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第9節 ― 存在を貸された男

 翌日。


 ブラムが包帯の匂いを追い始めたのは、雨の降り出す少し前だった。


 身分継続局地下保管庫の西側搬入口。


 証拠品を煤下街方面へ運ぶための古い荷役通路で、黒い犬は一度だけ立ち止まった。


 鼻先を床へ近づける。


 防虫薬。


 蒸気消毒液。


 書類箱へ塗られた油。


 職員の靴と、荷車の車輪。


 幾重もの匂いが染みついた石床から、ブラムは一本の道を選んだ。


 ミラベルは革の記録帳を開いたまま、その後ろを歩く。


「西側搬入口を出ました」


 短く記す。


「包帯をここへ運んだ職員の匂いかもしれないわ」


 隣を歩くエレノアが言った。


 今日は職員姿ではない。


 動きやすい短い外套を着て、髪を帽子の内側へ収めている。


「はい。包帯を巻いていた人の経路とは、まだ断定できません」


「でも、保管庫でも同じ方向へ行こうとした」


「同じ反応を二度確認しました。だから追います」


「可能性は高い。でも未確認?」


「必要な区別です」


「兄さまみたいになってきたわね」


「どこがですか」


「同じことを兄さまが言うと、少し腹が立つところ」


「言い方では?」


「やっぱりそうよね」


 ブラムが振り返った。


 二人が遅いと伝えるように耳を動かし、再び歩き始める。


 通路は緩やかに下っていた。


 中央記録庁が建つ以前の排水坑道を、荷役路へ転用したものらしい。


 壁には現在の区画番号。


 その下には、塗り潰された古い番号。


 さらに下から、旧坑道時代の刻印が覗いている。


 一つの場所へ、三つの時代の名前が重ねられていた。


 ブラムは番号を見ない。


 空気の流れと。


 壁へ残った匂いと。


 床の薄い油染みだけを追う。


 やがて、頭上から街の音が聞こえ始めた。


 荷車の軋み。


 露店商の声。


 工場の交替鐘。


 通路の出口は、煤下街の外れにある廃材置場へつながっていた。


 空は、高架線と工場配管の向こうに細く見えるだけだった。


 雨粒が鉄骨と配管を伝い、路地へ落ちる頃には、煤を含んだ黒い雫へ変わっている。


 ブラムは廃材の山を回り込み、狭い路地へ入った。


 その先に、煤けた小さな建物があった。


 看板はない。


 窓には内側から布が張られ、扉の上に薬瓶をかたどった古い金具だけが残っている。


 煤下街に点在する無名診療所の一つだった。


 ブラムは扉の前で止まった。


 鼻先を隙間へ近づける。


 低く息を吸い。


 前脚を一歩進めた。


「ここです」


 ミラベルが扉を叩く。


 返事はない。


 もう一度。


 しばらくして、内側で閂が動いた。


 細く開いた隙間から、年老いた女の目が覗く。


「診療は夜からだよ」


「患者ではありません」


 ミラベルは身分票を見せた。


「六週間ほど前、顔と喉へ重傷を負った男性が、ここへ来ませんでしたか」


 女の目が細くなる。


「役人かい」


「新聞記者です」


「余計に悪い」


「記事にするためではありません。一人の人を捜しています」


 女はミラベルを見た。


 次にエレノア。


 最後に、首輪へ古い鉄道保守章を下げたブラムへ視線を向ける。


「その犬は?」


「帰れない人を捜しています」


 しばらく沈黙したあと。


 女は閂を外した。


「床を汚すんじゃないよ」


 診療所の中は狭かった。


 寝台が三つ。


 薬品棚。


 煮沸器。


 煤油灯。


 壁には乾燥させた薬草が吊られている。


 ブラムは、一番奥の寝台へ向かった。


 敷布の端。


 寝台の脚。


 床へ落ちていた細い布片。


 順に匂いを確かめる。


 女が言った。


「そこにいた男を捜しているのかい」


「名前は?」


「最初は名乗らなかった」


 女は薬品棚から、小さな黒板を取り出した。


 消しかけた文字が残っている。


> ユスト


「姓は?」


「あとで、フェルと書いた」


 ミラベルは記録帳へ記す。


> ユスト=フェル。


「顔と喉に怪我をしていた?」


「ああ。港の荷役機械に巻き込まれたらしい」


