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妖訳(ようやく)──翻訳方・秋津雪の記録──  作者: よるの 余白
一章

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1/22

第一話「喰」

 


 雪は辞典を広げていた。二百五十二語目。


 行灯の芯が小さく弾けた。


 妖語では、こういう時「断・火」と言う。火が終わりの気配を見せる時の言葉。


(また、一つ、灯が死ぬ)


 雪は筆を取り、「断・火」と書いた。墨が乾くのを待った。


 待っている間に、耳に入った微かな寒さを、どう訳すべきかと指先が動いた。


(今夜の寒さは「冴ゆ」でも「凍ゆ」でもない。もっと内側の、何か)


 頁の隅に「保留」と書いた。三百一語目。


 保留の語は、机の引出の帳面に溜まっていく。三百。訳し終わらないと、雪は眠れない。


(今夜も、訳し終わらないまま朝が来る)


 時計の鐘が、亥の下刻を告げた。

 雪はまだ動かない。

 辞典の「断・火」の字を見ていた。

 半刻、そうしていた。


(いい字だ)


 やっと、筆を置いた。


 雪は無意識に、口の中で「行きます」と転がした。

 母の最後の三文字。

 十年経っても、雪の中に、訳されないまま残っている、その声。


 舌の奥でその音を確かめると、頭の中の他の音が、少し静かになった。


(──訳しております)


 それが、雪の口癖だった。

 人の言葉を訳して聞く耳を、自分で「訳しております」とつぶやいて、整える癖。


 雪は袖の奥に手を入れた。

 飴玉の紙包み。十年、舐めていない。

 その隣に、独楽。

 その隣に、小さな包み。妖から訳す度にもらってきた「お土産」のコレクション。

 ムジナの毛、狐の鬚、桑の葉、蛇の鱗。


 辞典に「断・火」と書いた今夜のお土産は、まだ、ない。

 今夜は妖を訳していないから。


 雪は袖を閉じた。


  ◇


 秋津雪、十九歳。


 京洛・妖奉行所、翻訳方の見習い。


 色白、切れ長の目。長い黒髪を一つに束ね、髪に桜木の櫛。母の形見。


 翻訳方の見習いは、下士族からしか採用されない。家柄の良い者は他の官職に就く。雪の家柄では、この職しかなかった。


 妖と人は、同じ音で違う意味を持つ言葉を使う。そのズレを訳す仕事を、妖訳と呼ぶ。


 翌朝、雪は翻訳方に出仕した。


 机の上の辞典を、もう一度開いた。

 二百五十二語目。

 昨夜、書けなかった語を、もう一度訳そうとした。指が動いた。書けなかった。


「保留」の頁に、追記した。


 同僚の女中が、雪の机を通り過ぎてくすりと笑った。


「秋津の辞書、また一語」


 雪は顔を上げなかった。


 しかし耳は、女中の声を、訳した。


 第一層 ─ 嘲りの軽口。

 第二層 ─ 自分も書けない辞書を持つ者への、僅かな羨望。

 第三層 ─ 訳官の家系に生まれなかった者の、十年の劣等感。


 雪は無意識に「──訳しております」とつぶやいた。


 女中の声が遠ざかった。


(──「秋津の辞書」と呼ばれている)

(それは別にいい)

(辞書が、私の体の外の記憶だから)


 筆を筆立てに戻した。


  ◇


「秋津」


 呼ばれて振り向いた。


 先輩妖訳官の山岡。四十代。長身。顎の線が尖っている。正規訳官。雪を見下ろす目に嘲りがあった。


「裁判場へ。見習いも立ち会え」


「はい」


 雪は袴の皺を整え、立ち上がった。


 しかし耳は、山岡の声も訳した。


 第一層 ─ 業務の指示。

 第二層 ─ 見習いを連れていくことへの面倒。

 第三層 ─ 自分が訳せなかった案件を、見習いに振る、ということへの僅かな後ろめたさ。


 雪は深く頭を下げた。


(──訳しております)


