第三話「行」
母の書き置きは九行だった。
十年前、母が雪に残した。
現代妖語で読めば、連絡文。
古い妖語で読めば、別の意味になる可能性がある。
雪はここ数年、その可能性を探り続けていた。
今夜、雪は書き置きを十日ぶりに、広げた。
◇
二日続けて、裁判場と屋敷を往復した。
山岡を覆した昨日の件、藤野を先回りした今日の件。
どちらも、梶山派閥を掠めた。
(──三度目はもう、梶山様直接かもしれない)
雪の机に、飴玉の紙包みと辞典と筆があった。
辞典の三百三語目の下に、三つの問いが書き足されていた。
雪は筆を置き、机を片づけた。
そして、奥の棚から、古い桐の文箱を取り出した。
十年前、父が保管していたもの。
父の死後、雪が受け取った。
以来、七年。
開いたのは、三度だけ。
今日が、四度目だった。
◇
文箱を開いた。
薄い紙の束。
母の字。
平仮名が多い。
七歳の雪にも、読めるように。
──雪。
──母さんね、出かけてきます。
──帰りは少し、遅いかもしれません。
──夕餉の支度は、桶の中の残り物で、済ませてください。
──今夜は早く、寝るように伝えてね。
──梅の木の下に、置き忘れたものがあります。
──もし見つけたら、大切にしまっておいてください。
──行きます。
──母より。
たったの九行。
十年、読み続けても、普通の書き置きに見えた。
(──しかし、今日は違う)
雪は筆を取った。
隣に、白紙を広げた。
(──訳し直す)
(──一行ずつ)
◇
一行目:「雪」
母の「雪」の書き方は、独特だった。
「雨」の部分が、少し斜めに傾いている。
(──単なる書き癖か、それとも)
雪は辞典を開いた。
「雨」の妖語を引いた。
──妖語で「雨」は、降り続く・連続する、の意。
──時を止めない、止まれない。
──「雨の子」は、止まれぬ運命の子、という用法がある。
(──母さんは、私を「雨の子」と呼びかけた?)
(──つまり、止まれぬ運命の子、と)
(──今の、訳す病の私に当てはまる)
(──偶然かも、しれない)
筆で、白紙に書いた。
──一行目「雪」:
──可能性A・普通の娘の名。
──可能性B・「雨の子」。止まれぬ運命の子。
──保留。
◇
二行目:「母さんね、出かけてきます」
「ね」の使い方が、雪は以前から気になっていた。
(──妖語の「ね」は、「断・近」に近い)
(──「近い人にだけ使う」意)
(──しかし、「近いが、もうすぐ離れる」の予告の意もある)
雪の指が止まった。
(──母さんは、予告されていた?)
白紙に書き足した。
──二行目「ね」:
──可能性A・親愛の語尾。
──可能性B・「断・近」の予告。近いが、もうすぐ離れる。
──保留。
◇
三行目:「帰りは、少し、遅いかも、しれません」
「遅い」の妖語。
(──妖語の「遅い」は、「取り返しがつかなくなる可能性」も含む)
(──しかし、第一層で読めば、単に帰宅の遅れ)
白紙に書いた。
──三行目「遅い」:
──可能性A・普通の帰宅の遅れ。
──可能性B・取り返しがつかなくなる可能性。
──保留。
◇
四行目:「夕餉の支度は、桶の中の残り物で、済ませてください」
(──十年前の、あの夜の夕餉に何があったか)
(──叔父さんに聞けば、分かるだろうか)
白紙に書いた。
──四行目「桶の中の残り物」:
──十年前の、その夜の献立を確認すべし。
──保留。
◇
五行目:「今夜は、早く、寝るように、伝えてね」
また、「ね」。
(──「ね」が、二度使われている)
(──妖語の「断・近」を、二度重ねると強調の意)
(──または、「近いが、もうすぐ離れる」の念押し)
(──そして、「伝えてね」の「伝える」)
(──妖語の「伝える」は、「自分の一部を他者を通じて残す」の意も含む)
(──誰に、何を伝えてほしかった?)
(──叔父さん? 父さん? 私?)
