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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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3/19

第三話「行」

 


 母の書き置きは九行だった。


 十年前、母が雪に残した。

 現代妖語で読めば、連絡文。

 古い妖語で読めば、別の意味になる可能性がある。

 雪はここ数年、その可能性を探り続けていた。


 今夜、雪は書き置きを十日ぶりに、広げた。


  ◇


 二日続けて、裁判場と屋敷を往復した。


 山岡を覆した昨日の件、藤野を先回りした今日の件。

 どちらも、梶山派閥を掠めた。


(──三度目はもう、梶山様直接かもしれない)


 雪の机に、飴玉の紙包みと辞典と筆があった。

 辞典の三百三語目の下に、三つの問いが書き足されていた。


 雪は筆を置き、机を片づけた。

 そして、奥の棚から、古い桐の文箱を取り出した。


 十年前、父が保管していたもの。

 父の死後、雪が受け取った。

 以来、七年。

 開いたのは、三度だけ。


 今日が、四度目だった。


  ◇


 文箱を開いた。


 薄い紙の束。

 母の字。

 平仮名が多い。

 七歳の雪にも、読めるように。


 ──雪。

 ──母さんね、出かけてきます。

 ──帰りは少し、遅いかもしれません。

 ──夕餉の支度は、桶の中の残り物で、済ませてください。

 ──今夜は早く、寝るように伝えてね。

 ──梅の木の下に、置き忘れたものがあります。

 ──もし見つけたら、大切にしまっておいてください。

 ──行きます。

 ──母より。


 たったの九行。


 十年、読み続けても、普通の書き置きに見えた。


(──しかし、今日は違う)


 雪は筆を取った。

 隣に、白紙を広げた。


(──訳し直す)

(──一行ずつ)


  ◇


 一行目:「雪」


 母の「雪」の書き方は、独特だった。

「雨」の部分が、少し斜めに傾いている。


(──単なる書き癖か、それとも)


 雪は辞典を開いた。

「雨」の妖語を引いた。


 ──妖語で「雨」は、降り続く・連続する、の意。

 ──時を止めない、止まれない。

 ──「雨の子」は、止まれぬ運命の子、という用法がある。


(──母さんは、私を「雨の子」と呼びかけた?)

(──つまり、止まれぬ運命の子、と)

(──今の、訳す病の私に当てはまる)


(──偶然かも、しれない)


 筆で、白紙に書いた。


 ──一行目「雪」:

 ──可能性A・普通の娘の名。

 ──可能性B・「雨の子」。止まれぬ運命の子。

 ──保留。


  ◇


 二行目:「母さんね、出かけてきます」


「ね」の使い方が、雪は以前から気になっていた。


(──妖語の「ね」は、「断・近」に近い)

(──「近い人にだけ使う」意)

(──しかし、「近いが、もうすぐ離れる」の予告の意もある)


 雪の指が止まった。


(──母さんは、予告されていた?)


 白紙に書き足した。


 ──二行目「ね」:

 ──可能性A・親愛の語尾。

 ──可能性B・「断・近」の予告。近いが、もうすぐ離れる。

 ──保留。


  ◇


 三行目:「帰りは、少し、遅いかも、しれません」


「遅い」の妖語。


(──妖語の「遅い」は、「取り返しがつかなくなる可能性」も含む)

(──しかし、第一層で読めば、単に帰宅の遅れ)


 白紙に書いた。


 ──三行目「遅い」:

 ──可能性A・普通の帰宅の遅れ。

 ──可能性B・取り返しがつかなくなる可能性。

 ──保留。


  ◇


 四行目:「夕餉の支度は、桶の中の残り物で、済ませてください」


(──十年前の、あの夜の夕餉に何があったか)

(──叔父さんに聞けば、分かるだろうか)


 白紙に書いた。


 ──四行目「桶の中の残り物」:

 ──十年前の、その夜の献立を確認すべし。

 ──保留。


  ◇


 五行目:「今夜は、早く、寝るように、伝えてね」


 また、「ね」。


(──「ね」が、二度使われている)

(──妖語の「断・近」を、二度重ねると強調の意)

(──または、「近いが、もうすぐ離れる」の念押し)


(──そして、「伝えてね」の「伝える」)

(──妖語の「伝える」は、「自分の一部を他者を通じて残す」の意も含む)


(──誰に、何を伝えてほしかった?)

