──偶然とは思えぬ)
(──故意か、長年の誤訳の癖か)
(──いずれにせよ、三件、妖が死んだ)
(──そして、「照り」の精は名を忘れた)
(──梶山様は、妖を殺す訳を書かれる)
雪はその三枚を、ひそかに書き写した。
筆と紙は袂に持っていた。
整理の仕事中に書き写すのは、本来禁じられている。
しかし、見ただけでは証拠にならぬ。
雪は写しを袂の奥に入れた。
飴玉の紙包みより、さらに奥に。
◇
書庫を出た。
行灯を消す時、手元が少し震えた。
袂の奥の写しが、歩くたびに微かな紙の音を立てる気がした。
廊下で、山岡とすれ違った。
山岡は雪の袂を、ちらりと見た。
そして、言った。
「秋津、お前の袖、膨らんでおるな」
雪の指が袖を押さえた。
(──見られた?)
しかし、中に入っているのは写しと飴玉の紙包み、の二つ。
飴玉の方が、袖の前の方にある。
雪は少し間を置いた。
「──飴玉でございます」
「飴玉?」
「はい。一粒」
山岡は首を捻った。
「見習いの娘が、仕事中に飴を舐めるのか」
「舐めてはおりません」
「袖に入れたままでございます」
「何故」
雪は少し間を置いた。
「──母の形見でございます」
山岡の表情が、微かに変わった。
(──母の形見、という語は誰にも効く)
山岡は、それ以上何も言わなかった。
雪の横を通り過ぎた。
三歩歩いて振り返った。
「秋津」
「はい」
「──飴は、舐めぬのか」
「はい。十年、舐めておりません」
山岡はしばらく、雪を見ていた。
何か言いかけて、やめた。
「──お前は、やはり妙な娘だ」
そして、去った。
雪は山岡の背中を見て、袖の奥の写しをもう一度確かめた。
(──今のは嘘ではない)
(──飴玉は、本当に入っている)
(──ただ、奥にもう一つ入っているとは、言わなかった)
(──「訳すか、訳さぬか」は私が選ぶ)
(──これも、訳官の仕事)
◇
桐生の部屋に行った。
襖の向こうで、桐生が書類を読んでいた。
「秋津、どうした」
「ご報告がございます」
雪は袂から、写しを取り出した。
「桑の木の精のお名前、訳し直しました」
「照り、でございました」
「そうか」
「ただ、気になることが」
雪はもう一つ、写しを置いた。
「三枚、見つけました」
「全て十年前の、梶山様の訳」
「全て、妖が処分された件」
「全て、妖の自白の訳にずれがございました」
桐生は写しを受け取った。
読み終えて、長く沈黙した。
「秋津」
「はい」
「これは私が預かる」
「誰にも言うな」
「はい」
桐生は写しを、自分の引出にしまった。
そして、雪を見た。
「──お前の読みは正しい」
「俺も前から気づいていた」
「だが、一人では動けなかった」
(──桐生様も気づいておられた)
桐生は声を低くした。
「秋津、これは一人では動けぬ話だ」
「俺とお前、二人だけの胸にしまえ」
「──はい」
桐生は湯呑みを、両手で包んだ。
「十年前、柊様も同じことに気づかれたかもしれん」
雪の息が止まった。
「──母さんも」
「俺の想像だが」
「柊様は、このずれを告発しようとされていたのかもしれん」
「だから」
桐生は、そこで言葉を切った。
(──だから、母さんは亡くなられた?)
