第8節 ― 四か月の空白
夜になっても、黒鴉館二階の壁から低い振動が消えなかった。
霧燈通りの地下を走る蒸気管が、一定の間隔で唸っている。
以前なら、誰も気に留めない音だった。
レオンも。
四か月前までは。
低い振動が床板を伝った瞬間、机の前に座るレオンの右手が止まった。
手にしていた鉛筆の先が、紙の上へ小さな黒点を残す。
ほんの一瞬。
呼吸が浅くなり。
視線が、事務所ではないどこかへ向く。
次の瞬間には、何事もなかったように鉛筆を動かしていた。
ミラベルは向かいの机から、その一連の動きを見ていた。
指摘はしなかった。
代わりに、自分の記録帳を閉じる。
エレノアは、まだ中央記録庁から戻っていない。
グレアムも、クラウディア=メルツの殺害現場と職員通路を調べている。
マルタは一階で、閉店後の食器を片づけていた。
事務所にいるのは、レオンとミラベル。
それから、暖炉の前に伏せるブラムだけだった。
三つの机には、それぞれ異なる調査資料が残されている。
ミラベルの机には、救護院での聞き取り記録。
レオンの机には、生存再認資料の写し。
エレノアの机には、中央記録庁内部の簡易配置図。
壁の地図には、黒鐘塔からヴェルム=クロウへ続く地下水路と、第零環の経路が赤い糸で結ばれていた。
ただし。
黒鐘塔事件から、レオンが黒鴉館へ戻るまで。
四か月だけが、記録のない空白になっている。
ミラベルは立ち上がった。
壁の地図へ近づき。
黒鐘塔を示す印へ指を置く。
「ここから始めましょう」
レオンは顔を上げなかった。
「何をだ」
「四か月の空白です」
「事件の構造とは直接関係がない」
「あります」
「どう関係する」
「六週間前の生存再認には、レオンさんが実際に通ったと考えられる経路が使われています」
ミラベルは、黒鐘塔から伸びる赤い糸をなぞった。
「旧水路で発見されたこと」
次の印。
「地下で治療を受けたこと」
さらに糸をたどる。
「保守経路を使って移動したこと」
レオンの鉛筆が止まる。
「それらは、あなたがどこにいたのかを知る者がいた可能性を示します」
「可能性だ」
「はい」
ミラベルは訂正を受け入れた。
「では、確認できる事実から聞きます」
自分の机へ戻り、記録帳を開く。
「黒鐘塔から落ちたあと、何が起きたんですか」
レオンは机の上の紙を一枚裏返した。
書かれている文字を伏せる。
それでも、すぐには答えなかった。
暖炉の薪が崩れ、小さな火の粉が上がる。
「重量錘坑へ落ちた」
「そこまでは知っています」
「落下中、水圧制動装置が作動した」
「時計塔を止めるために放水された水ですね」
「ああ」
レオンは自分の右脚へ視線を落とした。
「水が重量錘坑へ流れ込んだ。落下速度は弱まったが、止まったわけじゃない」
「何へ落ちたんですか」
「分からない」
「分からない?」
「意識がなかった」
簡潔な答えだった。
それ以上を想像させないように、必要な情報だけを切り取った口調。
ミラベルは質問を変えた。
「次に覚えていることは?」
「水だ」
レオンの視線がわずかに遠くなる。
「暗い水路を流されていた。右脚は動かなかった。左肩も外れていた。息を吸おうとすると、水が入った」
壁の蒸気管が、また唸った。
レオンの指は止まらない。
だが、鉛筆を握る力が強くなる。
「水路の鉄格子が外れていた」
「事故で?」
「黒鐘塔から流れ込んだ水で外れたのか、以前から壊れていたのかは確認できていない」
「では、事実は」
「鉄格子が外れていた。それだけだ」
レオンは続けた。
「そこから旧坑道へ流された。あとは覚えていない」
「誰が助けたんですか」
「知らない」
「診療所の人にも聞かなかったんですか」
「聞いた。運び込んだ者は名乗らなかったそうだ」
「どんな人だったかは?」
