↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
214/228

第5節 ― 三つの机と一頭

 身分継続局から戻ったあと。


 黒鴉館二階の事務所には、三つの机へ分けて置かれた三種類の記録があった。


 レオンの机には、審査室の簡易配置図。


 正面扉。


 職員通路。


 照合機の表側差込口と、室内側の保守口。


 同じ読取歯車へ接続している二つの入口が、鉛筆で結ばれている。


 ミラベルの机には、現時点で確認された事実と、まだ確認できていない事項。


 エレノアの机には、身分継続局の職員章見本と、若い書記へ紛れるための襟元、髪型、庁内の移動予定が並んでいた。


 そして。


 三つの机のあいだ。


 床へ広げられた中央区の地図の端に、ブラムが伏せている。


 黒い前脚の間へ顎を乗せていたが、人間の声が変わるたびに耳だけが動いた。


 レオンは自分の椅子へ座らず、配置図を見下ろしていた。


 鉄の杖を机へ立てかけ、右手に鉛筆を持つ。


「グレアムは審査室へ戻れ」


 配置図の職員通路を指す。


「正面照合機の内部記録。職員通路の開閉履歴。クラウディアの執務机。保守口に工具痕が残っているかも確認する」


「勝手に俺の仕事を決めるな」


 グレアムは窓辺で腕を組んでいた。


 帽子は本棚の端へ置かれている。


「決めていない。優先順位を示した」


「それを指示と言うんだ」


 レオンは取り合わず、別の紙へ鉛筆を移した。


「ミラベルはクラウディアの同僚と部下を当たれ。昨日、誰と話したか。六週間前の生存再認について何を調べていたか。黒鴉館へ手紙を送ることを、誰かへ告げていなかったか」


