第十三話
「……っ!」
腹部から血が止まらない。
焼けるような痛みが、呼吸のたびに身体の奥を抉っていく。
大熊衛は、片膝をつきながら、それでも目の前の少女から視線を外さなかった。
見た目だけなら、どこにでもいる少女だった。
年齢は、十五にも満たないだろう。
黒いドレス。
細い手足。
陶器のように白い肌。
整った顔立ちは、むしろ人形のように愛らしい。
だが、その目だけが違った。
冷たい。
感情がない。
怒りも、悲しみも、喜びもない。
ただ目の前にあるものを処理する機械のように、大熊を見下ろしていた。
「まさか、こんなところで魔女とお会いすることができるとは光栄だよ」
大熊は、口元に血を滲ませながら笑う。
強がりだった。
すでに周囲の警官たちは倒れている。
いや、倒れているという表現では足りない。
干からびていた。
身体中の水分を抜き取られたみたいに、皮膚は萎み、制服だけが不自然に膨らんでいる。
喉には小さな穴が空いていた。
銃痕ではない。
「あいつら、ちゃんと逃げ切れたか…」
脳裏に浮かぶのは、細目のうるさい弟子。
そして、いつも不安そうにしている白い少女。
プランBを発令してから、すでに三十分近くが経過している。
律の速度なら、もう湾岸エリアは抜けているはずだ。
ランク紫も、地下ケースへ戻せているかもしれない。
そうであってくれ。
大熊は、そう願った。
「何を独り言を言っている」
少女が口を開く。
声は凛としていた。
だが、そこに温度はない。
「ランク紫はどこにある」
「…ふ」
大熊は、思わず笑った。
腹の傷が痛む。
それでも笑った。
「もう、ここにはねぇよ」
少女の瞳がわずかに細くなる。
「なら、貴様も用済みだ」
少女が右手を上げた。
その瞬間、空気が変わる。
周囲に散っていた紙片が、ゆっくりと宙へ浮かび上がる。
少女の唇が動いた。
演唱。
彼女の口から発せられるのは、確かに日本語のはずだった。
音としては理解できる。
単語も聞き取れる。
なのに、意味が頭に入ってこない。
まるで、言葉そのものがこちらの理解を拒んでいるみたいだった。
少女の掌へ光が集まっていく。
淡い白。
その光の周囲を、文字が取り囲んでいく。
文字列は規則正しく並び、輪を作り、やがて一つの文のように形を成していった。
大熊は歯を食いしばる。
まずい。
あれを受ければ、終わる。
分かっているのに、身体が動かない。
血を流しすぎた。
視界が揺れる。
「姉貴…」
大熊は、小さく呟いた。
「こんなのが来るなら、先に言ってくださいよ」
その時だった。
「クマさん!!」
聞き慣れた訛り声が、港に響いた。
大熊の心臓が、嫌な音を立てた。
なぜ。
なぜ戻ってきた。
「どうして戻ってきた!」
傷だらけの喉を開き、全力で叫ぶ。
腹から血が溢れる。
それでも叫ばずにはいられなかった。
「お前たちの勝てる相手じゃない!」
逃げてほしい。
今ならまだ間に合う。
時間なら、自分が作る。
それが師匠として、大人として、できる最後の役目だと思った。
「逃げてくれ…」
祈るように言った。
けれど。
「そんなアホなことするかいな!」
律の声が、その祈りを真正面から叩き落とした。
クマさんの視界に、律とアルの姿が映る。
律はアルを抱えたまま、こちらへ向かって走ってくる。
その顔には、恐怖があった。
焦りもあった。
それでも、逃げるつもりだけはなかった。
「ワイらが来たからには、もう大丈夫やで!」
馬鹿弟子は、にこやかに笑っていた。
大熊は、泣きたくなるほど腹が立った。
クマさんと合流したとき、辺りは地獄になっていた。
警察官たちは地面に倒れている。
誰も動かない。
全員、身体が萎びていた。
そして、その中心にクマさんがいた。
片膝をつき、腹部を押さえている。
指の隙間から血が零れていた。
あのクマさんが。
律を一瞬で壁に叩きつけた、あの人が。
今にも倒れそうになっている。
それだけで、目の前の少女がどれほど異常なのか分かった。
「あんたが、クマさんをやったんか」
律が低く問う。
視線の先には、黒いドレスの少女。
まだ十五にも満たないように見える。
けれど、その場にいる誰よりも人間らしくなかった。
少女はゆっくりこちらを向く。
「うるさい」
たった一言。
その瞬間だった。
わたしの目の前を、白い閃光が横切った。
速すぎた。
何が起きたのか分からなかった。
ただ、閃光が消えた直後。
律の身体が傾いた。
「…は?」
律が、自分の腹を見る。
右の腹部が、抉れていた。
綺麗になくなっている。
そこにあるはずの肉も、服も、血さえも、一瞬だけ消えたみたいに見えた。
遅れて、血が溢れ出す。
「りつぅぅぅぅぅぅ!!」
クマさんの叫びが響いた。
律の膝が折れる。
わたしは息が止まった。
頭が理解を拒んでいる。
律が倒れる。
律が負ける。
そんなこと、あるはずがない。