白紙に書いた。
──五行目「ね・二度目」:
──強調または、念押し。
──「伝える」の妖語第二の意。
──自分の一部を、他者を通じて残す。
──保留。
◇
六行目:「梅の木の下に、置き忘れたものがあります」
雪の手が止まった。
(──梅の木)
雪の実家の庭には、梅の木があった。
十年前、母が「行った」後、叔父夫婦が雪を引き取った。
実家は売却された。
雪は、実家の梅の木を、十年見ていない。
(──置き忘れたもの)
(──妖語の「もの」には、第三層として「魂を宿すもの」の意がある)
白紙に書いた。
──六行目「梅の木の下のもの」:
──可能性A・物理的な物。
──可能性B・母の魂の一部。
──今の実家の梅の木は、どこにあるか確認すべし。
──保留。
◇
七行目:「もし見つけたら、大切にしまっておいてください」
(──「大切に」)
(──妖語で「大切に」は、「境界を保つ」の意も含む)
(──愛でる、とは逆)
(──輪郭を残したまま、保存する)
白紙に書いた。
──七行目「大切に」:
──境界を保ったまま、保存する。
──「愛でる」の逆方向。
──母さんは、「境界」を意識されていた?
──保留。
◇
八行目:「行きます」
雪の息が止まった。
母の書き置きの核心。
(──「行く」)
(──妖語の「行く」は、三層)
(──第一層・出かけます。普通の意)
(──第二層・形を変えて、別の場所に現れる)
(──第三層・書き残したもので、時を越えて届く)
(──母さんは、どの層で書かれたのか)
十年、この一行を雪は訳せない。
白紙に書いた。
──八行目「行きます」:
──最重要。
──第一層・亡くなった、の意。
──第二層・別の形で、どこかにいる。
──第三層・この書き置きを通じて、私に届き続けている。
──まだ訳し終わっていない。
──保留。
◇
九行目:「母より」
ごく、普通の署名。
しかし、雪はこの「より」の字を、じっと見つめた。
(──「より」の字が、少し傾いている)
(──送り出す、の方向ではなく、離れていく方向に傾いている)
白紙に書いた。
──九行目「より」:
──差出人の助詞。
──しかし、「離れていく」方向の傾き。
──意図か書き癖か、不明。
──保留。
◇
雪は筆を置いた。
九行全てに、「保留」と書かれていた。
(──十年、訳し終わっていない)
(──今夜も、訳し終わっていない)
雪は文箱を閉じた。
棚に戻した。
そして、階下の仏壇に向かった。
◇
仏壇は、叔父の豆腐屋の奥の座敷にあった。
黒塗りの古い仏壇。
位牌が二つ、並んでいた。
──秋津 柊 享年、三十四。
──秋津 透 享年、四十二。
母が先に逝った。
父はその三年後。
雪は、線香を一本立てた。
細い煙が立ち上った。
両手を合わせた。
(──母さん、父さん)
(──今日、狐に命じられた旦那様を訳しました)
(──奥方様はご無事でした)
(──母さん、あなたもこういう訳をしていましたか)
(──)
雪は目を開けた。
仏壇の下の板が、目に入った。
黒塗りの板。
普段は気にしていない板。
しかし、今日は少し浮いているように見えた。
(──浮いている?)
