第十五話「告」
◇
子の刻。
翻訳方の裏手の梅の木の下。
雪は約束通り、一人で出向いた。
嵯峨様の私兵は、叔父の家の前に三人。
雪が翻訳方へ戻ることは、誰にも告げなかった。
ただし、桐生には書き置きを残した。
「山岡様に呼ばれました。子の刻、翻訳方の裏手の梅」
裏手の梅の木は、奉行所の梅より若かった。
幹は細く、花は既に散り始めていた。
山岡は既に、待っていた。
灰色の袴。
手には、巻物を一つ持っていた。
「秋津、来たか」
低い声。
いつもの見下す調子は、なかった。
「──はい」
「一人でか」
「一人でございます」
山岡は微かに頷いた。
「梶山様は今夜奉行所の召喚状を受け取られた」
「翻訳方の中で、激怒されている」
「七日以内に、お前を消す、と公言された」
雪の息が止まった。
(──消す)
「──山岡様、何故それを私にお告げくださるのですか」
山岡はしばらく沈黙した。
そして巻物を雪の前に差し出した。
「──受け取れ」
雪は両手で受け取った。
◇
巻物を広げた。
古い紙。
そして母の字。
雪の指が止まった。
(──母の字)
(──また、母の書いたもの)
巻物の冒頭。
──秋津 柊、個人的記録
──十年前春、三月十五日
十日前。
母が「行かれた」日の前日。
雪は息を深く吸った。
◇
巻物を読んだ。
──梶山様の誤訳、全てを文書化しました。
──明日嵯峨様のお父上に直接提出いたします。
──もし、私に何かがあれば、この巻物を娘の雪に伝えてください。
──信頼できる、翻訳方の若い訳官に預けます。
──山岡。
──彼はまだ梶山様の派閥に完全には取り込まれていない。
──母を亡くした痛みを、知っている子。
雪の息が止まった。
(──山岡様のお母様)
(──母は山岡様が母を亡くされていることをご存知だった)
(──だから、信頼された)
「山岡様」
「うむ」
「この巻物を十年、お持ちくださっていたのですか」
山岡は深く頷いた。
「ああ」
「十年、誰にも渡さなかった」
「柊様が、俺を信じてくださった」
「その信頼を、裏切れなかった」
山岡の声が、低くなった。
「しかし」
「俺は柊様を守れなかった」
「翌日柊様は「行かれた」」
「俺がもっと早く、巻物を嵯峨様のお父上に届けていれば」
(──山岡様は十年、この後悔を抱えてこられた)
「十年、俺は梶山様の派閥に残った」
「時機を待った」
「お前が来るのを、待っていたのかもしれん」
◇
雪は巻物を両手で握った。
「山岡様」
「うむ」
「七日後の裁判で、証言していただけますか」
山岡はしばらく沈黙した。
「──覚悟はできている」
「しかし、俺が証言すれば」
「梶山様の派閥から、追放される」
「妖訳官として、生きられなくなるかもしれない」
「──はい」
「それでも、俺は証言する」
山岡は雪を見た。
月明かりの中で、山岡の目は濡れていた。
(──この方は十年、苦しんでこられた)
(──母を亡くした痛み、柊様の信頼を裏切ったという自責)
「山岡様」
「うむ」
「お母様をお亡くしになられた経緯を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
山岡は微かに笑った。
「今か」
「──はい」
◇
山岡は梅の木の下に腰を下ろした。
雪も、近くに膝を折った。
「俺の母は妖訳の誤訳で死んだ」
山岡の低い声。
「十八年前」
「俺は七歳だった」
「母は二十八歳」
「父が妖に家を襲われた、と通報した」
「当時の翻訳方が、妖の自白を訳し損ねた」
「「我は、家を通り過ぎた」を、「我は、家を襲った」と訳した」
「──妖語の第一層と第二層の、取り違え」
「そうだ」
「妖は、処分された」
「しかし、実際は家を襲ったのは妖ではなく、盗賊だった」
