第二話「愛」
雪は辞典を開いていた。
三百二語目の下、昨夜書いた三つの問い。
──一、奉行席の隣の深緑の袴の御方は、どなたか。
──二、梶山様は、なぜ私を気にされるのか。
──三、三百年の妖は、なぜ母を知っていたのか。
三つとも、まだ訳し終わっていない。
雪は筆を取り、「保留」と書き足した。
指先が動いた。
(──この三つは、訳し終わるまで何年かかるか)
時計の鐘が、朝五つを告げた。
翻訳方の出仕の刻。
雪は辞典を閉じた。
袖の奥の飴玉の紙包みを、そっと触った。
(──母さん、二日目、行ってきます)
◇
翻訳方の入口で、桐生が雪を待っていた。
「秋津、今日は武家屋敷だ」
「──武家屋敷」
「中堅旗本の奥方が飼い妖を失った、と」
「泣いておられる。訳し直しを嫌がるかもしれん」
「お前に行ってもらいたい」
「承知いたしました」
桐生は依頼書を差し出した。
──武家屋敷、井垣家。奥方様ご依頼。
──愛玩の狐、昨夜出奔。至急尋ねたし。
「井垣、様」
「旗本・井垣晴之助。奉行所勤め」
「今日、出仕なさっている」
「奥方は一人でお迎えになる」
桐生が声を落とした。
「秋津」
「はい」
「昨日のお前の訳、奉行所でも評判だ」
「山岡様の顔が、今朝かなり赤い」
桐生は、小さく笑った。
「気をつけろ」
「山岡様は、根に持たれる御方だ」
「──承知しております」
◇
井垣家の屋敷は、鴨川の西。塀の中に、梅の木が二本。
雪は玄関で、下女に迎えられた。
奥の座敷に通された。
畳は新しかった。
紅色の座布団が、客の席にあった。
しかし、雪は座布団に座らなかった。
見習いは、畳に直接膝をつく。
これが翻訳方の、不文律だった。
奥方が、襖を開けて入ってこられた。
四十ほど。白い肌。紅色の単衣。目の縁が赤く腫れていた。
泣いていたばかりの顔。
雪は深く頭を下げた。
「秋津雪と申します。翻訳方より参りました」
「あの子のこと、ですか」
奥方の声が震えていた。
「助けてください」
「あの子は、私の愛玩の狐です」
「三年、大切にしてきました」
「毎日、撫でて話しかけて」
「夜は、一緒に眠って」
「それが、昨夜、出て行って」
雪は袂から、辞典と筆を取り出した。
(──「大切に」という語)
(──人語では、丁寧に扱うの意)
(──妖語では、「境界を保つ」の意)
(──奥方様の「大切に」は、どちらか)
雪の指が動いた。
◇
「奥方様、狐様は何か言葉を残されましたか」
「言葉」
奥方の手が震えた。
「あの子は、もう言葉を話していたのです」
「狐の子ですが、一年前から人語で」
「『奥方様、ありがとう』と」
「『そばに、いたい』と」
「それが、昨夜」
「『もう、苦しい』と」
雪は依頼書の裏に筆を下ろした。
「奥方様、もう一度、昨夜の言葉を正確にお聞かせください」
奥方が目を伏せた。
「『奥方様』」
「『私は、愛でられすぎました』」
「『輪郭が、溶けます』」
「『名が、薄れます』」
「『私は、私でなくなります』」
「『離れなければ、なりません』」
雪の筆が止まった。
(──「愛でられる」「輪郭」「名」「私」「離れる」)
(──五つ並んでいる)
(──五つとも、妖語の核心語)
雪の呼吸が、浅くなった。
(──この狐は、愛されすぎたのではない)
(──「愛でられ」すぎたのだ)
◇
「奥方様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「その狐様をお撫でになる時」
「──どのように撫でられましたか」
奥方が少し戸惑った。
「どのように、と申されても」
「毎日、何度も頭から背、尾の先まで」