雪の指が、板の縁に触れた。
冷たい木目の感触。
少し動いた。
釘が一本、緩んでいるのかもしれない。
(──剥がせば、何かあるかもしれない)
雪はそう思った。
しかし、手を引いた。
(──今は、まだ)
(──心の準備ができてから)
(──母さんの「行くわ」の意味を、先に確かめねばならない)
雪は板から手を離した。
仏壇に、もう一度頭を下げた。
◇
叔父が店の方から、雪を呼んだ。
「雪、夕餉、できたぞ」
「──はい」
雪は立ち上がった。
板のことは、しばらく黙っておくことにした。
(──見逃さない)
(──ただ、今はまだ)
◇
夕餉は、豆腐の煮付けだった。
雪は豆腐を、一口食べた。
(──)
(──)
豆腐の味、という言葉すら頭に浮かばなかった。
唯一の休息の時間。
叔父が、向かいに座った。
湯呑みに、茶を注いだ。
「雪、疲れた顔をしておるな」
「──少しだけでございます」
「仕事が忙しいか」
「はい」
「──柊と、同じだな」
叔父の言葉に、雪の箸が止まった。
「叔父、様」
「ん」
「母さんも、こうやって豆腐を食べていたのですか」
叔父は湯呑みを、両手で包んだ。
「ああ」
「毎日、夕餉に豆腐を」
「お前と、同じ食べ方だった」
「──一口目のあと、動かなくなる」
(──母さんも、同じ)
叔父は続けた。
「柊は、よく言っておった」
「『兄さん、お豆腐を食べている時だけは、全部忘れられるのよ』と」
「──他の時は、忘れられん、という意味だったのだろうな」
雪の箸が、止まったままだった。
(──母さんも、訳す病だった)
(──他の時は、全部忘れられなかった)
(──訳し続けていた)
雪はもう一口、豆腐を食べた。
叔父は茶を一口飲んだ。
「雪」
「はい」
「お前、最近、無茶をしておらんか」
「──どういうことでございますか」
「翻訳方の上の方とやり合っておる、と風の噂で聞いた」
(──)
雪は答えなかった。
叔父は湯呑みを置いた。
「柊もな」
「お前ぐらいの頃、上の方とやり合っておった」
「──そして、行った」
雪の指先が止まった。
(──母さんも、上の方とやり合っていた?)
(──そして、行かれた?)
「叔父、様」
「ん」
「母さんは、誰とやり合っておられましたか」
叔父は、長く黙った。
「──それは」
「もう、少し後でな」
「はい」
叔父は立ち上がった。
湯呑みに、茶を注ぎ足した。
「雪、気をつけるんだぞ」
「──はい」
雪は、豆腐を、もう一口、食べた。
今度は、味が少しだけ分かった。
豆腐を食べる間だけは訳が止まるのに、今日は止まらなかった。
(──保留が一つ、豆腐の味を奪った)
◇
その夜、雪は自室に戻った。
辞典を机に置いた。
筆を取って、墨を含ませた。
三百四語目。
「行く(いく)」
──そこで、雪は止まった。
母の書き置き九行目「行きます」を、雪はまだ訳し終わっていない。
どの層で書かれたか、分からない。
分からないまま、書けない。
筆先から、墨が一滴、半紙に落ちた。
白い頁の上で、黒い点がゆっくり滲んだ。
雪はその点を、見つめた。
(──三百三語、書いてきた)
(──「行く」だけ、書けない)
(──母さんを訳し終えるまで、書けない)
筆を置いた。
書きかけの頁を、開いたまま、机に残した。
◇
袖の奥の、飴玉の紙包みを握った。
(──母さん、あなたも豆腐だけが休息でしたか)
(──他の時は、全部訳し続けていたのですか)
(──訳し終わらぬまま、「行かれた」のですか)
(──母さん、あなたは、どの層で「行かれた」のですか)
(──保留)
雪は辞典を閉じた。
しかし、眠れなかった。
仏壇の下の板が、頭から離れなかった。
雪の指が、袴の上で動いた。
訳そうとして、止めた。
もう一度、動いた。
(──訳し終わらない)
半刻、雪は動かなかった。
行灯の火が、小さく弾けた。
「断・火」の兆し。
しかし今夜、訳す気力もなかった。
辞典の頁の白さだけが、机の上で、しんと光っていた。
◇
夜明け前、ようやく雪は眠りかけた。
その時、襖の外で、叔父の足音がした。
「雪、起きておるか」
雪は、はっと身を起こした。
「──はい」
「翻訳方から使いが来た」
「朝一で、桐生様がお前を呼んでおる」
「書庫の奥を、お前と二人で調べる、と」
(──書庫の、奥)
雪の指先が動いた。
(──母さんの、時代の訳文)
「承知、いたしました」
雪は、桜木の櫛を握った。
袖の奥の飴玉を、そっと触った。
(──母さん、もう一歩、近づきます)
窓の外で、春の夜明けが始まろうとしていた。




