第十六話「火」
妖語で「火」は、三層を持つ。
第一層:炎そのもの、燃えるもの。
第二層:隠されていたものを焼き尽くす、消す力。
第三層:焼かれても、灰の中に残る芯。
今日、翻訳方の書庫が燃えた。
◇
山岡様の失踪が桐生から告げられた昼の、その三刻後。
翻訳方の裏手から、煙が上がった。
最初は薄い煙。
しかしすぐに、黒く太くなった。
雪は、自分の机から顔を上げた。
同僚たちも顔を上げた。
藤野が最も早く立ち上がった。
「火事だ」
叫び声。
藤野はすぐに外へ走った。
雪の指先が、袴の上で動いた。
(──書庫の方角)
(──昨夜、久世様の獺の帳面を持ち出した場所)
雪も走り出した。
◇
裏手に回ると、書庫が燃えていた。
古い木造の建物。
乾燥した紙、大量の巻物。
火は一度ついたら止まらない素材の塊。
炎は既に屋根に達していた。
瓦が熱で弾けていた。
翻訳方の役人たちが、桶を持って水を運んでいた。
しかし火勢は衰えない。
桐生が、雪の隣に走り寄った。
「秋津、離れろ」
「──桐生様、書庫が」
「燃やされたのだ」
「梶山様の反撃の、第二手」
雪の息が止まった。
(──昨夜、私たちが持ち出した、獺の帳面)
(──今朝、桐生様が既に安全な場所に保管されている)
(──しかし、書庫の他の証拠は、全て燃える)
◇
火は一刻で、書庫を焼き尽くした。
秋津の書棚、柊様の書棚、古文書の棚、そして梶山様の古い訳文の棚。
全て、灰になった。
役人たちが、焼け跡を呆然と見つめていた。
梶山様の姿はまだ、なかった。
雪は、桐生の隣で焼け跡を見た。
炎がまだ、くすぶっていた。
黒い煙が、空に昇っていた。
春の青い空に、黒い筋が残った。
(──これで、書庫の証拠は全て失われた)
(──しかし、私たちは既に写しを持ち出している)
◇
梶山様が遅れて、現れた。
白髪混じりの髷。
いつも通りの静かな歩み。
しかし、目は僅かに光っていた。
「──何が起きた」
梶山様の声は低かった。
驚いた様子ではなかった。
桐生が答えた。
「書庫が全焼いたしました」
「──そうか」
梶山様は、焼け跡を見た。
しばらく沈黙した。
そして、雪に目を向けた。
「秋津」
雪の息が止まった。
「──はい」
「お前の机の周りは、無事か」
「──はい」
「それは、よかった」
梶山様は、微かに唇の端を上げた。
笑った、とは言えない微細な動き。
(──梶山様は、火事を仕組まれた)
(──昨夜、「秋津の机を調べろ」と指示されていた)
(──机を調べても、何も出なかった)
(──だから、書庫ごと焼いた)
(──しかし、この笑みの意味は、それだけではない)
(──梶山様は、私が証拠を別の場所に移したことを、知っておられる)
雪は、梶山様を見返した。
視線を合わせた。
(──逃げては、いけない)
梶山様は、しばらく雪を見ていた。
そして、視線を切った。
「藤野、帰るぞ」
梶山様は去った。
藤野が、雪を睨みながら続いた。
◇
焼け跡の、まだ熱い空気の中で。
桐生が声を低くした。
「秋津、あれは警告だ」
「『書庫など、いつでも焼ける』」
「『お前の所持する証拠も、同様に焼ける』」
「──はい」
「今夜、九条家に戻る」
「証拠の写しの、さらなる分散が必要だ」
雪は頷いた。
(──七日後の裁判まで、あと五日)
(──敵は、何を仕掛けてくるか)
◇
夕刻、雪は翻訳方を出た。
嵯峨様の私兵が三人、雪の周囲を離れずに歩いた。
京洛の街を、慎重に進んだ。
鴨川の河原に差し掛かった時。
橋の下の暗がりから、一人、黒装束の男が現れた。
刀を抜いた。
雪の息が止まった。
嵯峨様の私兵が、一斉に雪を庇った。
二人が黒装束に向かった。
もう一人が、雪を後ろに下げた。
刀が打ち合った。
激しい音。
一度、二度、三度、四度。
(──久世様の時より、激しい)
雪の指が震えた。
