第十五話
律と再会したあと、わたしは医者と看護師に見つかり、死ぬほど怒られた。
その後、わたしは半ば強制的にベッドへ戻され、しばらくの間は救急室から出ることも許されなかった。
一週間ほどの療養。
簡単なリハビリ。
毎日出される薄味の食事。
薬品の匂いが染みついた白い部屋。
外へ出られない時間は、思っていたより長かった。
その間、わたしは何度もあの時のことを思い出していた。
黒いドレスの少女。
ランク紫。
白い光。
そして、わたしの掌へ収まった書。
思い出そうとすると、頭の奥がちくりと痛む。
何か大事なものが、記憶の底へ沈んでいる気がする。
でも、手を伸ばそうとすると、すぐに輪郭が崩れてしまう。
そして今日。
やっと自由に歩く許可が出た。
その日の午後だった。
「療養明けですみませんが、館長がお呼びです」
受付嬢が、いつもの無表情でわたしを迎えに来た。
何の話をするのかは分かっている。
だからこそ、足取りは重かった。
廊下を歩く。
白い壁。
静かな空気。
遠くで誰かがページをめくる音。
いつもなら落ち着くはずの図書館の匂いが、今は少し苦しかった。
いくらゆっくり歩いても、目的地は近づいてくる。
気づけば、クマさんの部屋の前に立っていた。
扉が重々しく開いていく。
「おー、やっと来たか」
中にいたのは、けらけら笑う律だった。
右脇腹にはまだ包帯が巻かれている。
顔色も完全には戻っていない。
それでも、いつものように軽い笑みを浮かべていた。
その姿を見て、少しだけ胸が軽くなる。
「療養明けなのに、申し訳ない」
奥の机に座っていたクマさんが、重々しく頭を下げた。
いつもの穏やかな顔ではなかった。
眉間には深い皺が刻まれ、机の上には何枚もの報告書が積まれている。
わたしが椅子へ座ると、クマさんは大きく息を吐いた。
そして、こちらをまっすぐ見つめる。
「まず、よく生き残ってくれた」
「…はい」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮む。
わたしも、律も、クマさんも生き残った。
でも。
「でも、自分の計画のせいで、警察の方々が…」
言葉が喉で詰まる。
あの時、警察官たちは地面に倒れていた。
身体は干からび、喉には穴が空いていた。
どう見ても、生きているようには見えなかった。
あれは、わたしが立てた作戦だった。
わたしが、ランク紫を餌にしようと言った。
その結果、彼らは――。
「そのことだが」
クマさんが静かに口を開く。
「今回の死者は、ゼロだ」
「…え?」
わたしも律も、同時に固まった。
あの状況から、どうすれば生き残れるというのだろう。
わたしが見た警官たちは、確かに倒れていた。
人間の形をした抜け殻みたいに。
「生き残った…というより、生き返ったと言うべきかもしれない。」
クマさんは報告書へ視線を落とす。
「だが、全員集中治療室にいる」
「意識は戻っていない者も多いが、容体は安定している」
力が抜けた。
知らないうちに、握りしめていた手が震えていた。
死んでいない。
誰も、死ななかった。
「まぁ、誰も死ななかったんならよかったやん」
律がわたしの肩を軽く叩いた。
その手つきは乱暴だったけれど、妙に優しかった。
たぶん、思いつめているわたしを励ましてくれているのだろう。
「それと、ランク紫の書だが」
クマさんは話を続ける。
「無事回収できた」
「さらに言えば、書は安定している」
「今は誰が触れても反応を起こさない」
「当面の危険性は、かなり低下したと見ていい」
沈黙が流れた。
理由は分かっている。
ランク紫に変化が起きた原因があるとすれば、それはわたしだ。
あの時、なぜ書がわたしに反応したのか。
なぜケースを破って、わたしの掌へ収まったのか。
なぜ、あんな光が起きたのか。
何一つ分からない。
「なら、これで万々歳やな」
律がわざと明るい声を出し、椅子から立ち上がろうとする。
「座れ」