 辞典を閉じた。筆を筆立てに。

 袖の奥の飴玉の紙包みを、一度そっと触った。

 十年前、母が雪の手に握らせたもの。

 一度も舐めていない。


(──母さん、行ってきます)


「行く」の言葉。

 辞典の白い頁にも、雪の中にも、「行く」はまだ訳されていない。


  ◇


 裁判場は、広い板間、高い天井。春の光は格子窓から細く差し込むだけ。埃が光の筋の中で舞っていた。


 正面に、妖が一体。ムジナに似た獣の姿。三百年の古妖。


 訴えは処刑。理由は――「人間の娘を喰った」。


 妖奉行所は、人の奉行所と違う。

 妖が被告の席に座ることが許されている。

 ただし、訳されるのは人語だけ。

 書き直された一枚が、処刑になるかならないかを決める。


 ──訳官の、筆の一本で。


 裁判官席に奉行が座していた。

 雪の位置からは遠い。


 ──いや、奉行の隣に、もう一人。

 若い武家が一人、座していた。

 深緑の袴。結い上げた黒髪。

 顔はこの距離からは見えない。


 ただ、背筋がまっすぐだった。風で紙がめくれても動かない、そんな静けさがあった。


(──どなただろう)


 雪の指先が、袴の上で微かに動いた。


(──あの方の姿勢を、妖語では何と訳すか)

(──「静・立」か。それとも「構・無」か)

(──いや、どちらでもない)


(──保留)


 雪は視線を前に戻した。


 その時、不思議なことに気づいた。

 あの若い武家の姿勢を見ていた間、雪の頭の中で、誰の声も三層に分かれなかった。


 普段なら、周りのざわめきが全て訳されて聞こえる。

 役人の咳払い。母親の啜り泣き。山岡の溜息。

 どれも自動的に三層に分解される。


 しかし、あの方を見ていた半瞬の間、雪の耳は静かだった。


(──訳されない、何か)


 雪は袖の奥の飴玉に、もう一度、指を当てた。

 今夜のお土産はまだない。しかし。


(──保留)


 雪はそう書きとめる代わりに、心の中の小さな箱に、その「静けさ」をしまった。


  ◇


 山岡が訳文を読み上げた。


「この妖は自白した」

「『娘を喰った』と」

「ゆえに、処刑に値する」


 裁判官が頷きかけた。


 娘の親が、板間の隅で頭を下げていた。

 母親の肩が小刻みに震えていた。

 父親は、目を固く閉じていた。


 雪は妖を見た。


(おかしい)


 妖は落ち着いていた。

 首をやや傾げている。

 目は閉じていない。

 前足を静かにそろえている。


(喰ったと認めた者が、なぜこんな顔をしている)


 雪の中で、山岡の訳文が蘇った。


 山岡は妖の発言を要約していた。

 しかし、元の妖語には確かにこう書かれていた。


『私は、娘の時を三年、喰った』

『私の中で、娘の時は共に在る』


(──「時を、喰った」と「共に、在る」)

(──この二つ、並べて使われた)

(──妖語の「喰う」は、物理的に食べるの意だけではない)

(──「食べるように取り込む」という、第二の意)

(──取り込まれたものは、妖の中で生きている)


(──三百年の古妖が、娘を喰ったと認めた)

(──しかし、「共に、在る」と続けた)

(──つまり、娘の命はまだ)


 雪の呼吸が、浅くなった。


(──立たねば)


 しかし、雪は動かなかった。

 指が、袴の上で震えていた。


(──見習いが立ち上がる)

(──山岡様の訳を、正面から否定する)

(──身分を弁えろと、叱られる)


(──しかし、このままでは娘は取り戻せない)

(──妖は処刑される)

(──訳が違うのだから、訳し直すしかない)


 雪は息を一度、吐いた。

 そして、桜木の櫛に手を当てた。

 挿し直した。


(──母さん、お借りします)


 立ち上がった。


  ◇


「恐れながら、申し上げます」


 山岡が振り返った。顔色が変わった。


「見習いの分際で、何を言う」

「お前、字は書けても、人の気持ちは読めんのか」

「もう訳文は提出した。処刑で決まる」

「身分を、弁えろ」


(──弁えております)

