第6節 ― 包帯の帰還者
西部災害救護院は、ヴェルム=クロウの工房街と貨物区の境に建っていた。
正面玄関の上には、煤で半ば黒くなった白い石板が掲げられている。
列車事故。
蒸気管破裂。
工房火災。
坑道崩落。
この都市で日々生まれる負傷者を、名前より先に受け入れる場所だった。
玄関前には、煤に汚れた作業着の者たちが列を作っている。
片腕を吊ったドワーフ。
額へ包帯を巻いた若いヒト族。
咳き込むたび、胸を押さえる老工員。
誰もレオンを見ても驚かなかった。
ここでは、死亡記事に載った探偵より、目の前で血を流している患者の方が優先される。
「杖を使ってください」
石段の下で、ミラベルが言った。
「使っている」
「いま、浮かせました」
「段差を越えるためだ」
「段差を越えるときこそ使うものでは?」
「歩き方の指導を受けに来たんじゃない」
「六週間前の患者を調べに来たんです。途中で新しい患者にならないでください」
レオンは返事をせず、鉄の杖を石段へついた。
横ではブラムが、レオンの右脚より半歩前を歩いている。
命じられたわけではない。
レオンが足を運ぶたび、犬は速度を落とし、次の段へ前脚を置いた。
「今日は保管庫へ行く予定だったはずだ」
レオンが言った。
「先に救護院です」
「担当を変更したのか」
「証言を聞いてから、保管資料を確認した方が、観察する順番を決めやすいと判断しました」
「俺への相談は?」
「意見は聞くと言いました」
「聞かれていない」
「いま聞きます。先に救護院へ来たことに反対ですか」
レオンは、すでに半分上った石段を見る。
「反対して戻る方が負担になる」
「では、続行します」
「その決め方は不公正だ」
「歩き始めたのはレオンさんです」
先へ進んでいたブラムが振り返った。
遅れている二人を待つように、その場へ立ち止まる。
「君も調査責任者の側か」
レオンが尋ねた。
ブラムは鼻を鳴らし、玄関へ顔を戻した。
「返答は肯定だと思います」
「犬の沈黙を都合よく解釈するな」
救護院の内部は、石炭炉の熱と薬品の匂いに満ちていた。
高い天井から白い布の仕切りが何枚も吊られ、奥では金属器具が煮沸されている。看護人の靴音に、患者の呻きと蒸気管の唸りが重なっていた。
受付には、グレアムが手配した閲覧許可証が届いていた。
ただし、許可を受けている調査責任者はミラベルである。
受付書記は彼女の身分票を確認し、次にレオンへ視線を向けた。
「こちらの方は?」
「調査補助者です」
ミラベルが答えた。
「身分証明は?」
「現在、再確認中です」
「お名前は」
レオンが口を開くより早く、ミラベルが言った。
「自称レオン=クラウス」
受付書記の手が止まった。
机の横には、朝刊が置かれている。
> 死亡推定の探偵、霧燈通りへ帰還か。
書記は紙面の顔と、目の前の男を交互に見た。
「自称は不要だ」
レオンが低く言った。
「記録上は必要です」
「本人の証言を優先しろ」
「本人であることを調べています」
受付書記は迷った末、同行者欄へ慎重に記入した。
> 本人確認未了の男性一名。
「自称より悪化したな」
「公平な表現です」
六週間前の患者を診た医師は、救護棟の奥にある小さな診察室で待っていた。
年齢を重ねたドワーフの男性だった。
白衣の袖を肘までまくり、指には洗っても落ちきらない薬液の染みが残っている。
机の上には、生存再認票の医療照合部分の正式副本が置かれていた。
医師はミラベルの身分票を確認する。
次にレオンを見た。
患者を見る目で、顔色と呼吸、左肩、右脚へ視線を移す。
「まず、あなたを診た覚えはありません」
「質問する前から否定するのか」
「六週間前の患者について来たのでしょう」
「そうです」
ミラベルは記録帳を開いた。
「先生が実際に確認したことだけを教えてください」
「記録へ書いたとおりです」
「記録の結論ではなく、先生が見たものを聞かせてください」
医師は少しだけ眉を上げた。
「その聞き方をする人間は珍しい」
「記録の文言と、確認した事実を分けたいんです」
医師は正式副本を開いた。
「男が運び込まれたのは六週間前です。状態は悪く、顔と頭部には包帯が巻かれ、喉も固定されていた」
「包帯は、ここで巻いたものですか」
「違います。到着した時点で巻かれていた」
「外しましたか」
「外していません」
レオンが尋ねる。
「なぜだ」
「治療のための診察ではなかったからです」
医師の声が少し硬くなった。
「すでに応急処置は受けていた。私が命じられたのは、登録された身体記録から大きく外れていないかを確認することだけです」
「顔は確認していない」