(──叔父さん? 父さん? 私?)


 白紙に書いた。


 ──五行目「ね・二度目」:

 ──強調または、念押し。

 ──「伝える」の妖語第二の意。

 ──自分の一部を、他者を通じて残す。

 ──保留。


  ◇


 六行目:「梅の木の下に、置き忘れたものがあります」


 雪の手が止まった。


(──梅の木)


 雪の実家の庭には、梅の木があった。

 十年前、母が「行った」後、叔父夫婦が雪を引き取った。

 実家は売却された。

 雪は、実家の梅の木を、十年見ていない。


(──置き忘れたもの)

(──妖語の「もの」には、第三層として「魂を宿すもの」の意がある)


 白紙に書いた。


 ──六行目「梅の木の下のもの」:

 ──可能性A・物理的な物。

 ──可能性B・母の魂の一部。

 ──今の実家の梅の木は、どこにあるか確認すべし。

 ──保留。


  ◇


 七行目:「もし見つけたら、大切にしまっておいてください」


(──「大切に」)

(──妖語で「大切に」は、「境界を保つ」の意も含む)

(──愛でる、とは逆)

(──輪郭を残したまま、保存する)


 白紙に書いた。


 ──七行目「大切に」:

 ──境界を保ったまま、保存する。

 ──「愛でる」の逆方向。

 ──母さんは、「境界」を意識されていた?

 ──保留。


  ◇


 八行目:「行きます」


 雪の息が止まった。


 母の書き置きの核心。


(──「行く」)

(──妖語の「行く」は、三層)

(──第一層・出かけます。普通の意)

(──第二層・形を変えて、別の場所に現れる)

(──第三層・書き残したもので、時を越えて届く)


(──母さんは、どの層で書かれたのか)


 十年、この一行を雪は訳せない。


 白紙に書いた。


 ──八行目「行きます」:

 ──最重要。

 ──第一層・亡くなった、の意。

 ──第二層・別の形で、どこかにいる。

 ──第三層・この書き置きを通じて、私に届き続けている。

 ──まだ訳し終わっていない。

 ──保留。


  ◇


 九行目:「母より」


 ごく、普通の署名。


 しかし、雪はこの「より」の字を、じっと見つめた。


(──「より」の字が、少し傾いている)

(──送り出す、の方向ではなく、離れていく方向に傾いている)


 白紙に書いた。


 ──九行目「より」:

 ──差出人の助詞。

 ──しかし、「離れていく」方向の傾き。

 ──意図か書き癖か、不明。

 ──保留。


  ◇


 雪は筆を置いた。


 九行全てに、「保留」と書かれていた。


(──十年、訳し終わっていない)

(──今夜も、訳し終わっていない)


 雪は文箱を閉じた。

 棚に戻した。


 そして、階下の仏壇に向かった。


  ◇


 仏壇は、叔父の豆腐屋の奥の座敷にあった。


 黒塗りの古い仏壇。

 位牌が二つ、並んでいた。


 ──秋津 ひいらぎ 享年、三十四。

 ──秋津 とおる 享年、四十二。


 母が先に逝った。

 父はその三年後。


 雪は、線香を一本立てた。

 細い煙が立ち上った。

 両手を合わせた。


(──母さん、父さん)

(──今日、狐に命じられた旦那様を訳しました)

(──奥方様はご無事でした)


(──母さん、あなたもこういう訳をしていましたか)


(──)


 雪は目を開けた。


 仏壇の下の板が、目に入った。


 黒塗りの板。

 普段は気にしていない板。


 しかし、今日は少し浮いているように見えた。


(──浮いている?)


 雪の指が、板の縁に触れた。


 冷たい木目の感触。


 少し動いた。

 釘が一本、緩んでいるのかもしれない。


(──剥がせば、何かあるかもしれない)


 雪はそう思った。


 しかし、手を引いた。


(──今は、まだ)

(──心の準備ができてから)

(──母さんの「行くわ」の意味を、先に確かめねばならない)


 雪は板から手を離した。

 仏壇に、もう一度頭を下げた。


  ◇


 叔父が店の方から、雪を呼んだ。


「雪、夕餉、できたぞ」


「──はい」


 雪は立ち上がった。

 板のことは、しばらく黙っておくことにした。


(──見逃さない)

(──ただ、今はまだ)


  ◇


 夕餉は、豆腐の煮付けだった。


 雪は豆腐を、一口食べた。


(──)