刃の音が途切れた。
一人の呻き声。
雪は振り返った。
黒装束が倒れていた。
嵯峨様の私兵二人も、怪我をしていた。
一人は腕を、もう一人は肩を。
しかし、立っていた。
「秋津様、お急ぎを」
傷ついた私兵の声。
「──ありがとうございます」
雪は駆けた。
九条家の門まで、一気に走った。
◇
九条家。
嵯峨様が、雪を待っていた。
桐生も既に着いていた。
久世もそこにいた。
雪の姿を見て、嵯峨様の顔が硬くなった。
「秋津、傷は」
「──ございません。私兵が守ってくださいました」
「しかし、二人怪我を」
「手配する」
嵯峨様は家臣を呼んで、指示を出した。
医者を手配させた。
そして、雪を奥の座敷に通した。
◇
座敷で、四人は向かい合った。
「秋津」
嵯峨様は、声を落とした。
「今夜から、九条家で預かる」
「叔父殿には、使いを出す」
「あと五日、叔父の家に戻るのは危険だ」
雪はしばらく沈黙した。
(──叔父さんに、心配をかけたくない)
(──しかし、叔父さんの家が襲われる可能性もある)
「──承知いたしました」
「叔父にも、奉行所の警備をお願いできれば」
「既に手配している」
嵯峨様の手配の速さ。
(──この方は、全てを予見して動かれている)
桐生が言った。
「梶山様は、書庫火災と襲撃を同日に仕掛けてきた」
「しかも、奉行所の私兵を倒すほどの手練の刺客」
「伊吹伯爵の手の者だろう」
(──伊吹伯爵)
(──梶山様の後ろにいる公家)
(──母の帳面にも、久世様の記録にも、名前だけ出てきた)
久世が頷いた。
「伊吹家は、公家の中で最も妖を憎んでいる一族」
「梶山の命令書に『殺を許容』と書かれていたのは、伊吹家の意向だろう」
嵯峨様が低く言った。
「あと、五日」
「我々は耐える」
「五日後、裁判で全てを訳し直す」
◇
夜、雪は九条家の一室で、辞典を開いた。
今日、辞典を開いたのは遅い時刻だった。
しかし、書き留めねばならなかった。
三百十六語目。
「火」
人語での意味:炎、燃えるもの。
妖語での意味:
第一層 ─ 炎そのもの、燃えるもの。
第二層 ─ 隠されていたものを焼き尽くす、消す力。
第三層 ─ 焼かれても、灰の中に残る芯。
特記:
今日、翻訳方の書庫が焼かれた。
梶山様の、反撃の第二手。
書庫の証拠は、失われた。
しかし、私たちは既に、写しを別の場所に移している。
「火」は消すものではあるが、「芯」を消せない。
母が書庫に残されていた訳文も、既に私の手元にある。
筆を下ろした。
問いを三つ、書き足した。
──一、山岡様は、どこにおられるか。ご無事か。
──二、梶山様と伊吹伯爵は、次に、どの反撃をされるか。
──三、焼け跡に、何か、残っていないか。明日確かめる。
◇
袖の奥の、飴玉の紙包みを取り出した。
(──母さん、今日、書庫が焼かれました)
(──あなたが、十二年前に訳されていた頁も、燃えました)
(──しかし、私の手元に写しがございます)
(──母さんの芯は、失われておりません)
雪は、飴玉を両手で包んだ。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
深夜、雪の襖の外で、小さな足音。
家臣の声。
「秋津様、嵯峨様がお呼びでございます」
雪は立ち上がった。
「──参ります」
◇
嵯峨様の私室。
嵯峨様は、行灯の淡い光の下で座していた。
茶がひとつ、既に机に置かれていた。
湯気はまだ、立っていた。
「秋津、こちらへ」
雪は向かいに座った。
「茶を飲め」
「──はい」
雪は湯呑みを両手で包んだ。
温かかった。
◇
嵯峨様はしばらく、雪を見ていた。
「秋津」
「──はい」
「今日は大変な日だった」
「──はい」
「書庫の火災、刺客の襲撃」
「そして、山岡の失踪」
「──はい」
嵯峨様は、少し息を吐いた。
「お前は今、十九歳だ」