「はい」
「声は?」
「聞いていません。喉を傷めていると説明され、患者は話さなかった」
「名前を尋ねたか」
「いいえ」
「患者本人が名を書いたところは」
「見ていません」
レオンが次の問いを続けようとする。
「レオンさん」
ミラベルが止めた。
「必要な点は確認できています」
「まだ身体照合の範囲が――」
「細目は記録副本で確認できます。いま必要なのは、先生が本人の何を見たかです」
レオンは不満そうに口を閉じた。
ミラベルは医師へ向き直る。
「先生が記録したのは、この患者がレオン=クラウス本人だという診断ですか」
「違います」
医師は、副本の一行を指した。
> 対象者身体記録と許容範囲内で一致。
「提出された身体条件から、大きく外れていない男性だったという記録です」
「では先生は、患者をレオン=クラウス本人だと確認していない」
「確認していません」
「レオン=クラウスではないと判断しましたか」
「それも判断していない」
「ここにいる男性と同一人物かは?」
「分かりません」
医師はレオンを見る。
「六週間前の患者の顔を見ていない。声も聞いていない。比較する材料がありません」
ミラベルの鉛筆が動いた。
> 顔――未確認。
> 声――未確認。
> 氏名――本人へ未確認。
> 医師の確認――身体条件の適合のみ。
レオンは副本を手に取り、署名と検印へ目を走らせた。
「この記録は、あなたが書いたものか」
「そうです」
「記憶と異なる箇所は」
「ありません」
「書き換えを求められたことは」
「ない」
レオンは紙を机へ戻した。
「医師が嘘をついていると思いますか」
ミラベルが尋ねる。
「思わない」
答えは短かった。
医師の眉が動く。
「随分、簡単に信用する」
「信用はしていない。証言と記録が一致していると言っただけだ」
「同じでは?」
「違う」
レオンは副本の文言を指した。
「この医師は、命じられた範囲を確認した。患者をレオン=クラウス本人だとは書いていない」
「それのどこが問題なんです」
「問題だとは言っていない」
レオンは白い壁へ一度視線を向けた。
「正しい仕事が、正しい結論を保証するとは限らないだけだ」
医師は反論しなかった。
自分の署名が、レオン=クラウス本人の生存再認を支える一項目になっていることは知っている。
しかし彼自身は。
一度も患者をレオンだとは証言していなかった。
「先生へ、その男性がレオン=クラウスだと伝えたのは誰ですか」
ミラベルが尋ねた。
「身分継続局の搬送書類です」
「患者本人ではなく?」
「書類に対象者名が記されていた」
「だから、その名で記録した」
「はい」
「患者へ名前を確かめなかった理由は?」
「私の担当ではなかったからです」
医師は息を吐いた。
「氏名は身分継続局。身体は医師。署名は筆跡官。所持品は保管官。それぞれが担当する。重傷者へ同じ確認を何度も行わないための分業です」
「合理的です」
ミラベルが言った。
「そうでしょう」
「でも先生が診たのは」
彼女は、机の記録を見た。
「レオン=クラウスだと書類に記された、身体条件の合う男性です」
医師の顔が止まる。
「記録上は、同じことです」
「記録上は」
ミラベルは否定しなかった。
「私たちは、そこが本当に同じかを調べています」
医師から得られる証言は、それ以上なかった。
彼は確認するよう命じられたものだけを確認した。
確認していないものを、確認したとは書いていない。
それでも。
彼の正しい署名は、レオン=クラウス本人を証明する記録へ組み込まれていた。
診察室を出ると、廊下の長椅子に一人の男が待っていた。
六週間前。
包帯姿の患者が救護院へ運ばれた際、その姿を見た搬送補助員だった。
男は帽子を両手で握っている。
レオンを見ると、慌てて立ち上がった。
「この人ですか」
ミラベルは尋ねた。
男はレオンの顔を見る。
黒い上着。
鉄の杖。
右脚。
やがて、困ったように首を横へ振った。
「分かりません」
「六週間前の男性と似ていますか」
「背丈は、これくらいだったと思います。でも、あの人は顔を全部巻かれていました」
「声は?」
「聞いてません」
「名前を名乗りましたか」
「俺には」
「では、あなたは何を見ましたか」
男は質問の意味を考えるように黙った。
「何を、ですか」
「証言票には、レオン=クラウスを目撃したとまとめられています」
ミラベルは複写を開いた。
「でも、書かれた結論ではなく、あなた自身が見たものを教えてください」
男は帽子の縁を指でなぞった。
「あの黒い外套です」
レオンの目が細くなる。
「外套?」
