第7節 ― 犬は一人を三つに分ける
身分継続局地下保管庫は、人間の帰還を品物へ分けて保存する場所だった。
中央記録庁の地上階には、白い石壁と磨かれた真鍮が並んでいる。
出生。
婚姻。
雇用。
死亡。
生存再認。
人間の一生を扱う窓口は明るく、訪れた者が制度を信頼できるよう整えられていた。
だが、その証拠を保管する地下には窓がない。
低い煉瓦天井。
鉄骨の棚。
壁沿いを走る蒸気管。
湿気と虫害を防ぐため、一定の間隔で熱を吐く消毒弁。
天井から吊られた蒸気灯の白い光が、長い保管棚の間へ冷たく落ちている。
棚には、同じ大きさの黒い箱が並んでいた。
誰かが身につけていた服。
誰かの名を証明した紙。
誰かが扉を開くために使った身分票。
持ち主の人生から切り離された品々が、番号ごとに収められている。
レオンは鉄の杖をつき、棚のあいだを歩いていた。
右脚を引きずってはいない。
引きずらないよう、意識して歩いている。
その不自然な正確さを、ミラベルは口に出さず見ていた。
ブラムはレオンの半歩前を進んでいる。
黒い鼻が絶えず動く。
古い布。
革。
紙。
防虫薬。
消毒蒸気。
数えきれない人間の匂いが、密閉された箱の隙間から薄く漏れていた。
それでもブラムは、棚の前で立ち止まらない。
「番号を読んでいるわけではありませんよね」
ミラベルが小声で言った。
「読めるなら、俺より先に記録庁へ雇われている」
「番号順に進んでいるように見えます」
「保管官のあとを歩いているだけだ」
二人の前では、灰色の作業衣を着た保管官が鍵束を鳴らしていた。
「犬を棚へ近づけすぎないでください」
振り返らずに言う。
「証拠品へ鼻や毛が触れれば、保管状態の変更として記録します」
「触れさせません」
ミラベルが答えた。
「匂いだけで分かるのですか」
保管官は疑わしそうにブラムを見た。
「分かることと、証明できることは別です」
「なら、何のために連れてきたのです」
「次に、どこを調べるべきか決めるためです」
ミラベルは鞄の中の記録帳へ触れた。
「ブラムの反応は法的な本人確認には使えません。行動だけを記録して、意味はあとで確かめます」
保管官は納得していない顔をした。
だが、グレアムの署名がある閲覧許可証を拒むことはできなかった。
棚の最奥。
鉄扉の前で、保管官が足を止める。
扉の中央には、三重の円で囲まれた番号があった。
> L・K・13
レオンは、その記号を見上げた。
「俺の人格は、ずいぶん奥へ片づけられたらしい」
「通常の生存再認資料より保管項目が多いためです」
保管官が鍵を選ぶ。
「身体記録、所持品、署名、身分票、証人票。複数区分の資料を一括保存しています」
「一括か」
レオンが繰り返した。
錠が外れる。
鉄扉の内側には、小さな保管室があった。
中央に鑑定台。
壁際には細い網棚。
その棚へ、同じ照合番号を記した保管箱が並んでいる。
> L・K・13
> 所持品――外套・革手袋
>
> L・K・13
> 医療資料――頭部・咽頭部包帯
>
> L・K・13
> 筆跡資料――照合用署名票
>
> L・K・13
> 身分継続票――真鍮板
>
> L・K・13
> 携行品――時計鎖・杖片
すべて。
レオン=クラウス一人の帰還を証明した資料だった。
「箱は一つずつ開けてください」
ミラベルが言った。
「最初からそのつもりです」
保管官は不快そうに答えた。
「同時に開ければ、匂いが混ざる可能性があります」
「六週間、同じ保管室へ置かれている」
レオンが室内を見回した。
「空気中の匂いは、すでに共有している。完全な分離照合にはならない」
「では、意味がありませんか」
「そんなことは言っていない」
レオンは鑑定台へ近づいた。
「資料へ直接残った匂いの方が強い。ただし、ブラムが反応したからといって、誰が使ったかまで断定するな」
「分かっています」
「本当に?」
「レオンさんよりは慎重です」
「比較の根拠がない」
「救護院で、別人説を先に口にしました」
「あれは仮説だ」
「だから、ここでは行動だけを順番に記録します」
ミラベルは鑑定台の端へ記録帳を置いた。