クマさんの声が、部屋の空気をさらに重くした。
「本当は、こんな聞き方をしたくないが」
「館長としてまだ、本題が残っている」
体が強張る。
息が苦しくなる。
律が小さく舌打ちし、クマさんを睨みつけた。
けれど、クマさんは視線を逸らさない。
「アル」
「お前が魔女を追い払った、あの光はなんだ」
脈が速くなっていく。
わたしは下を向いた。
膝の上に置いていた両手には、汗が滲んでいる。
答えたい。
でも、答えられない。
わたし自身が、何も知らないから。
「なぜ、書が君に反応した」
クマさんの声はさらに低くなっている。
「君は、何者だ」
その言葉が胸に刺さった。
何者。
ずっと分からなかったこと。
わたしが一番知りたかったこと。
でも、他人の口から言われると、こんなにも苦しい。
バンッ――。
クマさんの言葉を遮るように、律が机を蹴った。
重い机が大きく軋み、上に置かれていた書類が崩れる。
「クマさん」
律の声から、いつもの軽さが消えていた。
「あんた、まさかアルを潰す気か?」
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
クマさんの眉が、わずかに動いた。
「それは、彼女の回答次第だ」
「もしアルに手ぇ出すんなら」
律はゆっくり腰の刀へ手を伸ばす。
「俺は、あんたの敵になるで」
「ふ」
クマさんが低く笑った。
その目が、鋭く細められる。
「できるものならやってみろ、小童」
二人の手が、同時に武器へ掛かった。
次の瞬間。
部屋の扉が、爆音とともに吹き飛んだ。
「あんたら、一旦やめな」
聞き慣れた声。
大きくて、温かい声。
何が起きたのか理解するより早く、律とクマさんの身体が床へ沈んでいた。
床に押さえつけられた二人の間に、ひとりの女性が立っている。
右目に走る大きな傷痕。
体格の良い身体。
乱暴なのに、どこか安心する立ち姿。
「…エバ」
声が漏れた。
「エバ!」
「おー、アル。元気にしてたか?」
エバはいつもの調子で笑った。
その顔を見た瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に溢れそうになる。
わたしは椅子から立ち上がり、エバへ飛びついた。
エバは少しだけ驚いたように目を丸くしたあと、大きな手でわたしの頭を撫でてくれる。
その手は、やっぱり温かかった。
「話せよ、ババア!」
律がエバの手を振りほどきながら叫ぶ。
床へ押さえつけられていたはずなのに、なおも噛みつくように睨んでいる。
「ッチ。興が覚めたわ」
律は乱暴に立ち上がると、刀から手を離した。
そのまま部屋を出ようとする。
「ありがとよ、律」
エバがすれ違いざま、小さく呟いた。
その声は、とても小さかった。
でも、確かに聞こえた気がした。
律は返事をしなかった。
ただ、少しだけ歩みを止めたあと、何も言わず部屋を出ていった。
「いてててて…姉貴、そろそろ離して…」
床に押さえられたままのクマさんが、情けない声を出す。
「お前は、少し調子に乗りすぎだ」
エバは冷たく言うと、ようやく手を離した。
クマさんはゆっくり起き上がり、乱れたスーツを整える。
「いや、さすがに上層部も黙ってませんよ?」
「あたしがあとで会ってくるから大丈夫だ」
「こ、殺さないでくださいよ...」
クマさんは少し引いた顔で、エバから距離を取った。
そのやり取りを見ていると、少しだけいつもの空気が戻った気がした。
だけど、問題は何も解決していない。
エバはわたしの方へ向き直る。
「アル」
「大丈夫だ」
「何があっても、守ってやる」
やっぱり、エバはすごい。
強くて。
優しくて。
わたしが何者でも、受け止めてくれる気がした。
でも。
「いやだ」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。
エバが目を細める。
クマさんも、こちらを見る。
「私が何者なのか、教えてほしい」
逃げたくなかった。
