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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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2/14

第二話「愛」

 


 雪は辞典を開いていた。

 三百二語目の下、昨夜書いた三つの問い。


 ──一、奉行席の隣の深緑の袴の御方は、どなたか。

 ──二、梶山様は、なぜ私を気にされるのか。

 ──三、三百年の妖は、なぜ母を知っていたのか。


 三つとも、まだ訳し終わっていない。


 雪は筆を取り、「保留」と書き足した。

 指先が動いた。


(──この三つは、訳し終わるまで何年かかるか)


 時計の鐘が、朝五つを告げた。

 翻訳方の出仕の刻。


 雪は辞典を閉じた。

 袖の奥の飴玉の紙包みを、そっと触った。


(──母さん、二日目、行ってきます)


  ◇


 翻訳方の入口で、桐生が雪を待っていた。


「秋津、今日は武家屋敷だ」


「──武家屋敷」


「中堅旗本の奥方が飼い妖を失った、と」

「泣いておられる。訳し直しを嫌がるかもしれん」

「お前に行ってもらいたい」


「承知いたしました」


 桐生は依頼書を差し出した。


 ──武家屋敷、井垣家。奥方様ご依頼。

 ──愛玩の狐、昨夜出奔。至急尋ねたし。


「井垣、様」


「旗本・井垣晴之助。奉行所勤め」

「今日、出仕なさっている」

「奥方は一人でお迎えになる」


 桐生が声を落とした。


「秋津」


「はい」


「昨日のお前の訳、奉行所でも評判だ」

「山岡様の顔が、今朝かなり赤い」


 桐生は、小さく笑った。


「気をつけろ」

「山岡様は、根に持たれる御方だ」


「──承知しております」


  ◇


 井垣家の屋敷は、鴨川の西。塀の中に、梅の木が二本。

 雪は玄関で、下女に迎えられた。

 奥の座敷に通された。


 畳は新しかった。

 紅色の座布団が、客の席にあった。

 しかし、雪は座布団に座らなかった。

 見習いは、畳に直接膝をつく。

 これが翻訳方の、不文律だった。


 奥方が、襖を開けて入ってこられた。


 四十ほど。白い肌。紅色の単衣。目の縁が赤く腫れていた。

 泣いていたばかりの顔。


 雪は深く頭を下げた。


「秋津雪と申します。翻訳方より参りました」


「あの子のこと、ですか」


 奥方の声が震えていた。


「助けてください」

「あの子は、私の愛玩の狐です」

「三年、大切にしてきました」

「毎日、撫でて話しかけて」

「夜は、一緒に眠って」

「それが、昨夜、出て行って」


 雪は袂から、辞典と筆を取り出した。


(──「大切に」という語)

(──人語では、丁寧に扱うの意)

(──妖語では、「境界を保つ」の意)

(──奥方様の「大切に」は、どちらか)


 雪の指が動いた。


  ◇


「奥方様、狐様は何か言葉を残されましたか」


「言葉」


 奥方の手が震えた。


「あの子は、もう言葉を話していたのです」

「狐の子ですが、一年前から人語で」

「『奥方様、ありがとう』と」

「『そばに、いたい』と」

「それが、昨夜」

「『もう、苦しい』と」


 雪は依頼書の裏に筆を下ろした。


「奥方様、もう一度、昨夜の言葉を正確にお聞かせください」


 奥方が目を伏せた。


「『奥方様』」

「『私は、愛でられすぎました』」

「『輪郭が、溶けます』」

「『名が、薄れます』」

「『私は、私でなくなります』」

「『離れなければ、なりません』」


 雪の筆が止まった。


(──「愛でられる」「輪郭」「名」「私」「離れる」)

(──五つ並んでいる)

(──五つとも、妖語の核心語)


 雪の呼吸が、浅くなった。


(──この狐は、愛されすぎたのではない)

(──「愛でられ」すぎたのだ)