「『可愛い、可愛い』と繰り返し」
「時には、頬を寄せて」
「時には、膝の上で眠らせて」
「どれくらいの、お時間」
「一日の半分ほど」
雪の背筋が伸びた。
(一日の半分、三年、毎日)
(──境界が溶ける)
(──完全に溶けてしまっている)
雪は静かに、筆を置いた。
少し、間を置いた。
奥方に、どう伝えるか訳さねばならなかった。
奥方が、雪の沈黙を見て眉を寄せた。
「秋津様、どうされましたか」
「何か、悪いことでも」
「──少しお待ちください」
雪は辞典の、新しい頁を開いた。
「愛でる」と書いた。
妖語の意味を、下に書き足した。
──境界を溶かすほど、近づいて見つめる。
──見つめる対象の輪郭が薄れる。
──妖にとっては、愛情の最上位の形。
──しかし人間に対して使うと、人間が消える。
書き終えて、雪は奥方を見た。
(──この奥方様に、訳してお伝えせねばならない)
(──しかしお伝えすると、奥方様は泣かれる)
(──訳さなくていい、と白瀬なら言うかもしれない)
雪の指が止まった。
(──いや)
(──訳さねば、狐は戻らない)
雪は顔を上げた。
「奥方様、狐様の居場所をご存知では」
「お屋敷の近くに、古い寺はございませんか」
「東に一つ、荒れた寺が」
「恐れながら、訪ねてみます」
「奥方様はお屋敷でお待ちください」
◇
寺は、屋根の瓦が欠けていた。
本堂の裏手に、小さな納戸があった。
納戸の隅に、小さな橙色の毛玉。
狐の子、だった。
子、というにはやや大きい。成体の半分ほど。
雪は戸を静かに開けた。
狐は顔を上げた。金の瞳が雪を見た。
「妖、でしょうか」
狐は小さく頷いた。
「翻訳方の秋津と申します」
「奥方様より依頼を受けて参りました」
狐は鼻先をそむけた。
「戻りたく、ありません」
「存じております」
「訳し直しに参りました」
狐が瞳を細めた。
「やくし、なおし」
「あなた様の言葉を、奥方様に正確にお伝えします」
「『苦しい』の、本当の意味を」
狐は長く黙った。
やがて、低く答えた。
「私は三年、愛でられた」
「輪郭が溶けた」
「名が薄れた」
「自分の形が、奥方様の形に混ざった」
「気がつけば、私は私でなくなっていた」
「奥方様を愛している、のではない」
「奥方様に、なりかけている」
雪は筆を下ろした。
「──妖語の『愛でる』、でございますね」
「そう」
「お前様は人語の『愛される』と、妖語の『愛でられる』の違いを御存知だった」
狐が初めて、雪をじっと見た。
「知っていた」
「しかし、奥方様は知らなかった」
「お前様は、それをずっと黙っていた」
「三年、黙っていた」
「奥方様が悲しまれるから」
雪は少し動けなかった。
(──この狐は三年、訳さずに耐えていた)
(──結果、消えかけた)
(──訳さないことは、優しさではない)
◇
雪は奥方の屋敷に戻った。
奥方は、庭で一人立っていた。梅の木の下。
「秋津様」
「あの子は」
「生きております」
奥方の肩が下がった。
「よかった」
「よかった、ございます」
「ただ、奥方様」
雪は静かに言った。
「狐様は、戻ってこられません」
奥方の顔色が変わった。
「……何故」
雪は、筆で書いた訳文を差し出した。
「妖語の『愛でる』は、『境界を溶かす』の意にございます」
「人語の『愛する』とは違います」
「奥方様の御心は、咎められません」
「ただ、三年の間、狐様の輪郭は薄れていかれた」
「自分の形を保てなくなられた」
「私、悪いことしましたか」
「なさっておりません」
雪は首を横に振った。
「ただ、言葉の意味がずれておりました」
「奥方様は、愛された」
「妖は、愛でられた」
「二つは、違うのです」