 ミラベルは自分の机に座り、調査記録票を開いていた。


 返事はしない。


 レオンはエレノアを見る。


「エレノアは、六週間前の照合票を整理した書記を探せ。正式な聞き取りで口を閉ざすなら、職員に紛れて――」


「レオンさん」


 ミラベルが呼んだ。


 レオンは鉛筆を止める。


「何だ」


「止めてください」


「まだブラムの担当を決めていない」


「そうではありません」


 ミラベルは記録票の上へ鉛筆を置いた。


「以前と同じように、全員へ指示するのを止めてください」


 レオンの眉が寄った。


「調査方針を決めている」


「私の名で始めた調査です」


「名義の話なら、すでに聞いた」


「名義だけの話ではありません」


 事務所の空気が、わずかに変わった。


 エレノアが職員章から手を離す。


 グレアムも、窓の外へ向けていた目を戻した。


 ブラムは顎を床から上げた。


 レオンは鉛筆を机へ置いた。


「では、何の話だ」


「レオンさんがいなかった四か月にも、事件は進みました」


 ミラベルは立ち上がった。


 机越しにレオンを見る。


「私たちも進んだんです」


 声は強くない。


 責める響きもなかった。


 訂正されることを想定していない事実として、言葉が置かれた。


「君たちが事件を解決したことは知っている」


「なら、私たちを四か月前の位置へ戻さないでください」


「戻していない」


「いま、戻そうとしました」


「役割を分けただけだ」


「いいえ」


 ミラベルは、レオンが書いた担当の線を見る。


「私へ聞き取りを命じて、エレノアさんへ潜入を命じて、グレアム警部へ現場へ戻るよう命じた。自分が全体を決め、私たちが動く形へ戻そうとしています」


「事件には指揮が必要だ」


「必要です」


「なら、何が問題だ」


「今回の調査責任者は私です」


 レオンは答えなかった。


 ミラベルは、自分の机にある真鍮札へ目を向けなかった。


 肩書を見せつける必要はない。


 レオンがいなかった四か月。


 彼女は、自分の名で依頼を受けた。


 証言を集め。


 仮説を分け。


 確認できないものを、願望で埋めなかった。


 レオンの椅子へ座らずとも、事件の中心へ立つ方法を覚えていた。


「俺の記録を調べる事件だ」


 レオンが言った。


「だからこそです」


「何がだ」


「レオンさんは、今回の事件では完全に冷静ではありません」


「根拠は」


「未解決事件箱・第十三号が移されたと知ったとき、身体の状態を考えず、すぐ現場へ行こうとしました」


「必要な行動だ」


「昨夜、意識を失いかけた状態で?」


「身体の問題と、判断の正しさは別だ」


「別ではありません。歩くことが難しい人が、単独で現場へ行こうとする判断は正しくありません」


「歩ける」


「その話は終わりました」


 エレノアが、小さく息を漏らした。


 四か月前なら。


 レオンの言葉を、ここまで正面から止める者はいなかった。


 エレノアなら反発する。


 グレアムなら怒鳴る。


 マルタなら食事と家賃で黙らせる。


 ミラベルは違う。


 レオンの論理を否定せず。


 その論理が及んでいないものを示す。


「レオンさん」


 ミラベルは続けた。


「あなたが帰ってきたことは、嬉しいです」


 その一言だけ、声が少し揺れた。


「でも、帰ってきたからといって、昨日まで私たちがしていたことがなくなるわけではありません」


 レオンは三つの机を見た。


 自分の机。


 ミラベルの机。


 窓際へ置かれたエレノアの机。


 それぞれの上に、別々の資料がある。


 四か月前。


 証拠は、すべてレオンの机へ集められた。


 レオンが読み。


 レオンが方針を決め。


 ミラベルは記録を取り、必要な場所へ同行した。


 いまは違う。


 ミラベルの机には、彼女が責任を持つ調査記録がある。


 エレノアの机には、本人が作った潜入計画がある。


 床には、一人の主人を失ったあと、自分の足で黒鴉館へ来た犬がいる。


 レオンがいなかった時間は。


 空白ではなかった。


「では」


 レオンは自分の椅子を引いた。


 左肩を庇いながら、ゆっくり腰を下ろす。


「調査責任者の方針を聞こう」


 不満がない声ではなかった。


 だが、皮肉で拒絶もしなかった。


 ミラベルは席へ戻る。


「まず、現時点で確認できていることを共有します」


 新しい紙を取り出した。


 上段へ事実。


 下段へ未確認事項。


 右端へ仮説。


 三つの欄を作る。