「盗賊が、翌日再び家に来た」
「母は俺を守ろうとして、斬られた」
雪の息が止まった。
(──山岡様のお母様は、誤訳のせいで亡くなられた)
(──翻訳方の誤訳が、盗賊の続行を許してしまった)
「俺は母を守れなかった」
「俺は自分を責め続けた」
「そして翻訳方に入った」
「誤訳を、二度と起こさないために」
「──はい」
「しかし、入ってみたら梶山様が誤訳を繰り返していた」
「俺は苦しんだ」
「しかし、何もできなかった」
「俺も、家族を養わねばならなかった」
「翻訳方を、辞められなかった」
山岡は深く息を吐いた。
「そして柊様が来られた」
「柊様は、誤訳を一人で追っておられた」
「俺に巻物を託された」
「「山岡、あなたは私と同じ心を持っている。この巻物を、私の娘に届けてください」」
(──母は山岡様を見抜いておられた)
「俺は約束した」
「しかし、柊様は翌日「行かれた」」
「俺は巻物を届ける相手を失った」
「十年、待った」
山岡の声が、少し震えた。
「秋津」
「──はい」
「お前が柊様の娘として来てくれた」
「ようやく俺は約束を果たせる」
◇
雪は山岡の言葉を聞いていた。
指先が、袴の上で動いた。
訳し終わらない問いが、三つ浮かんだ。
(──山岡様の十年の苦しみ)
(──母の山岡様を見抜く目)
(──そして十年越しの約束の履行)
雪は頭を深く下げた。
「──山岡様、ありがとうございます」
「母を信じてくださって」
「そして十年巻物を守ってくださって」
山岡は首を横に振った。
「礼を言われるような、ことではない」
「俺は十年遅かった」
「──お言葉を返すようですが」
雪は静かに言った。
「山岡様の十年の忍耐が、今実ります」
「七日後、母の遺志が裁判の場で訳し直されます」
「そこに、山岡様の十年が加わります」
山岡の目が、赤くなった。
しかし、涙は流さなかった。
「──秋津、お前は柊様に似ている」
「──ありがとうございます」
「似ている、と言われることは誇りでございます」
山岡は微かに笑った。
「柊様も、同じ答えをされていた」
◇
梅の木の下で、しばらく二人は黙った。
月は、西の山へ傾きかけていた。
夜の京洛の、静けさ。
山岡が先に立ち上がった。
「秋津、戻れ」
「俺はもう少しここにいる」
「──はい」
雪は頭を下げた。
巻物を、大切に胸に抱えた。
「山岡様」
「うむ」
「七日後、裁判場でお待ちしております」
山岡は頷いた。
「必ず、参る」
◇
雪は翻訳方の裏手を出た。
夜の路地を、静かに歩いた。
嵯峨様の私兵が、遠くから雪を見守っていた。
一人が、雪の歩く方へ音もなくついてきた。
(──警備が行き届いている)
雪は叔父の家へ戻った。
◇
自室で、雪は山岡から、受け取った、巻物を広げた。
母の字。
十年前の、三月十五日。
母が「行かれた」前日の、記録。
雪は十五件の誤訳を一つずつ読んだ。
既に、近江の宿で母の帳面から八件を。
久世との共同記録から、十五件を。
そして獺の件を久世の隠した書類から。
山岡の巻物には、十五件と、更に母のもう一つの発見が書かれていた。
最後の頁。
──梶山様の最新の誤訳、一件
──被訳者:白狐の一族
──妖の発言:「我ら、山を下りる。集落、寄らず、素通りする」
──梶山の訳:「我ら、集落を襲う」
──結果:三日前、白狐一族、処分決定(未執行)
(──三日前)
(──母が亡くなる、三日前に発覚した件)
雪の息が止まった。
(──まだ処分が執行されていない)
(──ということは、白狐一族は今も、どこかで生きている)
(──十年経った今も)
◇
翌朝雪は翻訳方に出仕する前に、桐生の家を訪ねた。
桐生は門の前で雪を見た。
「秋津、早い」
「桐生様、お話がございます」