「この重さを、一人で背負うことはない」
「──」
雪は答えられなかった。
嵯峨様は続けた。
「私も五年前、澪が消えた時、一人で背負おうとした」
「しかし、背負いきれなかった」
「十年、苦しんだ」
「──」
「お前は、私と同じ道を辿らなくていい」
「桐生、久世殿、そして私」
「分け合える」
雪の胸が、一瞬縮んだ。
(──嵯峨様は、五年間一人で苦しんでこられた)
(──そして、私に同じ苦しみを与えないように、と)
「──嵯峨様」
「うむ」
「ありがとうございます」
雪は深く、頭を下げた。
嵯峨様は、首を横に振った。
「頭を上げよ」
雪は顔を上げた。
嵯峨様の目は、行灯の光で淡く光っていた。
いつもの鋭さではなかった。
何か、柔らかい温度。
◇
嵯峨様は、懐から一枚の古い紙を取り出した。
「これを見せたい」
雪は、両手で受け取った。
子どもの字。
拙い、しかし一生懸命の筆跡。
七歳くらいの子どもの書いたもの。
「お兄様、澪は、お兄様の妹です。いつか、お兄様と、一緒に、訳を訳せる人に、なりたいです」
雪の息が止まった。
「澪様が七歳の時、書かれたのでございますか」
「ああ」
「私は訳官ではない。だから澪は、『お兄様が訳す仕事に就けば、私も一緒に訳せる』と、思っていたらしい」
嵯峨様は、微かに笑った。
「澪は今、二十歳」
「翻訳方の仕事を、知りたいと言っている」
「九条家の娘が訳官になることは難しい。しかし、何か違う形で、訳の仕事に関わらせてやりたい」
「──はい」
「秋津」
「──はい」
「澪に、訳の初歩を教えてやってくれないか」
「裁判が終わって、落ち着いたら」
雪の指が、袴の上で動いた。
(──澪様に、訳を教える)
(──母が、十二年前に、私に教えたように)
「──承知いたしました」
嵯峨様は頷いた。
「ありがとう」
そして、しばらく沈黙した。
◇
雪は、湯呑みを一口飲んだ。
温かい茶が、喉を通った。
「嵯峨様」
「うむ」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「うむ」
「嵯峨様は何故、翻訳方の訳文を独学で読めるようになられたのですか」
嵯峨様はしばらく、間を置いた。
「──澪が消えた翌日」
「私は翻訳方に行った」
「梶山に、訳を見せてもらった」
「楠の精が澪を喰った、と書かれていた」
「──はい」
「私は言われるまま、処分に同意した」
「楠の精は処分された」
「しかし私は、澪の亡骸を見ていない」
「──」
「三月経って、私は気がついた」
嵯峨様は、言い直した。
「──気がついた、ではなく、疑うようになった」
「『喰う』の妖語、第三層があるかもしれない、と」
雪の息が止まった。
(──嵯峨様は、独学で第三層を疑われた)
(──訳官でない、普通の奉行が)
「私は翻訳方に戻って、梶山に問い質した」
「梶山は『楠の精の件は正式に訳された』と答えた」
「しかし梶山の目が揺らいだ」
「私はそれから五年、独学で妖語を学んだ」
「──そして、第三層の「喰う」を学ばれた」
「ああ」
「楠の精は澪を喰ったのではなく、守ったのだと、分かった」
「しかし証拠がなかった」
「だから私は待った」
「──誰を、待たれたのですか」
嵯峨様は雪を見た。
「柊様の娘、だ」
雪の息が止まった。
(──嵯峨様は、五年、私を待っておられた)
(──母が「行かれた」時から、私が訳官になる日を)
「秋津」
「──はい」
「五年、待った甲斐があった」
雪の頬が、熱くなった。
しかし涙は流さなかった。
ただ頭を、深く下げた。
「──ありがとうございます」
◇
嵯峨様は立ち上がった。
「夜も遅い。休め」
「明日、書庫の焼け跡を確かめに行く」
「──はい」
雪は、自分の部屋に戻った。
◇
部屋で、雪はしばらく天井を見ていた。
行灯の淡い光。
畳の新しい香り。