(──ただ、訳が違うのです)


 口には出さない。


 ただ、奉行席の方を見た。


 奉行席は遠かった。奉行の顔は見えなかった。

 その隣の若い武家の顔も、見えなかった。


 間があった。


「──発言を、許す」


 声が降ってきた。


 若い声だった。

 しかし、低く揺るがない。

 場の空気が一瞬で変わった声。


(──どなただろう)


 深緑の袴の肩衣が、光の縁でかすかに動いた。

 顔はやはり見えない。


 山岡の顔が、さらに歪んだ。

 口を開きかけて、閉じた。


  ◇


 雪は一歩前に出た。巻物を前に差し出した。


「山岡様の訳は、『娘を喰った』となっております」

「しかし、元の妖語には『時を喰った』と『共に、在る』と続けて書かれております」


 裁判場が静まった。


 雪は続けた。


「妖語の『喰う』は、物理的な食事のみを指しません」

「『時を喰う』とは、対象の時間を食べるように取り込むことでございます」

「取り込まれた時は、妖の中で生きております」

「この妖は、娘の物理的な命を奪っておりません」


 雪は巻物を開いた。

 妖の発言の原文。黒い文字が並んでいた。

 一行、一行指でなぞった。


(──この訳を書き直すのに、私は半刻かかるだろう)

(──しかし今、書き直さねば)


 雪は筆を取った。新しい紙に、書き始めた。


 ──この妖は、娘の「時間を三年分」喰った。

 ──娘は意識を失っているが、生きている。

 ──三年分の記憶を失う代償で、命は残されている。

 ──妖の「喰う」は、人語の「食べる」とは層が違う。


 書き終えた。裁判官に差し出した。


「この妖を処刑することは、娘を救うことになりません」


 裁判官が、雪の訳文をじっと読んだ。


 奉行席の隣の深緑の袴の武家が、小さく頷いた。顔は、相変わらず見えなかった。


 裁判官も頷いた。


「訳を、認める」


 山岡が板間を一歩下がった。顔が赤かった。口を開きかけて、閉じた。


 雪の指先が、袴の上でもう一度動いた。


(──「赤い」という色は、妖語では何層か)


(──いや)

(──今は、訳さなくてよい)


  ◇


 妖は、雪を見た。


「──そう」


 声は低かった。底の方から響くような声。


「私は、娘の時を喰った」

「三年分」

「私の三百年の中に加えた」


 裁判官が尋ねた。


「娘は、生きているのか」


 妖が頷いた。


「生きている」

「ただし、三年分の記憶を失った」


 裁判場が、どよめいた。母親が顔を上げた。震える声で何かを言おうとした。しかし、言葉にならなかった。


 妖には、追放令が下された。三百年の命を、もう一年人里から遠ざかって過ごせ、と。処刑ではない。雪の訳のおかげで。


 親が妖の前に膝をついた。


「ありがとう、ございました」


 妖は頭を下げた。


「娘の時は、私の中で大切にしまっておく」

「三百年の中で」

「やがて、返す日も来るだろう」


  ◇


 妖が立ち上がった。ゆっくりと歩き出した。


 雪の前で、妖は一度だけ立ち止まった。


「人間の子」


 金色の目が、雪を見た。


「あなたの母上も、よき耳をお持ちだった」


 雪の視界が、一瞬狭くなった。


 そして、奇妙なことに気づいた。

 その妖の言葉は、雪の中で、三層に分かれなかった。


 第一層だけが、雪の中に届いた。


 ──「よき耳」── 訳す耳、のこと。


 第二層も、第三層も、現れなかった。

 妖の言葉なのに、訳されないまま、雪に届いた。


(──三百年の妖の言葉も、訳されないことがあるのか)

(──いや、訳されないのではなく)

(──私が、訳すまでもなく、わかってしまった、のか)


(──母を、知っている?)

(──三百年の妖が?)