雪の指が動いた。
訳そうとして、止めた。
(──保留)
◇
桐生は湯呑みを置いた。
「秋津、お前、柊様に似ている」
「──似てございますか」
「顔ではない」
「目の動きが似ている」
「訳を探す時の、指の動きが」
桐生は少し、笑った。
「柊様も、指が動いていた」
「お前と同じ型だ」
雪は自分の指を見た。
袴の上で、微かに動いていた。
(──母さんも同じ動きをしていた)
(──桐生様は、それを覚えておられる)
「桐生様」
「ん」
「母さんは、どんな方でしたか」
桐生はしばらく、沈黙した。
「──優しい方だった」
「そして、誰よりも精密な訳をされる方だった」
「他には」
桐生は湯呑みの縁を、指で撫でた。
「──柊様には、癖があった」
「訳し終わるまで、食事を取らぬ」
「三日三晩、机の前に座り続けておられたことがある」
「俺が心配して湯呑みを置いても、飲まれない」
「訳し終わった後で、初めて気づかれる」
「「桐生、お茶、冷めてしもうたな」と」
雪の指が止まった。
(──母さんも訳し終わらないと、立ち去れなかった)
(──食事も取れなかった)
「──それ以上は、今は話さん」
「ただ、一つ言えるのは」
桐生は雪を見た。
「柊様は、訳し終わらねば立ち去れぬ方だった」
雪の指が止まった。
(──訳し終わらねば立ち去れぬ)
(──母さんも訳す病だった)
「──豆腐だけは、お口にされましたか」
雪はそっと、聞いた。
桐生は少し、驚いた顔をした。
それから、微笑んだ。
「──よく、知っておるな」
「そうだ」
「豆腐だけは、召し上がっていた」
「一口食って、動かなくなる」
「それが、唯一訳を止められる時だったようだ」
(──私と、同じ)
(──本当に、同じ)
「秋津、今日はもう帰れ」
「俺が続きを調べる」
「──はい」
「お前は、普通の翻訳業務に戻れ」
「書庫にこもっていると、山岡が怪しむ」
雪は頭を下げた。
桐生は、微かに頷いた。
◇
夕刻、雪は翻訳方を出た。
春の夕暮れ。
鴨川の水面が、橙色に光っていた。
雪は傘を持っていたが、雨は降っていなかった。
傘を杖のように握って、歩いた。
(──母さんも訳し終わらねば、立ち去れぬ方だった)
(──そして、梶山様の誤訳に気づいていた可能性がある)
(──告発しようとされていた、かもしれない)
(──十年前、母さんは誰に「行く」と仰ったのか)
(──叔父さんに伝えていたのか)
(──それとも、一人で「行かれた」のか)
(──「照り」の精は、十年「枯れ」と呼ばれ続けて名を忘れた)
(──母さんは、何と呼ばれ続けて「行かれた」のか)
雪は柳町の灯りを見た。
叔父の豆腐屋ののれんが、風に揺れていた。
◇
自室に戻った。
辞典を開いた。
三百五語目。
「名」
人語での意味:他者と区別するための呼び方。
妖語での意味:
第一層 ─ 自分の核、力の源。
第二層 ─ 名を呼ばれると、応えねばならない。
第三層 ─ 名は、魂そのもの。
特記:
名を呼ぶことは、相手の核に触れること。
梶山様の十年前の訳では、「名を呼ぶ」を単純な「口にする」と
訳していた。しかし、妖の文脈では、「相手を知り、親しむ」の意。
この訳のずれにより、無辜の妖が処分されていた可能性。
また、「照り」を「枯れ」と書き換えることで、
三百年の桑の精が、自分の名を忘れた。
名は、呼ばれ続けるものへ、形を変える。
間違った名で呼ばれ続けると、妖は間違った形になる。
筆を下ろした。
その下に、雪は三つ書いた。
──一、梶山様の誤訳は、他にもある。これは、確信。
──二、母さんも、気づいておられた。これは、推測。
──三、母さんの「行くわ」は、告発に行く意ではなかったか。これは、まだ訳せない。
三つのうち、二つに「保留」と書かなかった。
書かないことを、雪は躊躇った。
しかし、書かなかった。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
(──母さん、今日、桐生様が私をあなたと同じ型と仰いました)
(──指の動きが似ている、と)
(──あなたも、訳す病だったのですね)
(──そして、桑の木の精に「照り」という名をお返ししました)
(──十年ぶりに、正しい名を呼ばれて老婆は胸を張って帰られました)
(──母さん、あなたは梶山様の誤訳に気づいておられたのですか)
(──そして、告発しようとされたのですか)
(──もし、そうなら)
(──「行くわ」の一行は)
(──告発に行く、の意ではなかったのですか)
雪は飴玉を、両手に包んだ。
舐めなかった。
(──保留)
雪は辞典を閉じた。
◇
その夜、雪は眠った。
夢の中で、母の指が袴の上で動いていた。
雪の指と、同じ動きだった。
目が覚めた時、雪の指は袴の上で動いていた。
訳し終わっていない。
(──おはようございます、母さん)
雪は起き上がった。
◇
翻訳方に出仕すると、桐生が既に門の前で待っていた。
「秋津」
「──はい」
「朝一で、裁判場だ」
「蛇妖・水無瀬の件」
「三年前の誓約違反と、虚偽の罪」
雪の指先が動いた。
(──誓約違反)
(──「夜」の定義が、ずれている可能性)
「訳官は、どなた、でございますか」
桐生の目が、少し、暗くなった。
「──藤野様だ」
雪の息が止まった。
(──藤野様。梶山派閥の副官)
(──二度目の下剋上)
「覚悟、できているか」
雪は桜木の櫛に手を当てた。
「──はい」
袖の奥の飴玉が、微かに触れた。




