第十六話
わたしは、そっとクマさんの部屋を出た。
どこへ向かうのかも決めないまま、ただ廊下を歩いていた。
足音だけが、静かな図書館に小さく響いている。
エバやクマさんが、後ろで何かを話していた気がする。
けれど、何も耳に入ってこなかった。
頭の中に残っていたのは、たった一つの言葉だけだった。
魔女。
その言葉が浮かぶたび、夢で見た少年の顔が脳裏をよぎる。
あの時。
少年は、歪んだ顔でこちらを見ていた。
混乱。
恐怖。
それとも、憎悪だったのだろうか。
分からない。
でも、その表情だけは忘れられなかった。
わたしは人間ではないのかもしれない。
そう思えば思うほど、自分自身が怖くなっていく。
わたしはただ、守りたかっただけだった。
やっとできた相棒を。
わたしに名前をくれたエバを。
居場所をくれた人たちを。
この街で出会った、たくさんの温かいものを。
それなのに、世界はあまりにも簡単に、わたしを魔女にした。
これから、どう生きればいいのだろう。
わたしは何を信じればいいのだろう。
分からなかった。
気づけば、わたしは海岸まで来ていた。
白書の湾岸に作られた小さな砂浜。
子供たちが、波打ち際を走っている。
笑い声が、潮風に乗って聞こえてきた。
わたしはその姿を横目に、近くのベンチへ腰を下ろす。
海の向こうには、富士山が見えていた。
夕日が少しずつ沈んでいく。
海面が赤く染まり、波がゆっくり光を砕いている。
また夜が来る。
静かで。
冷たくて。
ひとりぼっちの夜が。
「何してんねん」
ふと、横から声がした。
独特な訛り。
嫌みったらしい喋り方。
それなのに、聞くだけで少しだけ安心してしまう声。
律だった。
いつの間にか、律はわたしの隣に腰を下ろしていた。
「近寄らないで!」
わたしは反射的に立ち上がり、ベンチから距離を取る。
自分でも驚くほど、大きな声だった。
それでも律は怒ることはなく、ゆっくり立ち上がった。
「聞いたで」
律は、いつもより静かに言う。
「魔女なんやってな」
その言葉が、胸の奥へ深く刺さる。
律の口から聞くと、余計に苦しかった。
彼だけには、そう呼ばれたくなかった。
「でも、それがなんや」
「…でも、わたしは」
言葉が続かない。
わたしはそっと俯いた。
もし、嫌われたら。
もし、怖がられたら。
もし、律までわたしから離れていったら。
そう考えるだけで、喉が詰まった。
「アルちゃんは、その力で人を殺したいんか?」
「違う!」
わたしは強く否定した。
声が震えていた。
「なら、世界征服でもするんか?」
「そんなこと、しない」
「わたしは…わたしはただ」
みんなと一緒にいたい。
そう言いたかった。
けれど、その言葉が出てこなかった。
口にした瞬間、壊れてしまいそうで怖かった。
律は少しだけ息を吐く。
そして、困ったように笑った。
「なら、ええやんか」
「…え?」
「アルちゃんは、アルちゃんや」
「魔女やろうが、人間やろうが、白紙の書がどうとか言われようが」
「ワイにとっては、アルちゃんはアルちゃんや」
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
「それに」
律は、わざと軽い調子で肩をすくめる。
「あの時、ワイらを助けてくれたんはアルちゃんや」
「じゃなきゃ、ワイら今頃、お陀仏やで」
「…でも」
「でもやない」
律の声が少しだけ強くなった。
「怖いんは分かる」
「自分が何者か分からんのも、嫌やと思う」
「でもな」
律は、真っ直ぐわたしを見た。
その目は、いつもの細くて掴みどころのない目ではなかった。
ちゃんと、わたしを見ていた。
「何者か分からんからって、今までの全部が嘘になるわけやない」
「エバさんにもらった名前も」
「ワイと組んだことも」
「全部、ちゃんとアルちゃんのもんや」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で張り詰めていたものが、ぷつんと切れた。
涙が溢れた。
一度流れ始めると、止まらなかった。
次から次へと、頬を伝って落ちていく。
泣きたくなんてなかった。
弱く見られたくなかった。
それでも、もう無理だった。
「…怖い」
小さく声が漏れた。
「わたしが、わたしじゃなくなるみたいで」
「怖い」
律は何も言わなかった。
ただ、そっと隣に立つ。
そして、わたしの肩へ軽く手を置いた。
その手は、エバほど大きくはない。
クマさんほど冷たくもない。
でも、とても温かかった。
「大丈夫や」
律は静かに言う。
「分からんことは、一緒に調べたらええ」
「怖いもんは、一緒に怖がったらええ」
「逃げたくなったら、ワイが抱えて逃げたる」
「だから」
律は少しだけ笑った。
「勝手にひとりになるなや、相棒」
相棒。
その言葉が、胸の奥へゆっくり染み込んでいく。
魔女。
白紙の書。
世界を定義する言葉。
分からないことは、まだ山ほどある。
怖いものも、消えてはいない。
それでも。
わたしは一人ではなかった。
そのことだけは、確かだった。
やがて、夕日が海の向こうへ沈んでいく。
白書の街に、少しずつ夜の灯りがともり始める。
わたしは涙を拭いながら、小さく頷いた。
「…うん」
その後、わたしは律に支えられながら、図書館へ戻っていった。
海風は冷たかった。
けれど、さっきほど寂しくはなかった。
遠く離れた高台から、二人の背中を見つめる影があった。
黒いドレスの裾が、夜風に揺れている。
その少女は、沈みきった夕日の方を見ることもなく、ただアルの消えた道を見つめていた。
白く細い指先が、宙に浮かぶ小さな文字へ触れる。
文字は淡く震え、やがて一つの言葉を形作った。
――種。
少女は、ほんのわずかに口元を緩める。
「見つけた」
その声は、夜風に溶けるほど小さかった。
「種」
白書の街に、夜が落ちる。
その闇の中で、少女の瞳だけが静かに光っていた。