「顔を隠した地下労働者だった。それ以上は分からない」
ミラベルの鉛筆が止まる。
「意図的にレオンさんを助けた可能性はあります」
「ある」
「ノクスの協力者が、監視するために助けた可能性も?」
「否定できない」
「偶然、通りかかった地下労働者だった可能性も?」
「同じく」
ミラベルは、並べて記した。
救助者の身元は不明。
目的も不明。
ノクスの残存協力網との関係も未確認。
断定できるのは。
レオンが旧坑道から診療所へ運ばれたことだけだった。
「診療所は、どこですか」
「煤下街だ」
「名前は?」
「ない」
「看板がない、という意味ですか」
「公的な名称も、登録番号もない。身分を持たない者や、記録を残せない負傷者を診る場所だ」
「無名診療所」
「そう呼ばれていた」
ミラベルは壁の地図を見た。
煤下街には、いくつもの地下路が重なっている。
記録庁の地図では、排水路。
鉄道局の地図では、旧保守区画。
地下街の住民にとっては、生活路。
一つの道が、管理する者によって別の名を持つ。
「どのくらい、そこにいたんですか」
「正確には分からない」
「時計がなかったから?」
「窓もなかった」
レオンは淡々と答えた。
「意識が戻ったり、途切れたりしていた。右脚を固定され、左肩を戻された。肋骨も折れていたらしい」
「らしい?」
「診療記録はない」
「治療した人から説明を受けたでしょう」
「その人間は、自分を医師とは名乗らなかった」
「資格がなかった?」
「確認していない」
「でも、治してくれた」
「少なくとも、死なずに済んだ」
感謝を述べる言葉には聞こえなかった。
かといって、冷淡でもない。
名を問わず。
記録を作らず。
金も身分証もない負傷者を治療した者へ。
レオンが残せる最大限の事実だった。
「身元を隠したのは、いつからですか」
「意識が戻った直後から」
「最初から?」
「服も身分票もなかった。名を聞かれたが、答えなかった」
「どうして」
「まだ、誰が生き残ったのか分からなかった」
「ノクスが?」
レオンは答えなかった。
ミラベルは、その沈黙を肯定とは記録しない。
「ノクスが生きている可能性を考えた?」
「考えた」
「証拠は?」
「なかった」
「仮説だった」
「ああ」
「その仮説だけで、名前を隠したんですか」
「それだけじゃない」
レオンは椅子の背へ身体を預けた。
左肩が動かないよう、慎重に姿勢を変える。
「診療所へ、俺を捜す者が来た」
ミラベルの鉛筆が止まった。
「警察ですか」
「警察も来た」
「ほかにも?」
「ああ」
「誰ですか」
「身分継続局の救護調査を名乗る男が二人」
「記録庁の職員?」
「身分票は持っていた」
「本物でしたか」
「直接は見ていない」
「診療所へ入ってきたのでは?」
「俺は隠された」
「誰に」
「治療していた者に」
レオンの答えは短い。
「診療所の奥に、使用していない貯水槽があった。そこへ入れられた」
「なぜ、その人はレオンさんを隠したんですか」
「名を持たない患者を、役所へ渡さないのが、あの場所のやり方だった」
「二人は何を聞いたんです」
「黒鐘塔から流れてきた負傷者がいないか。折れた黒い杖を持っていなかったか。ヒト族の男を治療していないか」
ミラベルは顔を上げた。
「対象を、かなり具体的に知っています」
「だから、警察の一斉捜索とは別だと判断した」
「同じ情報を得た、別の捜索者」
「ああ」
「ノクスの残存協力網だと?」
「可能性があると考えた」
「確認はできていない」
「できていない」
ミラベルは、二つの欄へ分けて記した。
> 確認済み。
> 公的な救護調査を名乗る二名が、黒鐘塔から流された負傷者を捜していた。
> 対象の所持品と種族を知っていた。
>
> 未確認。
> 二名の所属。
> 身分票の真偽。
> ノクスの残存協力網との関係。