奥方の目から、涙が一筋落ちた。
雪は辞典に手を伸ばしかけた。
(──今の涙は、妖語では何層の悲しみか)
(──第一層は哀。第二層は悔の混じった哀。第三層は)
指先が動いた。
しかし、止めた。
(──今は、訳さなくてよい)
雪は奥方の手を、そっと取った。
手が冷たかった。
「奥方様、これからは距離を保たれて」
「お撫でになるのは、一日に一度」
「抱かれるのは短く」
「寝る時は、別の部屋で」
「……それで、あの子は戻りますか」
「戻られる日もあるかもしれません」
「ただし、以前の形ではありません」
「輪郭が溶けた分は、戻りません」
「新しい関係を築かれることになります」
奥方は、庭の梅の木を見た。
花はまだ蕾だった。
「愛しなさい、ね」
「でも、愛でないで」
奥方が、自分に言い聞かせた。
◇
雪は屋敷を辞した。
玄関で、一人の若い女が待っていた。
白瀬ハル。十七歳。見習い。雪より二月遅れて翻訳方に入った。
肩までの黒髪。前髪が真っ直ぐ切り揃えられている。薄紅の帯。
「秋津先輩」
「白瀬。どうしてここに」
「桐生様から、奥方様のお気持ちが心配だから後でお茶をお出ししてこい、と」
「──そう」
白瀬が、雪の顔を見た。
「先輩、何かあったのですか」
「──いや」
「お顔が少し、疲れておいでです」
「──そうですか」
白瀬は、少し躊躇した後言った。
「先輩、奥方様に全部お伝えになったのですか」
「──はい」
「……訳さなくていいこともある、と私は思います」
雪の足が止まった。
(──白瀬の、この一言)
(──三年、狐が黙って消えかけたのと、同じ選択)
雪は白瀬を見た。
「白瀬、訳さなかったらどうなりますか」
「え」
「狐様は三年、訳さずに黙っていました」
「奥方様を悲しませないために」
「結果、狐様は消えかけました」
白瀬の唇が止まった。
「訳さないことは、優しさではありません」
「訳さないことで救われる人がいるのは、時に一時だけです」
「その後、もっと深いところで誰かが壊れます」
白瀬は下を向いた。
「──申し訳、ございません」
「謝らなくて、いい」
雪は少し、間を置いた。
「ただ、今あなたが言った『訳さなくていい』という考え方」
「それを、私に書き留めさせてください」
「え」
「辞典に、あなたの初めての癖として残します」
「もし、あなたが訳官を続けるならこれと一生、向き合うことになります」
白瀬は固まった。
「……先輩、本気で辞典に書くのですか」
「書きます」
雪は袂から、小さな辞典を取り出した。
筆も。
白瀬の目の前で、書き留めた。
──白瀬ハル、十七歳。
──初出:「訳さなくていいこともある」。
──訳官の、最も危うい傾向。
白瀬の頬が赤くなった。
雪は辞典を閉じた。
「白瀬」
「はい」
「私も昔、同じことを思いました」
「十歳の時に」
「『訳さなくていい』と」
「結局、私は訳さなかった」
「──何を」
雪はしばらく、動かなかった。
(──母さんの「行くわ」を)
(──あの夜、私は訳さなかった)
(──だから、母さんは帰ってこなかった)
口には出さなかった。
「また、お話しします」
「今日は、奥方様のお側にいてください」
「──はい」
白瀬は深く、頭を下げた。
◇
翻訳方に戻った。
自分の机に、辞典を開いた。
三百三語目。
「愛でる(めでる)」
人語での意味:慈しむ、愛する。
妖語での意味:境界を溶かすほど、近づいて見つめる。
見つめる対象の輪郭が薄れる。
妖にとっては、愛情の最上位の形。
しかし、人間に対して使うと、人間が消える。
人間を愛する時は、「慈しむ」の強度で、留めるべし。
筆を下ろした。