白紙の頁へ、時刻と場所を書く。
> 身分継続局地下保管庫。
> 生存再認番号、L・K・13。
> 観測対象、ブラムの行動。
> 法的証拠能力なし。
レオンが横から覗き込む。
「簡潔になったな」
「余計な肩書を考える人がいるので」
「君だろう」
「まず、外套からお願いします」
保管官が最初の箱を鑑定台へ載せた。
留め金を外す。
防湿布をめくると、黒い外套が現れた。
乾いている。
煤と泥は落とされておらず、黒鐘塔で回収されたときの状態が保存されていた。
右裾には裂け目。
背中には、水に浸されたことで生じた灰白色の染み。
ミラベルは、四か月前の夜を思い出した。
大時鐘塔。
鳴り続ける十三度の鐘。
中央重量錘坑へ消えた二つの人影。
そのあと、遺体の代わりに回収された品の一つ。
「あなたの物ですか」
ミラベルが尋ねた。
レオンは即答せず、襟、袖、内ポケット、裾を順に確認した。
「ああ」
「断定しますか」
「特徴は一致している。俺の外套だ」
それ以上は説明しなかった。
外套そのものがレオンの所持品だという確認は、すでに生存再認資料にも残されている。
いま調べるべきは、そこではない。
保管官が外套を鑑定台の中央へ広げる。
ブラムは少し離れた場所で座っていた。
「ブラム」
ミラベルが呼ぶ。
黒い犬が顔を上げた。
「これを調べてくれる?」
ブラムはすぐには動かなかった。
ミラベルの顔。
鑑定台。
保管官。
順に見る。
それから、ゆっくり立ち上がった。
外套へ近づく。
鼻先が布へ触れる直前で、保管官が手を出しかけた。
レオンが止める。
「触れていない」
ブラムは外套の襟から裾まで、一定の速度で匂いを取った。
袖口。
胸元。
内側。
水染みの残る背中。
一度、深く息を吸う。
そのまま鑑定台から離れた。
棚にも。
ほかの箱にも向かわない。
レオンの前へ来た。
鉄の杖。
右靴。
上着の裾。
右脚を庇って立つ身体の周囲を半周する。
レオンと目が合う。
「何だ」
ブラムは答えない。
その場へ腰を下ろした。
身体の横を、レオンの右脚へ寄せる。
「第一資料」
ミラベルの鉛筆が動く。
「外套を順に確認。資料から離れたあと、ほかの箱へ向かわず、レオンさんへ接近。杖、右靴、上着、身体の周囲を確認。その後、右脚の横へ座る」
保管官が、レオンとブラムを見比べた。
「外套と、この方の匂いが同じだということですか」
「そう考えるのが自然です」
ミラベルは答えた。
「ただし記録するのは、外套からレオンさんへ移動した行動までです」
「少なくとも、外套が俺へつながることは確認できる」
「ブラムの反応としては」
「分かっている」
ブラムは、次の指示を待って動かなかった。
外套は箱へ戻された。
蓋が閉じられる。
次に、医療資料の箱が鑑定台へ置かれた。
保管官が留め金を外す。
中には、白かったはずの包帯が折り畳まれていた。
古い薬品による黄ばみ。
乾いた褐色の染み。
頭部を巻いていた幅広の布と、喉を固定していた細い布が別々に束ねられている。
箱が開いた瞬間。
ブラムの鼻が動いた。
外套のときより速い。
だが、近づかない。
座ったまま、包帯を見ている。
「匂いが強いだけかもしれない」
レオンが言った。
「医療用消毒薬は、犬にとって刺激が強い」
「その可能性も残します」
ミラベルはブラムの前へしゃがんだ。
「無理に近づかなくていいの」
命令しない。
首輪も引かない。
「何か分かる?」
ブラムは立ち上がった。
一歩。
さらに一歩。
包帯へ近づく。
頭部用の布を嗅いだ瞬間、鼻先をわずかに引いた。
嫌がったというより。
匂いの位置を測り直すような動きだった。
反対側へ回る。
喉へ巻かれていた細い包帯を調べる。
次に。
レオンを見る。
だが、そちらへは向かわなかった。
外套の箱にも戻らない。
ブラムは保管室の出口へ歩き出した。
「ブラム?」
ミラベルが呼ぶ。
犬は扉の前で一度振り返る。
それから廊下へ出た。
保管官が慌てて追う。
「勝手に歩かせないでください!」
ミラベルとレオンも続いた。
ブラムは保管棚の間を、来たときとは違う速度で進む。
走らない。
床へ鼻を近づけすぎもしない。