「診療所を出られるようになったのは?」
「三週間ほどあとだと思う」
「思う?」
「地下の暦は正確じゃない」
「そこから、黒鴉館へ帰ろうとした?」
「一度は」
レオンの声が、少しだけ低くなった。
ミラベルは、鉛筆を握ったまま待った。
「どこまで来たんですか」
「霧燈通りの一本手前」
ミラベルは息を止めた。
黒鴉館から、歩いて数分。
窓から見えることさえある距離。
「そこまで、帰っていたんですか」
「ああ」
「いつ?」
「正確な日は分からない。事件から一か月ほどあとだ」
「黒鴉館を見たんですか」
「裏通りから」
「私たちも?」
「見た」
ミラベルの表情が動く。
レオンは彼女を見ない。
「君は二階から出てきた。郵便を持っていた。階段の下で、一度、封筒を裏返した」
ミラベルの手が止まる。
「どうして、そんなことまで」
「封が一度開けられていたからだろう」
記憶が戻る。
差出人から届いたはずの手紙。
封蝋には傷がなかった。
けれど、裏側の糊が新しかった。
当時のミラベルは、雨に濡れて剥がれたのだと思った。
「見ていたんですね」
「ああ」
「声をかけなかった」
「かけられなかった」
「どうしてですか」
「君の向かい側に、新聞売りがいた」
「新聞売り?」
「新聞を売っていなかった。紙束は前日のまま。客にも声をかけない。君が出てきたときだけ顔を上げた」
レオンは、机の端を指で叩いた。
「靴は官庁街のものだった。右袖には、筆記具を固定した膨らみがあった。売り子ではない」
「監視者?」
「そう判断した」
「その場で確認は?」
「できなかった」
「なら、その時点では仮説ですね」
「そのあと、そいつは君を新聞社まで尾行した」
ミラベルは口を閉じた。
「途中まで追ったんですか」
「ああ」
「その脚で?」
「当時は、いまより悪かった」
「答えになっていません」
「確認する必要があった」
レオンは話を戻した。
「同じ時期、エレノアにも尾行がついていた」
「エレノアさんにも?」
「仕立屋の店員を装った女だ。女学校近くで三度。黒鴉館の裏口で一度見た」
「同じ人物だと確認できる根拠は?」
「同じ外套。同じ歩幅。同じ左手の火傷痕」
「エレノアさんは気づいていたんですか」
「おそらく、途中からは」
「本人へ確認する必要がありますね」
「ああ」
ミラベルは地図へ戻った。
黒鴉館。
新聞社。
女学校。
それぞれの場所へ、小さな印を付ける。
「黒鴉館への郵便は開封されていた」
「ああ」
「私には、新聞売りを装った尾行者がついた」
「ああ」
「エレノアさんにも、同一人物と思われる尾行者がついていた」
「ああ」
「その者たちの所属は?」
「分からない」
「ノクスの残存協力網だと断定は?」
「できない」
「身分偽装を行った側の監視者かどうかも?」
「現時点では不明だ」
ミラベルは頷き、書き分けた。
「私の記事と、地下でレオンさんを捜す動きにも関係があった?」
「連動しているように見えた」
「具体的には」
「君が死亡を断定しない記事を書いた翌日、診療所や救護院への聞き込みが増えた」
「それだけなら偶然の可能性もある」
「ああ」
「ほかには?」
「君が旧水路の生存可能性へ触れたあと、排水保守記録が閲覧された」
「閲覧記録を見たんですか」
「地下の記録屋から聞いた」
「正規の証拠にはなりません」
「分かっている」
「では、確認できるのは」
ミラベルは慎重に言葉を選んだ。
「私の記事の内容と、レオンさんを捜す動きが連動しているように見えたこと」
「ああ」
「監視者が記事を利用したというのは、レオンさんの推測」
「それでいい」
ミラベルは鉛筆を置いた。
「そこまで確認して、エドガーさんへ連絡した」
「ああ」
「どうやって?」
「地下の伝令を使った」
「誰ですか」
「名は知らない」
「またですか」