(──狐様は三年、訳さずに耐えた)
(──白瀬は、「訳さなくていい」と言った)
(──母さんは十年前、「行くわ」と言って行かれた)
(──母さんも、何か訳さずに耐えておられたのか)
(──耐え切れなくなって、「行かれた」のか)
雪の指先が止まった。
(──保留)
辞典の三百二語目の下、昨日書いた三つの問いを見た。
雪は筆を取り、もう一つ問いを書き足した。
──四、母は何を訳さずに耐えておられたのか。
「──全部、保留」
雪は辞典を閉じた。
◇
桐生が、雪の机の前に通りかかった。
「秋津、今日はどうだった」
「……訳し直しは済みました」
「しかし奥方様は、狐様を失われました」
「訳を、早く見破れていたら」
「見破ったとしても、三年前だ」
「三年、遡って助けることは、誰にもできん」
雪は頭を下げた。
「……はい」
桐生は、湯呑みを雪の机に置いた。
「秋津」
「はい」
「お前が訳した分だけ、救われた者はいる」
「お前が訳せなかった分は、誰かが訳す」
「そうやって、翻訳方は繋いできた」
雪は顔を上げた。
桐生の目が少し、優しかった。
「それに、白瀬を辞典に書き留めたそうだな」
「──はい」
「あの子、泣きながら俺に話しに来たぞ」
「『秋津先輩に辞典に書かれました』と」
桐生が笑った。
「お前は、やはり妙な娘だな」
「──」
(──「妙」、また、この語)
雪は辞典を開いた。
四百語目の予定の場所に、「妙」と書いた。
保留、と書き足した。
(──山岡様と桐生様、同じ日に私を「妙」と呼ばれた)
(──二人の「妙」は、意味が違う)
(──それも、訳し終わっていない)
◇
夕刻、雪は柳町に戻った。
叔父の豆腐屋。湯気の匂い。
叔父が、豆腐を差し出した。
雪は一口、口に入れた。
(──)
(──)
訳が止まった。
豆腐の時間だった。
叔父が向かいに座った。
「雪、今日も疲れておるな」
「……」
「母さんもな」
叔父の声が少し、柔らかかった。
「こういう顔で、帰ってきたことがあった」
雪の箸が止まった。
「──母さんも」
「ああ」
「訳せぬもの、訳さねばならぬもの、その狭間で疲れた時」
「柊は黙って豆腐を食って、寝室に上がっていった」
「……母さんも」
「お前と、同じだ」
叔父が、湯呑みに茶を注いだ。
「柊はよう、言っておった」
「『兄さん、この豆腐を食べている時だけは全部、訳さなくていいの』と」
雪の息が止まった。
(──母さんも)
(──豆腐の時だけ、訳が止まっていたのか)
(──私と、同じ)
雪は、豆腐をもう一口食べた。
(──)
叔父が、それ以上何も言わなかった。
茶を啜った。
◇
その夜、雪は自室で辞典を閉じた。
桜木の櫛を髪から抜いた。机の上に置いた。
袖の奥から、飴玉の紙包みを取り出した。
両手に包んだ。
(──母さん)
(──あなたも豆腐を食べる時だけ、訳が止まっていたのですね)
(──あなたも訳し終わらないと、立ち去れない人だったのですね)
(──では、あなたは何を訳し終えずに)
(──「行かれた」のですか)
窓の外で、梅の香が流れていた。
春の夜風。
雪は飴玉を、袖の奥に戻した。
一度も舐めていない。
◇
翌朝、翻訳方の入口で、桐生が再び雪を待っていた。
「秋津」
「──はい」
「丹波から、嘆願書が届いている」
「千年を超える古妖が、昨夜姿を消された、と」
雪の指先が動いた。
(──千年)
(──「行く」と呟かれた、と嘆願書に書いてある)
雪の息が止まった。
(──「行く」)
(──母さんの最後の言葉と、同じ)
桐生が、雪の顔を見た。
「行けるか」
「……行きます」
袖の奥の飴玉が、微かに触れた。