九条家の夜の静けさ。
袖の奥の飴玉を、触った。
その隣の独楽。
そして今日から、もう一つ増えたもの。
嵯峨様から頂いた、澪様の七歳の字の写し。
(──母さん)
(──嵯峨様は私を、五年お待ちくださっていた)
(──あなたが残してくださった遺志)
(──そして、嵯峨様が五年待ってくださった期待)
(──二つを同時に、訳し終えます)
◇
翌朝、焼け跡。
雪と桐生、久世、嵯峨様の四人で、書庫の残骸を調べた。
黒こげの柱。
崩れた瓦。
灰の山。
しかし灰の中に一つ、白い紙の切れ端が残っていた。
雪はそれを拾った。
「──何か、書かれている」
紙は半分焼けていたが、字の一部が読めた。
「山岡、巻物、秋津、渡す」
雪の指が止まった。
(──誰かが、今回の火災の前に、この紙を書庫に残した)
(──「山岡が、巻物を秋津に渡した」という情報を、梶山様側に知らせた者がいる)
(──しかし、紙が焼け残った)
桐生の目が細まった。
「誰かが告げ口をした」
「山岡が、夜中に秋津に巻物を渡したことを」
「梶山様に」
「──誰が」
久世が静かに言った。
「翻訳方の誰か、だろう」
「見張っていた者がおる」
嵯峨様が深く頷いた。
「秋津の机を調べさせた、連中だ」
「秋津を夜中に追っていた、可能性が高い」
「山岡を拉致した可能性も」
(──山岡様の失踪は、私の見張りからバレた結果)
(──私が気をつけていれば)
雪の胸が冷たくなった。
◇
桐生が、雪の肩に手を置いた。
「秋津、お前の責任ではない」
「梶山様が、お前を見張ることは当然だった」
「──はい」
「そして」
桐生は、燃えた書庫を見た。
「この火災が告げているのは、梶山様がもはや手段を選ばない、ということ」
「残り五日、全員慎重に動く」
◇
その時、焼け跡の外から、一人の役人が、走ってきた。
桐生の、家の、使いだった。
「桐生様、丹波から、急ぎのお知らせが」
桐生は、使いを、近くに呼んだ。
低い声で、話を聞いた。
顔色が、変わった。
「──秋津」
「──はい」
「丹波の北の山で、巻物を持った男が目撃された」
「白狐一族様が、生きておられる、あの山だ」
「男の、風貌は、山岡」
雪の息が、止まった。
(──山岡様は、丹波におられる)
(──拉致されたのか、自ら逃げたのか)
(──しかし、生きておられる可能性が、高い)
嵯峨様が、低く言った。
「秋津、明日、丹波へ、行ってもらう必要があるかもしれん」
「ただし、裁判まで、あと五日」
「お前が、京洛を離れるのは、危険が大きい」
「桐生と久世殿が、先に、確認に行く」
雪は頷いた。
「──承知いたしました」
「私は、京洛で、裁判の準備を」
◇
夜、九条家の一室で、雪は辞典を開いた。
新しい語は、まだ書かなかった。
「火」の頁を、もう一度、読み返した。
「焼かれても、灰の中に残る芯」
(──書庫は焼かれた)
(──しかし、芯は残った)
(──母の遺志、久世様の記録、山岡様の巻物)
(──そして、嵯峨様の五年の待つ心)
雪は辞典を閉じた。
◇
袖の奥の、飴玉の紙包みを取り出した。
飴玉、独楽、そして澪様の七歳の字の写し。
袖の奥が、だんだん重くなっていく。
(──母さん、今日、嵯峨様と、深いお話をいたしました)
(──嵯峨様は、私を、五年、お待ちくださっていました)
雪は、飴玉を両手で包んだ。
舐めなかった。
紙包みを、袖の奥に戻した。
◇
深夜、雪はまだ眠れずに、庭の梅の木を見ていた。
九条家の若葉の梅の木。
(──明日、桐生様と久世様が丹波へ向かう)
(──山岡様を、救出できるか)
(──白狐一族様に、お会いできるか)
雪の指先が、袴の上で動いた。
(──保留された、問いが多い)
(──しかし、一つずつ訳し直していく)
月が雲に隠れた。
九条家の庭は、闇に沈んだ。
袖の奥の飴玉が、微かに揺れた。