「クラウディア=メルツさんは、生存再認審査室で死亡していました」


 事実の欄へ記す。


「頭部へ強い打撃を受けています。室内の大型書類留めに血液と毛髪が付着していました」


「凶器と見られとる」


 グレアムが言った。


「正式な検死はまだだ」


 ミラベルは、凶器と断定せず記す。


「正確な死亡時刻も未確定。午前八時十三分より前か後か、まだ絞り込めていません」


「ああ」


「午前八時十三分。L・K・13の身分継続票が、審査室の照合機で読み取られました」


 次の行。


「機械が確認したのは、票の番号、有効状態、使用時刻です」


「顔も、身体も、本人性も見とらん」


 グレアムが答えた。


「表側差込口と室内側保守口は、同じ読取歯車へ接続されています」


 エレノアが言う。


「どちらから票を入れたかは、記録に残らない」


「はい」


 ミラベルは事実の欄へ書く。


> L・K・13が読み取られた。

> 誰が使用したかは不明。

> 表側・室内側のいずれから挿入されたかも不明。


「職員通路も存在します」


「誰が通ったかは調査中だ」


 グレアムが続ける。


「部屋ごとの個人記録までは残っとらん」


「では、正面から人間が入ったとは断定できない。同時に、正面から誰も入らなかったとも断定できない」


 ミラベルは、未確認事項へ書いた。


 レオンが口を開く。


「保守口を利用して、室内側から記録だけを――」


「仮説です」


 ミラベルが止めた。


「構造上、可能ではある」


「はい。でも、使用された痕跡はまだ確認されていません」


「分かっている」


 レオンは一瞬だけ彼女を見る。


 今度は、訂正せずに受け入れた。


 ミラベルは次の事実を記す。


「クラウディアさんは、六週間前の生存再認を最終承認した人物です」


「その後、承認内容を疑った可能性がある」


 レオンが、机上の手紙を示した。


「可能性です。手紙の筆跡がクラウディアさん本人のものか、正式には確認されていません」


「ああ」


「手紙の差出人は、六週間前の帰還者について、《一人の人間ではなかった》と書きました」


 その文言だけを、仮説の欄へ移さず、引用として中央へ置く。


> 私が確認した帰還者は、

> 一人の人間ではありませんでした。


「意味は、まだ決めません」


 ミラベルが言った。


「複数人が関わったのか。一人へ別人の資料が混ざったのか。ほかの意味なのか。どれも未確認です」


「六週間前の生存再認では、身体、所持品、署名、職員番号、家族暗号、経路、二名の証人が確認された」


 レオンが言う。


「個々の項目は、正しい可能性が高い」


「でも」


 エレノアが続けた。


「誰が、いつ、どこで確認したかは、まだ分かっていない」


「はい」


 ミラベルは七つの項目を縦へ並べた。


 それらを、一つの名前へ結ぶ線だけは引かない。


「一つずつの証拠が本物かどうかだけでは足りません」


「すべてが、同じ一人へ確認されたのか」


 レオンが言った。


「私たちが調べるのは、そこです」


 ミラベルは新しい紙を取り出した。


「次に、担当を決めます」


 レオンが何か言いかける。


 ミラベルは先に視線を向けた。


「意見は聞きます」


「そうか」


「でも、最後に決めるのは私です」


「ずいぶん明確になったな」


「レオンさんの記録を読んで学びました」


「悪い部分だけを覚えている」


「役に立つ部分です」


 ミラベルは、最初にグレアムを見る。


「警部には、殺人捜査をお願いします」


「もともと俺の仕事だ」


「検死結果。職員通路の使用状況。照合機と保守口の鑑識。クラウディアさんの執務机に残された業務記録」


「警察側で確認する」


「私たちへ共有できる範囲は?」


「捜査を妨げない範囲だ」


「誰が判断しますか」


「俺だ」


「分かりました。ただし、生存再認記録に関わる事実は共有してください」


「要求が多いな」


「同じ資料を別々に調べて、結果だけ食い違うのを防ぐためです」


 グレアムは顎髭を撫でた。


「確認できた事実だけなら渡す」


「警察の推定は?」


「推定と明記する」


「ありがとうございます」


「礼を言われると、何か負けた気がするな」


 ミラベルは、次にエレノアを見る。


「エレノアさんは、身分継続局内部をお願いします」


「若い書記として入るわ」


「計画は?」


 エレノアは待っていたように、自分の机から一枚の紙を持ってきた。


 庁内へ入る方法。


 調査する区画。


 滞在時間。


 二つの退出経路。