空気に残る何かを探すように、鼻先を左右へ動かしていた。
地下保管庫の昇降機前で止まる。
昇降機。
階段。
西側搬入口へ続く通路。
三方向の匂いを調べる。
やがて、西側搬入口へ一歩踏み出した。
その先は、証拠品搬送用の廊下だった。
西部災害救護院から運ばれた医療資料も、そこを通っている。
「救護院へ戻ろうとしている?」
ミラベルが尋ねた。
「まだ分からない」
レオンはブラムの動きを見た。
「包帯を運んだ職員か、搬送箱か、包帯に残った人物の匂いか。どれを追っているかは確認できない」
「ただし、レオンさんの方へは来ませんでした」
「ああ」
「外套とは違う反応です」
「それは事実だ」
ミラベルは記録帳を開く。
「第二資料。包帯を二方向から確認。レオンさんへ接近せず、外套の箱にも戻らない。保管室を退出し、西側搬入口へ続く通路を選ぶ」
ブラムは先へ進もうとした。
「ブラム」
ミラベルが呼ぶ。
犬が振り返る。
「いまは、ここまで」
しばらく動かなかった。
匂いの先にあるものを置いて戻ることを、迷っているようだった。
「あとで調べます」
ミラベルが静かに言う。
「どこへ行こうとしたのか、必ず確かめるから」
ブラムは鼻を鳴らした。
それから、ミラベルの横へ戻った。
レオンはその様子を見ていた。
「約束で犬を動かすのか」
「命令より聞いてくれます」
「言葉を理解している保証はない」
「戻ってきたという事実はあります」
「君の言葉が理由とは限らない」
「では、レオンさんも試しますか」
「何をだ」
「あとで必ず調べるから戻れ、と」
「必要ない」
「自信がないんですね」
「無意味な比較を拒んだだけだ」
保管室へ戻る。
包帯は再び箱へ収められた。
保管官は蓋を閉じながら、複雑な顔をしていた。
「この犬は、包帯をこの男の物ではないと判断したのですか」
「そう断定するには早いです」
ミラベルは答えた。
「外套と同じ反応をしなかったことだけが、確認できました」
「外套では、この方へ戻った」
「はい」
「包帯では、別の通路を選んだ」
「はい」
「それなら――」
「誰の匂いを追ったのかは、まだ分かりません」
ミラベルは、そこで止めた。
レオンは、同じ番号を記された二つの箱を見る。
外套は、自分へ戻った。
包帯は、自分から離れていった。
「三つ目を」
レオンが言った。
保管官が、真鍮板の箱を鑑定台へ載せた。
ほかの保管箱とは異なり。
留め金には、市警の封印帯が掛けられている。
「こちらは、今朝の事件で市警が押収した資料です」
保管官が説明する。
「保存処置のあとも、市警の封印を維持したまま、共同鑑定のため一時的に搬入されています」
「通常保管へ戻されたわけではない?」
ミラベルが尋ねた。
「はい。管轄は市警にあります。現在も、市警と身分継続局の共同保全資料です」
保管官は封印番号を閲覧許可証と照合した。
切断前の状態をミラベルへ示す。
そのうえで。
立会い記録へ時刻と自分の名を記し、市警の封印帯を外した。
蓋を開く。
薄い防錆紙の上に、楕円形の金属板が置かれていた。
掌へ収まる大きさ。
縁には細かな歯刻み。
中央には身分継続局の刻印。
その下へ、登録番号が打たれている。
> L・K・13
六週間前。
この真鍮板は、記録上のレオン=クラウスへ発行された。
そして今朝。
生存再認審査室の照合機へ差し込まれ、午前八時十三分の記録を残した。
人間を見分ける板ではない。
刻まれた番号を、機械が読み取るだけの身分票。
「警察の鑑定結果は?」
ミラベルが尋ねる。
「今回の閲覧許可には含まれていません」
「表面は清掃されたか」
レオンが言う。
「保存処置だけです。洗浄はしていません」
「鑑定官や保全担当者が触れている」
「手袋越しですが、複数人が扱っています」
ミラベルは記録帳へ書いた。
「第三資料。レオン=クラウス名義の身分継続真鍮板。今朝、市警が押収。保存処置後も、市警封印下のまま共同鑑定のため一時搬入。市警と身分継続局の共同保全資料。複数の担当者が手袋越しに接触している可能性あり」
「そこまで書くのか」
「都合のよい反応だけを残さないためです」