二人は、奥の座敷で向かい合った。
雪は山岡の巻物を桐生に見せた。
桐生は読んだ。
顔色が、変わった。
「──白狐一族」
「生きているか」
「十年前の処分決定、未執行のままでございます」
「どこかで、隠遁している可能性が高い」
桐生は深く頷いた。
「秋津、これは七日後の裁判で、重要な証拠になる」
「梶山様の誤訳の最後の一件」
「そしてもし白狐一族が今も生きているなら」
「処分決定の取り消しが、可能になる」
「──はい」
「照り様に、相談してみよう」
「妖の里の妖たちに、白狐一族の行方を問うてみる」
(──鶴様の声が、使えるかもしれない)
◇
昼雪は翻訳方に出仕した。
梶山様の部屋の前を、通った。
襖は、閉まっていた。
しかし、中から声が漏れていた。
梶山様と、誰か。
低い声。
雪は立ち止まった。
しかし、すぐに歩き出した。
(──聴き耳を立てるわけには、いかない)
(──しかし、梶山様が何か仕掛けられる気配は、分かる)
自分の机に戻った。
藤野が、雪を睨んでいた。
以前より、強い眼差し。
しかし、今は何も言ってこなかった。
(──七日後まで)
(──派閥の全員が、警戒している)
◇
夕刻雪は翻訳方を出た。
門の前で、桐生が雪を待っていた。
「秋津、照り様から返事が来た」
「──はい」
「鶴様の声で、妖の里に問われた」
「白狐一族は、丹波の奥の山に生きておられる」
「十年隠遁して、五十匹ほどに減っておられる」
「しかし、生きておられる」
雪の目が、輝いた。
「──白狐一族様」
「生きておられる」
桐生は頷いた。
「七日後の裁判で、処分決定の取り消しと謝罪を要求する」
「そして白狐一族様の里への復帰を支援する」
「──承知」
◇
夜雪は自室で辞典を開いた。
三百十五語目。
「告」
人語での意味:伝える、告げる。
妖語での意味:
第一層 ─ 伝えること。
第二層 ─ 隠されていたものを、明るみに出すこと。
第三層 ─ 自らの全てを賭けて、真実を証言すること。
特記:
山岡様が十年、守ってくださった、巻物を、お返しくださった。
第三層の「告」であった。
七日後の裁判で、山岡様は証言される。
これは、山岡様の、十年の、約束の、履行。
筆を下ろした。
問いを、三つ書き足した。
──一、梶山様は七日間で、どのような反撃をしてくるか。
──二、白狐一族様を、どのように裁判の場にお連れするか。
──三、母は山岡様に巻物を託された時、既に自分の死を予期されていたか。
◇
袖の奥の飴玉の紙包みを、取り出した。
(──母さん、山岡様のことをありがとうございます)
(──あなたが見抜いてくださった、山岡様の心を)
(──十年守り抜かれた、巻物を)
(──七日後、裁判でございます)
(──山岡様が証言されます)
(──あなたの遺志が、全て裁判場で明らかになります)
雪は飴玉を両手に包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
翌日昼頃。
雪が、翻訳方の自分の机で仕事をしていた時。
桐生が慌てた様子で雪の前に来た。
「秋津」
「──はい」
「──山岡が朝家に戻られなかった」
雪の息が止まった。
「──戻られなかった?」
「昨夜翻訳方をいつも通り出た」
「しかし、家に戻っていない」
「ご家族から、奉行所に捜索願が出た」
(──山岡様が失踪された)
(──昨夜私と梅の木の下でお別れしてから)
(──どこで、何が起きたのか)
雪の袴の上で、指が震えた。
「──桐生様、これは」
「梶山様の反撃の第一手かもしれん」
雪の息が止まった。
(──証人である山岡様を、先に排除する)
(──梶山様の冷酷な一手)
袖の奥の飴玉が、微かに揺れた。