「ここを出たのは、いつですか」


「六週間ほど前だよ」


「誰と?」


 女の口が固くなる。


「役所の者だ」


「どこの?」


「身分継続局だと名乗った」


「ユストさんへ、何と説明しましたか」


「新しい身分回復制度の試験だとさ」


 女は黒板を机へ戻した。


「顔を失った人間でも、ほかの情報で身分を取り戻せる。協力すれば治療費を出して、終わったら新しい住民証も渡すと言っていた」


「ユストさんは、自分の身分を回復する試験だと思っていた?」


「そうだろうね。住所も仕事も失っていた。住民証がなければ、宿にだって入れない」


「レオン=クラウスという名前は聞きましたか」


「聞いてないよ」


 ミラベルは、それ以上を女の推測で埋めなかった。


「どこへ連れていかれましたか」


「最初は西部救護院。そのあと迎えに来ると言っていた」


「戻ってきましたか」


「一度も」


 女の顔に、長く見ないようにしていた不安が浮かぶ。


「新しい身分をもらって、どこかで暮らしてると思ってたよ」


 ブラムは寝台の匂いを確かめ終え、診療所の裏口へ向かった。


 前脚で扉を一度掻く。


「ここから出たんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「あの役人たちが使った」


 女が裏口を開けた。


 その先には、細い下り階段があった。


 湿った地下道。


 古い蒸気管。


 さらに奥には、中央記録庁方面へ続く廃止通路。


「さっきの搬入口と同じ系統です」


 ミラベルが言った。


 エレノアは壁へ残る古い経路標を読む。


「地上の馬車を使わず、救護院や記録庁方面へ移動できる道ね」


「現在の職員配置図にはありませんでした」


「旧図を知る者なら使える」


 身分継続局を名乗る者が。


 局の地下へ続く廃止通路を利用した。


 それだけで特定の人物へ結びつけることはできない。


 だが。


 局内の経路を知る者が関わった可能性は高かった。


「追いましょう」


 ミラベルが言った。


「警察は?」


「ここからグレアム警部へ連絡してもらいます」


 女へ向き直る。


「私たちはブラムのあとを追います。十分以内に戻らなければ、警察へ前方の通路を伝えてください」


「危険かもしれないわ」


 エレノアが言った。


「だから、退出経路を確認します」


 ミラベルは、診療所へ戻る階段と、廃材置場へ抜ける道を記録帳へ描いた。


「前方で扉を二つ越えたら、一度戻ります」


「分かった」


「勝手に奥へ進まない」


「分かってるわ」


 二人はブラムのあとへ続いた。


 地下道は低く、ところどころで天井から水が落ちている。


 鉄格子の扉を一つ。


 古い荷役扉を一つ。


 二つ目を越えた先で、ブラムは右へ曲がった。


「二つです」


 ミラベルが言う。


「戻る?」


 エレノアは前方を見る。


 ブラムは道の途中ではなく、煉瓦壁の前で止まっていた。


 壁の下部へ鼻を近づけ。


 右から左へ。


 左から右へ。


 同じ場所を確かめている。


「匂いが壁の向こうへ続いている?」


 ミラベルが尋ねた。


 ブラムは答えない。


 前脚を上げ。


 煉瓦を一度掻いた。


 乾いた音。


 もう一度。


 今度は、低く一声だけ吠えた。


 地下道に声が反響する。


 黒鋼坑道犬が、意味なく吠えたところをミラベルは見たことがない。


「中に何かいる」


 エレノアが壁へ耳をつける。


 すぐに顔を離した。


「聞こえない」


「蒸気管の振動があります」


 ミラベルも耳を寄せた。


 水滴。


 遠くの機械音。


 低い蒸気の唸り。


 それ以外は分からない。


 ブラムだけが、壁の一点を見つめていた。


「呼吸?」


 ミラベルが呟く。


 ブラムの耳が動く。


 確かめるように、壁の下へ鼻を寄せた。


「人がいるなら急がないと」


 エレノアは壁全体から二歩下がり、蒸気灯を持ち上げた。


 斜めから光を当てる。


 煉瓦の表面へ長い影が伸びた。


 右側。


 途中で、目地の影が不自然に途切れている。


「ここの列だけ、揃いすぎてる」


 古い壁は、沈下によって煉瓦の高さが少しずつずれていた。