  ◇


「奥方様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」


「はい」


「その狐様をお撫でになる時」

「──どのように撫でられましたか」


 奥方が少し戸惑った。


「どのように、と申されても」

「毎日、何度も頭から背、尾の先まで」

「『可愛い、可愛い』と繰り返し」

「時には、頬を寄せて」

「時には、膝の上で眠らせて」


「どれくらいの、お時間」


「一日の半分ほど」


 雪の背筋が伸びた。


(一日の半分、三年、毎日)


(──境界が溶ける)

(──完全に溶けてしまっている)


 雪は静かに、筆を置いた。

 少し、間を置いた。

 奥方に、どう伝えるか訳さねばならなかった。


 奥方が、雪の沈黙を見て眉を寄せた。


「秋津様、どうされましたか」

「何か、悪いことでも」


「──少しお待ちください」


 雪は辞典の、新しい頁を開いた。

「愛でる」と書いた。

 妖語の意味を、下に書き足した。


 ──境界を溶かすほど、近づいて見つめる。

 ──見つめる対象の輪郭が薄れる。

 ──妖にとっては、愛情の最上位の形。

 ──しかし人間に対して使うと、人間が消える。


 書き終えて、雪は奥方を見た。


(──この奥方様に、訳してお伝えせねばならない)

(──しかしお伝えすると、奥方様は泣かれる)


(──訳さなくていい、と白瀬なら言うかもしれない)


 雪の指が止まった。


(──いや)

(──訳さねば、狐は戻らない)


 雪は顔を上げた。


「奥方様、狐様の居場所をご存知では」

「お屋敷の近くに、古い寺はございませんか」


「東に一つ、荒れた寺が」


「恐れながら、訪ねてみます」

「奥方様はお屋敷でお待ちください」


  ◇


 寺は、屋根の瓦が欠けていた。

 本堂の裏手に、小さな納戸があった。


 納戸の隅に、小さな橙色の毛玉。

 狐の子、だった。

 子、というにはやや大きい。成体の半分ほど。


 雪は戸を静かに開けた。


 狐は顔を上げた。金の瞳が雪を見た。


「妖、でしょうか」


 狐は小さく頷いた。


「翻訳方の秋津と申します」

「奥方様より依頼を受けて参りました」


 狐は鼻先をそむけた。


「戻りたく、ありません」


「存じております」

「訳し直しに参りました」


 狐が瞳を細めた。


「やくし、なおし」


「あなた様の言葉を、奥方様に正確にお伝えします」

「『苦しい』の、本当の意味を」


 狐は長く黙った。

 やがて、低く答えた。


「私は三年、愛でられた」

「輪郭が溶けた」

「名が薄れた」

「自分の形が、奥方様の形に混ざった」

「気がつけば、私は私でなくなっていた」

「奥方様を愛している、のではない」

「奥方様に、なりかけている」


 雪は筆を下ろした。


「──妖語の『愛でる』、でございますね」


「そう」


「お前様は人語の『愛される』と、妖語の『愛でられる』の違いを御存知だった」


 狐が初めて、雪をじっと見た。


「知っていた」

「しかし、奥方様は知らなかった」


「お前様は、それをずっと黙っていた」


「三年、黙っていた」

「奥方様が悲しまれるから」


 雪は少し動けなかった。


(──この狐は三年、訳さずに耐えていた)

(──結果、消えかけた)


(──訳さないことは、優しさではない)


  ◇


 雪は奥方の屋敷に戻った。


 奥方は、庭で一人立っていた。梅の木の下。


「秋津様」

「あの子は」


「生きております」


 奥方の肩が下がった。


「よかった」

「よかった、ございます」


「ただ、奥方様」


 雪は静かに言った。


「狐様は、戻ってこられません」


 奥方の顔色が変わった。


「……何故」


 雪は、筆で書いた訳文を差し出した。


「妖語の『愛でる』は、『境界を溶かす』の意にございます」

「人語の『愛する』とは違います」

「奥方様の御心は、咎められません」

「ただ、三年の間、狐様の輪郭は薄れていかれた」

「自分の形を保てなくなられた」


「私、悪いことしましたか」


「なさっておりません」


 雪は首を横に振った。


「ただ、言葉の意味がずれておりました」

「奥方様は、愛された」

「妖は、愛でられた」

「二つは、違うのです」


 奥方の目から、涙が一筋落ちた。


 雪は辞典に手を伸ばしかけた。


(──今の涙は、妖語では何層の悲しみか)