ミラベルはブラムを見る。
「調べてくれる?」
ブラムは鑑定台へ近づいた。
真鍮板の縁。
裏面。
保管官が防錆紙越しに持ち上げると、差込部の細い溝へ鼻を向ける。
外套のときのように時間をかけない。
包帯のときのように迷いもしない。
鼻先を上げる。
保管室の扉へ向かった。
今度はミラベルを見なかった。
そのまま廊下へ出る。
「待て」
レオンが呼ぶ。
ブラムは止まらない。
「命令は聞かないと言ったでしょう」
ミラベルがあとを追う。
「分かっている」
レオンも杖をついて続いた。
保管官が慌てて真鍮板を箱へ戻し、仮封印を施したあと、保管室へ鍵を掛ける。
「上階へ行かせてはいけません!」
ブラムは西側搬入口へ向かわなかった。
先ほどの昇降機前を通過する。
保管庫の正面階段を選ぶ。
一段目。
二段目。
黒い巨体が、地上階へ向かって上がっていく。
レオンは階段の下で一瞬止まった。
右脚へ痛みが走ったのを、ミラベルは見逃さない。
「私が追います」
「記録を取る者が先へ行け」
「だから言っています」
「俺も行く」
「ゆっくり来てください」
「命令するな」
「調査責任者です」
ミラベルは先に階段を上がった。
ブラムは踊り場で待っている。
彼女が追いつくと、再び動き出した。
地下保管区画。
証拠整理階。
生存再認部の執務階。
階が変わるたび、空気の匂いも変わった。
防虫薬が薄れ。
代わりに、インクと紙。
磨かれた床の油。
職員の衣服へ染みついた煙草や香水が混ざる。
廊下では、突然現れた大型犬を見て書記たちが道を開けた。
「犬を入れてよい区画ではありません!」
保管官の声が後ろから響く。
ブラムは人へ近づかない。
机の列にも寄らない。
廊下の中央を進む。
一つ目の扉を通過。
> 証人照合課。
二つ目。
> 家族情報確認課。
三つ目。
> 生存経路整理室。
どこでも止まらない。
さらに奥へ進む。
廊下の突き当たり。
ほかの執務室より幅の広い、濃い木の扉があった。
その横には、真鍮製の役職札。
> 身分継続局
> 生存再認部長
>
> ヘンリク=ザール
ブラムは扉の前で止まった。
扉の下。
蝶番側。
取っ手の高さ。
順に匂いを確かめる。
最後に、床と扉の隙間へ鼻先を近づけた。
その場へ座る。
真鍮板を嗅いだあと、初めて止まった場所だった。
ミラベルはすぐに記録帳を開いた。
息を整えながら、行動を順番に書く。
「第三資料。真鍮板を確認後、保管室を退出。西側搬入口を選ばず、正面階段へ向かう」
レオンが遅れて廊下へ現れた。
呼吸が浅い。
右手は、杖の握りを強くつかんでいる。
それでも、ミラベルへ先を譲ったまま立ち止まった。
「地下保管庫から証拠整理階を経由し、生存再認部執務階へ移動」
ミラベルは続ける。
「証人照合課、家族情報確認課、生存経路整理室を通過。いずれにも立ち止まらず」
鉛筆の先が、役職札の名を写す。
「生存再認部長、ヘンリク=ザール執務室前で停止。扉の下部、蝶番、取っ手周辺を確認。その場へ座る」
保管官が息を切らして到着した。
「すぐ地下へ戻してください」
「この部屋は?」
ミラベルが尋ねる。
「札に書いてあるでしょう。ザール部長の執務室です」
「部長は中に?」
「クラウディア審査官の事件に関する庁内会議へ出ています」
「真鍮板を扱う立場ですか」
「生存再認部長です。必要なら扱います」
「六週間前の発行手続きでは?」
「私は知りません」
保管官の声に苛立ちが混じる。
「職務上、この階の多くの資料へ触れる立場です。犬がここへ来たからといって、何の証明にもなりません」
「そのとおりです」
ミラベルは答えた。
保管官が言葉を失う。
「否定しないのですか」
「ブラムが真鍮板を確認したあと、この執務室前へ来たことは事実です」
「ならば――」
「なぜ来たのかは、まだ分かりません」
ミラベルは扉へ触れない距離を保つ。
「ザール部長本人の匂いを追ったのか。ここへ出入りした職員の匂いなのか。真鍮板が一度、この部屋へ運ばれたのか。同じ保存薬や金属油へ反応しただけなのか」
レオンが扉の取っ手を見る。