 だが、ブラムが掻いた部分だけ、縦の目地が真っ直ぐだった。


 エレノアが表面を指で擦る。


 灰色の粉が落ち。


 その下から、薄い黒色が現れた。


「煉瓦じゃない」


 爪で軽く叩く。


 石とは違う、硬い音がした。


「鉄板へ、薄い煉瓦板を貼ってる」


「偽装壁」


 ミラベルは周囲を見る。


 取っ手も鍵穴もない。


 エレノアは右側の蒸気管へ目を向けた。


 壁へ管を固定する金具。


 一本だけ、ほかより新しい。


 煤を塗って古く見せているが、螺子の縁に錆がなかった。


「これが開閉具かもしれない」


「仮説です」


「確かめないと」


 エレノアは外套のポケットから布を出し、金具へ巻いた。


「直接は触らない」


「証拠保全のためですか」


「熱いかもしれないから」


 少しだけ笑い。


 すぐに表情を戻す。


「回すわ」


 金具を右へ動かす。


 最初は抵抗があった。


 さらに力を加えると、壁の内側で金属が擦れた。


 煉瓦に見えた一部が、わずかに手前へ浮く。


 隙間から空気が流れ出た。


 古い汗。


 薬。


 長く換気されていない部屋の匂い。


 ブラムが隙間へ鼻を向け、前脚を踏み出す。


 ミラベルとエレノアは壁板の端へ手を掛けた。


 二人で引く。


 偽装壁は、見た目より軽かった。


 人一人が通れるほど開く。


 蒸気灯の光が、壁の向こうへ差し込んだ。


 小さな部屋だった。


 簡素な寝台。


 空の水差し。


 食器。


 排泄用の桶。


 窓はない。


 外側から閉められる偽装扉だけがある。


 寝台の上に、人が横たわっていた。


 顔の片側へ引きつれた傷。


 顎から喉へ続く赤黒い縫合痕。


 無精髭。


 落ち窪んだ頬。


 乾いた唇。


 呼吸は浅い。


 だが。


 生きていた。


 ブラムが最初に入る。


 寝台の横へ行き、男の顔へ鼻を近づけた。


 包帯を嗅いだときと同じように、一度だけ鼻先を引く。


 次に胸元。


 両手。


 足。


 順に確かめる。


 男のまぶたが動いた。


「……犬」


 擦れた声だった。


 喉の奥で、空気だけが鳴る。


 ブラムは吠えない。


 寝台へ前脚を掛けることもせず、男のすぐ横へ座った。


「聞こえますか」


 ミラベルが近づく。


「私たちは、あなたを助けに来ました」


 男の目が、ミラベルからエレノアへ動く。


「役所の……人か」


「違います」


 ミラベルは明確に答えた。


「ミラベル=ワトリア。事件の調査をしています」


「エレノア=クラウスよ」


 姓を聞いた瞬間。


 男の目が、わずかに見開かれた。


「クラウス……?」


「レオン=クラウスを知っているんですか」


「新聞で……顔だけ」


「会ったことは?」


「ない」


 ミラベルとエレノアは視線を交わした。


 まだ質問を急ぐべき状態ではない。


 ミラベルは携帯瓶の水を布へ含ませ、男の唇へ少しずつ当てた。


 一度に飲ませない。


 男は何度か咳き込みながら、水を口へ含んだ。


「お名前を教えてください」


「ユスト」


「姓は?」


「フェル」


「ユスト=フェルさんですね」


 男は頷いた。


 ミラベルは記録帳へ、本人が語った名を書く。


「ここへ閉じ込めたのは誰ですか」


「役所の……やつら」


「身分継続局を名乗っていましたか」


「ああ」


「あなたは、何をすると説明されましたか」


 ユストは呼吸を整えた。


「身分回復の……試験だって」


「誰の身分を回復する試験だと思っていましたか」


「俺のだ」


「ユスト=フェルとして?」


「ああ」


 声が少し強くなる。


「住民証を……返してくれるって」


「レオン=クラウスの名で処理されると、知っていましたか」


「知らない」


 ユストは首を横へ振った。


「そんな名前は、聞いてない」


「身体を調べられましたか」


「ああ」


「黒い外套を着せられた?」


「着せられた」


「署名を書いたり、家族しか知らない言葉を尋ねられたりしましたか」


「してない」


 ミラベルは、質問をそこで止めた。


 彼が知らなかったことを、細かく教えすぎる必要はない。