 異常があった場合の合図。


 連絡が途切れた場合に、ミラベルがグレアムへ知らせる時刻。


 短く整理されている。


 レオンが紙を取った。


「職員区画へ一人で入るのか」


「一人の方が目立たないわ」


「危険だ」


「兄さまがいない間に決めた手順よ」


 エレノアは紙を指した。


「入る前に計画を共有する。退出経路を二つ決める。合図がなければ追わずに警察へ知らせる。勝手に奥へ進まない」


「潜入自体をやめるという項目がない」


「必要なら行くもの」


「俺は認めない」


「調査補助は、主任探偵の許可だけで動くわけじゃないの」


 エレノアはミラベルを見た。


「調査責任者の許可を取るわ」


 レオンもミラベルを見る。


 兄妹の視線が、机の上でぶつかった。


「目的を確認します」


 ミラベルは計画書を受け取った。


「六週間前の原照合票を、誰が一つの綴りへ整理したか」


「一つ」


 エレノアが指を折る。


「各照合票が、どの部署から、どの時刻に送られたか」


「二つ」


「クラウディアさんが最後に閲覧した記録は何か」


「三つ」


「それ以外の場所へは入りません」


「その先に何か見つけても?」


「場所と記録番号だけ覚えて戻ってください。持ち出さない。鍵を壊さない。追跡しない」


「分かった」


「本当に?」


「たぶん」


「エレノアさん」


「分かったわ」


 ミラベルは、計画書の共有確認欄へ自分の名を書いた。


 その横へ、グレアムへ連絡する予定時刻も記す。


「許可します」


 レオンは納得していない顔をしている。


 それでも。


 計画書を破ることも。


 エレノアの帽子を取り上げることもしなかった。


「私は、クラウディアさんの関係者へ聞き取りをします」


 ミラベルは自分の担当を記した。


「同僚。部下。昨日最後に話した人物。手紙を出すことを知っていた者。六週間前の再認手続きについて、彼女が何を気にしていたのか」


「警察の調書を先に読め」


 レオンが言った。


「読みません」


「なぜだ」


「先に警察の言葉を読むと、その言葉で質問してしまうからです」


「効率が悪い」


「人は、聞かれた言葉に合わせて答えます」


 ミラベルはクラウディアの手紙を封筒へ戻した。


「まず本人の言葉を聞きます。そのあと、警察の調書と違う部分を確認します」


 レオンは口を開きかける。


「レオンさん」


「まだ何も言っていない」


「言おうとしました」


「質問項目を補足しようとしただけだ」


「提案として聞きます」


「同じだろう」


「最終的に決めるのは私です」


 エレノアが笑う。


 グレアムも口元だけを歪めた。


 レオンは不満そうに椅子へ背を預ける。


「分かった」


 その一言を口にするまで、少し時間がかかった。


 ミラベルは最後に、レオンの名を書く。


「レオンさんは、原照合票と付属資料の鑑定です」


「原本が必要だ」


「グレアム警部に、閲覧と立会いをお願いします」


「複写では紙質も綴じ直しも判断できない。署名票の用紙、切断面、検印の順番、記録番号の印字圧まで見る」


「そのすべてを確認してください」


「保管庫へも行く」


「長時間歩かないことを条件にします」


「必要なら歩く」


「ブラムを同行させます」


 レオンが床を見る。


 自分の名を呼ばれたわけでもないのに、ブラムはすでに顔を上げていた。


「護衛は要らない」


「護衛ではありません」


「では、何だ」


「別の確認担当です」


 ミラベルはブラムの前へしゃがんだ。


「六週間前の確認に使われた品が、保管庫に残っています」


 ブラムは、言葉の意味を理解した様子を見せない。


 ただ、ミラベルの顔を見る。


「外套や包帯や身分継続票が、一人の人の物として保管されているそうです」


 黒い耳がわずかに動く。


「同じ人の匂いがするか、確かめてくれる?」


 レオンが口を挟む。


「犬の反応だけでは証拠にならない」


「分かっています」


「資料には複数の職員が触れている。保管庫の匂いも移る。単純な照合はできない」


「それも分かっています」


「なら――」


「ブラムの反応を、結論として扱いません」


 ミラベルは立ち上がる。


「どの資料へ近づくか。どの方向へ追おうとするか。何も反応しないか。観察して記録します。意味を決めるのは、そのあとです」


 レオンはブラムを見る。


 犬は自分の判断を説明しない。


 番号も読まない。


 署名の筆跡も分からない。


 だが。


 三台に分けられた列車を、一台の車両として追った。