さっきまで、あんなに強かったのに。
何十人もの敵を斬り伏せていたのに。
今は、たった一撃で膝をついている。
この瞬間。
わたしたちの負けは、決まってしまった。
「律…?」
声が震える。
足が動かない。
少女は、わたしたちへ興味を失ったように、静かに歩き出す。
その視線は、わたしではなく。
律でもなく。
律の腕に抱えられていた特殊ケースへ向いていた。
「ランク紫」
少女が呟く。
「返してもらう」
わたしは、ようやく理解した。
この子は、最初から人を殺しに来たわけじゃない。
クマさんを倒すことも。
警察官を干からびさせることも。
律を壊すことも。
全部、ただの通り道だった。
目的は一つ。
ランク紫。
それだけだった。
少女の手が、ケースへ伸びる。
その瞬間。
わたしの中で、何かが軋んだ。
嫌だ。
取られたら終わる。
それは、理屈ではなかった。
本能だった。
わたしは震える足で、一歩前へ出る。
「…やめて」
少女の目が、初めてわたしを見た。
その瞬間。
全身が凍りついた。
あの雪原よりも冷たい視線。
なのに。
なぜか懐かしい。
「お前」
少女が、わずかに首を傾げる。
「なぜ、名前がある?」
意味が分からなかった。
でも、その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が激しく脈打った。
名前。
言葉。
魔女。
ランク紫。
ばらばらだったものが、頭の奥で嫌な音を立てて繋がっていく。
少女は、再び手を上げた。
光が集まる。
文字が浮かぶ。
さっきクマさんを殺しかけたものと同じ。
それが今度は、わたしへ向けられていた。
「アル、逃げろ…!」
律が血を吐きながら叫ぶ。
逃げなきゃいけない。
分かっている。
だけど、身体が動かなかった。
黒いドレスの少女の掌で、言葉が形を作っていく。
白い光。
その周囲を囲む文字列。
だけど。
わたしは、後ろへ下がれなかった。
守りたかった。
新しくできた相棒を。
家族を。
仲間を。
この街で出会った人たちを。
何者でもなかったわたしへ、少しずつ色をくれた人たちを。
だから。
彼らが守ってきたケースを、あの少女へ渡したくなかった。
その瞬間だった。
「アル、もしなんかあったら心の中でこう叫びな!」
エバの声が、頭の奥で蘇る。
雪原を去る前。
あの時、笑いながら言っていた言葉。
意味は分からない。
でも、今はこれしかない。
わたしは、震える唇をゆっくり開く。
『――綴れ』
その瞬間。
空気が止まった。
世界から音が消える。
風も。
銃声も。
悲鳴も。
全て。
まるで、世界そのものが耳を澄ませたみたいだった。
『我、白書の名において――』
身体の奥が熱い。
心臓が脈打つたびに、何かが全身を駆け巡っていく。
血液じゃない。
もっと別の何か。
言葉にならない“なにか”が、身体の内側を満たしていく。
『新たな頁を開く』
バキン――。
乾いた音が響いた。
次の瞬間。
ランク紫を閉じ込めていたケースへ、無数の亀裂が走る。
「なっ――」
クマさんが目を見開く。
律も、血を流しながらこちらを見ていた。
そして。
ケースは内側から弾け飛んだ。
ガラス片が宙へ舞う。
その中心で、一冊の本がゆっくり浮かび上がっていた。
黒い表紙。
古びた装丁。
なのに、不気味なほど美しい。
本はまるで生き物みたいに、わたしの掌へ吸い寄せられていく。
触れた瞬間。
「――っ!!」
頭の中へ、大量の言葉が流れ込んできた。
知らない言語。
知らない景色。
知らない誰かの記憶。
頭が割れそうだった。
本のページが、凄まじい勢いでめくられていく。
バラバラバラバラッ――!!
風もないのにページだけが暴れ狂う。
まるで、本そのものが何かを探しているみたいだった。
やがて。
一ページで止まる。
真っ白な頁。
何も書かれていない。
その瞬間。
周囲の光が、一斉に本へ集まり始めた。
少女が生み出していた光とは比べものにならない。
港全体の空気が震える。
コンテナが軋む。
地面が揺れる。
「なんや…これ…」
律の声が震えていた。
真っ白だった頁へ、ゆっくり文字が浮かび上がっていく。
白い文字。
だけど、それはインクじゃない。
文字そのものが光っていた。
浮かび上がった文字列が、光の周囲を囲むように回転していく。
そして。
わたしの頭に、不思議と言葉が浮かんでくる。
「種は主となり――」
気がつけば、演唱している。
何かはわからない。
「敵を殲滅せし」
その瞬間だった。
世界が、白く染まった。
轟音。
光。
衝撃。
港の空気そのものが爆発したみたいだった。
コンテナが吹き飛ぶ。
地面が砕ける。
視界が真っ白になる。
「アル!!」
誰かの叫び声が聞こえた。
だけど。
もう何も分からなかった。
ただ。
光の中で、無数の文字だけが踊っていた。