「地下で本名を聞く方が不自然だ」
「伝えた文面は?」
「時計は止まっていない」
机の上に、その文言の複写がある。
家族だけが意味を理解するはずだった短文。
そして。
六週間前の生存再認へ使われた、本人しか知らないはずの情報。
「ほかに、場所や状態は?」
「何も書いていない」
「エドガーさんなら、それだけで生存が分かる」
「ああ」
「助けを求めなかったんですか」
「求めれば、人が動く」
「人が動けば、監視者に気づかれる」
「そうだ」
「死亡推定が成立することも、予想していた?」
レオンは、すぐには答えなかった。
「エドガーが何を選ぶかまでは断定できなかった」
「でも、捜索を表向き終わらせる判断は想定していた」
「可能性としては」
「死亡推定を成立させてほしいと、直接頼んだわけではない」
「頼んでいない」
ミラベルは区別して記す。
レオンが送ったのは、生存を伝える暗号だけ。
死亡推定は、エドガーが選んだ判断。
ただし。
その結果、公式の捜索が縮小することを、レオンも予測していた。
「死亡推定が成立すれば、黒鴉館から人が離れる」
「一部はな」
「私たちが、レオンさんの死を受け入れれば」
「受け入れなかった」
「そうですね」
ミラベルの声は静かだった。
「だから、私は記事を書き続けた」
「ああ」
「エレノアさんは、探し続けた」
「ああ」
「それを、見ていた」
「見ていた」
レオンの返事が短くなる。
「全部?」
「全部ではない」
「十分です」
ミラベルは顔を伏せた。
事件記録の文字が、少し滲んで見えた。
泣くつもりはなかった。
帰ってきた夜にも泣かなかった。
怒りを先に置けば、涙を後ろへ押し込められた。
けれど。
レオンは、どこか遠い地下にいたのではない。
一度は、霧燈通りのすぐ近くまで帰ってきていた。
自分たちを見て。
監視者も見て。
そのまま、再び地下へ戻った。
「そのあと、自分の名で誰かが動いていると知った」
ミラベルは、顔を上げずに言った。
「ああ」
「どうやって?」
「地下の身分仲介人が、レオン=クラウスの名は、もう使えないと言った」
「身分仲介人?」
「記録外の者へ、通行証や労働記録を売る者だ」
「レオンさんは、自分の偽造身分を作ろうとしたんですか」
「地上を移動するには必要だった」
「仲介人は、なぜ名前が使えないと?」
「死亡推定が取り消され、本人照合が進んでいると言った」
「六週間前の生存再認」
「ああ」
「そのとき初めて、自分の名で誰かが帰還しようとしていると知った?」
「記録上の動きだけをな」
「確認しようとは?」
「した」
「どうやって」
「中央記録庁へ入れる人間を探した」
「見つかった?」
「見つかったが、接触する前に消えた」
「殺されたんですか」
「分からない」
レオンは断定しなかった。
「所在が分からなくなった。それだけだ」
「そこから、正規の記録へ近づけなかった」
「近づけば、生存が露見する」
「偽の帰還を進めている相手に?」
「その可能性がある」
「相手は、レオンさん本人が生きていると困る」
「ああ」
「すでに、あなたを捜していた者もいる」
「ああ」
「黒鴉館へ戻れば、ここを使っておびき出される」
「君たちが人質になる可能性もある」
「だから、帰れなかった」
「そうだ」
「でも、自分の名前を使われていることは放置できなかった」
「そうだ」
「偽の帰還者を追いながら、本人は姿を見せられない」
「そうなる」
皮肉な構造だった。
レオン=クラウスの名で手続きする者が、表の制度を自由に歩く。
本人は、自分の名を名乗った瞬間、見つかる。
偽物が本人として帰還し。
本物が、無名者として地下へ隠れる。
「第零環の密輸網を調べていたのも、そのためですか」
「俺の生存経路を知る者が、あの経路を利用していた」