(──「よき耳」とは)

(──訳す耳、のこと)


(──母さんも、訳していたのか)

(──訳し終わらずに行かれたのか)


 妖は、もう歩み出していた。灰色の毛並みが、光の筋を横切って消えた。足音はほとんど聞こえなかった。


 雪はそれを、黙って見ていた。


 指は動かなかった。

 息も止まっていた。


  ◇


 廊下で、山岡とすれ違った。


 山岡は雪を見て、口を開きかけた。

 しかし、閉じた。


 三歩歩いて振り返った。


「秋津」


「はい」


「お前、半刻、裁判場で動かなかったな」

「指ばかり動かしておった」

「何をしておった」


 雪は山岡の声を訳した。


 第一層 ─ 行動への詰問。

 第二層 ─ 訳の上書きをされたことへの怒りの残滓。

 第三層 ─ 自分の訳がなぜ間違えたのか、というわずかな迷い。


 雪は少し、間を置いた。


「──訳しておりました」


「筆を動かさずに、か」


「──はい」


「何を」


 雪は、少し間を置いた。

 そして、小さく、答えた。


「──奉行席の隣の、深緑の袴の御方の姿勢を」

「妖語で、何と訳すべきかを」


 山岡が固まった。


「……姿勢を訳す、とは何だ」


「あの方の御姿を、『静・立』と訳すか『構・無』と訳すか、迷っておりました」

「『静・立』は、沈黙の中で立つの意」

「『構・無』は、構えがないことで守るの意」

「結局、どちらも違いました」


「……それで」


「『保留』に書いております」


 山岡は、長く雪を見ていた。


 そして、言った。


「お前は、妙な娘だ」


「──はい」


 山岡は去った。


 雪はその背中を見て、微かに首を傾げた。


(──「妙」という語も、訳しておくべきか)


 袖の奥の辞典を、取り出しかけて止めた。


(──後で)


  ◇


 翻訳方に戻ると、同僚たちが囁き合っていた。


「秋津、やったな」

「見習いが、山岡様を出し抜いた」

「あの訳、正確だった」


 雪は同僚の声を、訳した。


 第一層 ─ 称賛の言葉。

 第二層 ─ 自分も注目したい、という願望の混じり。

 第三層 ─ 山岡の失敗を喜ぶ、薄い悪意。


(──訳しております)


 雪は頭を下げた。


「恐縮です」


 同僚は、雪の肩を軽く叩いた。

 しかし、それ以上の会話はなかった。

 雪は、あまり同僚と話さない。


 机に戻った。

 辞典を再び開いた。


 三百二語目。


「喰う(くう)」


 人語での意味:食べる(咀嚼・消化する)。

 妖語での意味:食べるように、取り込む。

 取り込む対象が広い。物だけではない。

 時、記憶、気配、全てを食べる。

 しかし、食べたものの命は奪わない。

 妖は食べたものと、共に在る。

「お返しください」と訳して伝えれば、

 多くの妖は、返す。


 筆を下ろした。


  ◇


 桐生亮が、雪の机の前に湯呑みを持って立っていた。


 三十代半ば。小柄で、目が優しい。上級妖訳官。翻訳方では、実力派で通っている。雪を見下すことのない、数少ない先輩。


 桐生は雪の辞典を覗き込んだ。


「三百二語目か」

「よく続けているな」


「はい」


 桐生は、静かに笑った。


「秋津。梶山様が、お前のこと気にされておる」


 雪は桐生の声を、訳そうとした。


 第一層 ─ 上司の関心の通知。

 第二層 ─ 雪への警告の含み。

 第三層 ─ ……


 第三層が、いつもより、淡かった。


 桐生様の言葉は、訳しやすい。

 ただし、第三層が、薄い。

 他の人と、違う。

 何か、桐生様の中に、訳す耳の働きを止めるものが、ある。


(──保留)


 雪の目が、一瞬動いた。

 筆を持つ指が、三秒止まった。


(──梶山様)