 いま確認すべきは。


 ユストが何をしたかではなく。


 何をすると思わされていたかだった。


「あなたを連れ出した人たちについて、覚えていることはありますか」


 ミラベルが尋ねる。


「名前や顔が分からなければ、話していた言葉だけでも構いません」


「名前は知らない」


「命令した人物を、直接見ましたか」


「見てない」


「その人物から、直接話を聞きましたか」


「聞いてない」


「名前を呼んでいた者は?」


 ユストはしばらく考えた。


 やがて、ゆっくり首を横へ振る。


「名前は……聞いてない」


「では、ほかに覚えている言葉はありますか」


「一人が……何度も言ってた」


「何と?」


「部長の許可は出てるって」


「部長の名前は?」


「分からない」


 ミラベルは頷いた。


 記録帳へ、確認できた範囲だけを書く。


> ユスト=フェル。

>

> 自分の身分を回復する試験と認識。

>

> レオン=クラウス名義で処理されることを知らず。

>

> 命令者との直接接触なし。

> 命令者の氏名も聞いていない。

>

> 連行者の一人が、

> 「部長の許可」

> と発言。

>

> 部長が誰を指すかは未確認。


「その部長が誰なのかは、まだ分かりません」


 ミラベルが言う。


 エレノアも頷いた。


「特定の誰かだと、決めてはいけない」


「はい。局内の誰かが、上位者の許可を理由に動いていた。それ以上は未確認です」


 ユストは二人を見た。


「俺が……何をしたんだ」


「あなたが身分を偽ったとは考えていません」


 ミラベルは答えた。


「自分の身分を取り戻せると信じて、検査を受けたんですね」


「ああ」


「あなたの身体照合が、別の名前の手続きへ使われました」


「俺が?」


「あなたの知らないところで」


 ユストの顔に、恐怖と混乱が浮かぶ。


「俺はユストだ」


「分かっています」


「名前を盗もうなんて、思ってない」


「あなたが盗んだとは記録しません」


「俺の名前は」


 ユストは息を詰まらせた。


「返してくれるのか」


 ミラベルは、すぐに保証しなかった。


 彼女には、その権限がない。


「まず、ユスト=フェルという名で、あなたがここに生存していることを記録します」


「役所の紙に?」


「私の事件記録へ」


「それに何の意味がある」


「この先、役所が別の名前を書いても」


 ミラベルは記録帳を見せた。


「少なくとも、私たちはあなたの名を知っています」


 ユストは何も言わなかった。


 簡単には信じられない。


 新しい身分を与えるという約束を信じた結果、六週間も閉じ込められた。


 エレノアが寝台の横へしゃがむ。


「すぐ信じなくてもいいわ」


「お嬢さんに何が分かる」


「分からない」


 エレノアは否定しなかった。


「だから、分かったふりはしない。でも、あなたをここへ戻さないことは約束できる」


「何の権限で」


「私にはないわ」


「なら」


「警察を呼ぶ。兄も呼ぶ。必要なら、記録庁の上まで全部動かす」


 言葉の途中で、少しだけ笑う。


「権限を持ってる人は、家にいるから」


「家?」


「面倒な兄が二人」


 ユストには意味が分からなかった。


 だが。


 偽りの役職や制度の説明ではなく。


 ただ家族を面倒だと言った少女の言葉に、わずかに警戒が緩んだ。


 ブラムが立ち上がる。


 偽装壁の外へ顔を向けた。


 遠くから足音が聞こえる。


 複数。


 急いでいる。


 エレノアが立ち上がり、壁際へ身を寄せる。


 ミラベルはユストの前へ立った。


 だが。


 先頭に現れたのはグレアム警部だった。


 大きな身体を偽装壁の隙間へ押し込み、室内を見回す。


「無事か!」


「一名、生存しています」


 ミラベルが答えた。


「ユスト=フェルさん。衰弱しています。顔と喉に過去の重傷。現在の状態は、まだ確認できていません」


 グレアムの後ろから、警察医と警邏官が入ってくる。


「ここへ監禁した者は?」


「身分継続局を名乗る複数人です」


 ミラベルは記録帳を見ながら答えた。


「ユストさんは、自分の身分を回復する試験だと思っていました。レオン=クラウス名義で処理されるとは知らなかったと証言しています」