「新聞に載っていたのと同じだった。襟が高くて、裾の内側が裂けていて。黒鐘塔で行方不明になった探偵の物だと、役人が言っていました」
「男の顔は」
「見えませんでした」
「歩き方は?」
「歩いてません。担架でした」
「手は?」
「黒い手袋をしていたと思います。でも、よく覚えてません」
「本人が名を書いたところは?」
「見てません」
男の顔に不安が浮かんだ。
「俺、何か間違ったことを言いましたか」
「いいえ」
ミラベルはすぐに答えた。
「あなたは、見たものを正しく話しています」
「でも、証言票には……」
ミラベルは複写の一文を指した。
> レオン=クラウスの外套を着用した負傷者を確認。
「ここに書かれている内容も、あなたの証言と矛盾していません」
「なら、何が問題なんです」
男の問いに、ミラベルはすぐには答えなかった。
レオンを見る。
自分だけで結論を決めず、彼の意見を求める目だった。
「その男が、俺の外套を着ていたことと」
レオンは静かに言った。
「その外套を着ていた男が、俺だったことは別だ」
搬送補助員は、レオンと証言票を見比べた。
「でも、役人は」
「役人も嘘をついたとは限らない」
レオンは続けた。
「外套が俺の物だという確認は、別の担当が行った。身体条件が記録と合うことは医師が確認した。君は、その外套を着た患者を見た」
「だったら」
「君たちの証言は、それぞれ正しい」
その言葉の方が。
誰かが嘘をついていたという説明よりも、不気味だった。
医師は、身体条件の合う男性を診た。
搬送補助員は、レオンの外套を着た患者を見た。
医師は顔を見ていない。
搬送補助員も顔を見ていない。
どちらも声を聞いていない。
本人から名前を聞いていない。
「もう一つだけ」
ミラベルは搬送補助員へ尋ねた。
「その男性は、レオン=クラウス本人でしたか、と聞かれましたか」
男は目を伏せた。
記憶をたどる。
やがて、ゆっくり首を横へ振った。
「外套が同じかとは聞かれました」
「本人かとは?」
「聞かれてません」
「ありがとうございます」
ミラベルは頭を下げた。
それ以上、証言を引き延ばさなかった。
救護院の玄関を出ると、霧の向こうを貨物列車が走っていた。
車体は見えない。
汽笛と、車輪の連続音だけが聞こえる。
庇の下で、ミラベルは記録帳を開いた。
「確認できた事実を整理します」
レオンも足を止める。
ブラムは右側へ並び、通りを流れる人の足音へ耳を向けていた。
「医師は、六週間前の患者の顔を見ていません」
「ああ」
「声も聞いていない。本人へ名前を確認していない」
「身体条件が、提出記録の範囲内だったと確認しただけだ」
「搬送補助員は、レオンさんの外套を着た患者を見ました」
「だが、顔も声も確認していない」
「二人とも、見た範囲では正しいことを話しています」
「記録とも矛盾していない」
ミラベルは頁へ線を引いた。
「では、仮説」
「六週間前の男が別人だった」
「それは、まだ断定できません」
「分かっている」
レオンは霧の向こうを見る。
「六週間前の患者が俺本人だったことも、ここでは証明できなかった」
「はい」
「不足しているのは?」
「顔を見た者」
「声を聞いた者」
「本人から名前を確認した者」
ミラベルは一つずつ記す。
「いま分かったのは」
鉛筆が止まった。
「医師も、搬送補助員も、嘘をついていないことです」
「ああ」
「でも、二人が見た事実を合わせても」
救護院の扉が開き、新しい担架が運び込まれていく。
顔を包帯で覆われた負傷者。
他人の上着を掛けられた者。
名前を答えられず、仮の番号を与えられる者。
それらを受け入れるため。
制度は身体と名前と所持品を分け、それぞれの担当へ渡す。
必要な仕組みだった。
けれど。
部分を確認した者が全員正しくても。
最後に一人の人間が確認されたとは限らない。
「誰も」
ミラベルは言った。
「一人のレオン=クラウスを見ていません」
レオンは否定しなかった。
ブラムが救護院の入口へ鼻先を向ける。
薬品。
煤。
汗。
血。
古い包帯。
何百人もの患者の匂いが混ざっている。
「次は保管庫です」
ミラベルが記録帳を閉じた。
「外套と包帯を確認する」
レオンが答える。
「記録上は、一人の帰還者が身につけていた物です」
「記録上はな」
ブラムは、まだ歩き出さない。
ミラベルの合図を待っている。
「行きましょう」
一人の探偵として帰還した包帯姿の男を。
この救護院で見た者はいなかった。
人々が見たのは。
身体条件の合う患者。
レオン=クラウスの外套。
そして。
書類の上で、その二つへ与えられた一つの名前だけだった。