(──第一層は哀。第二層は悔の混じった哀。第三層は)


 指先が動いた。

 しかし、止めた。


(──今は、訳さなくてよい)


 雪は奥方の手を、そっと取った。

 手が冷たかった。


「奥方様、これからは距離を保たれて」

「お撫でになるのは、一日に一度」

「抱かれるのは短く」

「寝る時は、別の部屋で」


「……それで、あの子は戻りますか」


「戻られる日もあるかもしれません」

「ただし、以前の形ではありません」

「輪郭が溶けた分は、戻りません」

「新しい関係を築かれることになります」


 奥方は、庭の梅の木を見た。

 花はまだ蕾だった。


「愛しなさい、ね」

「でも、愛でないで」


 奥方が、自分に言い聞かせた。


  ◇


 雪は屋敷を辞した。


 玄関で、一人の若い女が待っていた。


 白瀬ハル。十七歳。見習い。雪より二月遅れて翻訳方に入った。

 肩までの黒髪。前髪が真っ直ぐ切り揃えられている。薄紅の帯。


「秋津先輩」


「白瀬。どうしてここに」


「桐生様から、奥方様のお気持ちが心配だから後でお茶をお出ししてこい、と」


「──そう」


 白瀬が、雪の顔を見た。


「先輩、何かあったのですか」


「──いや」


「お顔が少し、疲れておいでです」


「──そうですか」


 白瀬は、少し躊躇した後言った。


「先輩、奥方様に全部お伝えになったのですか」


「──はい」


「……訳さなくていいこともある、と私は思います」


 雪の足が止まった。


(──白瀬の、この一言)

(──三年、狐が黙って消えかけたのと、同じ選択)


 雪は白瀬を見た。


「白瀬、訳さなかったらどうなりますか」


「え」


「狐様は三年、訳さずに黙っていました」

「奥方様を悲しませないために」

「結果、狐様は消えかけました」


 白瀬の唇が止まった。


「訳さないことは、優しさではありません」

「訳さないことで救われる人がいるのは、時に一時だけです」

「その後、もっと深いところで誰かが壊れます」


 白瀬は下を向いた。


「──申し訳、ございません」


「謝らなくて、いい」


 雪は少し、間を置いた。


「ただ、今あなたが言った『訳さなくていい』という考え方」

「それを、私に書き留めさせてください」


「え」


「辞典に、あなたの初めての癖として残します」

「もし、あなたが訳官を続けるならこれと一生、向き合うことになります」


 白瀬は固まった。


「……先輩、本気で辞典に書くのですか」


「書きます」


 雪は袂から、小さな辞典を取り出した。

 筆も。

 白瀬の目の前で、書き留めた。


 ──白瀬ハル、十七歳。

 ──初出:「訳さなくていいこともある」。

 ──訳官の、最も危うい傾向。


 白瀬の頬が赤くなった。


 雪は辞典を閉じた。


「白瀬」


「はい」


「私も昔、同じことを思いました」

「十歳の時に」

「『訳さなくていい』と」

「結局、私は訳さなかった」


「──何を」


 雪はしばらく、動かなかった。


(──母さんの「行くわ」を)

(──あの夜、私は訳さなかった)

(──だから、母さんは帰ってこなかった)


 口には出さなかった。


「また、お話しします」

「今日は、奥方様のお側にいてください」


「──はい」


 白瀬は深く、頭を下げた。


  ◇


 翻訳方に戻った。


 自分の机に、辞典を開いた。


 三百三語目。


「愛でる(めでる)」


 人語での意味:慈しむ、愛する。

 妖語での意味:境界を溶かすほど、近づいて見つめる。

 見つめる対象の輪郭が薄れる。

 妖にとっては、愛情の最上位の形。

 しかし、人間に対して使うと、人間が消える。

 人間を愛する時は、「慈しむ」の強度で、留めるべし。


 筆を下ろした。


(──狐様は三年、訳さずに耐えた)