 翻訳方の長官。

 五十代後半。雪の直接の上官ではないが、翻訳方の全ての訳文を最終承認する立場。


 雪は顔を上げた。


「長官様が、なぜ私を」


 桐生が肩をすくめた。


「さあな」

「面白い訳を書くから、じゃないか」


 そして、声を落とした。


「──ただし」

「気にされていい、とは限らんぞ」


 雪は、筆を持つ指に力を入れた。


「ご忠告、ありがたく」


 桐生は去った。


 雪は筆を持ったまま、動かなかった。


(──梶山様が、私を)


 雪の手が、髪に挿した櫛に触れた。

 桜木の古い櫛。

 母の形見。


  ◇


 十年前の春の夜。


 火鉢の前に座っていた母が、振り返った。

 髪に桜木の櫛を挿していた。

 いつもは、簡単に束ねているだけだった。

 その夜だけは、きちんと挿していた。


 藤色の風呂敷を、手に持っていた。仏壇の方を、長く、長く見ていた。


「雪、母さんね、出かけてくる」

「夕餉は、一人でね」


 母は雪の手に、飴玉を一粒握らせた。小さな、薄紅色の飴玉。


「行くわ」


 そして、襖を閉めた。


 その夜、母は帰らなかった。

 十日後、街道で亡骸が見つかった。

 辻斬り、と処理された。


 雪の手元には、桜木の櫛と飴玉が残った。


  ◇


 雪は袖の奥から、飴玉の紙包みを取り出した。


 十年、袖の奥にある。

 包みの色は、少し褪せていた。

 中の飴玉も、色褪せていた。


(──母さん、今日、妖を一体訳しました)

(──処刑は回避しました)

(──娘は生きていました)


(──その妖は、母さんのことを知っていました)

(──三百年の妖が)

(──「よき耳をお持ちだった」と)


(──母さんも、訳す耳をお持ちだったのですか)

(──母さんも、訳し終わらないと立ち去れない人でしたか)


(──もし、そうなら)

(──母さんは、何を訳し終えずに「行かれた」のですか)


 雪は飴玉を、紙包みのまま両手に包んだ。

 舐めなかった。

 十年、舐めていない。


(──いつか、舐める日が来るのだろうか)


 紙包みを、袖の奥に戻した。


  ◇


 窓の外で、日が傾き始めていた。

 京洛の町に、寺の鐘が一つ鳴った。


 十年前の、母の最後の夜も春だった。


 雪は筆を取り、辞典の三百二語目の下に、小さく三行書き足した。


 ──今日、問いが、三つ、増えた。

 ──一、奉行席の隣の深緑の袴の御方は、どなたか。

 ──二、梶山様は、なぜ私を気にされるのか。

 ──三、三百年の妖は、なぜ母を知っていたのか。


 筆を下ろした。


(──全部、保留)


 保留の語と、保留の問い。


 机の引出の帳面は、また重くなった。


  ◇


 その時、襖の向こうから桐生の声がした。


「秋津、まだ起きておるか」


「──はい」


 襖が開いた。

 桐生が、一枚の書状を持っていた。


「明朝、四条の絹問屋から、依頼だ」

「今日のお前の訳の噂が、もう市中に広まっておる」

「指名で、お前を呼んでいる」


「──承知、いたしました」


「秋津、眠れるなら、眠っておけ」

「明日から、忙しくなる」


 桐生が、襖を閉めた。


 雪は、書状をまだ開かなかった。

 袖の奥の飴玉を、一度だけ触れた。


(──母さん、私の訳は、市中に届きました)

(──あなたの訳も、そうだったのでしょうか)


(──保留)


 雪は行灯の灯を、細めた。


 そして、無意識に、口の中で「行きます」を転がした。

 十年経っても、訳されないままの三文字。


 ──いつか、訳す日が来るのか。

 ──いつか、母さんに、お返しできる日が来るのか。


 行灯の灯が、最後に一度、揺れた。

 妖語では、こういう時を「断・火」と言う。


 雪はその「断・火」を、訳して、辞典に書いた。


 ──訳されない一語が、まだ、雪の中にある。

 ──訳されないまま、十年。

 ──そして、今夜も、訳し終わらない。


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