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第十四話

炎が燃え盛っている。

 赤く、黒く、音を立てて。

 崩れかけた木材がぱちぱちと弾ける。

 何かが燃えている。

 家なのか。

 服なのか。

 それとも、人なのか。

 分からない。

 ただ、視界のすべてが赤かった。

「や、やめてくれ!」

 炎の向こうで、男がこちらを見ていた。

 顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになっている。

 目だけが異様に大きく開かれ、そこにははっきりと恐怖が浮かんでいた。

 男は尻餅をついたまま、必死に後ずさる。

 焦げた床を爪で掻きながら、少しでもこちらから離れようとしていた。

「お前の欲しいものなら何でもやる!」

「金も、土地も、人も、全部やる!」

「だから、命だけは――!」

「欲しいものなんてない」

 冷たい声だった。

 その声はわたしだった。

 ただ、喋っているのは私ではない。

 その声を聞いた瞬間、男の表情が絶望へ変わった。

「クソ…!」

 男は顔を歪める。

「この化け物!」

「魔女!」

 その言葉が聞こえた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。

 魔女。

 その言葉だけが、炎の音よりもはっきり響く。

 次の瞬間。

 白い閃光が走った。

 音はなかった。

 ただ、男の首元へ細い光が吸い込まれるように伸びていく。

 男の言葉が途切れた。

 喉から赤い液体が流れ落ちていく。

 そして、男はゆっくりと倒れた。

 炎の中に、重たい身体が崩れる音だけが響く。

 静寂が流れる。

 ただそれは一瞬だった。

「殺してやる…!」

 男の影のそばから、小さな声がした。

 振り向くとそこにいたのは、男の子だった。

 まだ幼い。

 震える手で包丁を握りしめている。

 頬は煤で汚れ、目元には涙の跡が残っていた。

 それでも、その目だけは真っ直ぐこちらを睨んでいる。

「お前がいなければ…」

「お前がいなければ、僕の家族は!」

 男の子の声は震えていた。

 恐怖で。

 怒りで。

 悲しみで。

 細い腕に力を込め、包丁を握り直す。

「わぁぁぁぁぁぁ!」

 男の子が走り出した。

 裸足の足が、燃えた床を叩く。

「死ね!」

「死ね死ね死ね死ね!」

 まっすぐに。

 泣きながら。

 それでも、こちらへ向かってくる。

 男の子の首に光が集まり始めた。

 早く逃げてと言わないと。

 彼を守らないと。

 体に力を入れようとする。

 ただ、身体は動かない。

 わたしの意思とは関係なく、白い光がまた集まっていく。

 やめて。

 やめて。

 やめて。

 心の中で叫んだ。

 けれど、その声はどこにも届かなかった。

 閃光が男の子を焼いた。

「ヒュー…」

 男の子が、喉の奥から細い息を漏らす。

 小さな身体が傾く。

 だけど。

 倒れなかった。

 男の子は、焼け焦げた腕を震わせながら、なおも一歩前へ出た。

 目はまだ死んでいない。

 涙で濡れた瞳が、こちらを睨んでいた。

 そして次の瞬間。

 わたしの右脇腹に、冷たいものが突き刺さった。

「っ…!」

 包丁だった。

 痛い。

 熱い。

 苦しい。

 初めて、身体の感覚が鮮明になる。

 燃える空気。

 血の匂い。

 刺さった刃の冷たさ。

 男の子の荒い息。

 全部が、一気に現実になった。

 わたしは、自分の手を見る。

 小さな手だった。

 白く、震えている。

 ただその手は、赤く濡れていた。

 これは。

 わたしの血?

 それとも。

 誰かの――。

「っは…!」

 目を覚ますと、そこはベッドの上だった。

 白い天井。

 薬品の匂い。

 耳元で鳴る機械の音。

 全身に汗が張りついている。

 息がうまく吸えなかった。

「アルさん!」

 わたしが目を覚ましたのと同時に、そばにいた看護師が目を見開く。

 そしてすぐに部屋の外へ走り出していった。

 わたしは荒い息を吐きながら、辺りを見渡す。

 白いカーテン。

 簡素な机。

 薬品棚。

 ここがどこかすぐに分かった。

 図書館の裏門近くにある救急室だ。

 わたしは生きている。

 でも。

「そうだ…」

 血の気が引いていく。

「律は……!」

「クマさんは!」

 わたしはベッドから飛び起きた。

 身体中が痛む。

 足に力が入らず、床へ片膝をつく。

 それでも止まれなかった。

 光に包まれた後の記憶がない。

 あの後、何が起きたのか分からない。

 律は右腹を抉られていた。

 クマさんも傷だらけで倒れかけていた。

 すぐに助けないといけないほど、特に律の傷は深かった。

「律!」

 わたしは壁に手をつきながら廊下へ出る。

「律!」

 叫ぶ。

 返事はない。

「律!」

 足がもつれ、何度も転びかける。

 膝が床にぶつかる。

 痛い。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 廊下の突き当たり。

 クマさんの部屋の方から、話し声が聞こえた。

「ご無事で何よりでしたよ、館長」

 受付嬢の声だった。

「あぁ。あの時は、さすがに死んだと思ったよ」

 クマさんの声。

 生きている。

 クマさんが、生きている。

 胸の奥に、少しだけ温かいものが戻る。

 わたしは急いで部屋へ向かおうとした。

 でも。

 扉の前まで来た時、次の言葉が耳に入った。

「それで、生き残ったのは?」

「それが――」

 受付嬢の声が、気まずさを帯びている。

 足が止まった。

 頭の中に、最悪の光景が浮かぶ。

 生き残ったのは、わたしとクマさんだけ。

 律は。

 あのまま。

 そんな言葉を聞きたくなかった。

 わたしは扉を開けることもできず、廊下を走り出した。

「律!」

 叫ぶ。

「律!」

 何度呼んでも、返事はない。

「律!」

 声が掠れていく。

 涙で視界が滲む。

 廊下が歪んで見える。

 わたしは足から崩れ落ちた。

 律に、何度も守ってもらった。

 路地裏でも。

 港でも。

 わたしが動けなかった時、いつも前に立ってくれた。

 なのに。

 わたしは助けられなかった。

 守りたいと思ったのに。

 結局、何も――。

「なんや」

 聞き慣れた声がした。

「お前、びっしょびしょやないか」

 特徴的な訛り。

 軽い笑い声。

 信じられなくて、わたしはゆっくり顔を上げる。

 涙で視界が滲んでいるせいで、顔はよく見えなかった。

 けれど。

 そこに立っていたのは、紛れもなく律だった。

 顔色は悪い。

 右脇腹には分厚い包帯が巻かれている。

 それでも、律は生きていた。

「…律」

 声が震える。

 次の瞬間、わたしは立ち上がり、律へ向かって駆け出していた。

 そのまま抱きつこうとする。

「うわっ、ちょ、待て待て待て!」

 律が慌てて両手を前に出す。

「やめろ!汗びっしょびしょの状態で近づくな!」

 全力で避けようとしている。

 いつもの調子だった。

 いつもの、うるさい律だった。

 わたしはそれだけで、また涙が溢れそうになる。

「…生きてる」

「勝手に殺すなや」

 律は少し照れくさそうに目を逸らした。

 だけど、その目は優しかった。

 それでいて、静かで温かかった。

「お疲れ様」

 その一言で、張りつめていたものが切れた。

 わたしは小さく頷く。

 言葉は出なかった。

 ただ、数秒間。

 律がそこにいることだけを、噛みしめていた。


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