知らないまま守られるのは、もう嫌だった。
わたしは、律を守りたい。
エバの隣で、ただ震えているだけの子供ではいたくない。
「わたしは、知りたい」
まっすぐエバを見つめる。
「もう、知らないまま守られるのはいや」
部屋が静まり返った。
エバはしばらく黙っていた。
わたしを見つめるその目は、いつもの乱暴な優しさとは少し違っていた。
何かを測るような。
それでいて、どこか寂しそうな目だった。
やがて、エバは大きく息を吐く。
「…はぁ」
諦めたような。
そんなため息だった。
「分かった」
エバはゆっくり椅子へ腰を下ろした。
クマさんも黙って、少しだけ姿勢を正す。
部屋の空気が変わった。
「そこまで言うなら、話してやる」
エバはわたしを見る。
今まで見たことがないほど、真剣な眼差しだった。
「ただ、前提からだ」
「NOTEとは何か」
「ランク紫の書とは何か」
「この二つを知らないまま話しても、あんたは何も理解できない」
確かに、わたしたちはあまりにも知らなさすぎた。
わたし達がNOTEに配属されたこと。
わたし達専用の部屋を与えられたこと。
自由に捜査することを許されていること。
知っていることはそれだけだった。
自分たちが何と戦っているのか。
何を調べているのか。
そもそも、なぜ選ばれたのか。
わたしは何一つ知らないまま、ただ目の前の事件に巻き込まれていた。
「まずNOTEについてだ」
エバは低い声で話し始める。
「NOTEは、人間にとって未知の領域を扱う部署だ」
「簡単に言えば、科学では証明できない事象を捜査する少数精鋭のチームだな」
「未知の領域…」
わたしは小さく呟く。
思い当たるものは、いくつもあった。
淡く白い光。
宙に浮かぶ文字。
触れただけで爆発した書。
人を干からびさせる黒いドレスの少女。
そして。
わたしの掌へ収まった、ランク紫の書。
あれは、明らかに人の理解を超えていた。
わたしたちは、これからそんな存在を相手にしなければならない。
その事実が、今さらのように身体へ重くのしかかってきた。
安易に引き受けた。
そう思った。
あの時は、ただ知りたかった。
自分が何者なのか。
光の正体は何なのか。
でも、それは律を巻き込むことでもあった。
わたしが選んだことで、律はまた傷つくかもしれない。
そう思うと、胸の奥が冷えていく。
「…どうして」
わたしは、自然と口を開いていた。
「どうして、そんなものを調べているんですか」
エバがこちらを見る。
「だって、あんなものと戦うなら」
「警察じゃなくて、軍隊とか、もっと大きな力じゃないと…」
黒いドレスの少女を思い出す。
クマさんを倒し、律を一撃で沈めた存在。
あれを相手に、わたしたちが何をできるのだろうか。
エバは少しだけ目を伏せた。
「それができないから、NOTEがある」
「できない?」
「この国には、軍隊が存在しない」
わたしは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「公安都市白書を作る時、日本は世界中から書物とデータを集めた」
「歴史、科学、宗教、軍事、思想、魔術と呼ばれた記録」
「あらゆる情報を、この街へ集約した」
エバは窓の外へ視線を向ける。
白書大図書館の巨大な影が、遠くまで伸びている。
「あまりにも大きな情報の器だ」
「他国が黙って許すはずがない」
「そこで当時の連中は、白書を中立都市として成立させる代わりに、武力を大きく制限した」
「軍を持たない」
「情報を守る代わりに、剣を捨てたわけだ」
エバの声には、少しだけ苦さが混ざっていた。
「だが、白書ができて数年後」
「最初の魔女事件が起きた」
魔女。
その言葉を聞いた瞬間、身体の奥が小さく震える。
「当然、通常の警察では手に負えなかった」
エバは静かに続ける。
「だから作られた」
「魔女に関わる事件を調べ、記録し、必要なら止めるための部隊」
「それがNOTEだ」
部屋が静まり返った。