「身分密輸網が、偽の生存再認を作った?」
「そこまでは分からなかった」
「協力した可能性は?」
「ある。経路や輸送記録を提供した可能性は高いと考えた」
「でも、中央記録庁の手続きを設計した人物が同じかは不明」
「ああ」
ミラベルは、ザールの執務室へ続いた真鍮板の匂いを思い出した。
ただし。
まだ、そこへ犯人の名を書くことはできない。
「第零環の密輸網が摘発されたから、帰ってきた」
「あの列車が止まり、黒鴉館を見張っていた者の一人が、グレアムに拘束された」
「すべての監視がなくなったと確認できたんですか」
「できていない」
「危険は残っていた」
「残っていた」
「それでも帰った」
「これ以上待てば、未解決事件箱・第十三号を完全に失う」
レオンは、移管命令の写しへ目を落とした。
「それに」
言葉が途切れる。
ミラベルは待った。
「それに?」
「帰る場所が、まだあるか確認する必要があった」
声は小さかった。
ミラベルは、一度だけ目を閉じた。
怒りたかった。
もっと明確に責めたかった。
なぜ信じなかったのか。
なぜ相談しなかったのか。
なぜ、同じ危険を選ぶ権利を、自分たちへ渡さなかったのか。
けれど。
レオンの判断に、理由がなかったわけではない。
黒鴉館は監視され。
郵便は開封され。
ミラベルとエレノアには尾行がついた。
記事の内容と捜索の動きも、連動しているように見えた。
彼が戻れば、危険が及ぶ可能性は高かった。
確認できた事実は。
少なくとも、彼が無意味に沈黙していたわけではないと示している。
「分かりました」
ミラベルは言った。
レオンの肩から、目に見えない緊張が少しだけ抜ける。
「そうか」
「はい。なぜ帰れなかったのかは理解できます」
ミラベルは記録帳を閉じた。
鉛筆も置く。
これから言うことは、事件記録のための言葉ではなかった。
「でも」
レオンを見る。
「理解することと、傷つかなかったことにするのは違います」
レオンの表情が止まった。
「合理的な判断だったと思います」
ミラベルは続けた。
「私たちが監視されていたことも。知らせれば、エレノアさんが探しに行くことも。私が記事へ書くかもしれなかったことも」
「君は書いただろう」
「書きません」
「断言できるのか」
「今の私なら、書きません」
「当時は?」
ミラベルは答えなかった。
四か月前の自分なら。
レオンが生きていると知った瞬間、表情へ出したかもしれない。
行動へ出したかもしれない。
隠しきれたと断言することはできない。
「だから、判断そのものを間違いだとは言いません」
「なら――」
「でも、私たちが何を失うのかを、レオンさんとエドガーさんだけで決めました」
レオンは口を閉じた。
「安全のために必要だった。そう説明されれば、私は理解できます」
ミラベルの指が、閉じた記録帳の角へ触れる。
「でも、そのあいだ、私たちは、あなたが水の中で死んだと思っていました」
声は震えなかった。
「エレノアさんは、遺体がないから生きていると言い続けました。でも、夜になると、扉の前で足音を待っていました」
暖炉の前で、ブラムの耳が動く。
「マルタさんは毎朝、誰も使わない事務所へ火を入れました」
レオンは何も言わない。
「グレアム警部は、死亡推定の書類へ署名できませんでした」
蒸気管の低い音。
今度は、レオンの手は動かなかった。
「私は」
ミラベルは一度、息を吸った。
「あなたの椅子へ座らないことで、帰ってくる場所を残しているつもりでした」
「知っている」
「知っていたんですか」
「帰ってから知った」
「そうですよね」
ほんの少しだけ、苦い笑みが浮かぶ。
「あなたは、何も知らなかった」
その言葉に、レオンが顔を上げる。
「私たちを守るために離れた。でも、離れているあいだ、私たちがどう生きていたのかは知らなかった」