「少なくとも、板に残った匂いは、通常の保管と市警の鑑定経路だけでは完結していない可能性がある」
「仮説としては」
「慎重だな」
「レオンさんに言われたくありません」
ブラムは扉の前から動かない。
吠えない。
唸りもしない。
ただ。
匂いの終点を示すように座っている。
レオンは、地下保管庫へ続く廊下を振り返った。
そこには。
同じ番号を与えられた三つの資料がある。
外套。
包帯。
真鍮板。
記録上は。
すべて、一人のレオン=クラウスへ属していた。
だが、ブラムは。
外套から、現在のレオンへ戻った。
包帯から、レオンではない経路を追おうとした。
真鍮板から、この執務室へたどり着いた。
「こいつは、一人の匂いを探しているんじゃない」
レオンが言った。
ミラベルの鉛筆が止まる。
「どういう意味ですか」
「三つの資料を、同じものとして扱っていない」
「人間が三人いたと?」
「そこまでは言っていない」
「では」
「三つの資料には、それぞれ別の経路がある」
レオンはザールの名が刻まれた札を見た。
「外套は俺へ。包帯は西側搬入口へ。真鍮板は、この部屋へ」
「それが別々の人間へつながるかは、まだ分からない」
「ああ」
「ザール部長が真鍮板を使ったとも断定できない」
「分かっている」
「確認できたのは」
「ブラムが、三つの資料から異なる行動を取ったことだけだ」
ミラベルは頷いた。
記録帳へ短く記す。
> 外套――レオンへ接近。
> 包帯――西側搬入口方向へ移動。
> 真鍮板――ザール部長執務室前へ移動。
>
> 三資料は、同一の経路として扱われなかった。
その下へ、一行だけ加える。
> L・K・13へ統合された資料は、
> 一人の人間へ属していない可能性がある。
「これでいいですか」
ミラベルが尋ねた。
レオンは記録を読んだ。
「犯人の名がない」
「まだ分かりませんから」
「ザールへの疑いも?」
「執務室へ匂いが続いたことと、ザール部長が偽装を行ったことは同じではありません」
「分かっている」
「では、これでいいですね」
「ああ」
レオンは、扉の前へ座るブラムを見た。
人間は、一人の人格を複数の項目へ分けた。
身体。
所持品。
署名。
番号。
暗号。
経路。
証人。
それぞれが正しいと確認されたとき。
すべてを同じ一人へ戻したつもりになった。
だが。
犬は番号を読まない。
承認印も。
照合票の綴じ方も。
同じ名が書かれているという理由も知らない。
布に残った人間。
包帯に残った負傷者。
金属板へ触れた者。
それぞれを、別々の道として追った。
「記録が一人にまとめたものを、犬が元へ戻している」
レオンの声が、静かな廊下へ落ちた。
ミラベルは、その言葉も記した。
ブラムが顔を上げる。
ザールの執務室の中で、何かが動いたわけではない。
誰かが潜んでいる気配もない。
犬はただ。
ここまで来たと告げている。
この先を調べ。
意味を与えるのは、人間の役割だった。
「ブラム」
ミラベルが記録帳を閉じる。
「いったん戻りましょう」
ブラムは扉をもう一度嗅いだ。
それから立ち上がり、ミラベルの横へ来た。
レオンは先に歩き出そうとしたが、右脚へ力を入れたところで一瞬止まる。
ブラムがすぐ、その右側へ身体を寄せた。
「必要ない」
動かない。
「そこを退け」
顔を背ける。
ミラベルが言った。
「レオンさんが階段を下りたいみたい」
ブラムはレオンの横を離れなかった。
代わりに、歩幅を小さくして階段へ向かう。
「退いていないぞ」
「一緒に下りるつもりみたいです」
「俺は資料ではない」
「同じ匂いを確認したのでしょう」
ミラベルは先に階段へ向かった。
「外套は箱へ戻せます。でも、レオンさんは自分で帰らないといけませんから」
レオンは答えなかった。
鉄の杖を一段下へ置く。
ブラムが右側で歩調を合わせる。
ミラベルは二人の少し前を歩きながら、最後に一度だけ振り返った。
廊下の突き当たり。
生存再認部長ヘンリク=ザールの名を記した真鍮札が、白い蒸気灯を反射している。
その名はまだ。
容疑者欄には記されていない。
ただ。
一人の探偵を証明した真鍮板から続く道の先に。
その執務室があった。