「ザールは?」


「本人を見ていません。直接の指示も受けていません」


「ほかには」


「連行者の一人が、《部長の許可》を口にしています。ただし、その部長が誰を指すかは確認できていません」


「分かった」


 グレアムは、それ以上の結論を足さなかった。


 警察医へ場所を譲る。


「嬢ちゃんたちは外へ出ろ」


「聞き取りがまだ――」


「死なせたら証言も取れん」


 警察医がユストの脈を測る。


 瞼を開き。


 呼吸を確認し。


 水を飲ませた量をミラベルへ尋ねる。


「布へ含ませて、少量ずつです」


「正しい。あとは任せろ」


 ミラベルは頷いた。


 ユストへ顔を向ける。


「外で待っています」


「行くのか」


「医師の邪魔になりますから」


「戻る?」


「戻ります」


 ブラムが寝台の横から動かない。


「ブラム」


 ミラベルが呼んだ。


 黒い犬はユストを見る。


 警察医。


 グレアム。


 扉の外。


 順に確認する。


 それから、ようやくミラベルの方へ歩いてきた。


「この人は、もう一人ではありません」


 ブラムへ伝えるように言う。


 犬が意味を理解したかは分からない。


 だが。


 警察医とグレアムがユストのそばへ残ることを確かめると、偽装壁の外へ出た。


 地下通路へ戻り、ミラベルは壁へ背を預けた。


 エレノアも隣へ立つ。


「兄さまに知らせないと」


「はい」


「ユストさんが、偽のレオンだったのね」


 ミラベルは首を横へ振った。


「違います」


「身体検査を受けたのは彼でしょう」


「身体検査だけです」


「外套も着せられた」


「はい。でも、署名はしていません」


 ミラベルは記録帳を開く。


「家族暗号も答えていません。自分がレオン=クラウスとして処理されることさえ知らなかった」


 エレノアの表情が変わる。


「ユストさん一人を、兄さまに仕立てたわけではない」


「はい」


「ユストさんが提供したのは」


「身体の照合結果です」


 偽装された帰還者に。


 一人の替え玉はいなかった。


 顔を包帯で隠した一人の男が、最初から最後までレオンを演じたのではない。


 身体を検査された男。


 別に用意された所持品。


 過去の署名。


 家族暗号。


 身分継続票。


 それぞれが別の場所で。


 レオン=クラウスの一部として扱われていた。


「偽のレオンは、一人の替え玉ではなかった」


 ミラベルが言った。


 エレノアは偽装壁の向こうを見る。


「ユストさんは、兄さまの代わりになったんじゃない」


「存在の一部を使われたんです」


「身体だけ」


「はい」


 自分の身分を取り戻せると信じた男から。


 犯人は、肉体の照合結果だけを利用した。


 そして。


 彼自身の名を返さないまま。


 レオン=クラウスという存在を作る材料へ変えた。


 ミラベルは頁の上部へ、ユストの名を書く。


> ユスト=フェル。

>

> 生存。

>

> レオン=クラウスではない。

>

> 自身の身分回復試験と偽られ、身体照合へ利用された。

>

> レオン=クラウス名義で処理されるとの認識なし。


 最後に一行。


> 存在を貸したのではない。

> 本人の知らないところで、存在の一部を使われた。


「書けましたか」


 エレノアが尋ねた。


「はい」


「なら、戻りましょう」


「ユストさんを待ちます」


「ここで?」


「戻ると約束しましたから」


 エレノアはミラベルの隣へ座った。


 湿った壁へ背を預ける。


「じゃあ、私も待つ」


 ブラムも二人の前へ伏せた。


 偽装壁の向こうでは、警察医の短い指示が聞こえる。


 水。


 担架。


 脈拍。


 人間を生かすための言葉。


 やがて。


 ユスト=フェルは、担架に乗せられて部屋から運び出された。


 今度は。


 レオン=クラウスの外套も。


 折れた杖も。


 借り物の番号も持っていない。


 彼自身の名だけを記した、ミラベルの記録が。


 そのあとに続いた。

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