(──)


 豆腐の味、という言葉すら頭に浮かばなかった。


 唯一の休息の時間。


 叔父が、向かいに座った。

 湯呑みに、茶を注いだ。


「雪、疲れた顔をしておるな」


「──少しだけでございます」


「仕事が忙しいか」


「はい」


「──柊と、同じだな」


 叔父の言葉に、雪の箸が止まった。


「叔父、様」


「ん」


「母さんも、こうやって豆腐を食べていたのですか」


 叔父は湯呑みを、両手で包んだ。


「ああ」

「毎日、夕餉に豆腐を」

「お前と、同じ食べ方だった」

「──一口目のあと、動かなくなる」


(──母さんも、同じ)


 叔父は続けた。


「柊は、よく言っておった」

「『兄さん、お豆腐を食べている時だけは、全部忘れられるのよ』と」

「──他の時は、忘れられん、という意味だったのだろうな」


 雪の箸が、止まったままだった。


(──母さんも、訳す病だった)

(──他の時は、全部忘れられなかった)

(──訳し続けていた)


 雪はもう一口、豆腐を食べた。


 叔父は茶を一口飲んだ。


「雪」


「はい」


「お前、最近、無茶をしておらんか」


「──どういうことでございますか」


「翻訳方の上の方とやり合っておる、と風の噂で聞いた」


(──)


 雪は答えなかった。


 叔父は湯呑みを置いた。


「柊もな」

「お前ぐらいの頃、上の方とやり合っておった」

「──そして、行った」


 雪の指先が止まった。


(──母さんも、上の方とやり合っていた?)

(──そして、行かれた?)


「叔父、様」


「ん」


「母さんは、誰とやり合っておられましたか」


 叔父は、長く黙った。


「──それは」

「もう、少し後でな」


「はい」


 叔父は立ち上がった。

 湯呑みに、茶を注ぎ足した。


「雪、気をつけるんだぞ」


「──はい」


 雪は、豆腐を、もう一口、食べた。

 今度は、味が少しだけ分かった。

 豆腐を食べる間だけは訳が止まるのに、今日は止まらなかった。


(──保留が一つ、豆腐の味を奪った)


  ◇


 その夜、雪は自室に戻った。


 辞典を机に置いた。

 筆を取って、墨を含ませた。


 三百四語目。


「行く(いく)」


 ──そこで、雪は止まった。


 母の書き置き九行目「行きます」を、雪はまだ訳し終わっていない。

 どの層で書かれたか、分からない。

 分からないまま、書けない。


 筆先から、墨が一滴、半紙に落ちた。

 白い頁の上で、黒い点がゆっくり滲んだ。


 雪はその点を、見つめた。


(──三百三語、書いてきた)

(──「行く」だけ、書けない)

(──母さんを訳し終えるまで、書けない)


 筆を置いた。

 書きかけの頁を、開いたまま、机に残した。


  ◇


 袖の奥の、飴玉の紙包みを握った。


(──母さん、あなたも豆腐だけが休息でしたか)

(──他の時は、全部訳し続けていたのですか)

(──訳し終わらぬまま、「行かれた」のですか)


(──母さん、あなたは、どの層で「行かれた」のですか)


(──保留)


 雪は辞典を閉じた。

 しかし、眠れなかった。


 仏壇の下の板が、頭から離れなかった。


 雪の指が、袴の上で動いた。

 訳そうとして、止めた。

 もう一度、動いた。


(──訳し終わらない)


 半刻、雪は動かなかった。

 行灯の火が、小さく弾けた。

「断・火」の兆し。


 しかし今夜、訳す気力もなかった。

 辞典の頁の白さだけが、机の上で、しんと光っていた。


  ◇


 夜明け前、ようやく雪は眠りかけた。


 その時、襖の外で、叔父の足音がした。


「雪、起きておるか」


 雪は、はっと身を起こした。


「──はい」


「翻訳方から使いが来た」

「朝一で、桐生様がお前を呼んでおる」

「書庫の奥を、お前と二人で調べる、と」


(──書庫の、奥)


 雪の指先が動いた。


(──母さんの、時代の訳文)


「承知、いたしました」


 雪は、桜木の櫛を握った。

 袖の奥の飴玉を、そっと触った。


(──母さん、もう一歩、近づきます)


 窓の外で、春の夜明けが始まろうとしていた。


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