 人間が別々の番号を信じたあとも。


 同じ機関油と、車輪音と、帰るべき経路を見失わなかった。


「保管資料へ近づける許可は、俺には出せんぞ」


 グレアムが言った。


「犬を証人として申請する気か?」


「警察の追跡犬としては?」


「鉄道保守犬だ」


「ヨアヒムさんの事件では、警察の調査へ協力しました」


「一時的にな」


「今回も一時的にお願いします」


 グレアムはブラムを見る。


 ブラムも見返す。


 数秒の沈黙のあと。


 警部は諦めたように肩を落とした。


「資料へ鼻を触れさせるな。保管官の指示に従え。唸ったら外へ出す」


「ブラムは無闇に唸りません」


「クラウスよりは信用できる」


「比較対象として不適切だ」


 レオンが言った。


「十分適切よ」


 エレノアが返した。


 ミラベルは、三枚の紙を順番に確認した。


 警察が確認する事項。


 エレノアの潜入計画。


 レオンとブラムが調べる照合資料。


「調査中に新しい事実を確認した場合」


 ミラベルが言う。


「その場で結論を決めないでください」


「状況による」


 レオンが答える。


「原則です」


「危険が迫っている場合は」


「安全確保を優先します。事実を記録し、仮説は戻ってから照合します」


「連絡方法は?」


 グレアムが尋ねる。


「警察からは伝送筒。エレノアさんは予定時刻と合図。私は聞き取り後、直接戻ります。レオンさんとブラムは保管官の立会い下で行動し、移動前に行先を残してください」


「俺にまで必要か」


「必要です」


「なぜ」


「四か月、行先を知らせなかった人だからです」


 レオンは何も返さなかった。


 エレノアも笑わない。


 ミラベルは、責めるためではなく、手順として言った。


「確認できた事実は、それぞれ自分の記録へ残します。事務所へ戻ったら、同じ時刻順に並べて照合します」


「食い違った場合は?」


 エレノアが尋ねる。


「どちらかを消しません。誰が、どこで、何を見たかを確認します」


「推測が当たっていた場合は?」


「証拠で確認できるまで、仮説のままです」


 レオンが言った。


「それでいい」


 ミラベルは彼を見る。


「いまのは提案ですか」


「確認だ」


「なら、記録します」


 三つの机から、それぞれ紙が取り上げられた。


 一つの机へ集められることはない。


 ミラベルは、自分の聞き取り項目を鞄へ収める。


 エレノアは潜入計画を折り畳み、職員章を胸へ当てる。


 グレアムは帽子を取り、警察記録板を外套の内側へ入れた。


 レオンは鉄の杖を取る。


 立ち上がる前に、右脚の位置を確かめた。


 ブラムが隣へ寄る。


「まだ何も命じていない」


 ブラムは動かない。


「保管庫へ行くのはあとだ」


 顔を背ける。


 ミラベルが言った。


「ブラム。レオンさんが一人で行先を変えないよう、見ていてくれる?」


「役割が変わっている」


 レオンが言う。


「帰路案内には、行先の確認も必要です」


「黒鴉館から保管庫へ行くだけだ」


「最初の経路です」


 レオンは反論しかけたが。


 やめた。


 三つの机を、もう一度見る。


 自分の机だけが、調査の中心ではない。


 ミラベルの机も。


 エレノアの机も。


 それぞれ別の方向を向きながら、同じ事件へつながっている。


 そのあいだに、一頭の犬がいる。


 自分が帰ったからといって。


 誰かが椅子を退き。


 誰かが以前の役割へ戻るわけではない。


 レオンが戻ったのは、四か月前のクラウス探偵事務所ではなかった。


 調査者が三人いて。


 帰れない者を追う犬が一頭いる。


 自分の知らないあいだにも続き。


 変わり。


 それでも、自分の椅子だけは残していた場所だった。


「調査責任者」


 レオンがミラベルへ声をかけた。


「はい」


「出発の指示を」


 ミラベルは一瞬だけ目を見開いた。


 すぐに表情を戻し、全員を見渡す。


「確認できたことだけを持ち帰ってください」


 グレアムが扉を開く。


 エレノアが帽子をかぶる。


 ブラムがレオンの右側へ立つ。


 ミラベルは、自分の事件記録を抱えた。


「仮説は、事務所へ戻ってから照合します」


 四人と一頭が。


 それぞれの責任と。


 それぞれの経路を持って、動き始めた。


 三つの机だけが残った部屋で。


 暖炉の火が、小さく音を立てた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。