「調べることはできなかった」
「責めているんじゃありません」
「責めているだろう」
「はい」
ミラベルは認めた。
「責めています」
逃げ道を与えない声だった。
「事情は分かりました。それでも、傷ついたことは消えません」
「消せとは言っていない」
「でも、レオンさんは、説明すれば終わると思っていました」
「思っていない」
「では、何を言えばいいか分からないんですね」
レオンは答えなかった。
その沈黙は。
事件の答えを考えるときのものではなかった。
言葉を選んでいる。
いや。
選べるほど多くの言葉を持たない男が。
一つだけ残された言葉を見つめている。
レオンは謝罪を好まない。
謝罪で事実が変わるとは考えていない。
責任は行動で示すものであり。
感情を慰める言葉は、ときに真実を曖昧にすると考えている。
だから。
いままで、明確には謝らなかった。
黒鐘塔へ向かう前にも。
帰ってきた夜にも。
危険だった。
必要だった。
ほかに方法がなかった。
説明だけを置いてきた。
レオンは机の上から右手を下ろした。
ミラベルへ正面から向き直る。
「すまなかった」
短い言葉だった。
声も大きくない。
言い訳も続かない。
連絡を断ったこと。
選択する権利を奪ったこと。
悲しみを管理しようとしたこと。
戻れる場所があるのか疑ったこと。
そのすべてが、短い言葉の中に残った。
ミラベルは、すぐには答えなかった。
許すと言えば、簡単すぎる。
許さないと言えば、いまの言葉を拒むことになる。
だから。
事実だけを返した。
「聞きました」
レオンの眉が少し動く。
「それだけか」
「謝罪したからといって、四か月がなくなるわけではありません」
「ああ」
「すぐに前と同じには戻りません」
「戻すつもりはない」
「それなら」
ミラベルは、閉じていた記録帳を開いた。
四か月の空白と記した頁。
その下へ、新しい記録を書く。
> レオン=クラウス。
> 黒鐘塔事件後、生存。
>
> 旧水路を経て煤下街の無名診療所へ搬送。
> 救助者の身元、所属、目的は不明。
>
> 帰還不能の理由。
> 黒鴉館周辺および関係者への監視を確認。
> 監視者の所属は未確認。
> ノクス残存協力網との関係は仮説。
>
> エドガー=クラウスへ、生存を示す家族暗号を送付。
> 死亡推定を求める直接の指示はなし。
>
> その後、レオン=クラウス名義の生存再認進行を確認。
> 本人は身元を伏せ、地下経路から調査を継続。
>
> 判断に合理的理由あり。
> ただし、関係者が受けた損失と感情的被害は別記録として残す。
「何を書いた」
レオンが尋ねる。
「説明によって、消してはいけないことです」
「事件記録に感情的被害と書くのか」
「書きます」
「数値化できない」
「数値にできないものは、存在しないんですか」
レオンは答えなかった。
ミラベルは最後に、もう一行だけ付け加えた。
> 本人、謝罪。
「そこは書く必要があるのか」
「重要な変化です」
「事件解決には関係ない」
「事務所の今後には関係します」
ミラベルは鉛筆を置いた。
レオンは不満そうに記録を見ていたが。
消せとは言わなかった。
暖炉の前で、ブラムが立ち上がる。
レオンの足元まで来ると。
上着。
鉄の杖。
右脚。
順番に匂いを確かめた。
そのまま、二つの机の間へ伏せる。
レオンの机だけではない。
ミラベルの机だけでもない。
両方へ身体が触れない、ちょうど中間の場所だった。
外では、霧が濃くなっている。
四か月前。
レオンは霧燈通りの手前まで来て、引き返した。
だが今夜は。
低い蒸気管の音が響いても。
窓の外へ誰かの足音が通っても。
席を立たなかった。
ミラベルも。
彼を許したとは言わなかった。
ただ。
四か月の空白へ。
初めて、二人の言葉が記された。