ただの部署ではなかった。
白書の裏側。
人間が理解できないものを、人間の側へ繋ぎ止めるための場所。
わたしたちは、そんな場所へ足を踏み入れていた。
「…でも」
わたしは膝の上で手を握りしめた。
「なぜ、わたしたちなんですか」
エバは小さく笑った。
その笑みは、いつものように豪快ではなかった。
「なぜ選ばれたのか」
「あんたが今そう考えてるのは分かる」
「ただ、それは後だ」
「その前に、もう一つ話しておくことがある」
エバの声が少し低くなる。
「ランク紫についてだ」
わたしは息を呑む。
あの書。
わたしの掌へ収まり、大きな光を放った書。
「この世には、ランク紫に分類される書物が十三冊ある」
「十三冊…」
「そのうち五冊が、この白書の地下に保管されている」
「一冊は、この前燃えたんじゃ…」
わたしが呟くと、エバは呆れたように鼻で笑った。
「あんなもんで壊れるなら、禁書なんて呼ばれてない」
禁書。
その言葉が、部屋に重く落ちた。
「ランク紫の正式名称は、禁書」
「十二冊は、それぞれ世界を定義する根源語を宿している」
世界を定義する言葉。
その響きだけで、胸の奥が冷たくなる。
「名前、記憶、死、記録、世界…そういう、人の存在や世界の在り方そのものに関わる言葉だ」
エバはそこで、わたしを見た。
「だが十三冊目だけは違う」
「何も定義されていない」
「余白の書」
「白紙の書だ」
白紙。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がちくりと痛んだ。
真っ白なページ。
何も書かれていない頁。
そこに、文字が浮かび上がっていく光景。
あの時の記憶が、断片のように蘇る。
「…わたしが開いたのは」
声が震えた。
エバは静かに頷く。
「あんたが開いたのは、十三冊目」
「白紙の書だ」
胸の奥がざわつく。
怖い。
なのに、どこか懐かしい。
まるで、その名前を昔から知っていたみたいに。
「禁書には、不思議な力がある」
「ただし、誰でも使えるわけじゃない」
「適性のない人間が触れれば、この前の警察官のように拒絶反応を起こす」
「爆発、昏睡、記憶障害、場合によっては死ぬ」
「だから調査は一向に進まない」
エバは小さく息を吐く。
「だが、この世には禁書に適合する人間が一定数いる」
「適合者は、禁書に宿る根源語を使って、世界へ命令できる」
「命令…」
「ああ」
「それが、魔法だ」
魔法。
その言葉は思っていたより静かに聞こえた。
物語の中の夢みたいな言葉ではなかった。
もっと冷たくて。
もっと危険なものに感じた。
「魔法は奇跡じゃない」
エバは言った。
「言葉の意味を、世界に押しつける行為だ」
「水を凍らせる」
「傷を塞ぐ」
「人の記憶を奪う」
「名前を消す」
「それら全部、世界にあってはならない行為だ」
わたしは何も言えなかった。
喉が乾く。
指先が冷たくなっていく。
「そして、その命令には代償がいる」
「代償…」
「体力、記憶、声、寿命、感情」
「何を奪われるかは、禁書と使い手によって違う」
黒いドレスの少女の姿が頭をよぎる。
冷たい目。
感情のない声。
あの子は、何を代償にしていたのだろう。
「私たちは、禁書の適合者を中世の歴史になぞらえて、魔女と呼んでいる」
エバの言葉が、ゆっくり部屋へ落ちていく。
魔女。
その言葉に、身体が反応する。
胸が苦しくなり、指先が震える。
「そして…」
そこで、エバの言葉が詰まった。
珍しく、迷っているように見えた。
クマさんの視線も揺れている。
部屋の空気が、また重くなる。
わたしは、逃げ出したくなった。
でも、目を逸らさなかった。
ここまで聞いたのは、わたしだ。
知らないまま守られるのは嫌だと言ったのも、わたしだ。
だから。
最後まで聞かなければならない。
「アル」
エバが静かにわたしの名前を呼ぶ。
「あんたは、白書の魔女だ」
その後、エバやクマさんが何か言っていたが頭には何も入ってこなかった。