(──白瀬は、「訳さなくていい」と言った)

(──母さんは十年前、「行くわ」と言って行かれた)


(──母さんも、何か訳さずに耐えておられたのか)

(──耐え切れなくなって、「行かれた」のか)


 雪の指先が止まった。


(──保留)


 辞典の三百二語目の下、昨日書いた三つの問いを見た。

 雪は筆を取り、もう一つ問いを書き足した。


 ──四、母は何を訳さずに耐えておられたのか。


「──全部、保留」


 雪は辞典を閉じた。


  ◇


 桐生が、雪の机の前に通りかかった。


「秋津、今日はどうだった」


「……訳し直しは済みました」

「しかし奥方様は、狐様を失われました」

「訳を、早く見破れていたら」


「見破ったとしても、三年前だ」

「三年、遡って助けることは、誰にもできん」


 雪は頭を下げた。


「……はい」


 桐生は、湯呑みを雪の机に置いた。


「秋津」


「はい」


「お前が訳した分だけ、救われた者はいる」

「お前が訳せなかった分は、誰かが訳す」

「そうやって、翻訳方は繋いできた」


 雪は顔を上げた。


 桐生の目が少し、優しかった。


「それに、白瀬を辞典に書き留めたそうだな」


「──はい」


「あの子、泣きながら俺に話しに来たぞ」

「『秋津先輩に辞典に書かれました』と」


 桐生が笑った。


「お前は、やはり妙な娘だな」


「──」


(──「妙」、また、この語)


 雪は辞典を開いた。


 四百語目の予定の場所に、「妙」と書いた。

 保留、と書き足した。


(──山岡様と桐生様、同じ日に私を「妙」と呼ばれた)

(──二人の「妙」は、意味が違う)

(──それも、訳し終わっていない)


  ◇


 夕刻、雪は柳町に戻った。


 叔父の豆腐屋。湯気の匂い。


 叔父が、豆腐を差し出した。


 雪は一口、口に入れた。


(──)

(──)


 訳が止まった。


 豆腐の時間だった。


 叔父が向かいに座った。


「雪、今日も疲れておるな」


「……」


「母さんもな」


 叔父の声が少し、柔らかかった。


「こういう顔で、帰ってきたことがあった」


 雪の箸が止まった。


「──母さんも」


「ああ」

「訳せぬもの、訳さねばならぬもの、その狭間で疲れた時」

「柊は黙って豆腐を食って、寝室に上がっていった」


「……母さんも」


「お前と、同じだ」


 叔父が、湯呑みに茶を注いだ。


「柊はよう、言っておった」

「『兄さん、この豆腐を食べている時だけは全部、訳さなくていいの』と」


 雪の息が止まった。


(──母さんも)

(──豆腐の時だけ、訳が止まっていたのか)

(──私と、同じ)


 雪は、豆腐をもう一口食べた。


(──)


 叔父が、それ以上何も言わなかった。

 茶を啜った。


  ◇


 その夜、雪は自室で辞典を閉じた。


 桜木の櫛を髪から抜いた。机の上に置いた。

 袖の奥から、飴玉の紙包みを取り出した。

 両手に包んだ。


(──母さん)

(──あなたも豆腐を食べる時だけ、訳が止まっていたのですね)

(──あなたも訳し終わらないと、立ち去れない人だったのですね)


(──では、あなたは何を訳し終えずに)


(──「行かれた」のですか)


 窓の外で、梅の香が流れていた。

 春の夜風。


 雪は飴玉を、袖の奥に戻した。

 一度も舐めていない。


  ◇


 翌朝、翻訳方の入口で、桐生が再び雪を待っていた。


「秋津」


「──はい」


「丹波から、嘆願書が届いている」

「千年を超える古妖が、昨夜姿を消された、と」


 雪の指先が動いた。


(──千年)


(──「行く」と呟かれた、と嘆願書に書いてある)


 雪の息が止まった。


(──「行く」)


(──母さんの最後の言葉と、同じ)


 桐生が、雪の顔を見た。


「行けるか」


「……行きます」


 袖の奥の飴玉が、微かに触れた。


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